41 クオリアとニューロンパターンの関係 (20210216)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(前回のべた「固有時」における同時性や時間経過については、改めて論じなおしたいと思いますが、とりあえず茂木のクオリア論の紹介と検討に移りたいとおもいます。)

「クオリア」は、わかりやすく言うと、意識内容の質感です(典型的には感覚の質感です)。これの説明は、チャルマーズらによって、「心の哲学」における最難問だと言われています。この問題は、茂木の『脳とクオリア』の中心課題だと言ってよいでしょう。茂木は、序章で「「《「クオリア」を神経細胞の活動から説明することが、心と脳の問題の核心である》」(同書25)と述べています。茂木は、第5章「最大の謎「クオリア」」でクオリアについて論じています。

 彼は、まず「クオリア」について次の二つの定義を与えます。

「《クオリアの内観的定義=クオリアは、私たちの感覚のもつ、シンボルでは表すことのできない、ある原始的な質感である。》」(同書147)

「《クオリアの情報処理の側面から定義=クオリアは、脳の中でおこなわれている情報処理の本質的な特性を表す概念である。》」(同書148)

(これらのクオリアの後者の定義は、残念ながら曖昧です。厳密に言えば、これは、クオリアについての一つの記述であって、定義ではありません。例えば、「AはBである」が定義となるためには、これが主語述語文ではなくて、同一性文でなければなりません。あるいは、AとBが同値でなければなりません。しかし、脳の中でおこなわれている情報処理の本質的な特性を表す概念は、「クオリア」だけではありません。たとえば「ニューロン発火」や「電気化学的反応」や(彼が後に述べる「統合された並列性」についても、この記述は、あてはまります。他の例をあげると、「リンゴは、バラ科の高木である」というのは、もしリンゴ以外にも、バラ科の高木があれば、定義ではなく、リンゴについての一つの記述にすぎません。茂木のクオリアの定義は、そのような記述にとどまっています。)

クオリアの謎に科学的に迫ろうとすれば、後者の定義のクオリアを説明しなければならない。「情報処理の中の過程において、クオリアは、どのような本質的な役割を果たしているか」を考える必要がある。

 そこで、茂木は、「脳の情報処理の最大の特徴の一つ」である「並列性」(同書157)、しかも「統合された並列性」について説明します。例えば視覚情報と聴覚情報が同時に与えたときに、それらを統合できるのは、それらのクオリアを区別できるからである。

「《クオリアと並列性=私たちの心の中で複数の認識の要素が共存できるのは、それらが異なるクオリアを持っているからである。》」(同書160)

こうして茂木は、「統合された並列性」において、クオリアが本質的な役割をしていることを指摘します。

 茂木はまた、「現在性のクオリア」が情報処理過程において本質的な役割を果たしていることを指摘します。現在の認識の要素と過去の記憶を区別できるのは、現在の認識の要素が鮮明なクオリアを持っているからです。また、外にあるバラを見ているときのバラの質感の圧倒的な鮮明さと、バラを心の中で思い浮かべているときの質感は異なります。茂木はこれを「現在性のクオリア」とよび、これによって、自己の「外」と「内」、現在の要素と記憶の要素を区別できるといいます。

ところで、クオリアとニューロンの発火のパターンとの関係について、次のようにいう。

「《クオリア=認識の要素を構成する相互作用連結なニューロンの発火のパターン》」(同書169)

「認識要素がもつクオリアは、…発火のパターンによって決定される、というよりは、この発火のパターンそのものなのである。」(同書170)

これらの引用箇所は、茂木がクオリアとニューロン発火のパターンの同一説(これは茂木の表現ではありません)を主張しているように読めます。

しかし、彼は次の節では次のように言います。

「《クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火のパターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する》」(同書171)

この「対応」関係は、次のように「随伴」関係として説明されています。

「もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則の領域の存在を示唆するのである。」(同書172) (強調と下線は引用者)

発火のパターンからクオリアが随伴するのは、「従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則」(同書172)によってであると言われています。

先の同一性の主張と、ここでの随伴説の主張は、矛盾するように見えます。これをどう考えたらよいでしょうか。

40 心理的時間の流れについて (20210216)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(クオリアの説明を取り上げると予告していましたが、その前に、前回疑問を呈した、時間の流れをどう認識するかという問題を検討しておきたいと思います。)

 前回、「認識のなかの時間」ないし「心理的時間」である「固有時」における同時性を、「相互作用同時性の原則」によって説明しました。つまりニューロンAがニューロンBの発火を引き起こすとき、Aの発火の物理的時刻t1とBの発火の物理的時刻t2は、「固有時」においては、同時であることになります。なぜなら、「認識のニューロン原則」により、心的内容はニューロン発火のパターンだけから説明される必要があり、ニューロン発火以外の出来事は、心にとっては存在しないからです。このような説明の後で、前回の最後に、この場合、時刻が異なることや、時間の経過をどのようにして説明できるのかが課題になると述べました。

