37「論理的概念」と「経験的概念」の区別:保存拡大性と非保存拡大性の区別(20210726)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 前回の提案は「論理的概念」と「経験的概念」の区別に依拠していましたので、ここでは、この二つを、保存拡大的(conservative extensive)であるか否かで区別できることを示したいと思います。

 前々回述べたように、「論理的概念」と「疑問表現」は、保存拡大性をもつこと、つまりこれらを導入しても、他の語や文の意味を変えないことを指摘しました(詳しくは『問答の言語哲学』の第1章を参照してください)。

 これに対してほとんどの経験的概念は、保存拡大性を持ちません。これによって、論理的概念と経験的概念をおおよそ区別できます。「ほとんど」とか「おおよそ」と曖昧な言い方をするのは、保存拡大性をもつ語が、「疑問表現」と「論理的概念」に限られないこと、非保存拡大性をもつ語もまた「経験的概念」に限られないことによります。

 ここでは、保存拡大性と非保存拡大性の違いを、語の定義のありようから説明したいと思います。以下では、語を、明示的な定義がある場合と、文脈的な定義(暗黙的定義)がある場合と、定義ができない場合に分けて考えてみます。

明示的定義の導入は、保存拡大か?

「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができます。  

   x=B┣x=A (Aの導入規則)

   x=A┣x=B (Aの除去規則)

これを連続適用すると

   x=B┣x=B

という推論が得られます。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立します。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはありません。

*ただし語の明示的定義が複数ある時には、その語の導入は、非保存拡大になります。

例えば、Aの明示的定義として、A=BとA=C(Aは名詞で、BとCは名詞句とする)が成り立つとしましょう。このとき、

   Aの導入規則:B┣A、C┣A

   Aの除去規則:A┣B、A┣C

   (B┣CあるいはC┣Bは、語Aの導入前には成立しないとする。)

が成り立ちます。この時、B┣Aおよび、A┣C、より、B┣Cが成り立ちます。推論B┣Cは、語Aの導入前には不可能であったとすると、語「A」の導入後には可能になります。つまり、語Aは、非保存拡大性をもちます。

#文脈的定義の導入もまた、保存拡大か?

語Aを含むある文pについて、次が成り立つとき、

   p≡r(rは語Aを含まない)

この同値文は、pの文脈的定義です。このとき次が成り立ちます。

   Aの導入期測:r┣p

   Aの除去規則:p┣r

導入規則と除去規則を連続適用すると、r┣rという同語反復になります。したがって、この場合、語Aは、保存拡大性をもちます。

ただし、語「A」の文脈的定義が複数ある時には、この語は非保存性を持ちます。今仮に、語Aを含むある文pについて、次が成り立つとしましょう。

   p≡r(rは語Aを含まない)

   p≡s(sは語Aを含まない)

   (r┣sあるいはs┣rという推論は語Aの導入以前には成り立たないとする。)

このとき、次が成り立ちます。

   Aの導入期測:r┣p、s┣p

   Aの除去規則:p┣r、p┣s

ここで導入規則r┣pと除去規則p┣sを連続適用すると、r┣sと言う推論が得られます。この推論が語Aの導入前には不可能であったとすると、語Aの導入後には可能になります。つまり、語Aは、非保存拡大性をもちます。

#定義できない語の非保存拡大性

語Aの明示的定義も文脈的定義もできない場合で語Aを含むある文をpとするとき、

   r┣p (pの上流推論)

   p┣s (pの下流推論)

このような上流推論と下流推論は可能です。この場合、r┣pおよびp┣sから、r┣sが推論可能です。この推論が語Aの導入以前には不可能であったならば、語Aの導入は非保存拡大性を持ちます。

ここで前回の「分析的真」「アプリオリに真」などの新しい定義の説明を一旦終えて、この定義を「世界は無矛盾である」や「世界は斉一性をもつ」に適用した命題の真理性について考えたいと思います。

36 「分析的に真」と「アプリオリに真」の新定義の提案 (20210724)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、クワインの「分析的に真」への批判を踏まえてうえで、その困難を回避する仕方で、「分析的に真」「アプリオリに真」などの定義を提案したいとおもいます。

#クワインによる「分析的に真」への批判

クワインは論文「経験論の二つのドグマ」で分析的真理の定義の試みが失敗することから、分析的真理と綜合的真理の区別を否定しました(この概略については、私の以下の講義ノートをご覧ください。

https://irieyukio.net/KOUGI/kyotsu/2018SS/2018ss03%E3%80%80%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%A8%E7%B6%9C%E5%90%88%E3%81%AE%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%81%AE%E5%90%A6%E5%AE%9A%20.pdf)

