37 問答としての「提示」 (20210323)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

表象と提示の違いは、簡単に言えば、表象は充足条件と間接的に関係し、提示は直接に関係するという違いです。表象が充足条件である対象や事態に間接的に関係するということは、「指示」(場合によっては、表示や表現)の関係にあるということを意味しますが、この「指示」の説明が難問です。私は、指示は、問いに対する答えとして可能になると考えています(これについては、『問答の言語哲学』で説明しました)。ただし、知覚報告における指示は、知覚を介するので、知覚における提示についても考慮する必要があります。サールは、知覚の提示は、対象と直接に関係すると言います。たしかに、物からの因果関係で知覚が生じます。しかし、何を知覚するかは、主体が何を探索するかに依存します。物のどこに注目するかも、主体の探索に依存します。(サールは知覚の因果説に批判的です(cf. これとは別の理由で、サールも知覚の因果説に批判的です。つまり知覚における自己言及的志向性を看過しているという理由です。cf. 『志向性』訳、66) 以前に(30)で述べたように、ここには次のような広い意味での「二重問答関係」(正確には、問答と探索発見の二重関係)が成立しています。

  対象についての問いQ2→主体の探索Q1→知覚A1→知覚報告A2

(Q2とA2は言語的な問答関係、Q1とA1は非言語的な探索と発見の関係になります。)

行為内意図は行為を惹き起こします。物体としての身体の運動が、他の物体を動かします。したがって、行為内意図は身体運動を介して、世界を変化させます。行為内意図が身体運動を惹き起こすのは、行為内意図を形成するニューロン群の発火が、筋肉につながった、運動神経(遠心性神権)とよばれるニューロンを発火させることによるのだと思います。先行意図を形成するニューロン群と行為内意図を形成するニューロン群がどういう関係にあるのか、それぞれのニューロン群の発火同士がどのような関係にあるのはわかりません。行為内意図の意識は、「何をしようとしているのですか」という問いに対する答えとして生じると思いますが、他方では、行為を遂行する間の細かな行為の調整には、対象についての知覚や身体状態についての探索と知覚も利用されているはずです。この行為調整では、言葉にすれば「どうしよう」というような探索が行われているとおもいます。

 とりあえずは、このくらいにして、次に志向性としての「信念」と「願望」の考察に移りたいとおもいます。

25 なぜ「総中流社会」を目指すのか (20210321)

[カテゴリー:日々是哲学]

 問い「「総中流社会」の実現によってどのような社会問題が解決されるのか?」に対する一つの答えを考えてみました。

 近代国家は、社会契約論に基づいて構築されています。近代国家は、社会契約によって構築されています。しかし、契約主体である個人は、産業資本主義が生み出したものであり、その産業資本主義は、国家が生み出したものです。この資本主義の市場メカニズムを保証するのは、国家です。

契約の自由、契約の履行、を保証しているのは国家です。つまり、契約主体である個人は、近代国家が生み出したという側面を持ちます。人と集団(個人と国家)は、共進化してきたし、これからも共進化を続けるでしょう。

 社会契約論は、個人主義という幻想、個人の自律性のアプリオリ性という幻想に基づいているのですが、個人の自律性は歴史的に形成されたものであり、契約主体は社会的相互承認によって成立するものだと言えるでしょう。近代国家と個人は、社会的相互承認によって構成されています。

そして、この社会的相互承認は、(他の超越的な何かに依拠するのではないのだから)常に再構築され続けなければならなりません。そうすると総中流社会が必要になるのではないでしょうか。総中流社会が壊れて、格差が拡大した社会になると、社会的相互承認は崩壊します。社会的相互承認を維持するには、総中流社会であることが必要条件になるでしょう。

 ところで、契約主体としての人権を保障するのに、現代でも人権の生得説が持ち出されることがあります。人権の生得説は、人権を侵害する政府や国家を批判するときには有効ですが、他方では社会的相互承認の崩壊にまで目を向けることを妨げる場合があります。人権の生得説ではなく、人権を社会的承認論によって説明することが必要だと思います。

