[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
前回の最後に述べたトートロジーについての「無内容性」理解と「有意味性」理解の対立について考えたいと思いますが、後者を「実在性」理解と呼ぶことにしたいと思います(この方が違いが分かりやすいと思うからです)。。
カルナップが、論理学・数学の命題を無内容としたのは、それがどのような事実においても真とであるからです。それゆえにまた、「論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない」といいます。カルナップのように論理学・数学の「無内容」理解を採用するとき、そのような無内容な命題と、内容のある命題を区別することになります。この区別は、分析命題と綜合命題の区別にかさなるでしょう。カルナップによれば、分析命題と綜合命題の区別は、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別と重なります。この二つの区別の間にズレはありません。したがって、カントが「アプリオリな綜合判断」とみなしたものは、カルナップによれば、アプリオリで分析的なのか、アポステリオリで綜合的なのか、このいずれかです。例えば、幾何学の公理「二点を結ぶ直線は一つである」は、カントによれば、アプリオリな総合判断ですが、これに対して、カルナップは、幾何学を、数学的幾何学と物理的幾何学に区別し、数学的幾何学の命題は、分析的でアプリオリであり、物理的幾何学は綜合的でアポステリオリであると考えました(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第18章 カントの綜合的アプリオリ」)。
これに対して、論文「経験論の二つのドグマ」のクワインのように、分析と綜合を区別できないとし、全ての真理が綜合的であると考える時、論理学・数学の真なる命題もまた、世界の状態について、事実について、語っているということになります。つまり、クワインは、論理学・数学の「実在性」理解を採用するでしょう。
クワインは、「経験論の二つのドグマ」おいて、分析的真理と綜合的真理を区別できるというドグマと、経験的命題をセンスデータ言明に還元できるという「還元主義のドグマ」を批判します。
「言明を単位として考える根源的還元主義は、ひとつのセンスデータ言語を特定して、その言語に属さない有意な叙述を、言明ごとにこのセンスデータ言語に翻訳する仕方を示すという課題を立てる。カルナップは、『世界の論理的構築』において、この企てに着手した。」59
この根元的還元主義はうまくゆかず、カルナップは、根元的還元主義を捨てることになるのですが、クワインによれば、その後もカルナップは還元主義のドグマをもちつづけていると言います。
「還元主義のドグマは、それぞれの言明が、その仲間の諸言明から切り離してとらえられとき、とにかく験証ないしは反証が可能である」(61)という考えです。
クワインはこの二つのドグマを共に批判し、「この二つのドグマは、実際、その根においては同一である。」(61)と考えます。「[その同一の根とは] 言明の真理性は、何らかの仕方で、言語的要因と事実的要因へと分析できるという考えである。われわれが経験主義者であれば、事実的要因は、確証的経験の範囲ということに帰着する。言語的要因がすべてであるような極端な場合においては、真である言明は分析的である。」(邦訳62)
「個々の言明の真理性における言語的要因と事実的要因について語ることが、それ自体ナンセンスであり、他の多くのナンセンスの源でもある」(邦訳62)
「科学は、全体としてみられたとき、言語と経験の両方に依存している。だが、この二元性は、個々別々に考えられた科学的言明においては有意味な仕方では見出せないものなのである。」62
クワインは、言明の真理性に関する「言語的要因」と「事実的要因」を分けることできないと主張します。これは、分析/綜合の区別の否定から帰結することです。
次に、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立について、問答推論の観点から考えたいと思います。