[カテゴリー:日々是哲学]
哲学でも、「非合理性」が議論されることがしばしばありますが、非常に多様な仕方で語られます。それは行為の非合理性であったり、決定の非合理性であったり、感情の非合理性であったりします。それらの多様な非合理性をまとめて共通要素を取り出して扱うことができるのか、それとも多様な非合理性のそれぞれについて区別して分析すべきものなのか、曖昧なことが多いです。
そこで、ここではまず次を提案したいと思います。
<合理性/非合理性は、問いに対する答えがもつ性質である>
現代の真理論では、真理の担い手(truth bearer)と真理の作り手(truth maker)を区別して議論されます。真理の担い手とは、「…は真である」という述語が述定される対象のことあり、命題や発話が真理の担い手とされることが多いとおもいます。真理の作り手とは、真理の担い手に真とならせるものものであり、対応や整合性などが考えられることがあります。真理論については、別途論じることにして、ここでは、この担い手と作り手の区別を「合理性/非合理性」に当てはめて考えたいと思います。
<合理性/非合理性の担い手は、問いに対する答えである>
問いの答えは、合理的であったり、非合理であったりするということです。信念、行為、感情、欲求などについて、非合理であると言われることがありますが、その理由は、これらが問いに対する答えとなるからだと思われます。(これらは、問いの答えとして、合理的なものである場合もありえます。)
これらは、人間の反応や振る舞いの一種ですが、これらとは異質なものである「制度」についも、制度が合理的とか、制度が非合理とか言われることがあります。制度が合理的なものや非合理なものであるのは、制度が問題の解決(問いの答え)であるからである。(社会制度(社会組織と社会規範)が社会問題の解決策であるということについては、カテゴリー「問答としての社会」で論じています。)
ちなみに「自然は合理的である」と言うことができる。このように語ることができる理由は、自然が問いに対する答えであるからではなくて、自然についての真なる記述が、つねに問いに対する答えとして合理的だからだといえるだろう。
(問いもまた、それの問い自体が上位の問いの答えであるときには、合理性/非合理性の担い手となりうる。つまり「合理的な問い」や「非合理な問い」がありうる。)
合理性/非合理性の作り手について、つぎに考えてみます。