16 言語の起源と問答 2 (20210407)

【カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

人間の言語活動にあって、動物の言語にないものは何かと問われれば、語による指示、伝達意図、問答関係、などを挙げることができるでしょう。チンパンジーに指示ができないことについては、次を参照してください(http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/nikkei/42-2016-03-06.html )『関連性理論』のスペルベル&ウィルソンならば、動物は伝達意図を持たないと言いそうです。

#では、この伝達の意図の認識は、どのように生じるでしょうか。言葉を話すということは、何かを伝達しようとすることです。それゆえに、単なる発声ではなく、言葉を話しているとわかれば、それが伝達意図をもつと想定できます。

 ただしこれは、すでに言語が成立している社会でのことです。いまだ言語が一般的でない社会では、相手の伝達意図の認識は、どのように生じるのでしょうか。こちらからの問いかけに対して、相手の発声があるとき、相手の発声は何らかの伝達意図をもっているのかもしれないと推測できます。(ここで、相手の発声の伝達意図を推測できる者は、すでに伝達意図についての概念を持っていなければなりません。)

#伝達意図の条件

普通は、他者が自分を喜ばせようと意図していることを知って、人は嬉しくなるでしょう。しかし、その他者がストーカーであれば、彼・彼女が自分を喜ばせようと意図していることを知っても、その人は嬉しくなりません。<Aを実現しようという意図を知らせることによって、Aが実現する>ということが成り立つための条件は何でしょうか。

 AがBを喜ばせようと意図1するとしましょう。このAの意図1を知って、Bが喜ぶのは、どのような場合でしょうか。BがAをストーカーだと思っている時には、BはAの意図1を知っても不快に感じるでしょう。AがBを喜ばせようと意図するとき、AはBを喜ばせることができると信じています。しかしBは、「AはBを喜ばせることができる」とは思っていません。ここでは、意図の前提を共有していないので、Aの意図を伝達しても、「喜ばせよう」というAの意図は実現しないのです。

 威嚇についても同様です。多くの場合、AがBを威嚇しようとする意図を伝達するだけで、Bは怖れを感じて、威嚇しようとするAの意図は実現します。しかし、この場合にも、そうなるためには、Aの意図の前提「AはBを威嚇できる」をBもまた共有している必要があります。それを共有していなければ、BはAの意図を知っても、怖れを感じないでしょう。

 意図の伝達が意図の実現になるためには、意図の前提を共有していなければなりません。<意図の前提の共有>は、意図の伝達が意図の実現になるための、必要条件です。(では、十分条件はなにでしょうか。)

 スペルベルとウィルソンは、相手を喜ばせようとする意図は、その意図が伝わるだけで相手を喜ばせることになり、相手を脅迫しようとする意図は、それが伝わるだけで相手を脅迫することになる、と語った後で、次のように続けます。「このような可能性が例外的にではなく、常に利用される類の意図がある。すなわち、情報を伝えようとする意図は一般的にそれを認識可能にすることで達成されるのである」 (スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二他訳、研究社出版、25)

 ここでは、情報意図は、つねにそれを伝達することで実現する、と言われています。情報意図が、伝達されることで実現することは、次のように説明出来ます。

①話し手Sが、聞き手Hにpを信じさせようと意図1(情報意図)して、pと話すとしよう。

②Sが、意図1をHが認知することを意図2している(意図2は、意図1を伝達しようと意図している伝達意図である)

③Sは、Hが意図1の認知にもとづいて、pを信じることを、意図3する。

情報意図が伝達されることで実現するのは、この③による、と考えられています。しかし、③の意図が実現するには、聞き手が、話し手の知的な能力と誠実性を信頼していることが必要です。<知的な能力と誠実性への信頼>は、集団生活の中で育まれるものでしょう。<知的な能力と誠実性への信頼>のない集団では、言語は発生しないでしょう。そしてそのようなヒトの集団は人類の進化のプロセスにおいて淘汰されるでしょう。<知的な能力と誠実性への信頼>は、グライスの「協調の原理」、デイヴィドソンの「寛容の原理」に似たものです。

