27 志向性と発話行為の類似点 (20210303)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは『志向性』では、動物の意識や志向性についてはほとんど言及せず、もっぱら人間の志向性について論じています。人間の志向性の中には、非言語的なものも、言語的なものもありますが、サールは志向的状態を発話行為との4つの類似性にもとづいて、明確にしようとします。(念のための確認ですが、仮に志向性が言語的なものであったとしても、その言語的な志向性と発話行為は別のものです。次の4つの類似性において、同時に両者の区別も明確になると思います。)

第一に、発話行為は、F(p)で表示され、発話内的力「F」(主張、命令、約束、など)と命題内容「p」から構成されていますが、それと同様に、志向的状態は、S(r)という心理的様態「S」(信じる、恐れる、欲する、望む、など)と表象内容「r」からなるものです。ただし、志向的状態の表象内容は、命題で表現されるものだけでなく、対象である場合もあります。

  信ずる(雨が降っている)

  愛する(サリー)

サールは、志向的状態の構成要素である「表象内容」を、雨が降っているという事実や、サリーという対象ではなくて、それらの表象の内容として考えていると思います。

第二に、発話行為と同様に志向的状態も「適合の方向」をもちます。例えば、主張型発話では、言葉を世界に適合させることが求められており、命令や約束の発話では、世界を言葉に適合させることが求められています。これと同様に、知覚、記憶、信念という志向的状態では、心(表象内容)を世界に適合させることが求められており、欲望、事前意図、行為内意図という志向的状態では、世界を心(表象内容)に適合させることが求められています。

第三に、発話行為は誠実性条件を持ちますが、その誠実性条件は、志向的状態です。例えば、pを主張している時には、pを信じているという志向的状態が、pの主張の誠実性条件です。Aをおこなうと約束するときには、Aを行うことを意図していることが、約束の誠実性条件です。Aを行うことを命ずるときには、Aをしてもらいたいという願望(志向的状態)が、命令の誠実性条件です。「命題内容を伴う各発話内行為の遂行に際して、われわれがその命題内容をともなうある種の志向的状態を表明しているということ、しかもその志向的状態が当のタイプの発話行為の誠実性条件であるということである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、11f)

志向的状態は、発話行為の誠実性条件である。

第四に、発話行為は次のように充足条件をもつのですが、同様に、志向的状態も充足条件をもちます。

例えば「言明は、それが真なる時に限って充足されている。命令はそれが順守されたときに限って充足されている。約束はそれが守られたときに限って充足されている」(前掲書13)

このような「充足概念は、明らかに志向的状態に対しても当てはまる。私の信念は物事が私の信ずるとおりになっているときにかぎって充足されるであろうし、私の願望はそれが満たされたときに限って充足されるであろうし、私の意図はそれが遂行されたときに限って充足されるであろう。」(前掲書13f)

私は、『問答の言語哲学』で発語内行為が、それを返答とする相関質問の発話と対応していること、言い換えると、質問発話において、すでに返答となる発話の発語内行為が指示されていることを指摘しました。そこから予測できることなのですが、志向性が発話行為に似ているとすれば、志向性もまた相関質問をもち、相関質問に対する答えとして、成立するのではないか、と思われます。

次回からそれを検討したいと思います。

26 志向性と問答推論の関係 (20210302)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

久しぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。少し、志向性と問答(ないし問答推論)の関係を考えたいと思います。今回私が論証したいのは、サールが区別している6つの志向性は、すべて問いに対する答えとして、しかも問答推論によって成立するということです。さらに、問うことは、この6つの志向性とは異なる特殊な志向性であることを明らかにしたいと思います。(これを通して、私が目指しているのは、「志向性」を解明することではなく、問答および問答推論を解明することです。なぜなら、志向性や意識や表象などの概念が非常にあいまいで多義的であるので、問答に注目した方が、より有効だろうと思われるからです。)

 サールは、まず、心的状態がすべて志向的であるのではない、といいます。例えば、「信念、恐れ、希望、願望」は、志向的であると言いますが、「神経過敏、得意、対象なき不安」は志向的ではないといいます。それは、志向性が、何か「について」という性質であることによります。

サールは、蛇と蛇の経験は、別のものですが、不安と不安の経験は区別できないので、不安は志向性を持たないと言います。

 つぎに、志向性intentionality と意図intentionは似ているのですが、しかし、意図することは、志向性の一種に過ぎないと言います。信じること、欲することは、意図することではないが、志向的であるといいます。

