01認識についての問答の区別 (20210424)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは、問答の観点から認識を考察し、認識論の伝統的な問題に問答の観点から答えることだけでなく、認識についての新しいアプローチ、つまり新しい問題設定を目指したいとおもいます。論じたいトピックは、以下のようなものです。

・問答と知覚

・問答と知覚報告

・問答と観察命題と理論命題

・問答と科学研究

一般的に、認識に関する問答は、次の三つのレベルに区別できそうです。

レベル1(問答としての現象的認識):現象的認識は、問いに対する答えである。現象的認識は問答として成立する。例えば次のような問答になります。

  「この花は何色ですか?」:「黄色です」、「この花の色は黄色です」

レベル2:(問答としての理論的認識):現象的認識についての「なぜ」の問いと答えは、理論的認識を構成する。例えば次のような問答になります。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」:「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

(ここでの「現象的」と「理論的」の区別は、カルナップによる区別を念頭においたものです。いずれ説明します。)

レベル3(問答としての認識論)認識論は、認識についての問いに対する答えである。認識論もまた問答として成立する。例えば、「私はこの花の色を黄色だと認識している」という現象的認識について言えば、次のような問いになります。

 「なぜ、私はこの花の色を黄色だと認識しているのか」

通常の問いの答えは、命題になりますが、「なぜ」の問いの答えは、一般的に推論となります。「なぜpなのですか?」という問いへの答えは、「…ゆえに、p」という推論形式をとります。そして「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」と、行為の理由を問う「なぜ」と、主張の根拠を問う「なぜ」に区別できます(これについては、『問答の言語哲学』120-124で説明しました)。それゆえに、ここでの認識についての「なぜ」の問いも次の3つの意味に区別されます。

①<私はこの花の色を黄色だと認識している>という出来事ないし状態の原因を問う「なぜ」

この場合の答えは、「光が網膜にはいって、視神経を刺激して…、ゆえに、私はこの花の色を黄色だと認識している」という仕方で認識の原因の説明をおこないます。この問答は、「自然化された認識論」を構成します。

②<私はこの花の色は黄色だと認識する>という行為の理由を問う「なぜ」

 「私はこの花とあの花が同じ品種に属するものかどうかを知りたいゆえに、この花の色は黄色だと認識する」という仕方で、認識行為の理由の説明を行います。この問答は、「実践的な認識論」あるいは「プラグマティックな認識論」を構成します。

③「私はこの花の色は黄色だと認識している」という主張の根拠を問う「なぜ」

 この場合の答えは、「この花の色は、黄色である。私はこの花の色を黄色だと考えるゆえに、私はこの花の色を認識する」と言う仕方で、認識の主張の根拠を説明します。

 この問答は、「論理的な認識論」(この呼び方にはまだ迷いがありますが、とりあえずこうしておきます)を構成します。

認識論についての議論は錯綜しがちですから、とりあえず以上の区別を踏まえて、最も身近な認識である知覚と知覚判断の考察にとりかかりたいと思います。

(コメントをいただくときに、メイルアドレスの入力は不要になりましたので、安心してコメントしてください。よろしくお願いします。)

09 優生思想は、どこで間違えたのか? (20210420) 

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回から気になっていた「優生思想」の何処が間違いなのかを考えてみました(もちろん、以下が唯一の批判ではなく、他にも批判の仕方があるだろうと思います。)

とりあえず、「優生思想」を次のように理解します(もし間違っていたら、ご指摘ください。)

<現代の「優生思想」は、ネオダーウィニズムを前提する。ネオダーウィニズムは、人間を含む動物の遺伝的な性質は、突然変異と自然選択によってより生存に有用なものに置き換わっていくと考える。現代の「優生思想」は、この自然選択が、社会の中でうまく働かない場合があると考え、そのよう場合に、自然選択に代わって、社会的な選択をするべきだと考える。つまり、より有用な遺伝的性質をもつ個体の子孫を増やし、有用でない遺伝的性質をもつ個体の子孫を減らすように、社会的な選択をしようとする。>

「優生思想」は、個人ないし人類が生存する意味をどのように考えているのでしょうか。自然界における動物は、生存競争に勝ち、生き残ることを目標にしているかもしれません。人類は、自然界での他の生物との生存競争には既に勝っています。したがって、自然界での生存競争のために、社会的選択を持ち込む必要はありません。