 ところで、問答関係の不可避性は、「協調の原理」や「寛容の原理」よりも、より基礎的なものであると考えます(『問答の言語哲学』「3.3.4問答の不可避性」を参照)。問答関係の不可避性と伝達意図の関係を次に考えたいとおもいます。

15 言語の起源と問答 (20210406)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(前回までは、『問答の言語哲学』の内容紹介をしてきました。ご批判、ご質問をぜひお願いします。ブログのコメント欄に書きにくければ、(philosophy(アット)irieyukio.net へ)メイルを送ってください。

今回からは、ご意見への回答、この本で書き残したこと、あるいは出版後に言語に関して考えたことを少しずつ書いていきます。)

チョムスキーは人間の言語に共通の普遍文法を想定し、それに対応する生得的な言語能力の存在を想定していましたが、人間とは異なるコミュケーション方法をとる知性システムがあるかもしれません。その知性システムは、人間の言語能力とは異なるメカニズムを持つかもしれません。しかし、その場合でも、おそらく言語は他者とのコミュニケーションに基づいているでしょうから、人間とは異なるコミュニケーションシステムであっても、関連性理論が指摘した「情報意図」と「伝達意図」の区別があるだろうと推測します。(この二つの意図については、『問答の言語哲学』第2章で論じました。)鳥のさえずりや狼の遠吠えには、ひょっとすると情報意図はあるかもしれませんが、伝達意図はないと思われます。人間の言語ないしそれに似た言語システムが成立するためには、伝達意図の成立が不可欠です。

二日前に別のカテゴリーで、思弁的な予測として次のように言いました。

<言語の始まりは、問いと答えの成立になると思います。言語は、他者に伝えようと意図することに始まります。その意図が明示的になるのは、問いに対して答える時です。相手が何かを求めて発声し、それに応えて発声するとき、その発声は、相手の求めに対する応答であると同時に、応答であることを相手に伝えようと意図するものになります。>

ここでの伝達意図の発生についての予測を、もう少し詳しく説明したいとおもいます。

相手が何かを求めて発声していると思うとき、相手の発声についてのその理解が正しくなかったとしても、私はそれにどう対応すべきかを考えて応答する必要があります。相手が何かを求めて発声しているのかもしれないと疑うだけでも、私にはどう対応すべきかを考える必要が生じます。そして、相手に対する応答は、何らか内容を相手に伝えようとしているのだと思わる可能性をもちます。つまり、伝達意図を持ってしまうのです。つまり、伝達意図は、相手の問いかけに答えようとすることにおいて成立するのです。もし、言語が伝達意図の成立によって成立するならば、言語は相手が何かを問いかけているかもしれない思ったときに、それへの応答において成立するのです。

・相手が何かを伝えようとしていると考える時、それが仮に間違っていたとしても、相手の伝達意図を想定して、それに答えることが必要になります。なぜなら、相手の伝達意図を理解して、それを無視したと理解される可能性があるからです。伝達へのコミットメントが不可避に生じるのです。

・問答において、互いの伝達意図は明示化されています。なぜなら、問いに答える時には、答える者に答える意図があるならば、答える者には、伝達意図があるからであり、また問う者が、相手に答えを求める意図があるならば、問う者には、伝達意図があるからです。

41 志向性にアプローチする方法について  (20210404)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

今回は、志向性に限らず、意識や表象について考察するときの、一般的なアプローチ方法について考えてみたいと思います。

以下は、意識と言語の発生に関する私のまったく思弁的な予想です。

<意識は、おそらく探索とそれに対する発見によって始まると思います。動物の起源とも始まる、見かけ上の探索と発見のプロセスではなく、意図的な探索とそれに対する発見が、おそらく意識の成立になるのです。これは非言語的な探索と発見において成り立つことです。

これに対して言語の始まりは、問いと答えの成立になると思います。言語は、他者に伝えようと意図することに始まります。その意図が明示的になるのは、問いに対して答える時です。相手が何かを求めて発声し、それに応えて発声するとき、その発声は、相手の求めに対する応答であると同時に、応答であることを相手に伝えようと意図するものになります。>