37 表象と提示 (20210321)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚と行為内意図は提示であり、記憶と先行意図は表象であると言います。

知覚が「事態の提示」であるとは、次のような意味です。

「たとえば、私が黄色いステーションワゴンを前方に見ている場合、私の有している経験が直接にその対象についての経験である。その経験は単に対象を「表象」しているのみではなく、対象への接近をも与えている。その経験は、ある種の直接性、端的さ、そして意のままにはならないという、眼前にはない対象について信念を抱くような場合には見出されない性質を有している。それゆえ、視覚経験を表象として描写することは不自然であるように思われる。実際、そのように視覚経験を語る場合には、どうしても知覚の表象説へと導かれてしまうだろう。そこで知覚経験のこうした特別な性質のゆえに、私はそれらをむしろ「提示」と呼ぶよう提案したい。私が述べようとしている視覚経験、知覚された事態を単に表象するのみではなく、それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すものであり、そのいみでそれは事態の提示なのである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房63、下線と強調は入江)

「提示は、われわれが表象に与えた定義的条件(すなわち、志向内容、充足条件、適合の方向、志向対象、などを有する)をすべて満たしている」

「提示」は「表象の一種」だとされます。これが、それ以外の表象と異なるのは、「それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すもの」であるとされます。

では、行為内意図が「提示」であるとは、どういう意味でしょうか。行為内意図が行為を惹き起こしているので、行為内意図が行為の原因だと言えるでしょう。先行意図もまた行為の原因になりますが、先行意図は行為と時間的に離れているので、直接の原因ではなく間接的な原因となります。先行意図が行為の原因になるためには、行為内意図になる必要があります(先行意図自身が、時間経過によって行為内意図に変化すると考えるのか、それとも先行意図は消えて行為内意図が生じるのか、について議論があるようですが、今は踏み込みません)。先行意図は行為の表象を含みますが、行為内意図は、行為そのものを含むといえるでしょう。行為内意図は行為そのものを提示するのです。

サールは、共に提示である知覚と行為内意図の類似性を、次のように説明しています。

「テーブルを見ることの場合には二つの構成要素、つまり、志向的構成要素(視覚経験)とその充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がそこに含まれていたのとちょう同じように、私が自分の腕を上げるという行為にも志向的構成要素(行為経験)とその充足条件(私の腕の運動)という二つの構成要素が含まれているのである。志向性に関する限り、視覚経験と行為経験との相違は、適合の方向と因果作用の方向とにある。」(同書123f)

つまり、知覚の場合には、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が原因となって、志向的構成要素(視覚経験)が生じるのに対して、行為の場合には、志向的構成要素(行為経験)が原因となって、充足条件(私の腕の運動)が生じます。

ちなにみ、知覚と行為には、経験と充足条件の片方だけが欠けている場合がある。知覚の場合、志向的構成要素(視覚経験)があるが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が欠けている場合(幻影肢の場合)と、志向的構成要素(視覚経験)が欠けているが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がある場合(これは盲視の場合)がある。

これと同様に、行為の場合、志向的構成要素(行為経験)があるが、その充足条件(私の腕の運動)が欠けている場合(コーヒーを飲んでいるつもりだったが、その代用品を飲んでいた場合)と、志向的構成要素(行為経験)が欠けているが、その充足条件(私の腕の運動)がある場合(行為しているが行為内意図を意識していない場合)がある(参照、同書125f)。

 さて、このように志向性が単なる表象ではなくて、提示であるとき、それを答えとする問いないし探索は、表象を答えとする問いないし探索とどのように異なるのでしょうか。

36 行為内意図と実践的知識は同一か? (20210319)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 前々回(34)に、「実践的知識」と「行為内意図」の違いを説明しました。前者は記述であり真理値を持つのに対して、後者は意図表明であり真理値を持ちません。「何をしているのですか?」と問われて、観察によらずに即座に「コーヒーを飲んでいます」と答える時の答えが「実践的知識」です。その時のコーヒーを飲む行為に内在する「行為内意図」は、「コーヒーを飲もう」となると説明しました。

