05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)

合理的な答えと非合理な答えの区別を論じ前に、「不合理な答え」と「非合理な答え」の異同について説明したいとおもいます。不合理性もまた、問いに対する答えがもつ性質だと考えています.

ところで「不合理」も「非合理」も、英語ではどちら’irrational’であり、英語にはこの区別はなさそうです。しかし、日本語の場合には、いかに述べるような違いがあるとおもいます。

 問いに対する不合理な答えとは、合理的な答えと矛盾する答えであり、間違った答え、避けるべき答えである。このような不合理な答えを、非合理なり答えということあるようにおもう。例えば、男女差別の制度は、この意味で不合理な制度であるが、それを非合理な制度ということもできる。他方で、合理的な答えが存在しない問いに対する答えを、非合理な答えということもある。この場合、非合理な答えは合理的な答えと矛盾することはない。それゆえに、非合理な答えは、不合理な答えを含むがより広い概念である。

 不合理な答えである部分を除いた非合理な答えを、狭義の非合理な答えと呼ぶことにしよう。ところで、合理的な答えを持たない問いの答えは、すべて狭義の非合理な答えなのだろうか。

 まずは、合理的な答えを持つ問いとはどのようなものなのかを考えよう。

・答えが知覚によって得られる時、また答えが記憶によって得られる時、それらの答えは推論に基づいてはいないが、非合理ではない。知覚や記憶に基づいて答えることもまた、合理的である。

・問いの答えが、推論によって得られる時には、その答えは合理的である。

 問いの答えが、推論によって得られる時、推論には前提が必要であるが、その前提もまた別の問いの答えとして得られる。この前提が、問いに対する非合理な答えであるとしても、それから推論によって得られる答えは、とりあえず合理的な答えだとしておく。

・問いの答えが知覚によって得られる場合

「この紙の裏側は何色か?」と問われたとき、その紙を裏返して、そこを見て、「白色です」と答える。このときの答えは、推論によらず知覚によって得られる。

・問いの答えが記憶によって得られる場合

 「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」と問われたとき、記憶によって「2018年でした」と答えるとき、この答えは、記憶によって得られる。

 「次回は2023年で、前回はその5年前なので、2018年でした」と答える時には、記憶だけでなく、次の推論によって答えている。

  次回開催は2023年である。

  世界大会は5年おきに開催される。

  前回の世界大会は、2023年の5年まえである。

  ゆえに、全体の世界大会は2018年である。

・問いの答えが伝聞によって得られる場合

  「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」という問いに、インターネットで検索して前回の世界大会が2018年であったことを知る時には、伝聞によって答えたのである。

・問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。

では、問いの答えが、事実の記述でない場合には、どのような場合があるだろうか。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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