この予想をなんとか証明したいと思いますが、前途は多難です。意識や言語の起源についての研究で有用なのは、(言語学と言語哲学における)言語の意味論と語用論の研究、(生物学と心理学と社会学における)行動や行為の研究、脳神経科学における神経ネットワークの研究であります。

この場合、内省による意識研究は有効ではないと思われます。何故なら、考察が曖昧で混乱したものになってしまうからです。しかし、言語の起源の研究はともかく、意識や表象の起源の研究をするときに内省による研究を除外するというのは、変に思われるかもしれません。なぜなら、意識や表象の起源を研究するということは、意識や表象の存在を認めているからであり、意識や表象が存在することは、内省によってのみ確実に知ることができるように思われるからです。

 しかし、意識や表象を持つことを、内省によって知るとしても、それについての語れることが必要です。デイヴィドソンは、自分の心の内容についての一人称の知識が、自分だけが、また自分の内省だけでそれにアクセスできる特別な知識だとは考えません。彼は知識を次の3つに分けます。

  ①自分の心の内容に関する知識

  ②世界内の対象についての知識

  ③他人の心の内容に関する知識

そして、これらは、どれも他の二つの知識に依存していることを指摘します。

③は、他人の行動を知ることによって得られるので、②を前提する。また③は自分の心と行動の関係からの類推によって知ることができるという面を持つので、①も前提します。

②の真理性は、その真理性についての他者とのコミュニケーションによって、知られるので、①と③を前提します。

①もまた、②と③を前提します。

「われわれ自身の心の命題的内容についての知識は、他の形態の知識がなければ不可能である。なぜなら、コミュニケーションなしには命題的内容は存在しないからである。またわれわれは、自分が何を考えているかを知っているのでなければ、他人に思考を帰属させることができない。なぜなら、他人に思考を帰属させることは、他人の言語的その他の行動を、われわれ自身の命題ないし有意味な文と、対応づけることに他ならないからである。こうして、自分自身の心に関する知識と他人の心に関する知識は相互依存的である。」(デイヴィドソン「三種類の知識」、デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、329)

①②③について、このうちの一つを獲得するためには、他の二種類の知からその内容を確定する必要がある。それを「三角測量」(同訳、328)と名付けた。

デイヴィドソンのこの三角測量の議論は、私には十分に説得力があるように思われます。これを受け入れるならば、意識や表象の存在を認めるとしても、意識や表象が存在することは、内省によるだけで確実に知りうることではないことになります。

自分の心についての知るには、他者とのコミュニケーションが必要ですが、しかし、自分と他者が、意識や表象について、内省し、その内省の内容についてコミュニケーションするだけでは不十分です。①が成立するには、③だけでなく、②も必要です。つまり言語行為や身体行為や社会的行為や神経ネットワークついての知識が必要だということです。

さて、以上を踏まえて、志向性について考えようとするとどうなるでしょうか。

40 問いと想像 (20210403)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは「適合の方向」を持ちます。問うことが、他者に問うことであれば(つまり、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うことであれば)、命令や依頼と同様に、問うことは、相手に答えてもらうことを求めています。命令や依頼が、世界を心に適合させるという「適合の方向」をもつように、問うことは、相手に答えることを依頼するという意味で、世界(問いの相手の行動)を心(問いの内容)に適合させるという「適合の方向」をもちます。問うことが、独りで自問する事であっても、問いは、答えることを求めているのであり、世界(自分の行為)を心(自分の意図)に適合させるという「適合の方向」をもちます。

ところで、質問発話は、答えの発話がどのような発語内行為となるべきかを決定しています。

 つまり、問答関係はつぎのようになるのです。

   ?P → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

となるのではなく、次のようになるのです。

   ?┣p → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

(これについては『問答の言語哲学』第三章で説明しました。これが、「問いは答えの半製品である」の一つの意味です。)

これと同じで、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うこともまた、返答の発語内行為に伴う志向性(信じる、想起する、意図する、願望する、など)をすでに決定していると思われます。

