107 発話の前提と適切性について(the presuppositions and appropriateness of utterance) (20240301)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回(105回)に依頼の発話の適切性を、前回106回に表現型発話の適切性を、それぞれ命令ないし定義に依拠するものとして説明しました。そこで今回は、宣言の適切性について説明すると予告しました。しかし、これまでの記述では、発話の前提と適切性の区別が曖昧でした。そこで、発話の前提と適切性の区別から論じ直したいと思います。

#発話の意味論的前提と語用論的前提について

発話の前提は、意味論的前提と語用論的前提に分けることができます。

問いに対する答えは、正誤の区別を持ちます。発話が、正しいかあるいは誤りであるかの、どちらかでありうるための、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。そして、発話行為が成り立つための語用論的必要条件を、発話の「語用論的前提」と呼ぶことにします。

主張型発話の場合、正誤の区別は、真偽の区別となります。それゆえに、主張型発話が真理値を持つための意味論的必要条件が、主張型発話の「意味論的前提」となります。

主張型以外の発話は真理値を持ちません。そこで、それらの発話の正誤の区別を、適不適(適切と不適切)の区別と呼ぶことにします。そして、発話が適切ないし不適切であるための意味論的必要条件を、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。

(紛らわしくて申し訳ないのですが、J. L. オースティンは、この意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を’felicity’と呼び、これが「適切」と翻訳されています。用語については、工夫の余地があるかもしれませんが、上述の区別は明確だと思います。)

主として論じてきたのは、主張型発話の真理値が、遡るならば、命名や定義の宣言発話に基づくということでした。次にそれの拡張として、主張型以外の発話、行為指示型発話(命令や依頼)、行為拘束型発話(約束)、表現型発話の適切性(適切であるか、不適切であるか)が、命名や定義の宣言発話に基づくということを証明しようとしました。

 ただし、主張型以外の発話についての説明では、<発話の意味論的前提が命名や定義の宣言に依拠すること>と<発話の適切性が命名や定義の宣言に依拠すること>の区別があいまいでしたので、その点に注意して、論じ直したいと思います。

 前回(106回)に依頼の発話の適切性について、次のように述べました。

「#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)」

しかし、これらは依頼の発話の適切性の条件ではなく、むしろ依頼の発話の意味論的前提と語用論的前提の一部です。次のように言えます。

  ・依頼の内容が実現可能であること(これは意味論的前提)

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること(これは語用論的前提)

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)(これも語用論的前提)

では、依頼の発話「水を持ってきてください」の適切性は、どのように説明されるのでしょうか。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。  では、主張型以外の発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。これを次に考え、(今回考える予定であった)宣言発話の適切性についても考えたいと思います。