[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]
人はいつ問うようになったのだろうか? 問うことは、通常は言語を用いて行う行為である。動物は問うことはしないかもしれないが、しかし探索は行う。では、動物はいつ探索を行うようになったのだろうか。動物の探索と人の探索はどこが違うのだろうか。しばらく、これらを考えたい。
西村三郎著『動物起源論』(中公新書)では、次のように植物と動物を次のように定義する。
「植物とは、自ら動くことはできないが、光合成(炭酸同化作用)を通じて無機物から有機物を合成し、自分の体を作り上げていくことのできる生物、一方、動物は感覚し、そして動き回ることができるが、みずからは有機物を合成できないので、外から有機物を取り込んで体を作っていかねばならぬ生物のことを指している。」(p. 12)
動物の本質は、「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。
では、ここから人間探索までに、どのような道程があるのだろうか。
散発的なコメントになって申し訳ありません,またこのトピックに対する直接のコメントではないのですが,入江さんの哲学の核心を構成していると思われる「問答」に関して1つ質問したいことがあります.
言語が成立するためには問が不可欠である,と考えられているでしょうか?より正確には,言語が成立するためには,その言語に,問答の成立を可能にする理論的に十分な道具立てが備わっていなければならない,と思われますか?言い換えれば,そうした道具立てを欠いた「言語」,例えば,(問うことなしに)インプットされる情報を処理して,そこにおいて構成できる有意味な文(=命題)の真偽をアウトプットとして産出するだけの「言語」は疑似−言語にすぎず,言語ではない,と思われますか?(ひょっとするとこの問に対する回答は別のトピックですでに与えられているかもしれません.その場合はそのトピックをご教示ください.よろしくお願いいたします.)
knsgt さんご質問ありがとうございます。
問答は、言語による探索-発見であり、その前身は、非言語的な探索発見だろうと考えています。そして非言語的な探索発見は、単細胞の動物が出現したときから始まっているとおもいます。なぜなら、生物が動くのは主として餌を手に入れるためであり、それは探索行動だからです。
二つ目のご質問ですが、「(問うことなしに)インプットされる情報を処理して,そこにおいて構成できる有意味な文(=命題)の真偽をアウトプットとして産出する「言語」」があるとして、そのようなアウトプットは、なぜ行われるのでしょうか。問いや探索のないところにアウトプットが行われるということはないのではないでしょうか。
ご回答ありがとうございます.
ご回答の趣旨はとてもよく理解できます,少なくともよく理解しているつもりです.これを踏まえて,まずはこのトピックを読み進めていこうと思います.
ところで現在の私の主要な問題意識のひとつは,言語が成立するための必要条件(できれば必要十分条件)をできるだけ厳密に証明すること,にあります.その問題意識に(多少強引に)引きつけると,上記のご回答は(おおまかには)次のように言い換えることができるでしょうか?
(動物による)探索−発見の活動が言語成立の基礎にある.そして問答形式によってはじめて言語は探索−発見の道具となる.したがって問答形式なしには言語は成立しない.
またそれゆえ,問答形式を欠く任意の(統語論的,意味論的な)体系(機構)は言語ではなく,せいぜい疑似−言語にすぎない.
ありがとうございました。その通りです。
問答形式によって初めて言語が成立すると考えています。例えば、チンパンジーは、指示ができないそうなのですが、『問答の言語哲学』第三章で、「指示」もまた問答によって可能になると説明しました。