 つぎに、志向性は状態ないし出来事であって、行為ではないと言います。「あなたは今何をしているのか」という問いに対して、「私はいま雨がふっていることを信じている」とか「税金の安くなることを望んでいる」とか「映画に行きたいと思っている」とかいうような答えをしない(参照サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、5)

 このような志向性が意識や意図や行為と異なるという指摘はただしいとしても、「志向性」は曖昧なままです。サールはそれを言語行為との類似性にもとづいて、明確にしようとします。

44 これまでの振り返り(3) (20210228)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回(36、37)の振り返りのあと、茂木健一郎の『脳とクオリア』を紹介しつつ検討してきました。

彼は、まず「認識のニューロン原理」と「認識のマッハ原理」を導入し、それをもとに、心理的時間論(固有時の説明)、クオリア論、意識論を論じていました。このなかで最も重要な指摘は、「認識のニューロン原理」だと思います。

 脳の中での情報処理(認識や意識内容)は、すべてニューロンの発火によって行われるということです。視覚の刺激、聴覚の刺激、記憶、感情、思考、意図など、様々な種類の意識内容がありますが、脳の中にあるのは、ニューロンの発火だけであるので、これらの違いをニューロン発火のパターンの違いとして説明する必要があるという指摘です。私もこの原理に従って、意識や表象や言語や問答の発生の説明を追求したいと思います。茂木氏のこの本には、当時の研究状況からする限界もあると思いますが、このあとの仕事は私たちに残された課題だと考えます。

 現在のところ、バレットの情動論の紹介で言及したAndy ClarkやJakob Hohwyによる仕事、つまりディープラーニングの理論を、脳の研究に応用するというというアプローチが有用であるように思われます。そこで、ClarkやHohwyの研究の紹介と、それについての問答の観点からの検討を行いたいのですが、少し時間がかかりそうです。

 その間に取りあえず、並行して次の二つのことを考えて、みたいと思います。

第一は、サールが挙げていた6つの志向性を問答の観点から捉えなおすことです。

第二は、幼児の言語獲得を、二人の大人が行う問答の観察から説明すること、そして人類における言葉の発生を問答の発生として捉え、その際に、二人の他者の(問答ではない)発声のやりとりの観察から説明する、というアプローチの可能性を追求してみたいとおもいます。

 なお、第一の検討については、別のカテゴリー「問答推論主義へ向けて」に書き込むことにします。その後、またこのカテゴリーに戻ってきます。

43 茂木氏の「意識論」  (20210224)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

茂木は、『脳とクオリア』の第6章で「意識」について次の3つの仮説を設定します。

「①脳の中のすべての物質的過程のうち、意識や心の問題を考える上で意味があるのはニューロンの発火のみである。」159

「②脳幹からの上行性網様体賦活系の投射により、大脳皮質のニューロンの発火レベルが制御される。発火頻度があるしきい値を超えた時に意識が生じる。」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、190)

「③意識は、心の中の表象=要素を統合する一つのシステムである。脳の中の神経回路網におけるニューロンの発火が一つのシステムとして成立するための条件は、ニューロンの発火が、相互作用連結性において、単連結(一つにつながる)ことである。」(同書190)

仮説①は、「認識のニューロン原理」(=「私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。」(同書35))を意識に応用したものです。もし①を「意識のニューロン原理」と呼ぶならば、それは「認識のニューロン原理」よりもより基礎的なものであるかもしれません。

仮説③は、「認識におけるマッハの原理」(=「認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。」(同書、77))を意識に応用したものです。

茂木は、この3つの仮説を前提した上で次の二つの問題に答えようとします。

「①ニューロンの発火が、どのような条件を満たした時に、そこに「意識」が宿るのか(意識の時間的範囲)

 ②脳の中の解剖学的部位(ニューロンからなる回路網)のうち、どの部分集合に「意識」が宿るのか?(意識の空間的範囲)」(同書190)

問題①への茂木の答えは、つぎのようなものです。

「意識」というシステムが成立するためには、脳全体にわたるような相互作用単連結なニューロンの発火が存在することが必要なのである。」(同書196)

ただし、これは意識が発生するための必要条件であって、十分条件ではありません。

「ニューロンの発火が相互作用連結になるという条件は、必要条件に過ぎない。」(同書204)