例えば、「昨日の夜は何を食べましたか?」と問うことは、答えが記憶(想起)となることをすでに決定しています。(もちろん、相手に記憶能力が欠如しており、日記を見て答える必要があることを知っていて問う場合には、事情は異なります。)

さて、このような<問うこと>は<想像>とどう関係するでしょうか。<想像>を答えとするような問いはあるでしょうか。問いに答ええることは、何かコミットすることであり、コミットメントはつねに何らかの適合の方向を持つと言えそうです。そうすると、適合の方向を持たない<想像>は問いの答えにはなりえないことになります。

ところで、何が「想像」と呼べるかはあいまいだと言わざるをえません。

例えば、次の例は、想像なのか、そうでないのか、曖昧です。「サイコロの目が1になっているき、サイコロの下の面の数字はなにでしょうか?」という問いに答える時、両面を合わせて7になるはずなので、1の反対側は6である、と推論して、「6です」と答えるとき、これはおそらく想像ではないでしょう。サイコロが汚れているのを見て、「そこの6の面も汚れているだろう」と考えることもまた、推論しているのであって想像ではないでしょう。この二つの場合には、答えはどちらも「適合の方向」をもちます。

 次のものは、「想像」だと呼べると思われますが、「適合の方向」を持つものです。夜寒いとき、「明日の朝は霜がおりているだろう」と思い、霜に覆われた田んぼを想像するとき、その視覚的な想像は、「適合の方向」を持つでしょう。宝くじが当たって喜ぶことを想像するとき、それもまた「適合の方向」を持つでしょう。試験に受かることを想像するとき、大きな地震が来ることを想像すること、これらもまた「適合の方向」を持つでしょう。これらの適合の方向を持つ想像は、「明日の朝は霜が降りているだろうか?」という問いや、「宝くじにあたるだろうか?」という問いに対する可能な答えとして想像されていると言えるかもしれません。

では、適合の方向をもたない<想像>とはどのようなものでしょうか。サールは、<想像>をつぎのように説明しています。

「雨が降っているという想像は、雨が降っているという信念や、雨が降っていることへの願望とまったく同様に可能である。信念は下向きの適合方向を持ち、願望は上向きの適合方向をもつが、想像の場合、私はその内容が事実であると信じているわけでも、事実であって欲しいとのぞんでいるわけでもない。そうであってほしい事態を空想することはあるにしても、空想なり想像なりにとって、そのように願望の形式をとることは本質ではない。怖いことや嫌なこと、つまり起こって欲しくないことであっても、人はそれを想像することが出来る。またありうることはもちろん、ありえないことであっても想像は可能である。」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)

想像の内容は、信念とも願望とも結びつきうるのですが、それらと結合しないことも可能であるということです。

ここで思い浮かぶのは、次の発話が異なる発語内行為をするが、同じ命題行為(指示と述定)をもつというサールの指摘です(参照、サール『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、勁草書房、39)。

 「サムは習慣的に喫煙する」(主張)。

 「サムは習慣的に喫煙するか」(質問)

 「サムよ、習慣的に喫煙せよ」(命令)

 「サムが習慣的に喫煙してくれたらなあ」(願望)

ここでは、命題行為は、異なる発語内行為を結合しうるが、しかし、どのような発語内行為も行わないで、命題行為だけをおこなうことはできないと言われています。この指摘は正しいでしょう。そうすると、上記の「想像」についても、同じことが言えるのではないでしょうか。同一の想像が、信念や願望と、また、ありうると思うこととや、ありえないと思うことと結合しうるでしょう。しかし、どのようなコミットメントとも結合しないことはありえないのではないでしょうか。

命題行為が適合の方向を持たず、発語内行為が適合の方向を持つ(ただし「表現型発話」だけは適合の方向を持たない)ように、<想像>そのものは適合の方向を持たず、それが他の志向性(想起、信念、先行意図、行為内意図、願望)と結合することによって適合の方向を持つことになるではないでしょうか。

