[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」
「人はなぜ問うのか?」が課題だった、この問いは、人が問うことを前提している。そこで、「人が問うとはどういうことかだろうか?」を問い、さらに「動物の探索と、人が問うことの違いはなにか?」を問うことになった。動物は、それが移動を始めたときから、感覚し、探索していると思われる。では、「動物は、表象や意識を持つのか?」
この問いに答えることは、非常にむつかしい。なぜなら動物自身に答えてもらうことができないので、それを動物の行動の振る舞いから推測するしかないからである。したがって、動物が表象や意識を持つこと、ないし持たないことについての、間接的な証拠を見つけなければならない。
(あるいは脳科学が発達して、人間がリンゴの表象をもつとき、どのような脳状態の変化が生じるのかを特定できるようになれば、動物の脳状態にもよく似た変化が生じるかどうかで、動物がリンゴの表象をもつかどうかを判定できるようになるかもしれない。ただし、厳密に言えば、その場合でもそれは間接的な類推にとどまっている。)
意識や表象の有無について考察するとき、痛みなどの意識をもつかどうか境界は、脊椎動物/非脊椎動物の区別に置かれ、表象を持つかどうかの境界は、哺乳類/非哺乳類の区別に置かれることが多いのではないかと思われる。ただし、専門家の間でも定説はないようである
意識や表象をもつとは、どういうことかを考えるための手がかりとして、(話が元に戻ってしまっているように思われるかもしれないが)人間の場合を考えよう。
人間は、(痛みの)意識を持ち、(パイン飴の)表象を持つように思っているが、それはどういうことだろうか。パイン飴を食べようとして、パイン飴を探すとき、黄色くて丸くて穴の開いたパイン飴を表象している。パイン飴の表象は、パイン飴を図とし、その他を地とするゲシュタルト構造を持つ。対象を表象するとは、対象を図とし、その他を地とするゲシュタルト構造を表象することである。しかし、最近の知覚論であるNoeの「エナクティヴィズム」は、このような知覚像は存在しないと主張していたのではないか。
(今手元にNoeの本がないので、奈良に戻ってからこの点を調べます。)
これはテストです。誰でもコメントできるようにしたいと思います。