この論文で、クワインは「分析的に真」の「意味論的規則」による定義がつぎのような欠点を持つとして、それを諦めます(他にも論点はあるのですが、私は最も重要なのは、これだと思っています。

「意味論的規則」の概念を用いて定義しようとすれば、「言明Sが言語L0において分析的であるのは、…」という仕方の意味論的規則になるのですが、これを理解するためには、一般的関係名辞「において分析的」を理解していなければなりません(参照、クワイン「経験主義の二つのドグマ」『論理学的観点から』飯田隆訳、岩波書店、1992、50)しかし、「どの言明がL0において分析的であるかをいうことによって説明されるのは「L0において分析的」であって、「分析的」や「において分析的」ではない」(同訳、51)

このようにして、クワインは、「意味論的規則」によって定義しようとするとき、言語に依存しない形で「分析的に真」を定義できないことを指摘しました。

#クワインの批判に応える「分析的に真」の新定義の提案

以上のクワインの議論には、多くの批判がありますが、私はそれらの批判はクワインへの応答としては不十分だと思っています。私は、クワインの議論を批判するのではなく、クワインやその批判者とは、全く違った仕方で「分析的に真」を定義することを提案したいとおもいます。それは、「分析的に真」を文や命題の性質としてではなく、問答の関係の性質としてとらえるという定義です。

(これは、命題の意味を問答関係として捉え、そこから知識を問答関係として捉え、さらにその知識の定義から、真理を問答関係として捉える、というアプローチです。)

 まず、次の定義を提案したいと思います(提案の検討は、少しづつ行うことになるとおもいます。)

#「分析的真」と「アプリオリに真」などの定義

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLの疑問表現と論理的概念だけを含み、Qの内容とその意味論的前提から、Lの論理的規則だけをもちいて、pを導出できる>とき、Qとpの問答関係を「分析的に真」という。

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLの疑問表現と論理的概念と経験的概念を含み、Qの内容とその意味論的規則と語用論的前提によって答えが得られる時、その問答を「アプリオリに真」という。つまり、アプリオリに真という性質は、問答関係がもつ性質である。(また、アプリオリに真なる問答関係の答えを「(派生的に)アプリオリに真」と呼ぶことにする。)

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLでの疑問表現と論理的概念と経験的概念を含み、Qの内容の理解とその意味論的規則、語用論的前提、知覚、他の経験的命題によって答えが得られる時、その問答を「アポステリオリに真」と言う。つまり、アポステリオリに真と言うその答えを「綜合的かつアポステリオリに真」であるという。

なお正しい問答関係であって、「分析的に真」でないものを、「綜合的に真」なる問答関係と呼ぶことにする。上記の「アプリオリに真」なる問答関係は、「分析的に真」なるものと「綜合的に真」なるものとに区別される。

繰り返しになりますが、「分析的に真」「アプリオリに真」「アプリオリに真」という性質は、問答関係が持つ性質であり、分や命題の性質ではありません。そのように捉えようとすると、クワインが指摘した困難に陥るからです。

この定義に対して、次の反論があるかもしれません。

反論1:この定義は日本語で書かれている。したがって、この「分析的に真」の定義は、日本語にとっての定義であり、クワインが指摘した問題は生き続けている。

この反論には、次のように答えたい。<この定義は、日本語で書かれているが、他の言語にも翻訳可能である。その限りにおいて、この定義を翻訳可能な言語にとっては、この定義は妥当する。>

反論2:この定義のなかの「論理的規則」「意味論的規則」の定義が言語に依存する(クワインはその点を指摘していた)のだから、この定義はやはり言語相対的である。

この反論には、次のように答えたい。<私たちは、「論理的規則」とは、論理的語彙の導入規則と除去規則であり、「意味論的規則」とはその表現の導入規則と除去規則であると考えることができる。言語表現の「導入期測」と「除去規則」の意味は、もはや言語に依存しないといえるのではないだろうか。>

以上の議論は、「論理的概念」と「経験的概念」の区別を前提しているので、この区別を次に考えたいと思います。

12 人生の意味と人生の目的の区別(2) (20210722)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(前に(03回)に書いたことですが)若い人は、これからの人生を考えて、それを有意義なものにするために、「人生の意味は何か?」と問います。老人は、これまでの人生を考えて、人生の終わりに向けて、「私の人生はどんな意味があるのか?」と問います。人生真っただ中の現役世代は、多くの場合人生の意味を考える余裕がなく、問うことを忘れてしまいます。