そうすると、<想像>は、適合の方向を持つ志向性の要素となる、と言うことになりそうです。

このとき、適合の方向を持つ<志向性>だけが、志向性であり、適合の方向を持たない<想像>は、<志向性>には含めないということにした方がよいかもしれません。

ここまであいまいな部分をペンディングにしたまま考察してきましたが、以上を踏まえて、志向性全体についてもう一度考えてみたいと思います。

40 志向性としての問い  (20210401)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは、次に見るように志向性の一種だと言えるでしょう。

問いは、何かに<ついて>の問い、例えば、事故の原因に<ついて>の問いであるから志向性と言えそうです。これは、次のように他の志向性と同じような条件を備えています。

問いの志向状態(S)と志向内容(r)は、次のようになります。

    問うこと(事故の原因)

問うことは、質問発話の「誠実性条件」になるでしょう。

問いの充足条件については、二種類考えられます。一つは、主張と類比的に考えることです。主張pの充足条件は、事実<P>が成り立っていることです。問いの充足条件は、問いの前提が、成り立っていることです。「フランス王は禿げていますか?」といは、「フランス王が存在すること」を前提しており、問いの前提が成り立っているとは、フランス王が存在することです。もう一つは、命令と類比的に次のように考えることです。命令の充足条件は、命令が実行されることです。これに倣うならば、問いの充足条件は、問いの答えが与えられることです。この二種類の充足条件を合わせたものが、問いの充足条件になります。

ところで、問いの答えとなるのは、知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望などの志向性です。これらは、「適合の方向」をもち、適合にコミットしています。問うことは、コミットメントを求めることです。問いは、答えがどのような「適合の方向」をもつか、またどのような志向状態をとるか、をすでに決定しています。それは、質問発話が、返答の発語内行為をすでに決定しているのと同様です。発話の意味に関しても、発話行為に関しても、「問いは答えの半製品である」のです(これについては『問答の言語哲学』で説明しました)が、志向性においても「問いは答えの半製品である」と言えます。

では、想像は、問いとどうかかわるのでしょうか?

39 志向性としての「想像」  (20210330)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、(28回目)で示した表で、6種類の志向性を見事に整理している。しかし、この表はおそらく完全なものではありません。この表には含まれていませんが、サールは、「想像」もまた志向性の一種とみなしていると思われます。

 「想像」(imagination) は、「ついて」性をもつ心的状態であるので、志向性の一種だといえます。また想像は、次のように「状態類型Sと内容pの区別」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)をもちます。

    想像する(火星人)

ただし、想像は、適合の方向を持ちません。つまり想像の内容が事実であると考えているのではないし、事実であって欲しいと考えているのでもありません。したがって、これまでの6つの志向性とは異なります。したがって、「想像との適合には責任が存在しない」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)そして、想像は現実と適合する必要がないのですから、何でも自由に想像できます。「想像とは、自由で自発的な行為である」(同所)と言われます。「適合の方向」を持たない「想像」には誠実性条件も充足条件もないでしょう。

 このように「適合の方向」をもたない想像は、他の志向性とどのような関係にあるでしょうか。もし対象や事態を想像できなければ、その対象や事態を、知覚したり、記憶したり、信じたり、その実現を行為内意図したり、先行意図したり、願望したりできないでしょう。なぜなら、これら6つの志向性は、いずれも表象(知覚と行為内意図は、表象ではなく提示だといわれますが、提示も表象の一種です)であり、想像は、その表象から現実へのコミットメントを取り除いたものだからです。逆に言うと、想像している表象に、現実への適合のコミットメントを付け加えると、6つの志向性のいずれかになるのです。

(しかし、非表象的な知覚、記憶、行為内意図、先行意図があるとすると、それは想像なしにかのうでしょう。たとえば、非脊椎度物の知覚や記憶などは、非表象的だと思われますが、おそらくそれらは心的状態をもたず、志向性を持たないでしょう。)

