152 照応の推移性 (Transitivity of Anaphora)(20250418)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#指示と照応は密接な関係にあります。

 語による対象の指示が可能であるためには、その指示が反復可能でなければなりません。なぜなら、指示が成立するためには、その語がある対象を指示すること、あるいは指示できることを確認する必要があり、そのためには指示を反復して、指示できることを確かめる必要があるからです。

 例えば、私たちが「あれ」で、ある対象Oを指示するとき、「あれ」でその対象を指示することを反復可能だと考えているし、実際に発話しないとしても、「あれ」を内語で発話して、対象の指示を何度か繰り返しているのかもしれません。このとき二度目の「あれ」は最初の「あれ」を照応しています。もし最初の「あれ」を照応していないのならば、「あれ」は他の対象を指示している可能性があり、もし同じ対象を指示しているのならば、それは最初の「あれ」の照応的反復になっていのです。

#照応の連鎖

 ところで、照応関係は連鎖をなすことがあります。クリプキによる固有名の指示の因果説に対して、ブランダムは、固有名の指示を照応の連鎖(chains of anaphor)によって説明しました。Aさんが語句wによって対象oを指示するとき、この指示は、反復可能なこととして考えられています。もし反復できないのだとすると、指示できているかどうかを確認することができないでしょう。BさんがAさんのwの使用を反復して、対象oをwで指示したとき、そのwの使用は最初の使用の照応となっています。CさんがBさんのwの使用にならってoの指示をするとき、CさんもまたBさんのwの使用に照応しています。こうして照応は連鎖することが可能です。

#照応の推移性。

最初にZさんが語句wで対象oを指示したとします。Yさんは、Zさんによるwの使用に照応することによって、語句wの反復(あるいは他の語句「それ」など)によって、(Xさんがwでoを指示したそのZさんの発話した)wを介して、oを指示します。Xさんは、Yさんによるwの使用に照応することによって、語句wの反復(或いは、他の語句「それ」など)によって、(Yさんがwでoを指示したそのYさんの発話した)wを介して、oを指示します。

ここで、A (Yw, Zw)で「Yのwの使用は、Zのwの使用の照応である」を表示します。そうすると、照応の推移性を次のように表示できます。

 A (Xw, Yw) ∧ A(Yw, Zw) → A (Xw, Zw) (照応の推移性)

これを一般化すると次のようになります。

 ∀(X)∀(Y)∀(Z) (A(Xw, Yw) ∧ A(Yw, Zw) → A(Xw, Zw))(照応の推移則)

ここでR (Xw, o)で「Xによるwの使用は、oを指示する」を表示すると、照応による指示は次のように表示できます。

 A (Yw, Zw) ∧ R(Zw, o) → R (Yw, o)   (照応による指示)

ここでYによるoの指示は、Zによるoの指示を介しているので、YとZによるoの共同指示だと言えます。

 照応関係の推移性の一般化のために必要な条件は、何でしょうか。これを次に考えたいと思います。

その後で、指示が照応に基づくことを考察したいと思います。

151 共同指示は言語の共有を必要とするのか?(Does the joint reference require a shared language?) (20200411)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#共同指示は、どのようにして成立するのか

 AとBが対象Oを「共同指示する」ときには、次が成立していると思われます。

①AがOを見る。

  • BがOを見る。

③Aが、BがOを見ていることに気づく。(Aが②に気づく)

④Bが、AがOを見ていることに気づく。(Bが①に気づく)

⑤Aが、BがOを見ていることに気づいて、Oを見る。(Aが③を介して、Oを見る。)

⑥Bが、AがOを見ていることに気づいて、Oを見る。(Bが④を介して、Oを見る。

しかし、厳密に考えるならば、これではまだ共同指示が成り立っているとは言えません。このような補足をさらに重ねる必要があります。ただし、このような補足を何度重ねても厳密な共同指示の定義にはなりません。そこで、前回提案したのは、<同一対象への共同注意ができている>と仮定して、行為して齟齬が生じた時には信念を修正する>というアプローチをすることでした。

ただし、前回のこの説明にはある視点が欠けていました。それは、<AとBが共同注意や共同指示が成立するには、同一の言語を用いることは必要ない>ということです。

#同一対象の指示は同一の言語の共有なしに可能である?

個人として、言語の規則に従うことは不可能であり、他方で他者が従っている言語規則を特定することも不可能です。ウィトゲンシュタインによれば、<言語の規則に従うことは、個人では正当化できません>、また<他者がどのような言語の規則に従っているかを特定することも不可能です>。ここから帰結することは、<二人の人が一つの言語を共有することは不可能である>ということです。

それにもかかわらず、私たちがコミュニケーションできているとすれば、DavidsonやBrandomが言うように、二人の人は一つの言語を共有しなくてもコミュニケーションできるということになります。(参照、デイヴィドソン論文「第二人称」(1992)論文「言語の社会的側面」(1994)、ブランダムMIE(たしかに、MIEに書いてあったのですが、その個所を見つけられずにいます))

デイヴィドソンもブランダムも、コミュニケーションのために必要なのは、同一の言語を採用することではなく、会話の双方が、相手の言語を理解し、相手が理解できる仕方で話すことであり、そのためには、同一の言語(言語規則)を採用している必要はないと言います。

これを、特に指示に適用するならば、二人の人が、同一の対象を指示することは、二人が同一の言語を使用しなくても、可能であると思われます。

#ただし、命名宣言により固有名の共有が可能になる。

共通の言語がなくても対象を一緒にもつことや一緒に触ることは可能です。したがって、共通の言語がなくても同一の対象の指示を共有できる場合があります。その場合、その対象に二人で同じ名前を付けることが可能ではないでしょうか。