 しかし、人生の意味を考えることは、不要不急の事柄でしょうか。それこそが最もエッセンシャルな仕事ではないのでしょうか?なぜなら、人生の意味を理解することは、人生の目的を設定するために必要なことだからです。老人にとっても、人生の意味を理解することは、残りの人生の目的を設定するために、つまりどのように死に向かうかを決めるために重要です。

 ただし(10回に書いたように)、人生の意味と人生の目的は異なります。多くの人は幸福を求めています。つまり幸福を人生の目的としています。では、幸福に生きることに、どのような意味があるのでしょうか。これは(02回で書いたように)、人生を記述する命題の上流推論と下流推論であると言えるでしょう。「<人生を記述する命題を結論とする上流推論とその命題を前提とする下流推論の全体が、その人生の意味である>。簡単に言ってしまえば、<私の人生の意味は、私が誰からどのような影響を受けて行為したのか、私の行為が、誰にどのような影響を与えたのか>ということに尽きる。」(02回)

 その幸福が他人の不幸の上に成り立っているのならば、その幸福に価値はないでしょう。その幸福が今後他人を不幸にするのであれば、その幸福に価値はないでしょう。将来の世代が快適に生活できるのであれば、多少の不便や苦痛は我慢する価値があるのではないでしょうか。

 「人生の意味」を推論主義で理解するのがよいように思うのですが、その場合「人生の価値」については、どう考えたらよいでしょうか。

35 仕切り直し、疑問表現と論理的語彙の保存拡大性、世界の無矛盾性  (20210719)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#仕切り直し

前回、自然の斉一性原理について、問答論的矛盾にもとづく超越論的論証を試みたのですが、いろいろと不十分な点に気づきましたので、議論し直したいのですが、その準備のために、別の方向から考察を始めたいとおもいます。まず「自然の無矛盾性」について考えてみたいと思います。

#疑問表現と論理的語彙の保存拡大性

 私たちが、自然について問い、その答えを得ることで、自然に関する語彙の意味が変わることはありません。疑問表現を使うことによって、その他の言語表現の意味が変わることはない、ということを、「疑問表現の保存拡大性」と呼ぶことにします(より詳しくは『問答の言語哲学』第一章)。これによって、問答による事実の探求が可能になります。もし問答することで、言語表現の意味が変化すれば、事実について知ることはできません。それは、長さが変わる棒で水深を計ろうとするようなものです。

 論理的な語彙もまた、保存拡大性をもちます。これはN. ベルナップが指摘したことです。そして、R. ブランダムは、これを意味論に適用して、「推論的意味論」を提唱しました。彼は、論理的語彙のこの性質ゆえに、推論は言語表現の意味を保存するので、命題の上流推論や下流推論を知ることで、命題の意味が変わることはなく、したがってそれによって命題の意味を明示化出来ると考えました。

 私は、論理的語彙に加えて、疑問表現もまた、意味の保存拡大という性質を持つことを指摘し、上流問答推論関係、下流問答推論関係によって、命題の意味を明示化できると考えました(より詳しくは『問答の言語哲学』第一章)。

#世界の無矛盾性

 もしA┣B(AとBは論理式を表す)という推論が論理的語彙の意味だけから成り立つならば、┣A→Bが成り立ち、A→Bという命題の真理性も論理的語彙の意味だけから成り立ちます。このような命題を「論理的に真なる命題」と呼ぶことができます。矛盾律¬(A∧¬A)もまたこのような論理的に真なる命題です。逆に言えば、矛盾した式が成り立つことは、論理的に不可能です。これが保証されている論理体系は、無矛盾な論理体系だと言えます。

 私たちが、自然についての問答するとき、矛盾した命題を避ける必要があります。さもなければ、矛盾を認めるとそこからどんな命題でも導出可能になってしまうからです。(矛盾を認めてもこのような「爆発」を起こさないような、矛盾許容論理(paraconsistent logic)があるので、これについては別途考えなければなりません。)

 私たちが、世界や自然を記述するとき、その記述の中には矛盾は存在しません(これを「世界の無矛盾性」とか「自然の無矛盾性」と呼ぶことにします)。矛盾が見つかれば、それはどこかに間違いがあるという印であって、その間違いを探してそれを修正するからです。