私たちの脳の中のニューロンの発火が、「意識」をもつためには、これに加えて、「その相互結合が複雑で豊かな構造を持っている」(同書204)が必要であると言われます。ただし、その「複雑で豊かな構造」がどのようなものであるべきかは、説明されていません。

問題②への茂木の最終的答えは、上記の仮説②と関係していると思われますが、次になります。

「意識的な認識に関与すると結論付けられるのは、大脳、海馬領野、および視床だ。」202

以上の説明では、専門外の私は教わることばかりです。

ただし、茂木のこのような議論で気になる点は、茂木が

  睡眠状態=意識のない状態

  覚醒状態=意識のある状態 

と見なしている(同書193)ことです。

ダマシオは、『意識と自己』で「覚醒状態=意識状態」とすることに反対していました。なぜなら、ダマシオは、夢を見ている状態を、意識のある状態とみなしているからです。ダマシオ似れば、また逆に、目覚めていながら、意識がない神経疾患があり、「有機体の基本的ニーズに合致する刺激に対しては低いレベルの注意が向けられている。だが、意識は存在していないかもしれない。」(『意識と自己』田中三彦訳、講談社学術文庫、123)からです。

またもし動物一般に拡張して検討するならば、睡眠と覚醒の区別は、非脊椎動物でも神経組織を持つ動物にはみられるが(ヒドラ、ショウジョバエ)が、それらは覚醒していても、意識を持っているとは言えそうにない、と言うことがあります。(人間のようにレム睡眠とノンレム睡眠の区別が脳波ではっきりと確認できる動物は、脊椎動物の中でも、鳥類と哺乳類だけのようです。では、覚醒中の鳥類と哺乳類は、意識を持っているといえるのでしょうか。それを言うためには、「意識」についての明確な定義が必要です。「意識」があるかないかを自明視することはできません。)

(注:ヒドラは、神経細胞を持つが、中枢神経システム(脳)を持たない動物ですが、そのヒドラにも睡眠と覚醒の区別があるようです。

「睡眠の一般的な特徴として、「可逆的な行動の静止」、「感覚機能の低下」、「睡眠恒常性」が挙げられます (図3)。「可逆的な行動の静止」は睡眠中に動かなくなるものの昏睡状態ではなく、刺激によって覚醒状態へ回復することを意味します。いくら深い眠りに落ちていても、叩き起こされれば目が覚めるということです。ただ、睡眠中には「感覚機能の低下」が見られ、穏やかな刺激で覚醒に転じることはありません。「睡眠恒常性」とは、動物にとって必要な睡眠量が決まっていることを意味します。必要量が予め決まっているために、断眠させるとその後にリバウンド睡眠が生じます。これは、夜更かしすると次の日の朝に起きられないことと同じです。私たちは、これら 3 つの特徴を持つ状態がヒドラに存在するのかを検証しました。」(金谷 啓之、

https://www.sci.kyushu-u.ac.jp/koho/qrinews/qrinews_201208.html )

金谷氏のこの研究の優れたところは、睡眠を3つの特徴で定義したことにあると思います。)

もう一つの不満点は、次です。茂木氏は、人間の場合だけを考えており、しかも、人間が意識を持っている場合と持っていない場合の区別は、主観的には明白であって、主観的なその違いがある場合に、脳状態が、あるいはニューロンの発火状態がどのような違いを持つのか、ということを説明しようとしています。茂木氏は、意識がある状態と意識がない状態の区別は、ほぼ自明であると考えているのだと思われます。

「主観的には、「意識」があるか、ないかという二つの状態の間のコントラストは劇的である。何しろ、「意識」がないときには、「私」は「そこにいない」のだから」(同書180)

茂木氏がいうこの区別は、「いま意識があるだろうか」「ある」というような自問自答をする場合の、区別であるよう見えます。この区別は、「自己意識」がある場合と、ない場合の区別といってもよいのではないでしょうか。しかし、意識は、自己意識がなくてもあるかもしれません。意識と自己意識を区別するとき、意識がある状態とは、どのような状態なのでしょうか。

「いま私は意識を持っているのだろうか?」と自問するときには、常に答えは、「意識を持っている」となるでしょう。なぜなら、その問いは意識的に立てられているからです。確かに、意識的に自問している時には、つねに意識を持っている、と言えるでしょうが、しかし逆に、意識を持っている時には、常に意識的に自問しているとは限らないのではないでしょうか。では、意識を持つ状態とは、主観的にどのような状態なのでしょうか。私には、それは、茂木氏が想定しているほど、自明なことではないように思えます。

