18 推論は問いを必要とする (20210814)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#推論は問いを必要とする。

『問答の言語哲学』第一章の主張は、推論的意味論を問答推論的意味論へ展開することです。その根拠となるのは、「推論は問いを必要とする」という主張です。本書では、これを理論的推論と実践的推論の事例をあげて説明しました。しかし、一般的な論理的な証明は行いませんでした。その理由は、事例からその主張の正しさは明白になると考えたからです。しかし、やはり論理的な一般駅な証明が必要だと考えます。

 「推論は問いを必要とする」の証明は、次のような推論になるでしょう。

①ある所与の諸命題を前提とするとき、それらから論理的に必然的に帰結する命題、言い換えるとそれらの前提がすべて真であるときに必然的に真となる命題は、常に複数ある。

②複数の命題の中から一つを結論として選択することで推論が成立する。

③推論における結論の選択は、問いに答えることである。

ゆえに、

④推論は問いを必要とする。

この①②③を証明すれば、④の証明ができます。

#①の証明

①を証明するには、基本的な推論規則のそれぞれについて①が成り立つことを証明するしかないでしょう。例えば、→の消去規則は次の推論です。

   p,p→r┣r

この推論と同じ前提から、つぎのような結論を導出することが可能です。

   p,p→r┣rⅤs

   p,p→r┣p

   p,p→r┣p∧r  

   p,p→r┣pⅤr

   p,p→r┣pⅤs

他の導入規則や除去規則についても同様にして、多様な結論が導出可能です。

なお、論理結合子の導入規則と除去規則は、ゲンツェンが挙げているもの以外にも可能であるかもしれません。例えば、

   p,p→r┣p∧r

これを→除去の論理規則とし、これにp∧r┣rという∧除去の規則を適用して。

   p,p→r┣r

を導出された規則とみなすことも可能です。つまり、次の二つの推論のいずれを→の除去規則とすることも可能です。

   p,p→r┣p∧r

   p,p→r┣r

どのような基本導出規則の集合を設定するかは、論理的にはおそらく任意でしょう。

#②は自明であり、証明の必要はないでしょう。

#③の証明

証明1:本書での証明

「問いの答えを見つけるプロセスには、次の二通りがある。一つは、これまで念頭に説明してきたものであり、<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>である。もう一つは、これまで言及してこなかったものだが、<問いに対するある暫定的な答えないし答えの予想をえて、それを証明するために、それを結論とする推論を考える場合>である。この後者の場合には、推論の前提に先立って、まず結論が不確実なものとして与えられ、それを確実なものとして証明するために推論を構成しようとして利用できる前提を探すことになる。この場合にも、当初の不確実な命題は問いの答えとして想定されるのであって、<推論は問いの(確実な)答えを求めるプロセスである>といえるだろう。私たちが推論する場合としては、この二通りしかないだろう。」(『問答の言語哲学』p. 9)

上記をまとめると、私たちが推論するのは次の二つの場合です。

場合1:<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>

場合2:<問いに対するある暫定的な答えないし答えの予想をえて、それを証明するために、それを結論とする推論を考える場合>

もし私たちが、推論するのは、本当にこの二通りしかないのだとすると、どちらの場合にも、<推論は問いの(確実な)答えを求めるプロセスである>と言えるので、③が成り立つでしょう。ちなみに、場合1では、相関質問は補足疑問になり、場合2では、相関質問は決定疑問になります。

証明2:

「全ての選択は、問いに答えることである」が証明できれば、それにもとづいて③「推論における結論の選択は、問いに答えることである」を導出できます。「全ての選択は、問いに答えることである」は、次のように証明できます。

 「Aをするかしないか」というもっとも単純な選択の場合、例えば朝目覚めた時、「起きるか起きないか」の選択をします。迷い続けるとすれば、起きないことを選択していることになります。その意味で、朝目覚めた時、起きるか起きないかの選択は不可避です。この選択は「起きようか、もうすこし寝ようか?」という問いに答えることとして行われます。