 世界について矛盾した命題を主張するとすれば、その命題は、論理的語彙の間違った使用に基づいているので無意味であることになるでしょう。

 (戦後、日本で「矛盾論争」がありました。それは世界や社会に矛盾が存在するかどうか、をめぐる論争でした。この論争の背後には、マルクスが生産力と生産関係の「矛盾」から生産関係の変化が生じると主張していたことをどう理解するか、という問題がありました。今帰省中で手元に文献がないので確認できないのですが、矛盾は存在しない、ということに落ち着いたように記憶しています。)

 世界や自然の無矛盾性は、世界そのものや自然そのものの性質ではなくて、それについての私たちの記述が満たすべき性質であるといえるでしょう(例えば、矛盾許容論理を受け入れれば、私たちは、世界についての矛盾した記述を認めることになるかもしれません。)

 以上の議論は、クワインの論文「経験論の二つのドグマ」の主張、分析的真理と綜合的真理を区別できないという主張と矛盾するように見えます。この点を考察しておく必要がありそうです。

34 「自然の斉一性原理」の問答論的矛盾による超越論的証明  (20210715)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「自然現象に規則性はありますか」という問いに、「いいえ、自然現象に規則性はありません」と答えることは矛盾しています。なぜなら、もし自然現象に規則性がないならば、自然現象ついて問うことが無意味になるからです。例えば、「五輪を開催しても、コロナ感染は大丈夫でしょうか」という問いは、「世界には規則性があり、五倫を開催しても、コロナ感染が大丈夫かどうかは、自然現象の規則性によって決まっている」ということを意味論的に前提しています。この問いが真なる答えを持つためには、このことを前提しなければならないし、もしこれを前提しなければ問うことは無意味になるでしょう。したがって、自然現象の斉一性は、自然現象について問うための意味論的前提です。問いの意味論的前提は、当然答えの意味論的前提でもあります。

 「自然現象には規則性ありますか?」という問いに「いいえ、自然現象には規則性はありません」と答えることは、自然現象についての問いの意味論的前提に反する問いです。そしてそれに「いいえ」と答えることは、問答論的に矛盾します。したがってこの問いに対しては、「はい、自然現象には規則性があります」と答えることが問答論的超越論的に必然的である。(「問答論的矛盾」による超越論的論証については、『問答の言語哲学』第四章を参照してください。)

 では例えば「サイコロを転がして出る目に規則性はありますか?」という問いの場合はどうでしょうか。ふつうは、これに「サイコロ投げの個々の結果には、規則性はありませんが、統計的には、それぞれの目が出る確率は1/6です」と答えるでしょうが、しかし「いいえ、規則性はありません」と答えたとしても、それは問答論的に矛盾しません。なぜなら、この問いを問うことは、サイコロを転がして出る目に規則性があることを前提していないからです。ただし、この問いは、「サイコロを転がして出る目には、規則性があるか、ないか、のどちらからである」を前提しています。

 私たちは、自然現象の中に規則性を持たない現象を見つけることができるかもしれないし、「どのような自然現象が規則性を持たないのか?」と問い、そのような現象を探そうとすることも可能です。しかし、この問いもまた、規則性を持たない自然現象であることについての、規則を見つけようとしています。つまり、「規則性を持たない自然現象があるかどうか、もしあるとすればそのような自然現象はどのような性質を持つのか」というような問いは、自然の斉一性に関する問いですが、このような問いもまたは、自然の斉一性を前提しています。

 次回は、これをさらに深く問いたいと思います。

33 「自然の斉一性原理」は経験判断ではない  (20210714)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

全称判断「すべてのカラスは黒い」を単称判断である知覚報告「このカラスは黒い」から演繹することはできません。この全称判断はいくつかの知覚報告からの帰納推理によって得られるのでしょうか。しかし、帰納推論の結論は確実なものではなく、蓋然的なものにとどまります。このような全称判断の場合には、反証が可能です。「これは黒くないカラスである」という観察があれば、その対象が反証例になります。つまり、そのいみで、この全称命題が成り立つかどうか、その帰納推論が正しいかどうかは、経験的な問題です。

 では、自然の斉一性原理についてはどうでしょうか。自然の斉一性原理「自然現象には規則性がある」もまた、いくつかの規則性を、帰納推論などによって発見したあとで、それからの帰納推論によって「すべての自然現象には規則性がある」という全称命題を導出したものかもしれません。獲得の方法はいずれにせよ、これを反証するには「この自然現象には規則性がない」という観察があればよいのです。そのような観察は可能でしょうか。