 茂木は、『脳とクオリア』の第4章で、これについて次のように説明しています。

「①認識における「瞬間」、すなわち最小の時間の単位は、物理的時間で言えば、ある有限の幅(h)をもつ。」(同書131)

この最小の時間単位の大きさは、100ミリ秒程度となると言われています。これは、2つのニューロンを結合する軸索の長さから計算されています。つまり、ここでいう「最小時間の単位」とは、ニューロンAが発火してからBが発火するまでの物理的時間です。

「②時間の最小単位の存在にもかかわらず、その時間のずれは、任意に小さくすることができる。すなわち、ある認識におけるある「瞬間」τという場合には、必然的にそれは100ミリ秒程度の拡がりを持たなければならないが、このような「瞬間」をどれくらいずらして重ねあわせられるかということになると、その「ずれ」δτの大きさは、任意に小さくすることができる。」(同書131f )

「③隣り合う心理的な「瞬間」の間には、重なりがある。すなわち、τ1とτ2が隣接する心理的瞬間であるとすると、τ1とτ2が隣接する心理的瞬間であるとすると、τ1とτ2のあいだの差が時間の最小単位(h)より小さいとき、

  |τ1-τ2|<h

それぞれの心理的瞬間におけるシステムの状態Ω(τ1)、Ω(τ2)の間には、重なりがある。

  Ω(τ1)h∩Ω(τ2) ≠0」(同書132)

ここで私が問いたいのは、③でいう「隣り合う心理的な「瞬間」」はどのようにして可能になるのか、いいかえると、2つの瞬間が異なる瞬間であるとはどのようなことであり、それはどのようにして認識されるのか、ということです。

ニューロンA、B、Cがあって、Aの発火が、Bの発火を引き起こし、Bの発火が、Cの発火を引き起こすのだとすると、「相互作用同時性の原則」によって、Aの発火の時刻と、Bの発火の時刻は「固有時」においては同時になります(これをτ1とします)。同様にして、Bの発火の時刻と、Cの発火の時刻もまた「固有時」において同時になります(これをτ2します)。このとき、τ1=τ2となるだろうと、前回述べました。

 もしそうだとすると、ニューロンAの発火がもとになって間接的に生じするすべての発火が、「固有時」においては同時であることになります。これでは、不都合です。なぜなら、もしカエルを見てカエル・ニューロンが発火し、それによって、中学生の時のカエルの解剖の授業をおもいだし、それからその時の友達のことをあれこれと思い出しているとき、これらがすべて「固有時」において同時に生じていると思うことになってしまいますが、そういうことはないからです。カエルを見たことがきっかけになって、昔の友人を思い出したと考えているとき、カエルを見たことは、昔の友人を思い出したことに先行すると考えています。

 カエルを見ることと、昔の友人を想起することは、時間的に前後関係にあります。カエルを見た固有時の時刻をτ1とし、昔の友人を思い出した固有時の時刻をτnとするとき、τ1≠τnだと考えるのが合理的でしょう。

 茂木は、固有時の瞬間の重なりを考えているようです。τ1とτ2は少し重なっており、τ2とτ3も少し重なっており、というように重なりあう瞬間の系列を進むと、τ1とτnはもはや重ならない、ということが説明できるかもしれません。

 前述のニューロンA、B、Cの場合、それぞれの発火の物理的時間をta、tb、tcとし、Aの発火からBの発火までの固有時の時刻をτ1とし、Bの発火からCの発火までの固有時の時刻をτ2とするとき、τ1はtaからtbまでの幅を持ち、τ2はtbからtcまでの幅を持つと考えるならば、τ1≠τ2であり、τ1とτ2は前後関係を持つことになります。

 ここでA、B、Cをそれぞれ1個のニューロンとしてではなく、複数のニューロンのクラスターだと考える時、τ1とτ2は、前後関係にあるだけでなく、部分的に重なり合うと考えることができます。

 ただし他方では、τ1とτ2が部分的にせよ重なり合うのならば、「固有時」において同時であると考えたくなります。そうすると、τ1=τ2=…=τnとなってしまいます。このような反論に対しては、茂木ならば、「固有時」の「同時性」を、物理的時間での「同時性」と同じ性質を持つと考えてはならない、と批判するでしょう。この批判は正しいのかもしれません。ただし「固有時」における「同時性」概念の曖昧さは、残ります。

 もう一つ気になるのは、物理的時刻と固有時の時刻の対応付けです。茂木は次のような表現の仕方しています。

「「t=0」(ニューロンA)=

 「t=10ミリ秒」(ニューロンB)=

 「τ=0」(ニューロンA、ニューロンBに共通な固有時)」(同書105)