例えば、生まれたての赤ん坊に、二人で名前を付けるとき、二人はその固有名を共有しているといえるでしょう。これと同じような仕方で、すでに名前を持っている対象を含めて、二人で新しく名前を付け直して、名前を共有することは可能でしょう。さらに、他の人たちが共有している対象の名前を学習して、その名前を共有することが可能でしょう。定義や学習によって、私たちは名前を共有することできます。また既に使用している語の使用法が、他の人々の使用法と一致するかどうかをチェックして、一致していないならば、自分の使用法を修正して、使用法を他の人々と共有することも可能です。

 次回は、前回の議論に欠けていたもう一つの論点<指示は照応に基づく>ということを論じます。

150 指示について(on referring)(20250402)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(もともとは、次に宣言の問答、とくに命名や定義の宣言のための問答について考察する予定だったのですが、それらは指示を前提とするので、ここからはしばらく、指示行為一般について考察します。)

 (ちなみに、言語の意味論を考える上でも、言語表現への指示は重要です。語や文を使用することは、語や文の定義に依拠するのですが、語や文の定義は問答によって成立します。これらの語、文、問答の成立は、相互に依拠しており、同時に成立すると考えられます。これらの中のどれか一つの成立を前提として、それからその他のものを説明できるかもしれませんが、その場合に、最初に成立しているものとして前提したものの成立をさらに説明しようとすると、他のものに依拠する必要が生じます。このような関係を明示化しようとすると、私たちは語、文、問答を指示する必要があります。)

現在のところ、指示についてこのように考えています。<認識においてであれ、実践においてであれ、さらには言語研究においてであれ、対象の指示は、対象についての問答によって/おいて行われる。対象の指示は、共同注意や共同指示によって確実なものになり、対象についての問答は、対象についての他者との問答によってより確実なものになる(つまり正当化される)。> このような考えをこれから吟味し展開したいと思います。

共同注意と指示については、カテゴリー「共同注意と指示」で論じました。そこでは、幼児の発達における共同注意の成立をトマセロの議論を紹介して検討しました。ここでは、発達論ではなく、成人が行う共同注意と指示について考察します。

二人の人間AとBがいて、AはBが対象Oを見ていることに気づいたとします。

この場合、Aは、Oを見て、Oの存在にも気づいています。さもなければ、Bが対象Oを見ていることに気づくということはあり得ないでしょう。

この場合、AがOを見ており、BもOを見ているということが成立していますが、Oへの共同注意は成立していません。ここで、BもまたAがOを見ていることに気づくとき、共同注意に接近します。なぜなら、Aは、BがOを見ていることを介さずに、Oを見ることができますが、BがOを見ていることに注意するときには、Bを介してOを見ていると言えます。Bもまた、AがOを見ていることに注意するときには、Aを介してOを見ていると言えます。

AとBは、互いに相手を介してOを見ています。ここに共同注意が成立しているでしょうか。

①AがOを見る。

②BがOを見る。

③Aが、BがOを見ていることに気づく。(Aが②に気づく)

④Bが、AがOを見ていることに気づく。(Bが①に気づく)

この①~④が成立するだけでは、AとBがOに共同注意するにはまだ十分ではありません。

<Aは、BがOを見るようにOを見ている>と述べましたが、これはより正確に言えば、<Aは、BがOを見るのと同じ仕方だとAが思っている仕方で、Oを見ている>ということです。<Bもまた、AがOを見るのと同じ仕方だとBが思っている仕方で、Oを見ている>ということになります。

この場合、<BがOを見る仕方>と<BがOを見るのと同じ仕方だAが思っている仕方>が、一致していない可能性があります。また、<AがOを見る仕方>と<AがOを見るのと同じ仕方だとBが思っている仕方>が、一致していない可能性もあります。

ところで、このように<Oを見る仕方>については、AとBで一致していない可能性があるとしても、<対象Oを見ている>ということについては、一致が生じていると言えるかもしれません。なぜならAがOを見るのは、BがOを見ることを介しており、BがOを見るのは、AがOを見るのを介しているからです。しかし、ここでも二人が同一の対象をOとして指示していることを確証することは出来ません。共同注意が不確実であるならば、指示対象についての理解の同一性だけでなく、指示対象の同一性もまた不確実です。

<指示対象についての理解の同一性だけでなく、指示対象の同一性もまた不確実である>というこの情況に対処する一つの方法は、多くの認識の場合と同様に、<共同注意ができている>と仮定して、行為して齟齬が生じた時には信念を修正するというアプローチをとることです。

ただし、共同注意であるために必要なことは、複数の人間が同一の対象について同一の理解をしているというだけでなく、その理解を共有することによって、その理解が成立しているということです。このような意味での共同注意が成立するのは、問答によってです。例えば、AがBに「Oは赤色ですか」と問い、Bが「はい、Oは赤色です」と答え、Aが「そうですよね」と同意するとしましょう。この問答が成立するとき、Bは、Bの返答の中の「O」で、Aの質問の中の「O」と同じ対象を指示していると見做して答えており、Aが、Bの発話を自分の問いへの答えと見做しているとき、Bの返答の中の「O」とAの質問の中の「O」が同じ対象を指示していると見做しています。

次回は、問答の中で共同注意や指示が成り立つことについて、もう少し詳しく検討したいと思います。