 例えば、次にいつどこで地震が発生するか、私たちにはわかりません。しかし、地震学は、その予測を目指しているのではないでしょうか。予測できるようになる保証はありません、つまり「地震現象には規則性がある」が成り立つかどうかはわかりませんが、地震学は、規則性が成り立つことを期待して、その規則性を求めて研究しています。あるタイプの現象Aが起きると、続いて地震が起こるという規則性が見つかれば、それを予測に使うことができます。その予測が外れれば、反証されたということになります(もちろん予測についてのアドホックな擁護は常に可能です)。ここで反証されたのは「あるタイプの現象Aにつづいて地震が起きる」という規則性です。ここでは「地震現象には規則性がある」という命題は反証されていません。地震に関する個別の規則性については、それをテストすることが可能です。そして、テストによって反証されることがあり得ます。仮にそのような失敗を重ねた結果、帰納によって「地震現象には規則性がない」と判断したとしても、その判断は蓋然的なものにとどまるので、「地震現象には規則性がある」を反証したことにはなりません。

 このように考える時、「地震現象には規則性がある」は反証不可能であることが分かります。それは「すべての病気を直す呪文がある」が反証不可能であるのと同様です。もし「地震現象には規則性がある」が反証不可能であるならば、「すべての自然現象には規則性がある」もまた反証不可能となります。

 他方で、「すべての自然現象には規則性ある」は全称命題であり、検証不可能でもあります。したがって、自然の斉一性原理は、検証も反証も不可能な命題です。

 では、自然の斉一性原理の正当性をどう考えたらよいでしょうか

32 前回への補足と、帰納法と自然の斉一性の関係  (20210713)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#類推と条件反射の異同について(補足)

前回述べたように、類推と条件反射は異なるものです。しかし、これらは無縁ではありません。二つの対象の類似性の認識から、未確認の性質についても類似性を想定することが、条件反射として生じることがあるかもしれません。ただし、それはまだ類推ではありません。これはいわば「見かけ上の類推」です。反射や条件反射が、「見かけ上の探索発見」(これについては、カテゴリー「人はなぜとうのか」の17, 20, 22, 24回発言を見てください)であるとすると、それと同じく、このような条件反射は「見かけ上の類推」だといえるでしょう。

 二つの対象が、或る性質を共有することに気づいたり、想起したりしたときに、ある性質を共有している可能性が高いと考えたならば、それは類推です。これに対して、条件反射の一種である「見かけ上の類推」は、新しい信念の獲得のように見えるのですが、過去の刺激と反応の反復であって、新しい信念の獲得であることを意識していません(この「新しい信念の獲得であることを意識していません」という表現は、曖昧で問題です)。もし、「それは新しい信念ですか」と問われて、「はい、それは新しい信念です」と答えることができるならば、それは類推だと言えるでしょう(ただし、このように問答できることを、類推であるための必要条件とすることは、強すぎるかもしれません)。

次に帰納法の考察をしたいと思います。帰納推理(帰納法)を、事例の認識からそれを一般化した法則を推論することと定義しておきます。帰納法は演繹推論のような厳密な推論ではなく、その結論は確実に真となるというものではありません。そこで「帰納法はどのようにして正当性を持つのか」と問われます。その問いに答えるためにしばしば持ち出されるのが、「自然の斉一性原理」ですので、帰納法と自然の斉一性原理との関係について考察したいと思います。

#帰納法と自然の斉一性

帰納法は、自然の斉一性(自然の一様性)を前提しているように見えます。「自然の斉一性」原理とは、「自然現象には規則性がある」という原理だと言えるでしょう。ヒュームは、斉一性原理は、帰納法によってつくられた原理だと考えたと言われています(後で出典を確認します)。

 ①帰納法は、自然の斉一性原理に基づく。

 ②自然の斉一性原理は帰納法に基づく。

このどちらが正しいのでしょうか。それとも両方とも正しく、この二つは循環しているのでしょうか。①が正しいと考えることは、帰納法を演繹推論に還元しようとすることと親和的です。②は、様々な自然現象に規則性があることを認識することから、「全ての自然現象に規則性がある」(自然の斉一性原理)という一般的な法則を帰納しているという主張です。

ところで、帰納法は、法則を発見する方法であって、法則を正当化する方法ではありません。したがって、②の主張は、自然の斉一性原理の発見を説明しているのであって、自然の斉一性原理を正当化しているのではありません。①は、斉一性原理によって、帰納法を正当化しようとするものですが、斉一性原理そのものは正当化されず前提されています。そこで上の①と②を次のように言い換えることができます。