 選択肢がより多い場合も同様です。たとえば<Aを選択するか、Bを選択するか、Cを選択するか>という選択肢からの選択の場合、この選択は、「Aを選択するか、Bを選択するか、Cを選択するか、何も選択しないか?」という問いに答えることになるでしょう。

補足:選択が可能になる条件は、次のようなことです。

  <ある事柄を選択することが可能であると信じること>

これは、次と同じです。

  <ある選択肢を理解していること>

ここで次の二つの関係を考えてみましょう。

①選択が可能であること

②選択が可能であると信じていること

②が成立しなければ、選択は不可能です。ゆえに②は①にかならず伴っています。しかし、逆に②が成立していても、①が成立しているとは限りません。例えば、私は、ケーキを一個買うことも二個買うこともできると信じているのだが、財布の中には一個かうお金しかない場合には、一個買うか二個買うかの選択はできません。

そして、重要なことは、<選択が可能であると理解するとき、選択は不可避になる>ということです。なぜなら、それらのどれも選択しないことも一つの選択になるからです。

42 これまでの話のまとめと今後の予定 (20210811)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまでの話は、次の4つのパートに分けられます。

第1パート:01回から03回は、認識についての問答の区別を論じています。

第2パート:04回から16回は、錯覚論証の検討と批判を行い、脳科学と素朴実在論の結合を提案しました。

第3パート:17回から29回は、知覚と知覚報告と問いの関係を考察し、<Q1→探索→発見(知覚)→A1(知覚報告)>という入れ子型の関係になっていることを説明しました。

21~26回に、知覚判断の特徴(単称判断、肯定判断、現在形)、27~29回に、多くの経験判断は知覚報告に還元されないことを考察しました。

第4パート:30回からは、知覚報告に還元不可能な経験判断についての考察を始めました。

30回、経験判断を答えとする問答が、二重問答関係、直列問答関係、並列問答関係によって生じることを説明。

31回では、類推が条件反射とは異なることを確認し、32回から帰納法の前提となる「自然の斉一性原理」の考察をはじめました。33回に、それが検証も反証も可能ではないこと、経験判断ではないことを確認し、34回に、自然の斉一性原理の問答論的超越論的証明を試みました。

35~41回では、「世界の無矛盾性」「世界の斉一性」についての考察を始めました。

36回で「分析的に真」と「アプリオリに真」の新しい定義の提案し、37回に論理的概念と経験概念を、保存拡大性を持つか否かで区別することを提案し、38回からはカルナップの「擬似対象文」の概念を参考にして、検討を行いました。41回でたどり着いた結論は、「世界の矛盾性」は論理法則であり、世界の実質とは無関係なテーゼであること、「自然の斉一性原理」は、擬似対象文ではなく、世界の実質と関わる主張であるが、それは検証も反証もできないこと、(帰納推論に限らず)自然についての探究一般が「自然の斉一性」を前提していること、でした。

この第4パートは、全体の見通しなしに検討を重ねって言ったために、多くの論点が錯綜して、わかりにくいものになってしまいました。第4パートの結論としては、知覚報告をふくめて経験判断は、「自然の斉一性原理」を想定しているということです。その証明としては、34回でのべた「自然の斉一性原理」の問答論的超越論的証明が正しかったように思うのですが、そこでは「問いの前提」の理解が曖昧であったので、これを明らかにする必要があります。

#今後の予定

上の課題を念頭に置きつつ、次回からは、第5パートとして「論理学と自然科学の区別」を検討します。その後で、第6パートして「現象の領域」(現象的概念や現象的法則)と「理論の領域」(理論的概念と理論的法則)の区別を検討します(私はクワインの言う「認識論の自然化」に賛成ですが、しかしカルナップが試みていた認識論である「科学の論理学(論理的構文論と意味論)」が全面的に無効になるということもないと思いますので、それをどのように修正する必要があるのかを第6パートで検討したいと思います)。

41 自然の斉一性原理は、「P-妥当的」ではない (20210809)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#自然の斉一性原理は、「P-妥当的」ではない

