[カテゴリー:問答の観点からの認識]
前回述べたように、「概念的実在論」とは、「客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)、言い換えると、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にある」(ST 54)という主張です。
客観的事実や性質について、例えば「これはXである」と言えば、「これはXではない」とは両立不可能ですし、「Xであること」と「Xでないこと」の区別が前提されているし、その区別ができることが前提されています。したがって、客観的事実や性質について何からの記述ができる限りで、<客観的事実や性質は、他の事実や性質に対して、両立不可能性や帰結の関係にある>と言えるでしょう。
問題は、客観的事実や性質についての両立不可能性や帰結の記述がどういう意味で<客観性>を持っているのか、ということです。
例えば「これはリンゴであり、これはナシではない」「これはリンゴであり、したがってこれは食べられる」などの記述がどのような客観性を持っているのかです。それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます。
ではこれらの記述が、<客観的事実や性質>の記述であるとは、どういうことでしょうか。それは、「その事実や性質を確認する人がいなくても、つまりそのリンゴを見る人や、そのリンゴを食べる人がいなくても、それらの記述は成り立つだろう」ということです。別の例でいえば、「ニュートンが生まれなくても、また人類が生まれなくても、万有引力の法則は成立していただろう」ということです。このように、客観的事実については、様相概念(可能、必然、など)を用いて語る必要があります。
概念実在論は、客観的事実についての真理様相語彙をもちいた記述の正しさを主張することです。
(念のために言えば、「」は文や命題を表現し、<>は単なる強調を表現しています。)
先ほど、「それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます」と述べました。この確認作業において、私たちは次のような問答を行っていると思います。
「これはリンゴだろうか」「これはリンゴだ」。
「これはナシだろうか」「これはナシではない」
「これは食べられるだろうか」「これは食べられる」
このような問答なしに、この確認作業を行うということは不可能でしょう。
では、概念実在論において、疑問の語彙や疑問文の文型は、真理様相語彙と同様に必須なものでしょうか。また問答関係や問答推論の論理的関係は、どのように位置づけられるでしょうか。
これを検討したいと思います。