1行目と2行目の右端にある「=」はどういう意味になるのでしょうか。もしそれが同時性をあらわすのだとしたら、物理的時刻と固有時の時刻が同時であるというのは、奇妙である。これら2つは、異なる世界(物理的世界と認識の世界(ないし心的に表象されている世界)に属しているからです。もし、この「=」の意味を説明できなければ、固有時について考えることはできなくなるでしょう。いまのところ、課題を指摘する事しかできません。

 以上でとりあえず、時刻が異なることや、時間が経過するということが、どういうことであるかを説明しました、しかし、それらがどのようにして認識されるのか、の説明はできていません。この問題については、意識や認識について論じる時に取り上げることにします。

 次回は、クオリアの話に進みたいです。

39 認識の要素と同時性 (20210215)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回、茂木の言う次の二つの原理「認識のニューロン原理」と「認識におけるマッハの原理」を紹介しました。再説すれば、次のようになります。

「《認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。》」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、35)

「《認識におけるマッハの原理=認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。》」(同書、77)

茂木は同書「第三章」で、これらに基づいて、「認識を構成する要素」と「認識が行われる時空間」について説明する

#まず認識の要素について

茂木は「認識の要素」を次のように定義します。

「《認識の要素とは、末端のニューロンから高次野のニューロンに至る。相互作用連結なニューロンの発火のクラスターである。》」101

「相互作用連結なニューロンの発火のクラスター」とは次のようなものです。

「「バラ」ニューロンが「バラ」ニューロンになるのは、「バラ」ニューロンの発火と、相互作用連結な他のニューロンの発火の関係が、私たちの心の中で「バラ」という認識を引き起こす役割を果たしているからである。

 以下では、相互作用連結なニューロンの発火のつながりを「クラスター」と呼ぶことにしよう。」100

茂木の理解では、この定義は「反応選択性」概念による認識の要素の定義に対する批判になっている。ヒューベル(David Huntar Hubel 1926-2013)とウィーゼル(Torsten Nils Wiesel,1924-)は、1959年に行った実験で、猫の視覚野に、特定の方位の棒状刺激に対して発火するニューロンを見つけました。これは、特定の図形を見ると発火するニューロンがあるということであり、これがニューロンの「反応選択性」と呼ばれています。(彼らはこれでノーベル賞をとりました。)

茂木はカエルを見たときに発火する「カエル・ニューロン」を例に、カエル・ニューロンが発火した時に、カエルの認識が生じているという(「反応選択性」に基づく)仮説を次のようにまとめます。

「《ある特徴Aに対して反応選択性をもつ一群のニューロンが発火したときに、特徴Aの認識が生じる。》」67

ただし茂木は、この仮説では、認識を説明できないと批判します。茂木は、カエル・ニューロンを一つだけ手術で取り出して、それを電極で刺激して発火させても、カエルの認識は生じないといいます。

これに対して、茂木は、認識におけるマッハの原理にもとづいて、「カエル・ニューロン」を次のように定義しなおします。

「《カエル・ニューロン=そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって「カエル・ニューロン」の属性を与えられているニューロン》」78

これを一般的に述べたものが、前述の「認識の要素」の定義になります。

「《認識の要素とは、末端のニューロンから高次野のニューロンに至る。相互作用連結なニューロンの発火のクラスターである。》」101

(ところで、たしかに「カエル・ニューロン」一つを発火させても、カエルがいるという認識は生じないだろう。しかし、カエルを見たときに、「カエル・ニューロンクラスター」の発火が発火することが観察できたとしても、カエル・ニューロンクラスター」が発火することが、カエルがいるという認識の発生であると主張するには不十分です。それは必要条件に過ぎないでしょう。茂木のいう「認識の要素」は、認識の必要要素という意味であるのかもしれません。)

#次に認識における時間について

茂木は「認識の準拠枠となる時間」を「固有時」と呼び、τ(タウ)で表します。それに対して通常の意味での物理的時間をtで表します。そして、「認識の要素」の定義をもとに、「固有時における同時性」を次のように定義します。

「《相互作用同時性の原理=ある二つのニューロンの発火が相互作用連結な時、相互作用の伝播のあいだ、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、(固有時τにおいて)同時である。》」(同書104)

いま仮に二つのニューロンAとBがあって、AからBに信号が伝わるとしましょう。このとき、Aは「シナプス結合しているニューロン」と言われ、「シナプス前側ニューロン」(presynaptic neuron) と呼ばれます。Bは「シナプス結合を受けているニューロン」と言われ、「シナプス後側ニューロン」(postsynaptic nueron)と呼ばれます。ニューロン細胞は、複数の「樹状突起」(dendrite)と一つの「軸索」(axon)をもちます。軸索の先から神経伝達物質を放出し、他のニューロンから神経伝達物質を受け取ります。軸索が結合する相手には、他のニューロンの十条突起だけでなく筋肉や腺である場合もあります。