「P-妥当的」な擬似対象文であるとは、その実質的形式の発話を構文論的文に書き換えたときに、論理法則と意味公準と物理法則から導出できるということです。しかし、自然の斉一性が「すべての自然現象は規則的である」と表現できるのであれば、これは、論理法則や意味公準から導出できないし、また特定の物理法則からは「すべての自然現象」についての斉一性を導出することはできません。したがって、自然の斉一性原理は、「P-妥当的」な擬似対象文ではありません。

#すべての実質様相の文(対象文)は、ある意味では、形式様相の文(構文論的文)に書き換えられるが、しかしすべての実質様相の文が、擬似対象文なのではない。

 すべての文について、それを構成している語の構文論的関係を語ることができます。しかしその構文論的文が、もとの文と等値であるとは限りません。この二つが等置であるとき、つまり、「ある対象文が真であるとは、それの構文論的文が真であるとき、その時に限る」が成り立つとき、つまりある対象文がそれと等値な構文論的文を持つとき、その対象文を擬似対象文と呼ぶことにしたいと思います(カルナップもこう考えると思うのですが、自信がありません)。こう理解するとき、「自然は斉一的である」は擬似対象文ではありません。

ところで、「自然の斉一性」は帰納推論の前提として語られることが多いのですが、帰納によるのであれ、その他の仕方によるのであれ、自然法則を求めるときには、自然現象が規則的であること、つまり法則的であることを想定しています。つまり、およそ自然研究をするときには、私たちはつねに自然の斉一性を想定していると言えると思います。

(次回は、これまでの話を振り返ってまとめておきたいとおもいます。)

40 自然の斉一性 (20210807)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(昨日、スピノザとドイツ哲学についてのZoom研究会があり、発表の準備のために更新がおくれてしまいました。研究会の方が有意義でした。Zoomは、便利ですね。)

 「世界は斉一的である」とは、「世界の現象は規則的である」という意味であり、さらに明確に言えば、「世界の全ての現象は規則的である」と言い換えられるでしょう。これは帰納推論をするときに、前提として想定されていることです。

 この命題は全称命題ですから、単称の観察命題では検証できません。

 ではこの命題は反証可能でしょうか。これは、「すべてのxに関して、xが世界の現象であるならば、xを支配している法則がある」と言い換えられますが、これは、xを支配する法則が、具体的にどのような法則であるかは述べていません。このような命題は反証不可能です。より一般的に言って、「条件Cを満たす対象が存在する」という形式の命題は、具体的にどの対象がその条件Cを満たすかを述べていないので、反証することができないのです。

 「世界は斉一的である」は、「分析的に真」ではないでしょう。なぜなら「斉一性」は論理的概念ではないからです。では、これは「P-妥当的」でしょうか。しかし、これは物理法則からは、導出できません。従って「P-妥当的」でもありません。では、これは擬似対象文ではなくて、対象文なのでしょうか?

39「分析的」と「P-妥当的」 (20210802)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#カルナップによる「分析的」と「P-妥当的」

カルナップは『論理的構文論:哲学する方法』(原著1934)では、真なる文を次の3つに区別していました。

「分析的」(L-妥当的):論理学と数学の規則(L規則)だけが理由で真であるような文。

「P-妥当的」:物理法則(P-規則)とL規則が理由で真であるような文

「事実的」:事実によって真であるような文

前回述べたように、カルナップが「擬似対象文」と呼ぶものには、「分析的」なものと「P-妥当的」なものがあります(後に述べますが、これら以外のものもあります。)

その例は、次のようなものです。

実質様相の発話         形式様相の発話

6 a. The expressions ‘merle’ and ‘blackbird’ have the same meaning (or : mean the same ; or : have the same intensional object). 表現「マール」と「クロウタドリ」は同じ意味を持つ6 b. ‘Merle’ and ‘blackbird ‘are L-synonymous. 「マール」と「クロウタドリ」はL-同義である。 {これは、分析的}
7 a. ‘Evening star’ and’ morning star’ have a different meaning, but they designate the same object. 「宵の明星」と「明けの明星」は異なる意味を持つが同じ対象を表示する。7 b. ‘Evening star’ and ‘morning star’ are not L-synonymous, but P-synonymous. 「宵の明星」と「明けの明星」はL-同義ではないが、P-同義である。 {これはP-妥当的}