 ①’帰納法は、自然の斉一性原理によって正当化される。

 ②’自然の斉一性原理は、帰納法によって発見される。

帰納法を正当化しようとすれば、①しかないでしょう。もし自然の斉一性が成立しなければ、帰納法による自然の探究は無意味です。(ただし、自然の斉一性が成立するかしないかが分からないという認識状況で、自然の斉一性が成立することを期待して。自然の探究を行うことは合理的な態度です。多くの人の態度は、これにあたるかもしれません。)ところで、自然の斉一性原理そのものは、経験判断ではありません。では、この原理の正当性についてどう考えたらよいでしょうか。

 次にこれを考えたいと思います。

31 類推と条件反射  (20210710)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(更新が遅れてすみません。帰納法について考えたり調べたりして遅くなりました。が、帰納法については次回に回して、今回は類推について書きます。)

前回、「③知覚報告だけからの推論によって得られない経験判断」の中に次のようなものがあると書きました。

a、知覚報告と③の経験判断からの演繹推論によって得られる経験判断

b、知覚報告と③の経験判断からの帰納推論によって得られる経験判断

c、知覚報告と③の経験判断からのアブダクションによって得られる経験判断

この中に含まれていないのですが、帰納推論に近いものとして、そしておそらく帰納推論よりも原初的なものとして類推があります。私たちは、知覚報告とその他の経験判断から類推によって経験判断を得ることがあります。

帰納推論の結論は、法則となるような命題であるのに対して、類推の結論は、個別的な現象についての命題になると思います。そして、帰納推論は、類推を前提して成立する場合が多いのではないかと思います。

#類推(アナロジー)とは、次のように考えることです。「火星と地球はよく似た惑星である。地球に人がいるように、火星に火星人がいるだろう。」類推とは、一般化すればつぎのような思考法です。

<二つの対象が類似しているとき、未確認の性質についても、その二つの対象が類似しているだろうと推測する>

これを対象ではなく、出来事のタイプ二つに適用すると次のようになります。

<もしタイプAの出来事の後にタイプBの出来事が生じるということが反復すると、タイプAの出来事が生じるのを認識したときに、次にタイプBの出来事が生じるだろうと推測する>

#類推と条件反射の関係

 このような類推は条件反射に似ているようにみえるのですが、類推は、条件反射とは異なるものです。なぜなら、条件反射は反射であって、主体の欲求や意図や推論は、刺激と反応の間に介在していないのに対して、類推には、それらが介在しているからです。

 意図しない連想があるように、意図することなく何かを類推するということがあるかもしれません。この場合も、類推は条件反射ではないでしょう。マドレーヌを食べて、何かを想起するとき、それは条件反射かもしれません。しかし、そのような連想は、類推ではありません。類推が推論だと見なされるのは、それが何らかの新しい信念を獲得することだからです。そのような新しい信念の獲得は、条件反射ではありません。条件反射は過去の経験の反復だからです。

 では、類推はオペラント反応でしょうか。オペラント反応によって獲得するのは、反復的な行動様式であると思います。しかし、類推は反復的行動様式ではありません。

#類推と帰納と問答の関係

類推と帰納は、<類推の結論は個別の事象についての判断であるのに対して、帰納推論の結論は一般的な法則である>という関係にあるのではないでしょうか。

類推は、「個別の対象がどのような性質を持つか」という問いに対して、類似した他の対象がある性質pを持つことをもとにして、「その対象は性質pをもつ」と答えることです。

これに対して、帰納は、「もし対象が性質pを持つならば、その対象は性質rをもつのか?」という問いに対して、いくつかの対象が性質pと性質rを持つことをもとにして、「もし対象が性質pを持つならば、その対象が性質rをもつだろう」言い換えると、「ある性質pを共有する対象が、別のある性質rを共有する」と答えることです。

次回は、この帰納推論について、また「自然の斉一性」について考察したいと思います。

30 経験判断と推論と二重問答関係  (20210707)

【カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告に還元不可能な経験判断がどのようにして生じるのかを考えてみたい、と予告しましたが、その場合を含めて、すべての経験判断が問いや推論との関係でどのようにして生じるのかを考察したいと思います。

#経験判断と推論

知覚は探索の結果として生じ、<知覚報告>は問いへの答えとして生じる、と説明してきました。次に<知覚報告だけから推論によって得られる経験判断>もまた、その推論が一般的に問いの答えを求める過程として成立するのだとすれば、問いに対する答えとして成立と考えられます。最後に<知覚報告に還元できない経験判断、つまり知覚報告だけからの推論では得られない経験判断>についても、それは問いに対する答えとして生じるのだと考えられます。つまり(知覚報告を含めて)全ての経験判断は、基本的には、問いに対する答えとして生じるのだと思います。