このニューロンAの発火がニューロンBの発火を引き起こすときには、つぎのようなプロセスがあります。

「シナプス前側ニューロンの細胞体でアクション・ポテンシャルが生じ、それが軸索を伝わってシナプス前側に達すると、そこで神経伝達物質の開口放出が起こる。神経伝達物質は、シナプス後側の受容体(レセプター)と結合する。その結果、シナプス後側ニューロンの膜電位が脱分極する場合(興奮性結合)と、過分極する場合(抑制性結合)がある。」90

この最後に書かれているように、神経伝達物質を受容したシナプス後側ニューロンの反応には二種類あります。一つは、膜電位が上昇して発火しやすくなる場合です。これを「興奮性結合」と言います。もう一つは、膜電位が低下して発火しにくくなる場合であり、これを「抑制性結合」と言います。茂木はこの二つを次のように定義しています。

 《興奮性結合=正の相互作用連結性》

 《抑制性結合=負の相互作用連結性》 (Cf. 同書102)

茂木は、ここで二つの時間の区別を導入します。「固有時」とは、「認識の準拠枠となる時間」ないし「認識の中における時間」であり、通常の意味の「物理的時間」とは異なります。彼は、通常の意味の物理的時間をtで表し、固有時は、ギリシア文字τ(タウ)で表します。そして、「認識の要素」と「相互作用連結性」の定義に基づいて、「固有時における同時性」を次のように定義します。

「《相互作用同時性の原理=ある二つのニューロンの発火が相互作用連結な時、相互作用の伝播のあいだ、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、(固有時τにおいて)同時である。》」(同書104)

この「相互作用同時性の原理」からは、固有時での時刻が、物理的時間のなかでは、幅を持つことが帰結します。

「ニューロンBが、ニューロンAの時刻t=0における発火によって、正の影響を受けて、その結果発火したとする。その時刻が、例えばt=10ミリ秒であったとしよう。

 この時、ニューロンAの時刻t=0における発火とニューロンBの時刻t=0ミリ秒における発火は、固有時τとしては同時なのである。すなわち、

 「t=0」(ニューロンA)=

 「t=10ミリ秒」(ニューロンB)=

 「τ=0」(ニューロンA、ニューロンBに共通な固有時)

と言うことになるのである。」(同書105)

「物理的時間の中ではじわじわと伝わっていく因果の連鎖を、心理的な時間の中では、ぴしゃっと瞬間に「つぶしてしまう」のである。」(同書107)

「認識の時空において局所的なプロセス」は、「物理的時空において局所的なプロセス」(同書108)となります。

これは非常に興味深く、重要な主張です。

しかし、では固有時における時間経過や時間的前後関係を、どう定義したらよいのでしょうか。二つの固有時が異なることは、どのように定義され、どのように知覚されるのでしょうか。

今仮に、Aの発火がBの発火を引き起こし、Bの発火がCの発火を引き起こすとしましょう。

このとき、Aの発火とBの発火は、固有時の同時性の定義からして同時です。Bの発火とCの発火もまた、同様に、同時です。

このように考えるならば、ニューロンの発火の連鎖は、どんなに長くなっても、全て同時であることになります。私智の野内のニューロンの発火は連続して継起しているとすれば、これは不都合なことになります。固有時における時間経過や時間的前後関係をどう説明するかは、今後の改題にあります。それは短期記憶や長期記憶の説明にとても必要なことです。

次回は、いよいよクオリアの説明を紹介したいとおもいます。

38 認識のニューロン原理とマッハの原理 (20210212)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

ここからしばらく、茂木健一郎『脳とクオリア』の議論を紹介し検討しながら、意識とクオリアの発生について考えたいと思います。

#認識のニューロン原理

茂木は、ホラス・バーロー(Barlow, H.)が提唱した「認識のニューロン原理」を高く評価し、それを次のようにまとめます。

「認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、35)

(ちなみに、Barlowのこのアイデアは、前に言及したHohwyによれば、Helmhotzのカント的な心理学から来ているようです。Andy ClarkやHohwyは、このアイデアをcomputational neurosienceとして展開するという研究の流れに属します。)

茂木が言うようにこの原理は非常に重要だとおもいます。

「重要なことは、認識の内容を導き出すには、ニューロンの発火がどのようなパターンになっているかという情報以外は、いっさい何も仮定してはならないということである。」(同書、40)

「視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚における物理的刺激と感覚器における変換過程がどのようなものであれ、私たちの心の中でそれぞれのモダリティが持つクオリアのユニークさは、それでは説明できない。モダリティの間の差は、あくまでもそれぞれのモダリティをつかさどる脳の中のニューロンの発火パターンの差によってのみ説明されなければならないのだ。」(同書、41)

たとえば、視神経が発火し、その信号が脳に伝達するとき、脳に伝わるのは、神経の発火だけです。その発火が視神経の発火から伝わってきているという情報は、発火の中には含まれていません。赤い光を受けて発火した神経からの伝達で発火していること、青い光を受けて発火した神経からの伝達で発火していること、という情報はそれらの発火の中には含まれていません。