(Carnap, Logical Syntax of Language, 1937, Reprinted 2002 by Routledge,290)

6の「マール」と「クロウタドリ」は、どちらも一般名(自然種名)ですが、同じ種を指示する語のようです。従って、これらが同義であることは、語の意味論的規則に基づいて成り立つ分析的な真理となります。これに対して7の「宵の明星」と「明けの明星」は、同一対象を指示する単称確定記述句です。それらの指示対象が同一になることは、世界のあり方に依存する事なので事実的真理なのですが、単に事実的真理というのではなくて、さらにP-妥当的とみなすということは、太陽系における第二惑星(金星)と第三惑星(地球)の天文学的な位置関係から、金星が「宵の明星」や「明けの明星」として見えることが、自然法則によって説明出来るということなのでしょう。

擬似対象文には、このように分析的に真なるものとP-妥当的に真なるもの以外に、単に事実的に真なるものも含まれます。カルナップの挙げている例では、次のようなものがあります。

「昨日の講義はバビロンについてだった」(実質様相の発話:擬似対象文))

「昨日の講義には、語「バビロン」が登場した」(形式様相の発話:構文論的文)

以上をもとに、「世界は無矛盾である」について考察しましょう。

#「世界は無矛盾である」は、擬似対象文である

私たちが世界を記述するときに採用する論理体系が無矛盾であるとすると、「世界の記述は無矛盾である」が成り立つでしょう。ところで、「世界に矛盾は存在しない」は、擬似対象文であり、構文論的文に直したものは「世界の記述は、無矛盾である」とまります。これは論理的に真なる文であり、分析的に真です。しかし、論理的な文は、世界のありようについては、何も語っていません。

ちなみに、カルナップはこの時期には「分析的」に真としていたものを、後には(遅くとも『物理学の哲学的基礎』1966では)、「L-真」(論理的に真)と「分析的に真」(A-真」)に分けます。L-真なものとは、論理的な規則のみによって真であるものであり、分析的に真とは、「独身者は、結婚していない」のように意味論的規則と論理的規則によって真であるものを指します。つまり、分析的に真なるものは、L-真なるものを含むより広い概念です。(この変化は、これはクワインの影響だと思われます。)

 ところで、カルナップは、この意味論的規則を「意味公準」とか「A-公準」とか「分析公準」と呼びます。例えば次のようなものがあります。

  A1「すべての鳥は動物である。」

  A2「すべての赤頭キツツキは鳥である」

A-公準は、擬似対象文であり、分析的に真なるものです。これについて、カルナップは次のように言います。

「A-公準は実際の世界について何かを語っているように思われるかもしれないが、そうではない、ということである。」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩一郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1975、270)

L-真なるものや、A-真なるものは、事実によって真となるのではないので、それは事実について何も語らないのです。(これはすでにウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で述べていたことです。)

では、「世界は斉一的である」はどうなるのでしょうか。

38 擬似対象文  (20210729)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「世界は無矛盾である」や「世界は斉一性をもつ」の真理性について検討するために、「分析的に真」や「アプリオリに真」などの新定義を提案しましたが、それらを適用するまえに、これらの文がカルナップのいう「擬似対象文」であることを確認したいと思います。(ここでの引用とページ数は、カルナップ『論理的構文論:哲学する方法』吉田謙二訳、晃洋書房、のものです。)

カルナップは、文を次の三種類に分けました。

  a現実対象文(real-object sentences)

   b構文論の文(syntactical sentences)

  c擬似対象文(pseudo-object sentences)

