[カテゴリー:問答の観点からの認識]
ポワンカレは、『科学と仮説』で<ユークリッド空間を維持しながら、理論の方を複雑化することによって、現象を説明する>という可能性と、<非ユークリッド空間を採用して、理論を簡単にする>という可能性の二つの可能性があることを主張しました。
(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第15章 ポアンカレ対アインシュタイン」。私はポアンカレの『科学と仮説』(岩波文庫訳)を持っているはずなのですが、今見つからないので、ここでの話はカルナップのポワンカレ論に基づいています。)
アインシュタインもまたポワンカレの二つの可能性の指摘を認めます。
「幾何学Gは実在の物の関係に就いて何も云うものでなく、唯之と物理学的法則の総概念Pと一緒になって初めてそれを云いあらわすのです。記号的に之を述べればG+Pなる和のみが経験の支配に対応するのです。つまりGは勝手に選ぶことができるので、またPの部分もやはりそうなのであって、これらはみな規約なのです。ただ矛盾がおこらないためにはGと全体のPとが一緒になって経験にかなう様にPの残りを選ぶ必要があるだけです。…私の考えではポアンカレの斯ような見解は本来正しいと思われます。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、4)
しかし、アインシュタインは、<非ユークリッド空間を作用して、理論を単純なものにすること>を選択します。その理由は、ユークリッド空間を維持したまま、理論を複雑化することによって、現象を説明しようとするとき、理論の複雑化の負担が大きすぎると考えたからです。カルナップもまたアインシュタインのこの方針に賛成しています。観察データと一致する<幾何学+理論>には、複数の可能性があってその選択は、全体としてより単純な方を選択するということが行われています。相対性理論についてのこのような理解によれば、相対性理論の正しさは、帰納に基づいていることになります。
「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)
「それ(実用幾何学)の叙述は本質的に経験からの帰納に依存するのであって決して単に論理的の帰結に依るものではありません。」(同訳3)
アインシュタインによれば、公理的幾何学(数学的幾何学)は、確実なものであるが、実在には関係せず、実用幾何学(物理的幾何学)は、実在に関係するが、確実なものではなく帰納に基づくものなのです。したがって、一般相対性理論もまた確実なものではなく、帰納にもとづくものであることになります。したがって、科学理論の公理は、帰納に基づくことになります。
科学理論の公理が、帰納に基づいているとすれば、それは単に現象を記述している全称命題ではなく、それ以上の<必然性>を帰納にもとづいて主張しているといえますが、しかしその<必然性>は演繹されたものではありません。自然科学の法則は、またその法則による説明は、究極的には帰納によって想定されるもの以上のものではないのです。
アインシュタインは、公理幾何学と実用幾何学の区別と同様の区別が、数学全体に関してもなりたつと考えています。上の引用がそのしょうことなります。それを再度引用しましょう。
「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)
したがって、アインシュタインは、公理的数学と実用数学という二種類の数学を区別していたといえるでしょう。
このことは『論考』のウィトゲンシュタインやカルナップが、論理学と数学を共に、実在には関係しないものと考えていたことは異なります。私は、アインシュタインと同様に、幾何学について公理的幾何学と実用幾何学を分けるのならば、数学についてもこの区別が可能だと考えます。
ただし、アインシュタインが論理学についてもこの区別が可能と考えていたかどうかは、よくわかりません。次回は、数学と同様に、論理学についても、(実在に関わらない)公理的論理学と(実在に関わる)実用論理学を区別できるのかどうかを、検討したいとおもいます。