 しかし今回サールがこの二つを同一視していることに気づきました(私は以前にその個所に傍線を引いて読んでいたのに、不思議なことにその内容を忘れてしまっていたのです)。サールは次のように言います。

「われわれは次の事実がいみするところに強く印象づけられるのを認めざるをえない。すなわち意識生活のいかなる場合においても人は「君はいま何をしているのか」という問いに対する答えを観察によらずに知っているという事実である。多くの哲学者がこの事実に気づいていたが、私の知る限り誰もその事実が志向性にとって意味するところを追求しては来なかった。自分がしたことに結果について誤解している場合でさえも、人は自分が何をしようとしているか知っている。」127(強調と下線は入江の付加)

実践的知識は「自分が何をしているのか」への答えであり、行為内意図は、「自分が何をしようとしているのか」への答えである。行為内意図の表明が答えとなる問いは次のようなものになるでしょう。

  「君は何をしようとしているのか」

  「私はいま何をしようとしているのか」

しかし、サールは、ここでそれらを区別していません。つまり、アンスコムの言う実践的知識を行為内意図の表現であると考えています。そのように考える時、彼は次の二つを区別しないことになります。

  「コーヒーを飲んでいる」

  「コーヒーを飲もうとしている」

ところで、サールは、先行意図の言語形式を

      “I will do A”「私はAしよう」ないし

   ”I am going to do A”.「私はAするつもりだ」

行為内意図の言語形式を

   ”I am doing A”「私はAしている」

と説明しています。行為内意図のこの言語形式は、実践的知識の表現形式にもなるものです。

 もし「私はAしている」を実践的知識の表現であり同時に行為内意図の表現でもあると考えると、この発話の適合の方向は両方向になるでしょう。これは宣言型発話の一種であることになります。この場合には、行為内意図の表明が答えとなる先述の問い

  「君は何をしようとしているのか?」

  「私はいま何をしようとしているのか?」

これらはともに、宣言を答えとする問いであることになります。

(行為内意図と実践的知識を区別するべきかどうかについて、私はいま決定することができません。ここではペンディングとします。これまでは、いろいろなところでこの二つを区別して論じてきましたので、あるいは修正の必要があるかもしれません。)

いずれにせよ、先行意図と行為内意図がともに(暗黙的な問いであれ)ある問いに対する答えとなること、そして、それらの意図が明確に意識されるのは、それらが、意識的な問いへの答えとなるときあることを主張したいと思います。(以上が、まだ十分な論証と言えるものになっていないことは認めます。)

 次に、志向性としての「信念」の考察に移りたいところですが、その前にサールによる「表象」と「提示」の区別について検討したいと思います。

35 行為内意図と先行意図 (20210318)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(6種類の志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)がすべて問いに対する答えとして成立することを論証することが、現在の課題です。知覚と記憶についてそれを確認した後、行為内意図についてその相関する問いを考えようとしましたが、少し難しいので、先行意図と比較しながら、それを考えることにしました。)

 「先行意図」(prior intention)とは、未来においてある行為をしようとする意図です。例えば「信号が青になったら、横断歩道を渡ろう」とか、「卵に火が通ったら、火を止めよう」とかいうような意図です。

 これらは、<横断歩道を渡ること>や<火を止めること>「について」という構造を持つ心的内容であるので、志向性の定義に当てはまります。そしてこれらのS(r)構造は次のようになります。

  しよう(横断歩道を渡ること)

  しよう(火を止めること)

 先行意図は、次のような発話の誠実性条件となります。典型的なのは約束の発話です。「Aします」という約束の発話が誠実であるとは、「Aしよう」という先行意図を持っているということです。独り言や内語(inner speech)には、「いつ横断歩道を渡ろうか?」「信号が青になったら、横断報道を渡ろう」というような問答の答えの発話の誠実性条件として、先行意図が考えられます。これによって、先行意図は相関する問いに対する答えとして成立すると言えるでしょう。別の論証の仕方をするならば、次のようになります。先行意図は、実践的推論の結論として成立するものであり、実践的推論は問いの答えを求める過程として成立するのだから、先行意図は問いに対する答えとして成立するのです。