 「優生思想」は、ある特定集団が、人間社会で、他の集団との生存競争に勝ち抜くために、社会的選択を行うことをすすめるのでしょうか。それとも、そのような社会的生存競争によって、人類をより優れたものにすることを目標としているのでしょうか。しかし、どのような遺伝的性質が、社会的生存競争に有利であるかは、どのような社会であるかに依存します。それゆえに、そのような仕方で社会的生存競争を繰り返すことによって、人類がより優れたものになってゆく保証はありません。ジャンケンのように、AはBより有利で、BはCより有利だとしても、AがCより有利だとは限らないからです。

個人や集団の存在意味は何でしょうか。その答えが何であれ、それが個人間や集団間の生存競争に勝つことである、ということにはならないでしょう。なぜならそれは、あまりにも社会の偶然的な状況に依存しすぎる目標だからです。コンテストに優勝したり、起業に成功したりすることは、素晴らしいことですが、しかしそれがその人の生きる意味だということにはならないでしょう。それらは、偶然的なことであり、その人の生きる意味がそのような偶然的な事柄によって決まるとは考えられないからです。

44 推論と志向性 続き (20210419)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

通常の問いの答えは命題ですが、推論が問いの答えになることがあります。それは「なぜ」の問いです。「なぜ」の問いの答えは、命題ではなく推論になります。「なぜ」の問いに対する答えとして、推論が示されるとき、推論の妥当性は、推論の誠実性条件になるでしょう。つまり「なぜ」の問いに対する答えとして推論が与えられてときには、推論は志向性だといえるでしょう。しかし、「なぜ」の問い以外の問いに答えるときに、行われる推論については、志向性をもつということは難しいと思います。(なぜなら、その推論は注意されていないからです。その推論で意識されているのは、結論(問いの答え)の方だからです。ただし、このような内観による説明では、全く曖昧で不十分であることを認めます。)

問いに対して、観察によらずに即座に答得られる時があります。それは、これまでも話してきた、行為内意図についての「あなたは今何をしていますか?」とか、信念についての「あなたはpと信じていますか?」などの問いです。これらの問いに対する答えは、推論に基づいていないようにみえます。しかし、問いを理解して、問いを受け入れて答えているとしたら、問いの前提を受け入れて答えているはずです。問いの前提にもとづいて、答えていることになります。つまり、問いに答える時には、つねに推論していることになります。

(このことは、非言語的な探索でも、おそらく同じようにいえるでしょう。探索には前提があり、探索に答えることはその前提を受け入れることによって成立します。したがって、非言語的探索に答えることもまた、推論によって成立します。この場合、この推論もまた非言語的推論であるでしょう。ただし、これは今のところ思弁的な推測にとどまります。)

 言語的志向性の場合と非言語的志向性(知覚的イメージ)の場合がありますが、どちらも問いの答えとして成立するだろうと推測します。そして、どちらの場合も、志向性は、問いの前提にもとづく推論によって生じるといえそうです。

 (志向性については、サールが論じている「集合的志向性」についても問答推論と関係を考察する必要がありますが、それは機会を改めて行いたいとおもいます。)

44 推論と志向性 (20210418)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 志向性が問いないし探求の答えとなることは説明しましたが、では志向性は推論とどう関係するのでしょうか。推論が一般的に問いの答えを求めるプロセスとして成立することについては、『問答の言語哲学』で説明しました。逆に、<問いの答えを求めるプロセスはつねに推論になる>と言えるでしょうか。もし言えたならば、志向性をもつ心的状態もまた推論によって成立すると言えそうです。

 問いもまた前提を持ちますが、それは意味論的前提と語用論的前提に分けられます。意味論的前提とは問いが真なる答えを持つための必要条件であり、語用論的前提とは、問いの発話が質問と言う発語内行為を行えるための必要条件になります(cf.『問答の言語哲学』222-224)。この問いの意味論的前提は、問いの答えの前提(つまり答えが真であるための必要条件)でもあります。そして、問いの前提をp、その答えをrとするときには、p,Γ┣rという推論関係が成立します。(pはrの必要条件であるので、r┣pという推論関係も成立するのですが、しかしまだrを知らないで、問いの答えを求めているときにも、pは問いの前提としてすでに受容されているので、pを前提とし、それに他の命題を加えて、答えを導出しようとすることになります。そこで問いの答えを求めるプロセスでは、p,Γ┣rが成立することになります。)したがって、<問いの答えを求めるプロセスはつねに推論になる>といえそうです。