①推論によらない直接的経験判断(知覚報告)

②知覚報告だけから推論によって得られる経験判断

③知覚報告だけからの推論によって得られない経験判断

この分類における「推論」とは演繹推論です。ただし③の経験判断の中には、次のようなものがあります。

a、知覚報告と③の経験判断からの演繹推論によって得られる経験判断

b、知覚報告と③の経験判断からの帰納推論によって得られる経験判断

c、知覚報告と③の経験判断からのアブダクションによって得られる経験判断

(このa,b,c以外にも経験判断を得る方法があるかもしれません。帰納やアブダクションについての考察は、後で行うことにします。)

これら①②③の全てが、問いに対する答えとして発生すると思われます。以下では、経験判断における問答と推論の関係を考察します。

#問答と推論の関係:二重問答関係、直列問答関係、並列問答関係

 ①の知覚報告の場合には、例えば「それは青いですか?」という問いに対して推論に寄ることなく知覚に依拠して、知覚報告「それは青いです」で直接に(つまり推論によらずに)答えていると言えるでしょう(知覚そのものが推論過程であるという主張については、知覚と知覚報告の区別を踏まえた上で、別途考察したいとおもいます)。

 ②と③の経験判断の場合には、推論が働いています。このとき、つぎのような二重問答関係が成立します。

  Q2→Q1→A1→A2

(これで、Q2に答えるためにQ1を問い、その答えA1を前提にして、Q2の答えA2を推論する、という関係を表示することにします。)

 例えば、Q2「それは桜ですか、梅ですか?」という問いに対して、Q1「その花は直接に枝についているのだろうか、それとも茎によって枝と繋がっているのだろうか?」という問いを立て、知覚に問い合わせて、A1「花は茎によって枝と繋がっている」と知覚報告し、それを前提に推論して、A2「その花は桜です」と答える場合です。この経験判断A2は、知覚報告A1からの推論によって得られる経験判断です。

上記の②や③では、最終の経験判断を得るために、知覚報告や他の経験判断を前提にして推論します。そしてこれら自身もまた別の問いに対する答えとして得られるのだとすると、最終的な問答Q2→A2の間にQ1→A1という問答が入れ子型に挿入されることになります。

ここでA2を導出するための推論の前提が、複数ある場合には、挿入される問答も複数になります。その場合を以下で考察します。

 ちなみに、二つの問答を結合する仕方には三種類(二重問答関係、直列問答関係、並列問答関係)あることについては、『問答の言語哲学』(pp.147-149)で指摘しました。以下はそれを展開したものになります。

・二重問答関係:<Q2→Q1→A1→A2>

 Q1→A1がそれ自体次のような二重問答関係Q1→Qi→Ai→A1になっていることが可能であり、さらにQi→Aiが二重問答関係になっていることも可能であり、これは必要に応じて反復可能です。これを「多重入れ子型問答関係」と呼びたいと思います。

・直列問答関係:二つの問答が直列すると<Q1→A1→Q2→A2>となるが、このQ1とQ2を問うのが、Q3の答えA3を得るためであるとすると、つぎのように表記できます。

  <Q3→Q1→A1→Q2→A2→A3>

この場合、Q3とA3の間に直列で挿入される問答は、必要に応じて2つ以上になることが可能です。上記の二重問答関係は、直列問答関係において直列で挿入される問答が一つの場合と見ることができます。

・並列問答関係:Q1→A1とQ2→A2を並行して行う場合、このQ1とQ2を問うのが、Q3の答えA3を得るためであるとすると、つぎのように表記できます。     

      ↗  Q1→A1  ↘

  Q3                 A3

      ↘  Q2→A2  ↗

この場合、Q3とA3の間に並列で挿入される問答は、必要に応じて2つ以上になることが可能です。上記の二重問答関係は、並列問答関係において並列で挿入される問答が一つの場合と見ることができます。

このように考える時、多重入れ子型問答関係、直列問答関係と並列問答関係は、すべて二重問答関係から発展したものだと言えます。

#多重入れ子型問答関係

例えば

  Q7「これは長期間、青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q6「これは10年後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q5「これは一年後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q4「これは一か月後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q3「これは一週間後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q2「これは明日も青いのか」