「現実対象文」とは、言語外の対象について記述する通常の文です。

「構文論の文」とは、構文論的用語について記述する文です。ある言語の構文論的用語とは、ある言語の「文」を定義し「直接的帰結」を定義するための用語です(カルナップによる「構文論の文」の定義が見つからないので、暫定的な説明です)。例えば、ある文が「妥当」であるとは、「当の文が前提の零集合の帰結であるときである」(44)とか、「反妥当」とは、「ある一定の言語体系の文’A’が、その体系の全ての文それぞれが’A’の帰結であるときである」(44)。例えば、p・¬pからすべての文が帰結するので、これは反妥当であることになります。ある文が「確定的(deteminate)」とは、「その文が妥当か反妥当かのいずれかであるときである」(45)。「確定的な文は、その真理値が当の言語の規則によって決定される文である」(45)。 また文が「不定的(indeterminate)」とは「その文が妥当でもなければ反妥当でもないときである」(45)。

「擬似対象文」とは、aとbの中間のものであり、形式上は現実対象文であるが、内容上は構文論の文であるようなものです。

 それぞれの例は次のようなものとなります。

  a「そのバラは赤い」(現実対象文)

  b「語「バラ」は事物語である」(構文論の文)

  c「そのバラは事物である」(擬似対象文)

このcは、形式上は現実対象文(実質様相の発話)ですが、内容的には構文論の文です。そこで、これをbのような構文論の文(形式様相の発話)に書き換えることができます。(カルナップによれば、哲学の命題は、bかcであり、擬似対象文で表現することから哲学的な問題が擬似問題として生じることが多くあり、それは構文論の文で表現することによって擬似問題は、解消します。自然の斉一性をめぐる問題、帰納法に関する問題もそのような問題なのかどうか、あとで考えたいと思います。)

ところで、カルナップは、このような擬似対象文には、「分析的」なものと「P―妥当的」(73)なものの二種類があると言います。この二つが、私が定義した「分析的に真」と「アプリオリに真」に対応するのかどうか、また「世界の無矛盾性」は「分析的」な擬似対象文で、「世界の斉一性」は「P-妥当的」な擬似対象文である、と言えるのかどうか、次に検討したいと思います。

37「論理的概念」と「経験的概念」の区別:保存拡大性と非保存拡大性の区別(20210726)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 前回の提案は「論理的概念」と「経験的概念」の区別に依拠していましたので、ここでは、この二つを、保存拡大的(conservative extensive)であるか否かで区別できることを示したいと思います。

 前々回述べたように、「論理的概念」と「疑問表現」は、保存拡大性をもつこと、つまりこれらを導入しても、他の語や文の意味を変えないことを指摘しました(詳しくは『問答の言語哲学』の第1章を参照してください)。

 これに対してほとんどの経験的概念は、保存拡大性を持ちません。これによって、論理的概念と経験的概念をおおよそ区別できます。「ほとんど」とか「おおよそ」と曖昧な言い方をするのは、保存拡大性をもつ語が、「疑問表現」と「論理的概念」に限られないこと、非保存拡大性をもつ語もまた「経験的概念」に限られないことによります。

 ここでは、保存拡大性と非保存拡大性の違いを、語の定義のありようから説明したいと思います。以下では、語を、明示的な定義がある場合と、文脈的な定義(暗黙的定義)がある場合と、定義ができない場合に分けて考えてみます。

明示的定義の導入は、保存拡大か?

「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができます。  

   x=B┣x=A (Aの導入規則)

   x=A┣x=B (Aの除去規則)

これを連続適用すると

   x=B┣x=B

という推論が得られます。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立します。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはありません。

*ただし語の明示的定義が複数ある時には、その語の導入は、非保存拡大になります。

例えば、Aの明示的定義として、A=BとA=C(Aは名詞で、BとCは名詞句とする)が成り立つとしましょう。このとき、

   Aの導入規則:B┣A、C┣A

   Aの除去規則:A┣B、A┣C

   (B┣CあるいはC┣Bは、語Aの導入前には成立しないとする。)

が成り立ちます。この時、B┣Aおよび、A┣C、より、B┣Cが成り立ちます。推論B┣Cは、語Aの導入前には不可能であったとすると、語「A」の導入後には可能になります。つまり、語Aは、非保存拡大性をもちます。

#文脈的定義の導入もまた、保存拡大か?