42 クオリアの同一説と随伴説 (20210221)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回述べたように、茂木は、クオリアとニューロンの発火パターンの同一性と随伴性の両方を主張しているように見えます。これを整合的に解釈するには、どうしたらよいでしょうか。

 これまでの茂木の記述と整合的であるのは、同一説の方だと思います。なぜなら、彼の研究の出発点になる原理は「認識のニューロン原理」であり、それは次のようなものだからです。

「《認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみせつめいされなければならない》」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、35f)

しかしこの主張は、クオリアの随伴性を述べていた次の主張と矛盾するようにみえます。

「もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則の領域の存在を示唆するのである。」(同書、172)

もしこれを矛盾しないように読むとすれば、次のようになるでしょう。

<ニューロンの発火のパターンにクオリアが随伴するとき、発火のパターンから「全く新しい自然法則」によってクオリアが生じるのであり、クオリアは、従来の自然法則で規定された発火のパターンと同一なのではなく、そこから「全く新しい自然法則」によって生じた発火のパターンと同一なのである。>

茂木には、クオリアが、ニューロンの発火のパターンと同一であるという信念がある一方で、現在知られている既知の自然法則でとらえた発火のパターンと同一であるというだけでは、説明として不十分であるという意識があるのでしょう。しかし、これでは何の説明にもなっていません。

 次に茂木の「意識論」を紹介し、批判的に検討します。

41 クオリアとニューロンパターンの関係 (20210216)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(前回のべた「固有時」における同時性や時間経過については、改めて論じなおしたいと思いますが、とりあえず茂木のクオリア論の紹介と検討に移りたいとおもいます。)

「クオリア」は、わかりやすく言うと、意識内容の質感です(典型的には感覚の質感です)。これの説明は、チャルマーズらによって、「心の哲学」における最難問だと言われています。この問題は、茂木の『脳とクオリア』の中心課題だと言ってよいでしょう。茂木は、序章で「「《「クオリア」を神経細胞の活動から説明することが、心と脳の問題の核心である》」(同書25)と述べています。茂木は、第5章「最大の謎「クオリア」」でクオリアについて論じています。

 彼は、まず「クオリア」について次の二つの定義を与えます。

「《クオリアの内観的定義=クオリアは、私たちの感覚のもつ、シンボルでは表すことのできない、ある原始的な質感である。》」(同書147)

「《クオリアの情報処理の側面から定義=クオリアは、脳の中でおこなわれている情報処理の本質的な特性を表す概念である。》」(同書148)

(これらのクオリアの後者の定義は、残念ながら曖昧です。厳密に言えば、これは、クオリアについての一つの記述であって、定義ではありません。例えば、「AはBである」が定義となるためには、これが主語述語文ではなくて、同一性文でなければなりません。あるいは、AとBが同値でなければなりません。しかし、脳の中でおこなわれている情報処理の本質的な特性を表す概念は、「クオリア」だけではありません。たとえば「ニューロン発火」や「電気化学的反応」や(彼が後に述べる「統合された並列性」についても、この記述は、あてはまります。他の例をあげると、「リンゴは、バラ科の高木である」というのは、もしリンゴ以外にも、バラ科の高木があれば、定義ではなく、リンゴについての一つの記述にすぎません。茂木のクオリアの定義は、そのような記述にとどまっています。)

クオリアの謎に科学的に迫ろうとすれば、後者の定義のクオリアを説明しなければならない。「情報処理の中の過程において、クオリアは、どのような本質的な役割を果たしているか」を考える必要がある。

 そこで、茂木は、「脳の情報処理の最大の特徴の一つ」である「並列性」(同書157)、しかも「統合された並列性」について説明します。例えば視覚情報と聴覚情報が同時に与えたときに、それらを統合できるのは、それらのクオリアを区別できるからである。

「《クオリアと並列性=私たちの心の中で複数の認識の要素が共存できるのは、それらが異なるクオリアを持っているからである。》」(同書160)

こうして茂木は、「統合された並列性」において、クオリアが本質的な役割をしていることを指摘します。

 茂木はまた、「現在性のクオリア」が情報処理過程において本質的な役割を果たしていることを指摘します。現在の認識の要素と過去の記憶を区別できるのは、現在の認識の要素が鮮明なクオリアを持っているからです。また、外にあるバラを見ているときのバラの質感の圧倒的な鮮明さと、バラを心の中で思い浮かべているときの質感は異なります。茂木はこれを「現在性のクオリア」とよび、これによって、自己の「外」と「内」、現在の要素と記憶の要素を区別できるといいます。