 ここでの問題は、志向性を答えとする場合です。志向性をもつのは文や命題ではなく、心的状態です。文や命題については、推論関係を言うことができても、心的状態について推論関係を言うことができるのでしょうか。推論に対応する心的状態があるのでしょうか。推論に誠実性条件があるでしょうか。(ちなみに、質問発話には、その誠実性条件として「問う」という心的状態を想定しました。そして「問う」という心的状態が志向性を持つことを説明しました。)

 はたして、推論に誠実性条件はあるのでしょうか。推論もまた、志向性の一種なのでしょうか。

これを次に考えたいと思います。

43 志向性の別の分類方法 続き (20210416)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回説明した志向性は次の4種類でした。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

この分類にかけているもの一つは、「願望」です。願望とは、事実がある状態であってほしいと思うことです。その事実が、過去の事実であるか、現在の事実であるか、未来の事実であるか、によって「願望」を分けることができます。それらを順にみたいと思います。

<過去の事実>に関して、ある状態であってほしいと願う願望には、反事実的な願望とそうでない願望の二種類があります。例えば、TVを見てしまったが、TVを見ずに勉強しておけばよかったと思うとき、それは、過去についての「反事実的な願望」です。しかし、過去についての願望は、反事実的であるとは限りません。たとえば、ダメットの有名な「酋長の踊り」の場合がそうです。村の若者達が狩りに出て、村に戻ってくる途中だと思われるときに、酋長は狩りの成功を願って踊るのです。酋長の願いは、若者たちの狩りが成功であったということです。しかし成功であるかどうかは酋長が踊っている時にはもう決まっているはずです。しかし酋長は結果を知らないので、成功であったことを願っているのです。この願いは反事実的な「願望」ではありません。しかしこれもまた過去の事実に関する「願望」です。

 <現在の事実>に関しても、このような二種類の「願望」があります。トレーニングしているとき、もっと筋肉があればなあと願うのは、「反事実的な願望」です。これに対して、壺の中のサイロが丁か半かのどちらかにすでに決まっており、私がすでに「丁」にお金を賭けているとしましょう。私が「丁」であることを願うとき、これは反事実的ではない「願望」です。

 <未来の事実>に関する「願望」にも、反事実的願望とそうでない願望の二種類があります。未来は未定なのですが、6時間後には日付が変わることがわかっています。それにも関わらず、まだ今日17日中に送るべき資料ができそうにないときに、明日もまた17日が繰り返すことを願うとすれば、それは未来の事実に関する「反事実的願望」です。それに対して、12時までに資料を仕上げられることを願うとき、それは反事実的ではない「願望」です。

 前回の分類に欠けているもう一つのものは、「想像」です。「想像」にも、適合の方向を持つ「想像」と、適合の方向を持たない「想像」(サールが「想像」と呼んだもの)の二種類があります。

 適合の方向をもつ想像とは、事実についての想像であり、過去や現在や未来の事実についての推測ないし予測になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが加わると、それは上述の「願望」になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが伴っていないとき、その想像は、単なる事実の予測ないし推測になります。つまり、適合の方向を持つ「想像」は、「願望」と、「単なる予測や推測」に区別できます。ただし、この二つの違いは、願望が伴う「塑像」であるか、願望が伴わない「想像」であるか、という違いだけではありません。

「願望」の場合には、それが生じるだろう(生じていただろう、生じているだろう)という予測が伴わない場合があるからです。例えば、パンをうまく焼けるだろうという見込みが全くなくても、それを「願望」することはできるからです。

 単なる予測や推測の場合には、その内容がよいことであれ悪いことであれ、それが生じる可能性がある程度あるという信念が伴います。つまり、それが生じると信じる根拠が

 サールが言う適合の方向を持たない「想像」は、言語行為でいうと、命題行為に伴う心的状態であるように思われます。同一の命題行為は、異なる発語内行為を結合して、異なる発話を構成します。それと同様に、適合の方向を持たない「想像」は、適合方向を持つ志向性と結合して、志向性を持つ心的状態を構成するのではないでしょうか。

 前回述べた4つの志向性、今回のべた「願望」、適合の方向を持つ「想像」、これらの志向性から適合に関するコミットメントを除くと、適合の方向を持たない「想像」が残りそうです。

この想像の内容は、知覚的イメージと命題内容の二種類に分けられるでしょう。(ただし、英語の場合には、「想像」には、この二種類の内容におうじて、imaginationと、thought (guess) に区別できるかもしれません。)

