[カテゴリー:問答と懐疑]
以前に「11 懐疑と批判 (20200808)」で、「ローカルな懐疑」と「ローカルな懐疑主義」を次のように区別した。
・「ローカルな懐疑」とは、ある主張の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。例えば、「ここに椅子がある」を疑うとは、「ここに椅子があるのか?」と問うことに加えて、その問いに対して、「この椅子は現象に過ぎないかもしれない」などと答えることである。どんな主張についても、疑うことは可能である。なぜなら、その主張の根拠について「それは正しいのか?」と問うことが可能だからである。
・「ローカルな懐疑主義」とは、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場である。例えば、「ここに椅子がある」についての懐疑主義とは、「ここに椅子があるのだろうか?」と問うだけでなく、この問いに答えることはできないと主張する立場である。
では、このようなローカルな懐疑主義は可能なのだろうか?
ある主張に関する懐疑主義とは、それを肯定することも否定することもできないと主張することである。それは、その命題に関する問いに、答えることができない、ということである。しかし、その命題の主張に関する懐疑主義を主張するためには、その命題の主張の真理性(ないし適切性)を問うことができなければならない。 従って、<懐疑主義とは、原理的に答えられない有意味な問いを認めることである>。
では「原理的に答えられない有意味な問いは存在するのだろうか?」
真なる(適切なる)答えをもつ問を「健全な問い」と呼ぶことにすると、真なる(適切なる)答えがない問いは、不健全な問いである。そのような問いは、どのような上流推論や下流推論を持つことになるのだろうか。
不健全な問いは、上流推論を持ちうるだろうか。言い換えると、それは、問答推論の体系の中で妥当な問答推論の結論となりうるだろうか。例えば、Γ┣Q (Γは平叙文の列、Qは疑問文)という問答推論が妥当であるとは、前提が真であるならば、結論の問いが健全である(真なる(適切なる)答えを持つ)ということである。Γに、r∧¬rという矛盾した式があれば、前提は真とはなりえない。ゆえに、結論のQが健全でなくても、この推論は妥当であることになるのだろう。問答推論ではなく、通常の推論でも、矛盾した前提からは、どのような結論でも導出できる。不健全な問いQが持ちうる上流推論は、前提に矛盾が含まれるような推論だけである。
次に、不健全な問いは、下流推論を持ちうるだろうか。言い換えると、それは、問答推論の体系の中で妥当な問答推論の前提となりうるだろうか。
Q、Γ┣p (Γは平叙文の列、Qは疑問文、pは命題)という下流問答推論において、この推論が妥当であるとは、<問いQが健全で、Γに含まれるすべての平叙文が真であるならば、pが真であり、かつpがQの答えである>ということである。ここでは、問いQは健全ではないので、結論pが真でなくても、またpがQの答えでなくても、この推論は妥当である。この場合、pがどのような命題であっても、この問答推論は妥当である。
ところで、このような問い、つまり原理的に答えられない問いを、有意味な問いだと認めてよいのだろうか?