語Aを含むある文pについて、次が成り立つとき、

   p≡r(rは語Aを含まない)

この同値文は、pの文脈的定義です。このとき次が成り立ちます。

   Aの導入期測:r┣p

   Aの除去規則:p┣r

導入規則と除去規則を連続適用すると、r┣rという同語反復になります。したがって、この場合、語Aは、保存拡大性をもちます。

ただし、語「A」の文脈的定義が複数ある時には、この語は非保存性を持ちます。今仮に、語Aを含むある文pについて、次が成り立つとしましょう。

   p≡r(rは語Aを含まない)

   p≡s(sは語Aを含まない)

   (r┣sあるいはs┣rという推論は語Aの導入以前には成り立たないとする。)

このとき、次が成り立ちます。

   Aの導入期測:r┣p、s┣p

   Aの除去規則:p┣r、p┣s

ここで導入規則r┣pと除去規則p┣sを連続適用すると、r┣sと言う推論が得られます。この推論が語Aの導入前には不可能であったとすると、語Aの導入後には可能になります。つまり、語Aは、非保存拡大性をもちます。

#定義できない語の非保存拡大性

語Aの明示的定義も文脈的定義もできない場合で語Aを含むある文をpとするとき、

   r┣p (pの上流推論)

   p┣s (pの下流推論)

このような上流推論と下流推論は可能です。この場合、r┣pおよびp┣sから、r┣sが推論可能です。この推論が語Aの導入以前には不可能であったならば、語Aの導入は非保存拡大性を持ちます。

ここで前回の「分析的真」「アプリオリに真」などの新しい定義の説明を一旦終えて、この定義を「世界は無矛盾である」や「世界は斉一性をもつ」に適用した命題の真理性について考えたいと思います。

36 「分析的に真」と「アプリオリに真」の新定義の提案 (20210724)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、クワインの「分析的に真」への批判を踏まえてうえで、その困難を回避する仕方で、「分析的に真」「アプリオリに真」などの定義を提案したいとおもいます。

#クワインによる「分析的に真」への批判

クワインは論文「経験論の二つのドグマ」で分析的真理の定義の試みが失敗することから、分析的真理と綜合的真理の区別を否定しました(この概略については、私の以下の講義ノートをご覧ください。

https://irieyukio.net/KOUGI/kyotsu/2018SS/2018ss03%E3%80%80%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%A8%E7%B6%9C%E5%90%88%E3%81%AE%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%81%AE%E5%90%A6%E5%AE%9A%20.pdf)

この論文で、クワインは「分析的に真」の「意味論的規則」による定義がつぎのような欠点を持つとして、それを諦めます(他にも論点はあるのですが、私は最も重要なのは、これだと思っています。

「意味論的規則」の概念を用いて定義しようとすれば、「言明Sが言語L0において分析的であるのは、…」という仕方の意味論的規則になるのですが、これを理解するためには、一般的関係名辞「において分析的」を理解していなければなりません(参照、クワイン「経験主義の二つのドグマ」『論理学的観点から』飯田隆訳、岩波書店、1992、50)しかし、「どの言明がL0において分析的であるかをいうことによって説明されるのは「L0において分析的」であって、「分析的」や「において分析的」ではない」(同訳、51)

このようにして、クワインは、「意味論的規則」によって定義しようとするとき、言語に依存しない形で「分析的に真」を定義できないことを指摘しました。

#クワインの批判に応える「分析的に真」の新定義の提案

以上のクワインの議論には、多くの批判がありますが、私はそれらの批判はクワインへの応答としては不十分だと思っています。私は、クワインの議論を批判するのではなく、クワインやその批判者とは、全く違った仕方で「分析的に真」を定義することを提案したいとおもいます。それは、「分析的に真」を文や命題の性質としてではなく、問答の関係の性質としてとらえるという定義です。

(これは、命題の意味を問答関係として捉え、そこから知識を問答関係として捉え、さらにその知識の定義から、真理を問答関係として捉える、というアプローチです。)

 まず、次の定義を提案したいと思います(提案の検討は、少しづつ行うことになるとおもいます。)