 発話がどのような発語内行為を行うかは、その発話の相関質問において既に指定されています。

     ?pという一種類の質問に対して、┣(p)、!(p)、C(p)、E(p)、D(p)

という異なる発語内行為の返答が可能なのではなくて、質問発話は、文脈などによって、すでにどのような発語内行為の返答を求めるのかを示しているはずである。それゆえに、相関質問は、次のように表示されるはずです。

   ?┣(p)、?C(p)、?E(p)、?D(p)

(これについては、『問答の言語哲学』「第三章」で説明しましたので、ご覧ください。ここでは、その議論を、「志向性」に拡張しようとしています。)

志向性についてもこのようになるはずです。志向性もまた、問いに対する答えとして成立します。なぜなら、志向性の「ついて」性は、ある事柄に注目するという性質であり、それは問いに対して答えるということによって可能になると思われるからです。

 志向性がこのような仕方で問いの答えとなること、あるいは、問いの答えが、このような仕方で志向性を持つことを確認できたとしましょう。それでは、志向性は推論とどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

42 志向性の別の分類方法 (20210415)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(前回述べたことは、意識や表象についての内省にもとづく一人称的知識は、それだけで成立するのではなく、対象についての知識と他者の心についての知識との相互依存関係(三角測量)において成立するということでした。ところで、志向性は心的内容が<ついて>性を持つということでししたから、その志向性についての知識は、一人称的な知識になります。しかし、三角測量のために、志向性についての知識を主張したり受け入れたりするには、対象についての知識や他者の心についての知識も必要になります。

 この話に戻ってきたいと思いますが、以下では、「志向性」について、サールとは違った分類を考えてみることから始めたいと思います。)

私たちは、<ついて>性をもつ心的な内容(志向性)を、知覚的なイメージと言語的な内容に分けることができるでしょう。それぞれについて、二つの適合の方向(心を世界に適合させる、世界を心に適合させる)を考えることができるでしょう。そうすると次の志向性を考えることができます。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

 玄関に自動車の鍵があるだろうと想像して、それを取りに行くとき、その「知覚的想像」は適合の芳香を持ち、真偽を持ちます。コロナはますますひどくなるだろうと考えるとき、その「言語的信念」は適合の芳香をもち、真偽を持ちます。

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)(針金を曲げようとしている場合には、知覚的イメージと意図が結合しており、〇〇さんに投票しようとその名前を投票用紙に書いているときには、言語的内容と意図が結合していいます。ただし、残念ながら、英語にも日本語にも、この二種類の行為内意図に別々につけられた名前はありません。)

これらはどちらも<現在の適合関係>ですが、次の2つは、<過去の適合関係>と<未来の適合関係>を加えると次が考えられます。

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

おそらく、これでは志向性の分類としてまだ不十分です。

これは、まだ不十分な分類なのですが、次の3種の区別の組み合わせで分類をしました。

  ・心的内容を、知覚的イメージと言語的内容の2つに分ける

  ・適合の方向を、2方向に分ける

  ・適合の時間を、過去、現在、未来の3つに分ける

何を補えばよいのかを、次に考えたいとおもいます。それを踏まえて、これが、サールの区分よりもすぐれていることを示したいと思います。]

29「グローバルな総中流社会」を目指して (29219413)

[カテゴリー:日々是哲学]

「総中流社会」は、日本では高度経済成長の結果として一時的に実現していたかもしれませんが、グローバル化とそれにともなう新自由主義政策によってなくなってしまいました。したがって、それを復活させるには、新自由主義政策を変えて、1980年の頃の法人税率、所得税の累進税率を復活して、所得の再分配を進める必要があります(参照、https://irieyukio.net/blog/2008/10/16/%e8%b2%a1%e6%94%bf%e8%b5%a4%e5%ad%97%e3%81%ae%e5%8e%9f%e5%9b%a0/)。しかし、他方で、グローバル化以前の相対的に閉じた一国経済に戻ることはできないでしょう。そうすると、どうすればよいのでしょうか。

 一つには、バイデンがやろうとしているように、法人税の引き上げ、所得税の累進税率の引き上げを、それの国際的な共同実施を目指すことです。したがって、総中流社会の実現は、世界規模で行わなければ実現しないでしょう。(以上は、カテゴリー「格差問題」に10年以上前に書いたことでもあります。バイデンに期待したいとおもいます。)