ところで、クオリアとニューロンの発火のパターンとの関係について、次のようにいう。

「《クオリア=認識の要素を構成する相互作用連結なニューロンの発火のパターン》」(同書169)

「認識要素がもつクオリアは、…発火のパターンによって決定される、というよりは、この発火のパターンそのものなのである。」(同書170)

これらの引用箇所は、茂木がクオリアとニューロン発火のパターンの同一説(これは茂木の表現ではありません)を主張しているように読めます。

しかし、彼は次の節では次のように言います。

「《クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火のパターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する》」(同書171)

この「対応」関係は、次のように「随伴」関係として説明されています。

「もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則の領域の存在を示唆するのである。」(同書172) (強調と下線は引用者)

発火のパターンからクオリアが随伴するのは、「従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則」(同書172)によってであると言われています。

先の同一性の主張と、ここでの随伴説の主張は、矛盾するように見えます。これをどう考えたらよいでしょうか。

40 心理的時間の流れについて (20210216)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(クオリアの説明を取り上げると予告していましたが、その前に、前回疑問を呈した、時間の流れをどう認識するかという問題を検討しておきたいと思います。)

 前回、「認識のなかの時間」ないし「心理的時間」である「固有時」における同時性を、「相互作用同時性の原則」によって説明しました。つまりニューロンAがニューロンBの発火を引き起こすとき、Aの発火の物理的時刻t1とBの発火の物理的時刻t2は、「固有時」においては、同時であることになります。なぜなら、「認識のニューロン原則」により、心的内容はニューロン発火のパターンだけから説明される必要があり、ニューロン発火以外の出来事は、心にとっては存在しないからです。このような説明の後で、前回の最後に、この場合、時刻が異なることや、時間の経過をどのようにして説明できるのかが課題になると述べました。

 茂木は、『脳とクオリア』の第4章で、これについて次のように説明しています。

「①認識における「瞬間」、すなわち最小の時間の単位は、物理的時間で言えば、ある有限の幅(h)をもつ。」(同書131)

この最小の時間単位の大きさは、100ミリ秒程度となると言われています。これは、2つのニューロンを結合する軸索の長さから計算されています。つまり、ここでいう「最小時間の単位」とは、ニューロンAが発火してからBが発火するまでの物理的時間です。

「②時間の最小単位の存在にもかかわらず、その時間のずれは、任意に小さくすることができる。すなわち、ある認識におけるある「瞬間」τという場合には、必然的にそれは100ミリ秒程度の拡がりを持たなければならないが、このような「瞬間」をどれくらいずらして重ねあわせられるかということになると、その「ずれ」δτの大きさは、任意に小さくすることができる。」(同書131f )

「③隣り合う心理的な「瞬間」の間には、重なりがある。すなわち、τ1とτ2が隣接する心理的瞬間であるとすると、τ1とτ2が隣接する心理的瞬間であるとすると、τ1とτ2のあいだの差が時間の最小単位(h)より小さいとき、

  |τ1-τ2|<h

それぞれの心理的瞬間におけるシステムの状態Ω(τ1)、Ω(τ2)の間には、重なりがある。

  Ω(τ1)h∩Ω(τ2) ≠0」(同書132)

ここで私が問いたいのは、③でいう「隣り合う心理的な「瞬間」」はどのようにして可能になるのか、いいかえると、2つの瞬間が異なる瞬間であるとはどのようなことであり、それはどのようにして認識されるのか、ということです。

ニューロンA、B、Cがあって、Aの発火が、Bの発火を引き起こし、Bの発火が、Cの発火を引き起こすのだとすると、「相互作用同時性の原則」によって、Aの発火の時刻と、Bの発火の時刻は「固有時」においては同時になります(これをτ1とします)。同様にして、Bの発火の時刻と、Cの発火の時刻もまた「固有時」において同時になります(これをτ2します)。このとき、τ1=τ2となるだろうと、前回述べました。