#「分析的真」と「アプリオリに真」などの定義

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLの疑問表現と論理的概念だけを含み、Qの内容とその意味論的前提から、Lの論理的規則だけをもちいて、pを導出できる>とき、Qとpの問答関係を「分析的に真」という。

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLの疑問表現と論理的概念と経験的概念を含み、Qの内容とその意味論的規則と語用論的前提によって答えが得られる時、その問答を「アプリオリに真」という。つまり、アプリオリに真という性質は、問答関係がもつ性質である。(また、アプリオリに真なる問答関係の答えを「(派生的に)アプリオリに真」と呼ぶことにする。)

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLでの疑問表現と論理的概念と経験的概念を含み、Qの内容の理解とその意味論的規則、語用論的前提、知覚、他の経験的命題によって答えが得られる時、その問答を「アポステリオリに真」と言う。つまり、アポステリオリに真と言うその答えを「綜合的かつアポステリオリに真」であるという。

なお正しい問答関係であって、「分析的に真」でないものを、「綜合的に真」なる問答関係と呼ぶことにする。上記の「アプリオリに真」なる問答関係は、「分析的に真」なるものと「綜合的に真」なるものとに区別される。

繰り返しになりますが、「分析的に真」「アプリオリに真」「アプリオリに真」という性質は、問答関係が持つ性質であり、分や命題の性質ではありません。そのように捉えようとすると、クワインが指摘した困難に陥るからです。

この定義に対して、次の反論があるかもしれません。

反論1:この定義は日本語で書かれている。したがって、この「分析的に真」の定義は、日本語にとっての定義であり、クワインが指摘した問題は生き続けている。

この反論には、次のように答えたい。<この定義は、日本語で書かれているが、他の言語にも翻訳可能である。その限りにおいて、この定義を翻訳可能な言語にとっては、この定義は妥当する。>

反論2:この定義のなかの「論理的規則」「意味論的規則」の定義が言語に依存する(クワインはその点を指摘していた)のだから、この定義はやはり言語相対的である。

この反論には、次のように答えたい。<私たちは、「論理的規則」とは、論理的語彙の導入規則と除去規則であり、「意味論的規則」とはその表現の導入規則と除去規則であると考えることができる。言語表現の「導入期測」と「除去規則」の意味は、もはや言語に依存しないといえるのではないだろうか。>

以上の議論は、「論理的概念」と「経験的概念」の区別を前提しているので、この区別を次に考えたいと思います。

12 人生の意味と人生の目的の区別(2) (20210722)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(前に(03回)に書いたことですが)若い人は、これからの人生を考えて、それを有意義なものにするために、「人生の意味は何か?」と問います。老人は、これまでの人生を考えて、人生の終わりに向けて、「私の人生はどんな意味があるのか?」と問います。人生真っただ中の現役世代は、多くの場合人生の意味を考える余裕がなく、問うことを忘れてしまいます。

 しかし、人生の意味を考えることは、不要不急の事柄でしょうか。それこそが最もエッセンシャルな仕事ではないのでしょうか?なぜなら、人生の意味を理解することは、人生の目的を設定するために必要なことだからです。老人にとっても、人生の意味を理解することは、残りの人生の目的を設定するために、つまりどのように死に向かうかを決めるために重要です。

 ただし(10回に書いたように)、人生の意味と人生の目的は異なります。多くの人は幸福を求めています。つまり幸福を人生の目的としています。では、幸福に生きることに、どのような意味があるのでしょうか。これは(02回で書いたように)、人生を記述する命題の上流推論と下流推論であると言えるでしょう。「<人生を記述する命題を結論とする上流推論とその命題を前提とする下流推論の全体が、その人生の意味である>。簡単に言ってしまえば、<私の人生の意味は、私が誰からどのような影響を受けて行為したのか、私の行為が、誰にどのような影響を与えたのか>ということに尽きる。」(02回)

 その幸福が他人の不幸の上に成り立っているのならば、その幸福に価値はないでしょう。その幸福が今後他人を不幸にするのであれば、その幸福に価値はないでしょう。将来の世代が快適に生活できるのであれば、多少の不便や苦痛は我慢する価値があるのではないでしょうか。