脳にあるのは、発火のパターンだけです。脳は、赤い光を感じたこと、青い光を感じたこと、音を感じたこと、辛さを感じたこと、などなどの感覚の差異をすべて、発火のパターンから構成しなければなりません。これは、非常に重要な指摘です。

#認識におけるマッハの原理

茂木が提案する第二の原理は、「認識におけるマッハの原理」です。物理学に関する「マッハの原理」を認識に応用したものです。これらは、それぞれ次のように定式化されます。

「《マッハの原理=ある物体の質量は、その物体のまわりのすべての物体との関係で決まる。他に何もない空間の中では、ある物体の質量には、何の意味もない。》」(同書、76)

「《認識におけるマッハの原理=認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。》」(同書、77)

茂木は、このマッハの原理の後半に対応して、次のことも「認識におけるマッハの原理」に含まれるといいます。

「《ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない。》」(同書、77)

(哲学には「知覚の因果説」というものがあり、それは、赤いという知覚は、赤い対象からの因果的な連鎖によって生じる、とみなすのですが、この二つの原理から、知覚と対象の間に最終的に因果連鎖があると言えるとしても、それは単純な単線的な因果連鎖ではないことが分かります。)

37 これまでの振り返り(2) (20210210)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

動物が行う探索をいくつかの段階に分けることができます。

①見かけ上の探索(意図的ではないが意図的探索であるように見える行動)

②無意識的な意図的探索

③意識的な意図的探索

④言語的、意識的、意図的探索

⑤言語的、無意識的、意図的探索

探索というのは、常に意図的探索であるので、上記の意図的は冗語ですが、意図がどのように生じるのかにも注意して考察を進めたいので、書いておきます。

①と④と⑤は、存在するといってよいでしょう。⑤は、発達の上では、④が可能になった後に発生する探索だと思います。

問題になるのは、②と③です。

「②と③があるのかどうか」「②と③はこの順番に登場するのか、それとも同時か、それとも③が登場した後で②が生じるのか」

探索に注目したこのリストには登場しませんが、「意図的でない意識が存在するのかどうか」「意識は常に意図の成立を前提するのかどうか」なども、重要な問題になります。

前回最後に述べましたが、これらの問題に取り組むには、ボトムアップの方法で、①から出発して、どのように④や⑤への発展が生じるのかを見ていくか、トップダウンの方法で、④⑤から出発して、それがどのように③から、③がどのように②から、②がどのように①から成立するかを、考察する方法があるだろうとおもいます。(この後者のアプローチでは、グライスの意図ベース意味論で、重要な役割をはたした「再帰的意図」が重要になるだろうとおもいます。おそらく「意識の成立」は「再帰的意図の成立」また「探求発見(問答)の成立」として説明できるだろうと予測しますが、それだけで十分であるかどうかは、まだわかりません。)ただし、トップダウンの方法を成功させるためにも、しばらくボトムアップで考察したいと思います。(結局両方必要だということになりそうです。)

次回からしばらく、茂木健一郎『脳とクオリア』の議論を紹介し検討しながら、意識とクオリアの発生について考えたいと思います。

36 これまでの振り返り (20210208)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回の最後に引用した、バレットの「構成主義的情動理論」の説明を再度引用しょう。

「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。かくして、脳と身体によって社会的現実が生み出され、情動が現実のものになるのだ。」前掲訳252

これの最初の文「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。」は、情動を、顔、身体、脳における生物学的指標のイメージとして捉える伝統的理論への批判である。ダマシオの情動理論もまたこの伝統的理論に属するだろう。ダマシオによれば、「情働は、一つのパターンを形成する一連の複雑な化学的、神経的反応」(ダマシオ『意識と自己』田中三彦訳72)であり、「情動は生物学的に決定されたプロセスであり、…生得的にセットされた脳の諸装置に依存している」(同訳72f)とされていた。

以前にも述べたが、これに対してバレットの「構成主義的情動論」は、次の三つの構成主義の流派を取り入れている。「社会構成主義」からは文化と概念の重要性を、「心理構成主義」からは情動が脳や身体の内部の中核システムによって構築されるとする考えを、そして「神経構成主義」からは経験によって脳が配線されるという考えを取り入れている(バレット前掲訳70)。

前回は、情動が社会的現実であり、社会的に構築されているという主張を紹介したが、このこと自体は社会構成(構築)主義からすれば新しい指摘ではない。バレットの新しい点は、「心理構成主義」「神経構成主義」を情動の説明に取り入れたことにある。

それの簡単な説明が、上記の引用の第二の文とそれに続く次の部分である。

「脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。」

私の関心は問答関係にあるので、ここでの予測とシミュレーションのプロセスを探索と発見のプロセスとして捉えることである。もちろんこれは、無意識的な探索と発見であり、また機械的なプロセスに観察者が投影しているだけの「見かけ上の探索と発見」である可能性もあるが、神経プロセスの中に「見かけ上の探索と発見」を見つけられるとしたらそのこと自体が興味深いことである。