これに答えるために次のように問います。

  Q1「これは今青いのか」

これに次のように答えます。

  A1「これは今青い」

これをもとに、Q2に次のように答えます。

  A2「これは明日も青い」

これをもとにQ3に次のように答えます。

  A3「これは一週間後も青い」

これをもとにQ4に次のように答えます。

  A4「これは一か月後も青い」

これをもとにQ5に次のように答えます。

  A5「これは一年後も青い」

これをもとにQ6に次のように答えます。

  A6「これは10年後も青い」

これをもとにQ7に次のように答えます。

  A7「これは長期間青い」

ここには、次のような「多重入れ子型問答関係」が成立しています。

  Q7→Q6→Q5→Q4→Q3→Q2→Q1→A1→A2→A3→A4→A5→A6→A7

#直列問答関係:<Q3→Q1→A1→Q2→A2→A3

例えばクイズ「二十の扉」で、Q1「それは動物ですか?」と問い「はい」の答えをもとに、「それは空を飛びますか?」と問い「いいえ」の答えをもとに「それは海にいますか」と問う場合が、典型的な直列問答関係の例です。この場合、「それは動物である」「それは空を飛ばない」「それは海にいない」などによって次第に対象の可能性を限定していきます。

<Q3に答える時に、A1を直接的に用いておらず、A2のみを用いている>ということにはなりません。Q3に答えるとき、A1の答えは前提として最後の答えA3に至るまで妥当し続けています。

これは、答えにたどり着くために、<答えの可能な外延を問答によって次第に限定してゆく>というアプローチです。ただし、このプロセスを続けても、確実な答えにたどり着くとは限ません。

#並列問答関係

      ↗  Q1→A1  

  Q3                    A3

      ↘  Q2→A2 

これは、Q3の答えに至るために、<答えが満たすべき内包(あるいは、満たすべき条件)を様々な問いによって追加していく>というアプローチです。

例えば、Q6「これはリンゴです」という問いに答えるために、次のような問答を行います。

  Q1「これはどんな色か」→A1「これは赤い」

  Q2「これはどんな形か」→A2「これは丸い」

  Q3「これはどんな大きさか」→A3「これはテニスボールくらいの大きさです」

  Q4「これはどんな味か」→A4「これは甘酸っぱい味です」

  Q5「これはどんな香りか」→A5「これは甘酸っぱい香りです」

以上の問答を踏まえて、A6「はい、これはリンゴです」に到達します。

ただし、この場合には、Q1からQ5の答えを集めても、そこからQ6の答え「はいこれはリンゴです」を証明することはできません。そこには常に「これはリンゴではない」という可能性が残り続けるからです。

このように知覚報告から推論によって経験判断が成立する仕方には、種々のパターンがあります。しかし、その推論の中には、演繹推論ではないものもあります。そのような場合に、経験判断はどのようにして生じるのでしょうか。

 次にそれを考えたいと思います。

29 多くの経験判断は知覚判断に還元されない(3) (20210704)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告を論理結合子で結合して複合命題を作ることができますが、これらの複合命題は、元の知覚報告に還元できるのでしょうか。

 ところで、前々回に「還元」について次のように定義しました。「経験判断を知覚報告と推論だけから構成することを、経験判断を知覚報告に還元することと言う」ここでは、この定義に従って考察することにします。

#連言判断は、知覚報告に還元できる。

s(「Xさんの車は青色である」)とt(「Xさんの車は赤色である」)という二つの知覚報告から、連言判断s∧t(「Xさんの車は青色である、かつ、Xさんの車は赤色である」)を推論できます。したがって、連言命題も、上記の定義に従って、知覚命題に還元できます。また連言判断の場合には、知覚報告から連言判断を導出できるだけでなく、連言判断から知覚報告を導出することもできます。例えば、s∧r┣sや、s∧r┣rの導出が可能です。

#選言判断は、知覚報告に還元できる。

p(「Xさんの車は青色である」)という知覚判断、あるいはr(「Xさんの車は赤色である」)という知覚判断から、p∨r(「Xさんの車は青色である、あるいは、Xさんの車は赤色である」)を推論できる。「還元」の定義によるならば、選言判断は、知覚報告に還元できます。しかし、この場合、p∨rから、pを推論したり、rを推論したりすることはできません。つまり、知覚判断から選言判断を導出することはできますが、選言判断から知覚判断を導出することはできません。

#含意判断は、知覚報告に還元できる。

r(「塩が水に溶ける」)が知覚報告であるならば、そこからp→r(「塩を水に入れるならば、塩が水に溶ける」)を導出できます。つまり、上記の定義に基づくならば、含意判断は、知覚報告に還元できます。ただし、選言判断の場合と同様に、含意判断から知覚報告を導出することはできません。

次に、知覚報告に還元不可能な経験判断がどのようにして生じるのかを考えてみたいと思います。