 (ちなみに、独語(独り言)や内語(inner speech)には、6つの志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)のそれぞれを表現するものがあります。ただしこれら以外に、「ラッキー!」とか「チクショウ!」とかの表現型発話が、独語ないし内語として語られる場合もあります。独語や内語の発語内行為について、まとめて考察する必要があると思いますが、いつか別途おこないたいです。)

 では、「先行意図」の充足条件は、どのようなものになるでしょうか。

 サールが言うように、知覚と記憶の志向性と同様に、行為内意図と先行意図の志向性もまた「因果的自己言及性」を持つと言えます。なぜなら「Aしよう」という意図が満たされるには、<Aが実現すること>だけでなく、その実現が「Aしよう」という意図によって引き起こされることが必要だからです。この意味で、意図の充足条件には、「因果的自己言及性」が含まれています。行為内意図と先行意図のそれぞれにについて充足条件の例を挙げると次のようになるでしょう。

 行為内意図「コーヒーを飲もう」の充足条件は、次の二つになります。

  ①実際にコーヒーを飲むこと

  ②コーヒーを飲むことが行為内意図によって引き起こされていること

先行意図「横断歩道を渡ろう」の充足条件は、次の二つになります。

  ①(未来において)横断歩道を渡ることが実現すること

  ②横断歩道をわたることが先行意図によって引き起こされること

この二つには、<現在の行為>の意図と<未来の行為>の意図の違い以外にも次のような違いがあります。前に(32)で述べたように、サールは、は知覚と行為内意図は「志向性の原始的な形式」であり、記憶と先行意図は、一段階上の志向性であるみなします(参照、サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、60)。志向性の原始的形式では、「主体となる動物」と「環境」は直接にコンタクトし、「行為内意図の場合は、動物が原因となって環境に変化をもたらす」(同所)といいます。これに対して、「先行意図は行為内意図を充足条件に含む表象」だと言われます。「この水準では、因果成分それ自体は存在するものの、充足条件との間に直接の因果関係があるわけではない。[…]先行意図が表象するのは未来だからである。」(同所)

 行為内意図において、人間は環境に直接に働きかけ、先行意図においては、未来の行為内意図を介して環境に働きかける、という違いがあります。

 以上の考察を踏まえて、行為内意図の問答関係の考察に戻りたいと思います。

24 「総中流社会」を目指しては? (20210317)

[カテゴリー:日々是哲学]

 冷戦終結後、世界的にも日本国内でも経済格差が拡大し続けています。これに対抗するのに、現代では共産主義や社会主義をもちだしても有効だとは思えません。目指すべき社会像を見失っていることが、現代の大きな問題だと思います。

 そこで、提案したいのは、かつて日本の「現実」(?)として語られていた「総中流社会」です。

この言葉は、当時はあまりポジティヴな意味で使われていなかったように思います。しかし格差社会になってしまうと、「総中流社会」は目指すべき社会像とすることができるのではないでしょうか。日本だけでなく、世界全体を「総中流社会」にすることは、人類の幸福のためには、是非とも必要なことであると思います。

 もちろん「総中流社会」という言葉だけでは曖昧過ぎるので、その意味を明確に規定する必要があります(ただし、厳密な定義は、ウィトゲンシュタインが指摘したようにおそらく不可能だろうとおもいます)。さらに「「総中流社会」の実現によってどのような社会問題が解決されるのか?」、「総中流社会をどのようにして実現するのか?」などに答える必要があります。

 「これでは、最底辺の人々を救えない」という批判があるかもしれませんが、それに答えるには、「「誰でも中流になれる社会」をどのように実現するのか?」に答える必要があります。

 「総中流社会」というのは、人類が目指すべき社会像として魅力的なのではないでしょうか?