 「人生の意味」を推論主義で理解するのがよいように思うのですが、その場合「人生の価値」については、どう考えたらよいでしょうか。

35 仕切り直し、疑問表現と論理的語彙の保存拡大性、世界の無矛盾性  (20210719)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#仕切り直し

前回、自然の斉一性原理について、問答論的矛盾にもとづく超越論的論証を試みたのですが、いろいろと不十分な点に気づきましたので、議論し直したいのですが、その準備のために、別の方向から考察を始めたいとおもいます。まず「自然の無矛盾性」について考えてみたいと思います。

#疑問表現と論理的語彙の保存拡大性

 私たちが、自然について問い、その答えを得ることで、自然に関する語彙の意味が変わることはありません。疑問表現を使うことによって、その他の言語表現の意味が変わることはない、ということを、「疑問表現の保存拡大性」と呼ぶことにします(より詳しくは『問答の言語哲学』第一章)。これによって、問答による事実の探求が可能になります。もし問答することで、言語表現の意味が変化すれば、事実について知ることはできません。それは、長さが変わる棒で水深を計ろうとするようなものです。

 論理的な語彙もまた、保存拡大性をもちます。これはN. ベルナップが指摘したことです。そして、R. ブランダムは、これを意味論に適用して、「推論的意味論」を提唱しました。彼は、論理的語彙のこの性質ゆえに、推論は言語表現の意味を保存するので、命題の上流推論や下流推論を知ることで、命題の意味が変わることはなく、したがってそれによって命題の意味を明示化出来ると考えました。

 私は、論理的語彙に加えて、疑問表現もまた、意味の保存拡大という性質を持つことを指摘し、上流問答推論関係、下流問答推論関係によって、命題の意味を明示化できると考えました(より詳しくは『問答の言語哲学』第一章)。

#世界の無矛盾性

 もしA┣B(AとBは論理式を表す)という推論が論理的語彙の意味だけから成り立つならば、┣A→Bが成り立ち、A→Bという命題の真理性も論理的語彙の意味だけから成り立ちます。このような命題を「論理的に真なる命題」と呼ぶことができます。矛盾律¬(A∧¬A)もまたこのような論理的に真なる命題です。逆に言えば、矛盾した式が成り立つことは、論理的に不可能です。これが保証されている論理体系は、無矛盾な論理体系だと言えます。

 私たちが、自然についての問答するとき、矛盾した命題を避ける必要があります。さもなければ、矛盾を認めるとそこからどんな命題でも導出可能になってしまうからです。(矛盾を認めてもこのような「爆発」を起こさないような、矛盾許容論理(paraconsistent logic)があるので、これについては別途考えなければなりません。)

 私たちが、世界や自然を記述するとき、その記述の中には矛盾は存在しません(これを「世界の無矛盾性」とか「自然の無矛盾性」と呼ぶことにします)。矛盾が見つかれば、それはどこかに間違いがあるという印であって、その間違いを探してそれを修正するからです。

 世界について矛盾した命題を主張するとすれば、その命題は、論理的語彙の間違った使用に基づいているので無意味であることになるでしょう。

 (戦後、日本で「矛盾論争」がありました。それは世界や社会に矛盾が存在するかどうか、をめぐる論争でした。この論争の背後には、マルクスが生産力と生産関係の「矛盾」から生産関係の変化が生じると主張していたことをどう理解するか、という問題がありました。今帰省中で手元に文献がないので確認できないのですが、矛盾は存在しない、ということに落ち着いたように記憶しています。)

 世界や自然の無矛盾性は、世界そのものや自然そのものの性質ではなくて、それについての私たちの記述が満たすべき性質であるといえるでしょう(例えば、矛盾許容論理を受け入れれば、私たちは、世界についての矛盾した記述を認めることになるかもしれません。)

 以上の議論は、クワインの論文「経験論の二つのドグマ」の主張、分析的真理と綜合的真理を区別できないという主張と矛盾するように見えます。この点を考察しておく必要がありそうです。