 もしそうだとすると、ニューロンAの発火がもとになって間接的に生じするすべての発火が、「固有時」においては同時であることになります。これでは、不都合です。なぜなら、もしカエルを見てカエル・ニューロンが発火し、それによって、中学生の時のカエルの解剖の授業をおもいだし、それからその時の友達のことをあれこれと思い出しているとき、これらがすべて「固有時」において同時に生じていると思うことになってしまいますが、そういうことはないからです。カエルを見たことがきっかけになって、昔の友人を思い出したと考えているとき、カエルを見たことは、昔の友人を思い出したことに先行すると考えています。

 カエルを見ることと、昔の友人を想起することは、時間的に前後関係にあります。カエルを見た固有時の時刻をτ1とし、昔の友人を思い出した固有時の時刻をτnとするとき、τ1≠τnだと考えるのが合理的でしょう。

 茂木は、固有時の瞬間の重なりを考えているようです。τ1とτ2は少し重なっており、τ2とτ3も少し重なっており、というように重なりあう瞬間の系列を進むと、τ1とτnはもはや重ならない、ということが説明できるかもしれません。

 前述のニューロンA、B、Cの場合、それぞれの発火の物理的時間をta、tb、tcとし、Aの発火からBの発火までの固有時の時刻をτ1とし、Bの発火からCの発火までの固有時の時刻をτ2とするとき、τ1はtaからtbまでの幅を持ち、τ2はtbからtcまでの幅を持つと考えるならば、τ1≠τ2であり、τ1とτ2は前後関係を持つことになります。

 ここでA、B、Cをそれぞれ1個のニューロンとしてではなく、複数のニューロンのクラスターだと考える時、τ1とτ2は、前後関係にあるだけでなく、部分的に重なり合うと考えることができます。

 ただし他方では、τ1とτ2が部分的にせよ重なり合うのならば、「固有時」において同時であると考えたくなります。そうすると、τ1=τ2=…=τnとなってしまいます。このような反論に対しては、茂木ならば、「固有時」の「同時性」を、物理的時間での「同時性」と同じ性質を持つと考えてはならない、と批判するでしょう。この批判は正しいのかもしれません。ただし「固有時」における「同時性」概念の曖昧さは、残ります。

 もう一つ気になるのは、物理的時刻と固有時の時刻の対応付けです。茂木は次のような表現の仕方しています。

「「t=0」(ニューロンA)=

 「t=10ミリ秒」(ニューロンB)=

 「τ=0」(ニューロンA、ニューロンBに共通な固有時)」(同書105)

1行目と2行目の右端にある「=」はどういう意味になるのでしょうか。もしそれが同時性をあらわすのだとしたら、物理的時刻と固有時の時刻が同時であるというのは、奇妙である。これら2つは、異なる世界(物理的世界と認識の世界(ないし心的に表象されている世界)に属しているからです。もし、この「=」の意味を説明できなければ、固有時について考えることはできなくなるでしょう。いまのところ、課題を指摘する事しかできません。

 以上でとりあえず、時刻が異なることや、時間が経過するということが、どういうことであるかを説明しました、しかし、それらがどのようにして認識されるのか、の説明はできていません。この問題については、意識や認識について論じる時に取り上げることにします。

 次回は、クオリアの話に進みたいです。

39 認識の要素と同時性 (20210215)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回、茂木の言う次の二つの原理「認識のニューロン原理」と「認識におけるマッハの原理」を紹介しました。再説すれば、次のようになります。

「《認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。》」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、35)

「《認識におけるマッハの原理=認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。》」(同書、77)

茂木は同書「第三章」で、これらに基づいて、「認識を構成する要素」と「認識が行われる時空間」について説明する

#まず認識の要素について

茂木は「認識の要素」を次のように定義します。

「《認識の要素とは、末端のニューロンから高次野のニューロンに至る。相互作用連結なニューロンの発火のクラスターである。》」101

「相互作用連結なニューロンの発火のクラスター」とは次のようなものです。

「「バラ」ニューロンが「バラ」ニューロンになるのは、「バラ」ニューロンの発火と、相互作用連結な他のニューロンの発火の関係が、私たちの心の中で「バラ」という認識を引き起こす役割を果たしているからである。

 以下では、相互作用連結なニューロンの発火のつながりを「クラスター」と呼ぶことにしよう。」100

茂木の理解では、この定義は「反応選択性」概念による認識の要素の定義に対する批判になっている。ヒューベル(David Huntar Hubel 1926-2013)とウィーゼル(Torsten Nils Wiesel,1924-)は、1959年に行った実験で、猫の視覚野に、特定の方位の棒状刺激に対して発火するニューロンを見つけました。これは、特定の図形を見ると発火するニューロンがあるということであり、これがニューロンの「反応選択性」と呼ばれています。(彼らはこれでノーベル賞をとりました。)

