[カテゴリー:平和のために]
理性は推論の能力であり、公的使用と私的使用の区別は、推論の区別であることを前の9回と10回に説明しました。その推論の区別では、真理についての、事実的/規範的、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/綜合的、必然的/偶然的、という区別が前提となっていること、そしてそれらの区別については再検討・再定義が必要であることを指摘し、とりあえず真理の区別の考察に向かうことにしました。これについては、カテゴリー「問答の観点からの真理」で行うことにしました。
今回は、別の側面から、理性の公的使用と私的使用の区別について考えたいとおもいます(本来は、この区別の再定義が終わってからすべき議論かもしれません。)
カントは、次のように述べています。
「自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩は格別妨げられるものではないと。」(たぶん、カント『啓蒙とは何か』岩波文庫、p. 10。今手元に本がなく確認できないので間違っているかもしれません。)
ここから言えることは、<公的使用は常に私的使用に対して優先されなければならない>、<公的使用では決定できない場合に限って、私的使用が行われる>ということです。したがって、<「自国第一」に考えてよいことは、理性の公的使用では決定できないことに限られる>ということです。
二つの国の間に、利害の対立があるとき、それぞれの国民が自国第一で考えたら戦争になる可能性があります。しかし、それぞれの国民である人々が、それぞれの国民としてではなく、世界市民として考える時には、その利害の対立について、それぞれの国民に限らず、すべての人が自由に参加できる、自由な理性的な議論(すべての前提を自由に理性的に吟味する議論)を行うことになるでしょう。そのとき、理性的な議論だけでは決定できない問題に行き当たる時(つまり公的使用では答えられない問題に行き当たる時)は、その決定の利害当事者たちが協議して決定する必要があるでしょう。なぜなら、その決定に責任を負えるのは、利害当事者だけだからです。たとえば、領土問題の場合、どのように国境線を引くかは、利害当事者の協議に任せるしかない部分があるかもしれません。そのような利害当事者の協議で合意ができないときは、どうしたらよいでしょうか。「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合にどうすべきか」という問題は、利害当事者だけの問題でなく、理性を持つすべての人の一般的な問題です。つまり、これは理性の公的使用によって解決すべき問題です。
これは、決して利害当事者間の戦争によって解決すべき問題ではありません。なぜでしょうか。
この問題に理性の公的使用は、どう答えればよいでしょうか。
これらを次に考えたいと思います。