34 行為内意図と問答 (20210316)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 サールは、意図を、行為内意図(intention in action)と先行意図(prior intention)に区別します。

行為内意図とは、その時進行中の行為について、それをしようとする意図です。コーヒーを飲んでいるときの「コーヒーを飲もう」という意図です。この意図がなければ、行為は成り立ちません。

この意図は、アンスコムいう実践的知識と深く関係しています。アンスコムの言う実践的知識とは、「何をしているの?」と問われたとき、観察に寄らずに即座に例えば「コーヒーを飲んでいます」と答えられるときの答えです。これが知識と呼ばれるのは、これは行為の記述であり、真偽があり、偽の可能性もあるからです。例えば、本人がコーヒーだと思って飲んでいたものが、麦を焦がして作った飲料であるということがあり得るからです。言われてみると、確かにコーヒーとは少し違った味だと気付くということがあるかもしれません。実践的知識は大抵は正しいとおもわれますが、正しいとき、それは行為内意図と次のように関係します。

  「コーヒーを飲んでいます」という実践的知識

  「コーヒーを飲もう」という行為内意図

これらは、「(私は)…しています」と「(私は)…しよう」との違いです。前者は真理値を持ちますが、後者は記述ではないので真理値を持ちません。前者は「何をしているの?」という問いの答えですが、後者はどのような問いの答えとなるのでしょうか。言い換えると、後者はどのようなときに意識されるのでしょうか。これを考えたいと思います。

 行為内意図は、コーヒー(あるいはコーヒーを飲むこと「について」の心的状態であり、志向性の定義に当てはまります。これのS(r)構造(「S」は心理的様態、「r」は表象内容)(『志向性』訳8)は、次のようになるでしょう。

   しようとする(コーヒーを飲むこと)

 行為内意図は、世界を心的内容に適合させるという適合の方向を持ちます。では、この行為内意図の存在を誠実条件とする発話行為は何でしょうか。

 「約束」の発話の誠実性条件は、次に論じる「先行意図」になるでしょう。約束は、未来の行為を約束することであり、その意味でそれは未来の行為を意図する先行意図になりそうです。これに対して、現在の行為を意図しているものに、宣言があります。確かに「開会します」と宣言するものは、「今開会する」ことを意図しています。しかし、宣言型発話の「適合の方向」は、両方向です。つまり「開会します」と宣言することによって開会が実現するのです。宣言型発話が、答えとなる質問としては、「そろそろ開会しませんか?」と問われて、然るべき資格のある人が「開会します」と宣言する場合がありえます。宣言が行われる多くの場合に明示的な質問がなされていないとしても、宣言の発話は、質問への答えとして発話されることが可能です。しかし、これと類比的に、「そろそろコーヒーをのみませんか」と問われて「コーヒーを飲もう」と答える時には、それは先行意図の表明であって、行為内意図の表明ではありません。では、「行為内意図」については、これを誠実性条件とする発話行為がないのでしょうか(ここでは、まだ最終的な答えを出せません。)。

 行為内意図だけを取り上げて考察することは難しいので、次回は「先行意図」との対比によって、明確にしたいと思います。

33 記憶と問答 (20210315)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回触れたように、「記憶」と呼ばれるものには多様なものがあります。但し、全ての記憶は、真理値をもち、心から世界への適合の方向を持ちます。そして、志向性としての記憶は次の構造を持つでしょう。

   思い出す(出来事や対象)

記憶の充足条件については、前回も述べましたが、次のように言うこともできます。

   ①出来事が存在したこと

   ②出来事を記憶内容として思い出すこと

記憶内容である出来事は、記憶内容として思い出される必要があります。さもなければ、その出来事を現実の出来事や単に想像した出来事などと区別できないことになるからです。

 ところで、志向性としての記憶は、単に記憶内容なのではなく、それを思い出すことです。では、なぜある特定の記憶内容を思い出すのでしょう。それには原因や理由があると思われます。例えば、鍵を探していて、「鍵をどこに置いただろうか」と自問して、ズボンのポケットに入れたことを思い出したとすると、問いに対して答えるために、思い出しが行われ、答えとして記憶内容が報告されてているのです。このように記憶の想起に理由がある時には、そこには問いがあるといえるでしょう。