 日本でこれを妨げるものは、政府にコントロールされたマスコミです。政府にコントロールされない自由なマスコミをつくることが不可欠になると思います。

17 言語の起源と問答 3 (20210411)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

言語の起源の説明が課題でした。そして、「言語は、問いに対して答えることに始まる」というのが提案でした。言語に特徴的なことの一つは、ある意図を伝達することによって、同時にその意図が実現するということにあると思われます。「関連性理論」にしたがって、ある意図を伝達しようとする意図を「伝達意図」と呼ぶことにします。では、このような伝達意図は、どのようにして発生するでしょうか。これが最初に発生するのは、他者の問いかけに答えようとするときではないでしょうか。他者から何かを問いかけられたと考える時、それに応答する行為は、不可避的に、他者に自分の返答を伝える行為、つまり自分の何らかの意図を伝えようとする行為になってしまいます。したがって、問いかけに対する返答は、伝達意図をもつことになり、このような伝達意図なしに、問いかけに答えるということは不可能です。伝達意図をもつ発話行為は、他の場合にもありうるかもしれませんが、問いかけに応答する場合に特徴的なのは、伝達意図を持つことが不可避になるということです。問われたときには、それに答えることが不可避になるということ、これを「問答の不可避性」と呼ぶことにしました。

 「問答の不可避性」について改めて考えてみたいと思います。問いかけは不思議な力を持っています。「一緒にキャンプに行きませんか?」と問われたら、「はい」か「いいえ」かの返事を迫れることになります。もちろん、「少し考えさせてください」と返事することができ、それは「はい」でも「いいえ」でもありませんが、それもまた一つの返事です。黙っていれば、おそらく「いいえ」という返事をするのと同じことになるでしょう。つまり、「一緒にキャンプに行きませんが?」と問われたら、不可避的に何らかの返事をすることになるのです。

 (言語が浸透している集団の中では、質問でなく、他の発言でも、その発言に応答することが不可避になります。質問でなく「熊だ!」という発話の場合も同様であり、どのように発言しようと、あるいは無視しようと、それは「熊だ!」という発言への応答になってしまいます。言い換えると、全ての発話は、応答を求めており、それに続く発話は、それへの応答であるという意味を持ってしまいます。これは『問答の言語哲学』第三章で述べたことです。)

 次は、問答の不可避性ではなく、選択の不可避性の例です。

 キャンプしていて、テントのそとでガサガサ音がすれば、動物かもしれないと思い、その音が大きく、また鼻息まで大きく聞こえてくれば、熊であることがまだ確実ではないとしても、その可能性を考えて、それに対応した行動をとるでしょう。たとえば、逃げる用意をするとか、熊よけスプレーを準備するでしょう。ここで、いくつかの行動の選択肢を思いついたとき、その中からどれかを選択することは不可避です。いくつかの選択肢の中のどれも選択しないとすれば、そのこともまた一つの選択肢であったということになります。

 また例えば、大学生協で食券の券売機に並んで、自分の順番が来たときには、食券を買うことをやめて立ち去ることもまた一つの選択肢だとすれば、そこで何も選択しないことは不可能です。行為の選択肢が思い浮かんだ時には、何らかの選択することは不可避になります。

 このような選択の不可避性が、他者への応答に関して生じる時、問答の不可避性が成立します。他者に問いかけられたと思ったときには、実際に問いかけられていなかったとしても、その問いかけにたいして何らかの応答を選択することは不可避になります。つまり、実際には相手に問いかけるという能力がなかったとしても、ひとが相手に問いかけられているかもしれないと思ったならば、そのときには、応答すること、つまり、伝達を意図することが不可避に生じるのです。つまり、不可避に言語が生じるのです(グライスの言う非自然的に意味することが、不可避に生じるのです)。

 では、ひとが問いかけられている(あるいは、問いかけられているかもしれない)と思うことは、どのようにして発生するのでしょうか。

28 嘘つき政治家を批判しないマスコミから、独裁政治へ (20210410)

[カテゴリー:日々是哲学]

(安倍晋三の影響でしょうか)政治家と官僚の言葉の軽さが気になります。彼らはまるで息をするように平気で嘘をつきます。そして記者からの問いかけを平気で無視します。つまり、質問に対して嘘を答えるだけでなく、質問を無視します。真摯にコミュニケーションしようという姿勢が見られません。彼らの本音は、「黙って俺の言うことを聞け」と言うことなのでしょう。しかし、それは民主主義ではなく、独裁です。政治家と官僚の嘘を許すことは、いずれ独裁政治に行き着きます。