無意識的な探索と発見は、言語による問答の先行形態であるだろうが、情動の考察以前に確認したことは、それが動物の走性や無条件反射にもみられるということであった。今回は、それを人間の脳の神経プロセスに見ることができる(あるいは、できそうだ)ということがわかった。

問題は、人間以外の動物における、また人間の神経プロセスにおける、この無為意識的なあるいは見かけ上の探索発見が、どのようにして意識的な探索発見になるのか、と言うことである。

この問題へのアプローチする方法には、ボトムアップとトップダウンの二方向があるだろう。

35 社会的現実としての情動について (20210205)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

情動の社会性を説明する前に、前回についての補足コメント:前回「情動概念」は、何らかの目的を持つ合目的的概念であると述べた。その理由は、概念は感覚刺激の分類によって構成され、その分類は類似性に基づくが、その類似性は発見されるものではなく、作られることによって可能になるのであり、ある類似性を作ることは、何からの目的をために行われるということであった。ところで、その場合の目的として考えられるのは、何よりも生物としての自己保存ないし生存の維持であろう。そうだとすれは、この分類は、「生存のために何に注意する必要があるだろうか?」と表現できるような探索の結果として成立することになるだろう。つまり、情動概念が合目的的概念であるとき、それは探索によって成立するということになる。<情動ないし情動概念は、探索-発見、ないし問-答によって成立する>ということになる。

バレットによれば、「社会的現実」とは、次のように構成されるものである。

「何かを作り、それに名前を与え、概念を作り出す。その概念を他者に教え、その人がそれに同意する限り、現実の何かを作り出したことになる。」(バレット、前掲訳225)

バレットによれば、このようにして作られる社会的現実の典型例は、「お金」であるが、「情動」もまた社会的現実であるという。

「情動は、社会的現実の成立に必要とされる人間の二つの能力を通じて、私たちにとって現実のものと化す。」

その二つの能力とは、「集団的志向性」と「言語」である。

集団的志向性が必要なのは、「花」「現金」「幸福」などの概念が存在することに同意する一群の人々が必要だからである。「この共有された知識は「集合的志向性」と呼ばれる。」(前掲訳226)

「社会的志向性」や「共有知」は、もっと詳しいい説明が必要な概念であるが、バレットは詳しい説明はしていない。

「言語」の必要性については、彼女は次のように説明している。

バレットは、まず「情動概念がなくても情動は存在しうる」という考えに反対する。自分の情動を経験したり、他者の情動を知覚したりするためには、情動概念が必要とされる(cf. 前掲訳236)。

「「怖れ」が概念がなければ、おそれを経験することはできない。また、悲しみの概念がなければ、他者の悲しみを知覚することはできない。」前掲訳236

次に言葉がなければ成立しない情動概念もあるという。たとえば「ポテチ・ロス」である。「ポテトチップスの袋に手を突っ込み、すでに空になっているときに気づいたときの、「落胆」「罪悪感」「くふく」などの感覚を「「ポテチ・ロス」と名付けて人々に教えれば、それは「幸福」や「悲しみ」と同様に現実の情動感覚になる。」前掲訳235

また、日本語「ありがた迷惑」前掲訳245もそうである。これらはことばがなければ成立しないだろう。

また、仮に言葉がなくても成立する情動概念であるとしても、それを他者と共有するには、言葉葉で表現することが必要である。

最後に、「第七章、社会的現実としての情動」の終わりに構成主義的情動理論についてのよくまとまった簡潔な説明があるので、それを引用しておきたい。

「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。かくして、脳と身体によって社会的現実が生み出され、情動が現実のものになるのだ。」前掲訳252

34「情動概念」はどのように作られるのか? (20210204)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 バレットの情動論に戻ります。バレットは、情動には、3つの要素(内受容、情動概念、社会的現実)が必要であると考えています(参照、バレット『情動はこうしてつくられる』高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019、p. 417))

 最初の「内受容」については「31 内受容と内因性ネットワークから気分が生まれる (20210128)」で説明したので、次に「情動概念」についての彼女の説明を紹介します。これは同書の第5章と第6章で説明されています。

 脳内活動の内因性ネットワークが、脳は常に膨大な予測と予測エラーの訂正を行っているということを、ディープラニングプログラムを応用して分析するというAndy ClarkやJakob Hohwyの研究は、主として人間の認知活動の説明に向かっていたが、バレットの仕事の意義は、このアプローチを情動研究に拡張したということにありそうだ。

 バレットは、「内因性ネットワーク」が「内受容感覚」と結合するとき、感覚刺激は分類刺され予測されるようになるが、その分類に使用されるものが、情動概念(「幸福」「怖れ」「苛立ち」など)であると考える。