 ただし、単なる連想の場合もあるかもしれません。たとえば、荒れた海の写真を見て、その連想で「3.11の津波」を思い出す場合はどうでしょうか。その写真を見る時に、私たちはその写真を理解するために、「これは何だろう」という問いを立て、これは「3.11の津波に似ている」という答えを得るのかもしれません。習慣的な連想を別にすると、連想もまた無意識問いに促されているだろうと推測できます。さらに習慣的な連想についても、それが習慣になる最初の時には、無意識ないし意識的な問いに促されているだろう推測できます。

 記憶の想起はつねに何かについての記憶の想起であり、その何かの選択は、問いに答えることによって行われていると思います。何の問いもないところで、何かを想起するということはないでしょう。(出来事の記憶には、個人の思い出の記憶もありますが、歴史のように共同体にとっての出来事の記憶もあります。後者の記憶は、サールの言う「集合的志向性」に属すると思いますが、これもまた問い(集合的な問い)に対する答えとして成立するものになると考えますが、これについては個人の志向性を論じた後に論じることにします。)

 ところで、個人の記憶は、(体験や出来事の記憶のように)記憶内容が時間空間上の座標を持つものと、時間空間上の座標を持たないものに分けることができます。後者はほとんどが何らかの規則の記憶であると思われます。この規則には、論理規則、文法規則、意味論的規則(語の意味は、これに属します)、自然法則、社会的規則(法律など)があります。これらの規則の記憶の場合にも、それを想起することは問いに答えるために生じると言えるでしょう。

 これらの記憶は長期記憶であすが、それに対して短期記憶と呼ばれるものがあります。ある作業をしているときの短期記憶は、その作業を遂行するために必要なものです。ある作業を進めるには、作業の全体計画を記憶し、現在その中のどの部分を行っているのかを記憶しておく必要があります。これらの短期記憶は、「この後どうするのか?」「これは何のためであったのか?」などの問いに対する答えとなります。

 このような短期記憶(作業記憶)は、行為内意図や先行意図と深く関係しています。次にこの二つの意図について、それらもまた問いに対する答えとして成立することを確認したいと思います。

32 記憶の志向性について (20210313)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 記憶は、何かについての記憶であり、「ついて」性をもつので志向性の定義にあてはまります。たとえば「3.11の津波」の記憶のように、多くの記憶は知覚の記憶です(私の場合TVの映像の知覚ですが)。しかし記憶には、知覚の記憶だけでなく、出来事の記憶や、名前の記憶や規則の記憶や語の意味の記憶などもあります。そしてこれらすべての記憶には真偽があります。つまり、記憶は事実と一致する必要があります。したがって、記憶は、知覚と同じ「適合の方向」、つまり心的状態を世界に一致させるという「適合の方向」を持ちます。

 記憶がサールの言うように「志向的自己言及性」をもつならば、記憶の充足条件は次のようなものになるでしょう。

  ①2011年3月.11日に大津波があった。

  ②2011年3月.11日に大津波があったことが、その記憶を引き起こしている。

津波の記憶が記憶であるためには、①を意識しているだけでなく②を意識していることがひつようです。

 サールは、「志向性の原始的な形式」は知覚と意図的行為(行為内意図)であり、「これより一段階上の水準」に、記憶と先行意図があり、さらに「それより一段階上の水準」に信念と願望があるといいます(参照、サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、60)。これらのすべてについて順番に説明しますが、ここでは、記憶が知覚より一段階上である理由を確認したいと思います。

 サールによれば、知覚においては、「主体となる動物」と「環境」は直接にコンタクトし、環境が原因となって動物の内部に知覚が生じます。これに対して、記憶においては、「知覚を充足条件に含む表象であり」「因果成分それ自体は存在するものの、充足条件との間に直接の因果関係があるわけではない」、記憶が表象するのは過去である、とされる。例えば、「3.11の津波」の記憶は、3.11に津波があったという事実を充足条件としますが、しかし記憶はその事実と直接の関係を持つのではなく、TV映像の知覚を介している。3.11の津波は、過去の事実であり、その記憶は現在のものであり、時間的に隔たりがあります。