 嘘をつく政治家、官僚は酷いですが、それを批判しないTV、新聞も酷いです。そういうTVや新聞が、やがて自由にものが言えない独裁政治を生み出すことになるのです。

16 言語の起源と問答 2 (20210407)

【カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

人間の言語活動にあって、動物の言語にないものは何かと問われれば、語による指示、伝達意図、問答関係、などを挙げることができるでしょう。チンパンジーに指示ができないことについては、次を参照してください(http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/nikkei/42-2016-03-06.html )『関連性理論』のスペルベル&ウィルソンならば、動物は伝達意図を持たないと言いそうです。

#では、この伝達の意図の認識は、どのように生じるでしょうか。言葉を話すということは、何かを伝達しようとすることです。それゆえに、単なる発声ではなく、言葉を話しているとわかれば、それが伝達意図をもつと想定できます。

 ただしこれは、すでに言語が成立している社会でのことです。いまだ言語が一般的でない社会では、相手の伝達意図の認識は、どのように生じるのでしょうか。こちらからの問いかけに対して、相手の発声があるとき、相手の発声は何らかの伝達意図をもっているのかもしれないと推測できます。(ここで、相手の発声の伝達意図を推測できる者は、すでに伝達意図についての概念を持っていなければなりません。)

#伝達意図の条件

普通は、他者が自分を喜ばせようと意図していることを知って、人は嬉しくなるでしょう。しかし、その他者がストーカーであれば、彼・彼女が自分を喜ばせようと意図していることを知っても、その人は嬉しくなりません。<Aを実現しようという意図を知らせることによって、Aが実現する>ということが成り立つための条件は何でしょうか。

 AがBを喜ばせようと意図1するとしましょう。このAの意図1を知って、Bが喜ぶのは、どのような場合でしょうか。BがAをストーカーだと思っている時には、BはAの意図1を知っても不快に感じるでしょう。AがBを喜ばせようと意図するとき、AはBを喜ばせることができると信じています。しかしBは、「AはBを喜ばせることができる」とは思っていません。ここでは、意図の前提を共有していないので、Aの意図を伝達しても、「喜ばせよう」というAの意図は実現しないのです。

 威嚇についても同様です。多くの場合、AがBを威嚇しようとする意図を伝達するだけで、Bは怖れを感じて、威嚇しようとするAの意図は実現します。しかし、この場合にも、そうなるためには、Aの意図の前提「AはBを威嚇できる」をBもまた共有している必要があります。それを共有していなければ、BはAの意図を知っても、怖れを感じないでしょう。

 意図の伝達が意図の実現になるためには、意図の前提を共有していなければなりません。<意図の前提の共有>は、意図の伝達が意図の実現になるための、必要条件です。(では、十分条件はなにでしょうか。)

 スペルベルとウィルソンは、相手を喜ばせようとする意図は、その意図が伝わるだけで相手を喜ばせることになり、相手を脅迫しようとする意図は、それが伝わるだけで相手を脅迫することになる、と語った後で、次のように続けます。「このような可能性が例外的にではなく、常に利用される類の意図がある。すなわち、情報を伝えようとする意図は一般的にそれを認識可能にすることで達成されるのである」 (スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二他訳、研究社出版、25)

 ここでは、情報意図は、つねにそれを伝達することで実現する、と言われています。情報意図が、伝達されることで実現することは、次のように説明出来ます。

①話し手Sが、聞き手Hにpを信じさせようと意図1(情報意図)して、pと話すとしよう。

②Sが、意図1をHが認知することを意図2している(意図2は、意図1を伝達しようと意図している伝達意図である)

③Sは、Hが意図1の認知にもとづいて、pを信じることを、意図3する。

情報意図が伝達されることで実現するのは、この③による、と考えられています。しかし、③の意図が実現するには、聞き手が、話し手の知的な能力と誠実性を信頼していることが必要です。<知的な能力と誠実性への信頼>は、集団生活の中で育まれるものでしょう。<知的な能力と誠実性への信頼>のない集団では、言語は発生しないでしょう。そしてそのようなヒトの集団は人類の進化のプロセスにおいて淘汰されるでしょう。<知的な能力と誠実性への信頼>は、グライスの「協調の原理」、デイヴィドソンの「寛容の原理」に似たものです。

 ところで、問答関係の不可避性は、「協調の原理」や「寛容の原理」よりも、より基礎的なものであると考えます(『問答の言語哲学』「3.3.4問答の不可避性」を参照)。問答関係の不可避性と伝達意図の関係を次に考えたいとおもいます。