 ところで、前言を翻すようですが、想像が「適合の方向」を持たないということは、それほど自明なことではないように思われます。想像は、どのようなときに生じるのでしょうか。6つの志向性の中では、サールが言うように、知覚と行為内意図がもっとも基礎的な志向性だと思われますが、想像は、それらと同じ程度に基礎的な志向性だと思われます。なぜなら、知覚や行為内意図が成立するには、想像が必要だからです。例えばサイコロを知覚する場合、私たちは見えている面だけでなく、見えていない面についても想像しています。なぜなら対象がサイコロであるということは、それが立方体であるはずだからです。つまり、見えていない面も平面になっていることを想像しています。ところが、この想像は、知覚と同様に、心から世界への「適合の方向」をもちます。あるいは、このような想像は、知覚の一部に含めるべきかもしれません。

 もしこのよう視知覚を、視覚刺激だけに制限せずに拡張するならば、アフォーダンスの知覚もまた、そこに含めるべきでしょう。例えば、美味しそうなケーキを見た時、その知覚には「おいしさ」の想像が伴い、またおいしさの想像には、食べたいという願望が伴います。この「おいしさ」の想像は、「適合の方向」を持ちます。アフォーダンス理論ならば、その「おいしさの」想像は、知覚とは別のものではなく、知覚に含まれると考えます。

 また、つぎのような想像もあります。知人からクレタ島を訪れた時の話を聞いて、クレタ島の様子を想像し、クレタ島に行きたくなったとしましょう。クレタ島の景色の想像は、「適合の方向」を持っています。しかし、それは知覚的な想像(知覚に似た想像、あるいは知覚の想像)ですが、知覚でも、記憶でも、ありません。

 また、探偵ホームズの年齢を想像する場合はどうでしょうか。それは知覚的な想像ではありませんが、適合の方向を持つでしょう。(英語では、ホームズの年齢を想像するというときに、imaginationとは言わないかもしれません。)

 このように想像には、様々なものがあります。適合の方向を持たない想像もありますが、適合の方向を持つ想像もあるように思います。

 多様な想像をどう理解するかを考えるため、またそれらと問いの関係を考えるために、問いを志向性として考えられるかどうかを、次に考えてみたいと思います。

38 問答としての信念と願望 (20210329)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 今回は、信念と願望が、問いに対する答えとして成立することを説明したいと思います。

私たちが、信じているものは非常にたくさんあります。例えば、私は地球が回っていると信じているし、地震がいつ起こるかもしれないと信じているし、コロナが終息していないと信じています。しかし、常にこのようなことをすべて意識しているのではありません。このような信念を「広義の信念」と呼ぶことにします。では、どうして、これらは信念と呼ばれるのでしょうか。それは、「地球は回っていますか」と問われたら、即座に観察によらずに、「はい、回っています」と答えるからです。「広義の信念」は次の同値性文で定義できるでしょう。

 「Xさんはpを信じている」⟷「もしXさんが「pですか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pです」と答える」

この場合、暗黙的であった信念「p」を明示化しているのですが、これは想起の一種、つまり記憶の一種なのでしょうか。もしそうならば、因果的自己言及性を持つことになります。しかし、明示化された信念は、その充足条件の中に、その信念が暗黙的であったことを意識することを含んでいないので、因果的自己言及性を持ちません。つまり、記憶の一種ではありません。

他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある信念を意識していることがあります。このような仕方で信念を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「なぜ、太陽や月や星は、東から出て西に沈むのだろうか」と問うて、「地球が西から東に回っているからだ」と答える場合です。この答えを得る時には、ほとんどの場合、何らかの推論が行われます。他の場合はないのではないでしょうか(今のところ私には、思いつきません)。

願望についてはどうでしょうか。願望についても、信念と同じく、人は意識していない多くの願望を持っています。たとえば、「死にたくない」という願望を常に意識しているわけではありませんが、意識していないときにもその願望を持っているといえるでしょう。例えば、ステーキを食べたいとか、ケーキを食べたいという願望をもっていても、常に意識しているわけではありません。それでも、もし私が「死にたくないですか」と問われたら、即座に観察に寄らず「はい、死にたくありません」と答えます。したがって、信念と同じように、この「広義の願望」をもつことは、次のようなことです。

  「Xさんはpを望んでいる」⟷「もしXさんが「pを望みますか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pを望みます」と答える。