 『志向性』では、知覚は「提示」(presentation)であるが、記憶は「表象」(representation)であるという違いも指摘されています(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房133)。知覚は知覚対象の提示ですが、記憶は記憶対象(出来事)を直接に提示するのではなく、その知覚像を介して記憶対象を表象するということでしょう。

 ただし、記憶は知覚の記憶であるとは限りません。たとえば、漢字の書き順の記憶のようなものは、どうでしょうか。漢字の書き順は、出来事や対象のように、時空間上に座標を持ちませんし、過去、現在、未來に妥当するいわば無時間的なものです。この場合でも、この記憶は規則の「表象」だと言えるかもしれませんし、また記憶は、充足条件(規則の存在)と直接にコンタクトするのではないと言えるかもしれません。しかし、記憶は、長期記憶と短期記憶の区別などもあり、とにかく多様です。通常の記憶ですら、超短期の記憶の働きを必要としている可能性があります。知覚と記憶の関係は、サールが考えているよりも、錯綜している可能性があります。

 次回は、その問題と、記憶もまた問いに対する答えとして成立することについて、考察することにします。

31 知覚の因果的自己言及性とは (20210311)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚は「因果的自己言及性」(あるいは「志向的因果性」)を持つと言います。例えば、黄色いステーションワゴンを見るときの「視覚経験の志向内容」は、次のようなものになるといいます。

「私は(そこに黄色いステーションワゴンが存在し、そしてそこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている)という視覚経験を有している。」(『志向性』前掲訳66)

つまり、志向内容には、

  ①「そこに黄色いステーションワゴンが存在する」

ということだけでなく、

  ②「そこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている」

ということも含まれます。

 このように②を含むゆえに、知覚経験の志向内容は「因果的に自己言及的」(前掲訳68)であると言われます。もちろんこの自己言及性は語られているのではありません。しかしそれは「示されている(shown)」とサールは言います(前掲訳68)。

 ところで、動物の知覚もこのような因果的自己言及性をもつでしょうか。私は、動物の知覚はこのような因果的な自己言及性をもたないだろうと思います。つまり上の視覚経験で言えば、①をもつが②はもたないだろうと思う。(さらに①についても、動物の場合には、その内容は言語的に分節化された内容ではないでしょう。)

 ②を持つのは、人間の知覚の場合だけだろうとおもいます(それをどうやって証明したらよいのか今のところ分かりませんが…)。確かに、人間の知覚の場合には、②のような意識を伴っているように思われる。つまり、人間がある対象や事実を知覚するときには、知覚していることの意識が伴っているでしょう。では、どうしてそうなるのでしょうか。

人間が知覚しているときには、知覚していることを意識していることが多いとすると、それは次のような事情ではないでしょうか。

 前回述べたことですが、「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件として、話し手が<この車は黄色い>という信念(志向性)をもつことを指摘できます。ここでの一連の問答はつぎのような関係にあります。

 「この車は何色か」という言語的問い 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)。

 <人間が行う知覚が、このような言語的な問答(言語的な問いと答えとしての知覚報告)のプロセスを成立させるために、問いから答えを導出するプロセスの中で成立するのだとすると、「探索」という心的状態は意識されており、したがってそれに対する答えとしての知覚(知覚経験)も意識されており、その知覚は、因果的自己言及性をもつことになる>と言えるのではないでしょうか。

(人間はつねにこのように意識的に知覚を行っているとは限らず、知覚しても因果的自己言及性を持っていないように見える場合もあります。しかし逆に、原始的な動物の知覚を含めて知覚プロセスはつねにこのような因果的自己言及性を持っていると見なすことも可能かもしれないもおもいます。そのためには、現代の脳神経科学の知覚論やディープラーニング論を考慮する必要があると考えています。いずれ別の機会に述べるつもりです。)

 同様のことが、因果的自己言及性を持つ他のタイプの志向性(記憶、先行意図、行為内意図)についても言えるかどうかを、次に確認したいと思います。