「本章(第5章)では、情動を自ら経験したり、他者の情動を知覚したりするたびに、人は概念を用いて分類し、内受容刺激や五感から意味を作り出していることを明らかにしていく。この考えは、構成的情動理論の主要なテーマをなす。」149

私たちは、情動概念によって情動を分類することによって、情動を構築しているのだが、しかしバレットによれば、私たちは、類似点を見つけて分類しているのではない、むしろ類似点を作り出しているのだ。情動概念は(おそらく情動語だけでなく、全ての概念も)合目的的概念である。(前掲訳、158)

バレットは、この感覚情報を分類する能力を統計的に学習する能力だと考えるが、それは人間だけに限られるのではないという。

「統計的に学習する能力をもつ動物は人間だけではない。人類以外の霊長類、イヌ、ラットなども、その能力をもつ。単細胞生物でさえ、統計学的学習や予測をおこなう。環境の変化に反応するだけでなく、それを予期するのだ。」164

しかし、

「純然たる心的概念を構築するためには、もう一つの隠れた構成要素が欠かせない。そう、言葉だ」166

「厳密に言えば、情動のインスタンスを構築するのに情動語は必要とされない。しかし、言葉を持つとそれが容易になる。効率的な概念を持ち、誰かに伝えたいのなら、言葉はとても有用である。」179

「情動概念を処理するシステムが貧弱な場合、心は情動を知覚できるのか?…答えは一般的に、「ノー」だと判明している」181

これらの引用からすると、情動概念をもつために言葉が必要であるのかどうか、曖昧であるが、少なくとも、犬は、情動概念を処理するシステムが貧弱であるので、情動を知覚できないことになる。

ところで、私たちは、認知だけでなく情動に関しても、感覚情報を情動概念で分類し、予測し、予測エラーを修正し、ということを繰り返すが、バレットによれば、概念と予測は、同一である(前掲書199)。これは、「概念」の意味の使用説と言ってもよいかもしれない。

たとえば、ある少女が持つ「ケヴィンおじさん」の概念は、ケヴィンおじさんに関する100ほどの予測にから成っているという。「ケヴィンおじさんは、あんな髪形をしている」「ケヴィンおじさんは、あんな歩き方をしている」「ケヴィンおじさんはあんな服は着ない」などなどである。

つまり、概念と予測は同一である。情動概念についても同様であり、たとえば、「幸福」という情動概念は、「幸福」に関する無数の予測と同一である。

バレットは、ここで「内受容ネットワーク」と(概念や予測の)「コントロールネットワーク」で、次のように情動現象を説明する。(この「コントロールネットワーク」は前に「内因性ネットワーク」と呼ばれていたものの一つの機能になるだろう。)

「内受容ネットワークは、…様々な概念の無数の競合するインスタンス(そのそれぞれが脳全体にわたる予測の連鎖をなす)を発行するだろう。その際コントロールネットワークは、脳がインスタンスを効率的に生成し、その中から勝者をえらべるように支援する。そして、特定のインスタンスの生成にニューロンを関与させることで、いくつかのインスタンスを存続させ、それ以外のインスタンスを抑制するよう導く。現状に最も即したインスタンスが生き残って知覚や行動を形作るという点でこの手法は、自然選択にも似る。」207

「情動の構築には、コントロールネットワークと内受容ネットワークが不可欠である。さらに言えば、この二つの核心的なネットワークは両者を合わせて、脳全体にわたる情報伝達に関与している主たる中枢のほとんどを生む。」208

このようにして、予測され構成される情動は、社会的なものであり、社会的現実を構成する。情動のこの第三の性質を次にみよう。

33 探索が意識されるのはどんなときか? (20210201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットの情動論の説明に戻ると言いましたが、その前に前回のupの補足をさせてください。

前回の結論として、予測を意識するには、探索が意識的になっている必要があると述べました。ところで、「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」では、問いないし探索が意識される場合を、次のように説明していました。

「問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。」

この「問い」を(広義の)「探索」に拡張すると、次のように言い換えられるでしょう。

①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②探索を意識するもう一つの場合は、探索しているものを発見できないので、その発見のために、別の探索をするときときである。このときこの「別の探索」を私たちは意識する。

ここでは、この①と②を再検討したいと思います。

まず①について気になるのは、<探索がうまくいかなくてそれを意識することは、行為がうまくいかなくてそれを意識するということの、特殊ケースである>という点です。むしろ、<行為の方こそが、探索の特殊ケースである>と思われるからです。

 探索するには、認知や、推論や、人に尋ねることなどの様々な方法があり、行為もまたその方法のひとつなのではないでしょうか。行為には目的がある。行為は、その目的をどうやって実現するかを探索することなのではないでしょうか。例えば、卵焼きをつくる時、どうやってうまく卵を焼くかを探索しているのではないでしょうか。

