112 真理の定義依拠説への予想される批判 (Anticipated criticisms of the definition-dependent theory of truth) (20240320)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「理論的問いへの答えが真であることは、その問答で用いられる語の定義に依拠する」という主張を「真理の定義依拠説」(the definition-dependent theory of truth)と呼ぶことにします。この主張に対して、どのような批判を予想できます。

<批判1:真理の定義依拠説は、原子論的意味のように見える>

批判の説明:真理の定義依拠説は、観察報告の真理性を説明するために考えたものです。「これは赤い」が真であるとは、「これ」が指示する対象が、「赤い」が表示する性質を持つことであると考えました。。これは、語の意味は、語の指示対象や表示対象であり、語の意味から文の意味が合成される、と考えているように見えます。このような立場は、「原子論的意味論」と呼ばれています。しかし、語が対象を指示したり表示したりすることがいかにして可能であるのかを説明することは困難であるという理由で、これは批判されます。原子論的意味論へのこの批判が、定義依拠説にもあてはまります。

応答:真理の定義依拠説は、語が対象を指示したり表示したりすることを、定義に遡ることによって説明しようとするものです。「これ」が対象を指示するとは、どういうことか。「赤い」が性質を表示するとは、どういうことか。これらの問いに対して、これらの語の学習、さらに定義に遡って答えようとするものです。それらの学習や定義は、問いに対する答えとして成立します。

 ところで、語の意味と文の意味は、どちらも問答によって/おいて成立するので、どちらかが優先するのではありません。それゆえに、語と文の一方を他方に対する基礎とすることはできません。したがって、真理の定義依拠説は、原子論的意味論を採用するものではありません。

 確かに、問いが成立するには、語が必要です。ただし、語の意味が完成している必要はありません。例えば「水とは何か」が「水」の定義を求める問いであるとするとき、この問いは「水」の定義を前提としません。つまり「水」について断片的で暫定的な理解であっても、あるいはそれが何らかの語であると想定しているだけであっても、それについて問うことができます。また他の試行的な使用を行うことができます。語の意味は、それを用いた問答の中で次第に規定されるのです。私たちは、語を使用しながらその意味を学習していきます。

<批判2:定義に遡ることの困難> 

批判の説明:多くの語について、その定義に遡ることは困難です。例えば、「赤い」という日本語がいつどのように使われ始めたのか、つまりどのように定義されたのか、という問いに答えることは困難です。また、多くの語については、それをどのように学習したのかを想起することも難しいかもしれません。例えば、私は「赤い」という語をどのように学習したのかを憶えていません。

応答:ただし、多くの語については、その使用法をどのように教えたらよいのかはわかります。例えば、私は幼児に「赤い」を教えることができるでしょう。私はそれと同じようにして教えられたのだろうと推測できます。それと同じように、ある語を持たない言語共同体に入って、その語を教える、つまりその語の定義を与えることはできるだろうと推測します。例えば、「赤い」にあたる語を持たない共同体に入って、「赤い」を定義してその共同体の語に加えることはできるだろうと推測します。

 もし語の定義やその仕方が不明ならば、語の定義を自分であらたに行えばよいのです。そして、その定義が流通している語の意味と食い違うならば、どちらかを修正して、両者が適合するにすればよいのです。その場合も、理論的な問いの答えの真理性は、(その新しく設定された)定義に依拠することになるでしょう。

<批判3:明示的定義ではなく、文脈的定義や還元文による定義が行われる時、真理の正当化は、どのように定義に依拠するのか曖昧である>

応答:理論的問いやその答えの中の語が、例えば「水溶性」のように還元文によって定義されるのだとしましょう。このとき、「水溶性」の使い方を、この定義から正当化できるならば、その答えの真理性は、定義に依拠すると言えます。

<批判4:真理のデフレ主義からの批判>

批判の説明:真理のデフレ主義とは、真理を命題の性質(事実との対応や、他の真理との整合性、など)と考えません。「…真である」の意味は、「p≡「p」は真である」という同値原理に尽きているというのが真理のミニマリズム(デフレ主義の一種)の主張です。デフレ主義の中には、真理述語には、引用符解除機能、文代用機能があるが、それを除けば余剰である、という立場もあります。

 これに対して、真理の定義依拠説は、問いの答えが真であるのは、そこに使用される語の定義と一致することだと考えるので、整合説の一種(真理のインフレ主義の一種)だと言えそうです。しかし、整合説に対しては、整合性だけでは真とするには不十分であるという批判があります。なぜなら、ある真なる命題の集合(たとえば観察報告の集合)と整合的な命題の体系(理論)は、複数ありうるからです。

応答:確かに、問いに対する答えは、それが定義に依拠するというだけでは、一意的に決定しない可能性があります。そうすると、定義に依拠する原初命題から理論を構成する仕方の正当化が必要になります。原初命題から理論を構成するのは、原初命題から、理論を仮定して、それを別の原初命題でチェックすることです。このとき、複数の理論を仮定することが可能です。ところで、理論もまた相関質問を持ちます。そして理論の相関質問のより上位の目的の実現に役立つ理論が、適切な理論として選択されることになります。

 ところで、理論を構成するには理論的語彙の定義が必要です。なぜなら、理論を観察報告に還元できないということは、理論的語彙を観察語彙に還元できないということだからです。理論の選択と理論的語彙の定義は宣言によって行われ、宣言は問いに対する答えとして成立するでしょう。

まとめると次のようになります。<理論的問いに対する答えの真理性は、定義との整合性に依拠する。ただし、それだけで真理値が決定するとは限らない。他の観察報告との整合性、理論との整合性、にも依拠する場合がある。他の観察報告の真理性は、それに用いられる他の観察語の定義に依拠し、理論の真理性は、それに用いられる理論語の定義に依拠する。もし答えの候補がまだ複数あるならば、これらの定義宣言の相関質問のより上位の問いに答えるのに役立つこと、つまり答えの適切性によって、複数の答えの候補をさらに絞り込むことができる。>

 このように考えるとき、理論的な問いの答えの真理性は、これらの定義との整合に依拠するという意味で、「真理の整合説」を主張してもよいかもしれません。ただし、これは、整合性だけで答えを一つに決定することができるという主張ではなく、定義との整合性によって、答えの候補を制限できるという主張です。(以上の応答がしめすように、私は今のところ、真理のデフレ主義に対して少し否定的です。)