[カテゴリー:日々是哲学]
ローティは、おそらく「会話の継続」を人類の最上の目的としていると思われます(今『哲学と自然の鏡』が手元にないので確認できません)。「会話の継続」は問答が成立するための超越論的条件であるので、「会話の継続」を目的として設定することは、問答論的必然性として超越論的に証明できるだろうと考えます。
では発話の継起が「会話」ないし「会話の継続」になっているための条件は何でしょうか。その条件の一つは、発話の継起が、問答および問答の継起になっていることだと思います。問いとそれへの答えが一回行われるだけでなく、問答が継起しなければ、会話を継続できません。この問答の継起の仕方には、様々なパターンがあり、それを分析する必要があります。しかし他方で、前の問答とはまったく無関係な問答を始めたとしても、二人ないしそれ以上の会話者が同一人物であるならば、つまり会話の参加者が同一であるならば、そこで行われる問答の継起は「会話の継続」だといえます。「会話の継続」のためには、会話の内容の連続性(これも重要ですが)よりも、会話者の同一性の方がより重要だと思われます。例えば、わたしが突然会話のテーマを変えたとしても、相手はそのことに会話の含みを読み取るのです。発話の継起を会話の継続にするのは、会話者が発話の前提を共有していることによるのだと言えそうです。
ローティが「人類の会話」というとき、その参加者は人類ですが、何をもって「会話の継続」と言うのでしょうか。その会話参加者の中にAIが加わるようになるとき、「人類及びAIの会話の継続」が目的になるのかもしれません。
ところで、人類とAIは会話できるでしょうか。ここで気にしているのは、AIが思考できるかどうか、と言うことではありません。会話するためには前提の共有が必要です。しかし、人間の記憶能力には限界がありますが、AIの記憶能力には原理的な限界がありません。AIと人が会話するとき、AIは、人が話したことを記憶しているが、人はAIが話したことを記憶していない、と言うことがあり得ます。AIは人間の記憶能力を考慮して、前提として共有している知識を正確に理解することができるでしょうから、AIは人間と会話できるでしょう。しかし、それは対等な会話ではなくなりそうです。AIは人間を置いてきぼりにして、AI同士で勝手に会話を進めていくことになるかもしれません。