次に②について気になるのは、探索Aしているものを発見できないので、その発見のために探索Bをする、という場合、探索Aが意識的な場合と無意識的な場合を分けて考えた方がよいのではないだろうか、ということです。つまり、<もし探索Aが意識的なものであれば、探索Bも意識的なものになるだろう。ただし、もし探索Aが無意識的なものであれば、探索Bも無意識的なものになるのではないだろうか?>、ということです。

この点を検討するためには、(先ほど少し訂正した)①についても、もう一度検討する必要がありそうです。仮に「①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである」を認めるとしても、しかし、逆に「無意識に探索しているものを発見できないときには、探索を意識することになる」と言えるかどうかは疑問です。つまりこれが常に成り立つとは言えないように思えるのである。

 私たちのこれまでの考察が正しいとすれば、人間を含めた生物の意識の発生のメカニズムを明らかにすることは、この①のメカニズムを明らかにすることにかかっているはずです。どう考えればよいが、考えあぐねています。

 そこでこの問題を気にしつつ、とりあえずバレットの情動の説明に戻ることにします。

32 内因性ネットワークはなぜ予測するのか? (20210131)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットは、「内因性脳活動」ないし「内因性ネットワーク」は、人が生きているか限り、絶えず膨大な予測をしていると考えている。彼女はそれの証拠をあげておらず、第4章の注15でAndy Clark, Jakob Hohwy, Sophie Deneve and Renard Jardri,Andyの文献を挙げているだけである。そこで、Andy Clarkの論文 ” What ever Next? Predictve Brains, Situated Agents, and the Future of Cognitive Science,” 2013と彼の近作Searching Uncertainty、2016とJakob Hohwy, The Predictive Mind, 2013をつまみ読みしてみた。

 ClarkとHohwyの研究関心は大変にている。どちらも情動研究よりは認知研究に重心がありますが、ともに面白い。彼らは、人間の認知プロセスを説明するときに、ディープラーニングの研究を応用してアプローチする。予測をしてそれをチェックしてエラーを修正し、次第にエラーを少なくしていくというディープラーニングの手法を人間に当てはめて、人間の知覚を説明しようとする。

(認知や情動を理解するには、やはりディープラーニングのプログラムを勉強することが必要なようだ。)

(ちなみに、彼らはともに、Helmholtzの視覚生理学の研究を、その先駆として高く評価している。ヘルムホルツは、Handbuchder Physiologischen Optikの第三巻で「知覚のための無意識の推論」を無視式的な知覚的推論」の重要性をしてしていたようで、それを高く評価する。 HohwyのPredictive Mind (p.5)によれば、Helmholtzのこの研究はカントの認識論の影響を受けているとのことである。)

今後は、探索と発見の関係(広義での「探索と発見」)を、それが言語によって行われるときには、「問いと答え」と呼び、言語に寄らない場合には、「探索と発見」(狭義での「探索と発見」)と呼ぶことにしたい。人間以外の動物、および言語を獲得する以前の人間については、探索と発見として語り、言語を獲得した後の人間については問答として語ることになる。ただし、言語を獲得した後の人間も、言語を用いないレベルで探索と発見をしている場合があるだろう。

ところで、「予測」は、探索による発見として、あるいは問いに対する答えとして得られるものだろう。なんの必要も理由もないところで、いきなり何かが予測されるということはありえず、何かについての何かの予測が生じるとしたらそれが求めらているからであろう。

「予測」についても、それが探索による発見として得られる場合と、問いに対する答えとして得られる場合があるを区別できるだろう。そして、この区別とは別に、「予測」についても、「意識された予測」と「無意識の予測」を区別できるだろう。

 前に「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」で「問いを意識するの」場合と、「問いの答えを意識する場合」についてのべた(そこでは、証明はなく、結論だけを述べたのだが、それはどうやって証明したらよいのかわからなかったからである。しかし「より良い対案」を今のところ思いつかない)。後者、つまり問いの答えを意識する場合には、次の3つであった。

①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。

②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。

③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

これを「予測」に当てはめると次のようになる。

①意識的におこなう探索にたいする(発見としての)予測を得たときには、私たちは、その予測を常に意識している。

②無意識的におこなう探索にたいする予測を得たときには、大抵は、それを意識していない。

③その予測が、他の意識している予測と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

では、無意識の予測が、他の無意識の予測と衝突するときには、どうなるだろうか。

その場合には、それをどう解決するかは、無意識の探索になるのではないだろうか。

ところで、ディープラーニングによるコンピュータの探索は、意識を持たないので、その成果である予測も意識を持たない。上の①にあるように、予測が意識的なものになるのは、意識的な問いに対する答えとして生じる時だとすると、意識の発生を説明するには、意識的な探索がどのように生じるのかを説明する必要がある。

 話があちこちしてしまいましたが、いろいろと考えるべきことが分かってきました。しかし、とりあえずバレットの情動の説明にもどって、最後まで見ることにしたいとおもいます。