このような暗黙的な願望を意識帰する場合にも、その「意識された願望」は、因果的志向性をもたないでしょう。では、このような多くの「広義の願望」の中で、ある願望を意識するとすれば、それはどのような場合でしょうか。一つは、上のような問いに答える場合です。

他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある願望を意識していることがあります。このような仕方で願望を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「宝くじに当たったら、何がしたいですか」と問われて、「とりあえず貯金したいです」と答えるような場合です。

以上のように、サールのいう6つの志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)はすべて、問いに対する答えとして成立します。

ところで「信念」や「願望」と似たものに「想像」があります。ただし、サールによれば、「想像」は適合の方向を持ちません。「想像」とは何か、それを志向性と言えるかどうか、想像もまた問いに対する答えとして成立するのか、を次に検討したいと思います。

27 「自粛」の倫理学 (20210328)

[カテゴリー:日々是哲学]

「自粛」「忖度」「わきまえる」「自主規制」

これらは似ています。そして、これらはカント的な「自律」とは両立せず、「他律」に属します。しかし、これらは、命令されたり、強制されたりする他律とはことなります。いわば、「触発」されるのです。カント的な「他律」は、強制的な他律と、強制的でない他律に分かれます。

 カントが、強制的でない他律として挙げているのは、感性的な欲望に触発されることです。ついついケーキを食べてしまうというような他律です。

 しかし、冒頭にあげたものは、これとは異なります。そこで、強制的でない他律を、二つのタイプに分けることができるでしょう。

  第一のタイプ:「触発」「促し」「誘惑」など。

  第二のタイプ:「自粛」「忖度」「わきまえる」「自主規制」など。

この二つは、何が違うのでしょうか。前者は、他者や対象に誘惑されて行動するのですが、その前提には主体の欲望があります。欲望がなければ、誘惑されません。欲望というのは、快楽や利益などの良きものへの願望です。それに対して、後者も、また他者や対象の影響によって行為調整するのですが、後者の「忖度」「わきまえる」などの背後には、不快や不利益を避けようとする願望があるように思います。

37 志向性としての信念と願望 (20210326)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

信念と願望は、次のような心理的様態(志向状態)と表象内容(志向内容)をもつ。

   S(r)

   信じる(r)

   願望する(r)

 また、信念は心を世界へ適合させ、願望は、世界を心へ適合させるという「適合の方向」をもつ。

 また、pを主張するときの「誠実性条件」として、rを信じるという志向性があり、pを表現(表現型発話)するときの「誠実性条件」として、rを願望するという志向性があります。

 また、信念の充足条件は「rが事実である」こと、願望の充足条件は「rが事実になる」ことです。

以上のように、信念と願望は、志向性であると言えます。さらに、サールは、信念と願望の連言による結合によって、次のような複合的な志向性を説明します(参照、サール『志向性』訳40-42)。

  怖れ(p)→ 信(◇p)&願(~p)

  期待(p)⟷ 信(未来p)

  失望(p)→ 現在信(p)&過去信(未来~p)&願(~p)

  悲しむ(p)→ 信(p)&願(~p)

  悔い(p)→ 信(p)&信(pと私の結びつき)&願(~p)

  悔恨(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pに対する私の責任)

  非難X(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pはXの責任)

  喜んでいる(p)→ 信(p)&願(p)

  望む(p)→ ~信(p)&~信(~p)&信(◇p)&願(p)

  誇り(p)→ 信(p)&願(p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知る)

  恥じ(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知らない)

これは興味深い分析ですが、このように基本的な志向性から、複雑な志向性を合成して見せることは、スピノザの情念の説明を思い出させます。

 他方で、サールは、信念と願望は、因果的志向性を持たないと考えます。そしてこの点において、これまでの述べた知覚、記憶、行為内意図、先行意図と異なると言います。信念と願望は因果的志向性を持たないので、これまで述べた志向性(知覚、記憶、行為内意図、先行意図)を上記のような仕方で合成することはできません。

 サールは、「生物学的に志向性の基本形態」だとするのは知覚と行為であり、信念と願望は志向性の基本的な形態ではない、といいます。信念は知覚の「萎えた形態」であり、願望は意図の「萎えた形態」ないし「色褪せた形態」である(参照、同書47)といいます。

 以上がサールの議論ですが、気になるのは、信念が因果的志向性を持たない、という点です。以下で、これを検討したいと思います。

 「私がpなる言明を行うなら、私はpなる信念を表明していることにある」(同書12)

話し手は、ここで言明pと信念pは、同じ充足条件をもち、それはpが事実であることです。

このとき、人がpを言明する(あるいは信じる)ときには、根拠を問われたなら、それに答える用意があるはずです。つまり、何らかの根拠を意識している(あるいは、意識できる)はずです。

pを主張するときに、pを信じていないことは不誠実ですが、pの根拠を示せないことも不誠実です。したがって、主張pにともなう信念pには、「因果的自己言及性」があるように見えるかもしれません。

 無根拠に何かを信じることが全くないとは言いませんが、それは稀です。たいていの場合、何かを信じる時には、何らかの根拠を意識しています。ここで重要なのは、根拠帰結の関係と原因結果の関係の違いです。信念は、根拠を持ちますが、信念と根拠の関係は、論理的な根拠帰結関係であって、因果関係ではありません。したがって、信念が、「因果的自己言及性」を持つとは言えません。それがもつのは「根拠への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 他方、願望は、根拠を持ちませんが、理由結果関係をもちます。願望は常に何らかの理由を持ち、その理由はより上位の願望です。この意味で、願望は、「理由への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 このような信念と願望と、問いとの関係について次に考察したいとおもいます。

26 経済格差はコミュニケーションを困難にする (20210324)

[カテゴリー:日々是哲学]

 問題を共有していない人とは、コミュニケーションできません。つまり、互いにコミュニケーションする集団は、問題を共有する集団です。私たちは、どのような問題を共有するかに応じて、異なるコミュニケーション集団を形成しています。

・人種の違い、性の違い、年齢の違い、職業の違い、社会的地位の違い、学歴の違い、所得の違い、身体能力の違い、などさまざまな違いがあります。これらが、ときに身を切られるような痛みをもたらすのは、これらが社会の中で大きな意味を持っているからです。これらの違いは、共有する問題の違いを生み出し、そこから異なるコミュニケーション集団が成立するからです。これらの違いは時に差別を生み、社会の分断を生みます。

 私たちがある集団に属してコミュニケーションするときには、その集団の人間関係を分断するような属性については無視します。そして、別の属性の人々が共有している問題にも触れません。コミュニケーション集団の境界に触れないことは、集団の中で暗黙の力として働いています。そのことは、それぞれのコミュニケーション集団の維持にとって必要なことだからです。

 私たちは、複数のコミュニケーション集団に属しています。これが分人主義を呼び起こすのは、属性の差異が、コミュニケーションを集団間、分人間のコミュニケーションを困難にするからです。

 経済格差は、これらの差異の一つですが、それだけにとどまらず、この差異は、他の社会的差異から帰結する差異をより大きなものにします。ちょうど、地震やコロナウィルスなどの災害が、経済格差を大きくするように、大きな経済格差は、これらの社会的属性の差異をより重いものにするのです。したがって、経済格差は、コミュニケーションを困難にし、社会を細かく分断し、社会的相互承認を破壊します。

#「総中流社会」という目標に対しては、次の批判があるかもしれません。

 <総中流社会にすることは、国民や人類を幸福にするためにぜひとも必要だと思われますが、これは一定の「善構想」に基づく立場なのではないでしょうか。これは自由主義と対立することになります。自由主義を採用するならば、何を幸福とするかは、各人の自由な選択にゆだねるべきであり、正義の実現が、幸福に優先すると考えることになるでしょう。>

 この批判に答える一つの方法は、自由主義を批判する事ですが、(もし自由主義を擁護しようとするならば)もう一つの方法は、「総中流社会」を目指すことは、自由主義とは矛盾しないと答えることです。もし中流であることが、幸福追求のための条件であるとすれば、「総中流社会」を目指すことは、「幸福追求の権利」を保証することになりますが、これは特定の「善構想」と結合するものではありません。