茂木はカエルを見たときに発火する「カエル・ニューロン」を例に、カエル・ニューロンが発火した時に、カエルの認識が生じているという(「反応選択性」に基づく)仮説を次のようにまとめます。

「《ある特徴Aに対して反応選択性をもつ一群のニューロンが発火したときに、特徴Aの認識が生じる。》」67

ただし茂木は、この仮説では、認識を説明できないと批判します。茂木は、カエル・ニューロンを一つだけ手術で取り出して、それを電極で刺激して発火させても、カエルの認識は生じないといいます。

これに対して、茂木は、認識におけるマッハの原理にもとづいて、「カエル・ニューロン」を次のように定義しなおします。

「《カエル・ニューロン=そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって「カエル・ニューロン」の属性を与えられているニューロン》」78

これを一般的に述べたものが、前述の「認識の要素」の定義になります。

「《認識の要素とは、末端のニューロンから高次野のニューロンに至る。相互作用連結なニューロンの発火のクラスターである。》」101

(ところで、たしかに「カエル・ニューロン」一つを発火させても、カエルがいるという認識は生じないだろう。しかし、カエルを見たときに、「カエル・ニューロンクラスター」の発火が発火することが観察できたとしても、カエル・ニューロンクラスター」が発火することが、カエルがいるという認識の発生であると主張するには不十分です。それは必要条件に過ぎないでしょう。茂木のいう「認識の要素」は、認識の必要要素という意味であるのかもしれません。)

#次に認識における時間について

茂木は「認識の準拠枠となる時間」を「固有時」と呼び、τ(タウ)で表します。それに対して通常の意味での物理的時間をtで表します。そして、「認識の要素」の定義をもとに、「固有時における同時性」を次のように定義します。

「《相互作用同時性の原理=ある二つのニューロンの発火が相互作用連結な時、相互作用の伝播のあいだ、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、(固有時τにおいて)同時である。》」(同書104)

いま仮に二つのニューロンAとBがあって、AからBに信号が伝わるとしましょう。このとき、Aは「シナプス結合しているニューロン」と言われ、「シナプス前側ニューロン」(presynaptic neuron) と呼ばれます。Bは「シナプス結合を受けているニューロン」と言われ、「シナプス後側ニューロン」(postsynaptic nueron)と呼ばれます。ニューロン細胞は、複数の「樹状突起」(dendrite)と一つの「軸索」(axon)をもちます。軸索の先から神経伝達物質を放出し、他のニューロンから神経伝達物質を受け取ります。軸索が結合する相手には、他のニューロンの十条突起だけでなく筋肉や腺である場合もあります。

このニューロンAの発火がニューロンBの発火を引き起こすときには、つぎのようなプロセスがあります。

「シナプス前側ニューロンの細胞体でアクション・ポテンシャルが生じ、それが軸索を伝わってシナプス前側に達すると、そこで神経伝達物質の開口放出が起こる。神経伝達物質は、シナプス後側の受容体(レセプター)と結合する。その結果、シナプス後側ニューロンの膜電位が脱分極する場合(興奮性結合)と、過分極する場合(抑制性結合)がある。」90

この最後に書かれているように、神経伝達物質を受容したシナプス後側ニューロンの反応には二種類あります。一つは、膜電位が上昇して発火しやすくなる場合です。これを「興奮性結合」と言います。もう一つは、膜電位が低下して発火しにくくなる場合であり、これを「抑制性結合」と言います。茂木はこの二つを次のように定義しています。

 《興奮性結合=正の相互作用連結性》

 《抑制性結合=負の相互作用連結性》 (Cf. 同書102)

茂木は、ここで二つの時間の区別を導入します。「固有時」とは、「認識の準拠枠となる時間」ないし「認識の中における時間」であり、通常の意味の「物理的時間」とは異なります。彼は、通常の意味の物理的時間をtで表し、固有時は、ギリシア文字τ(タウ)で表します。そして、「認識の要素」と「相互作用連結性」の定義に基づいて、「固有時における同時性」を次のように定義します。

「《相互作用同時性の原理=ある二つのニューロンの発火が相互作用連結な時、相互作用の伝播のあいだ、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、(固有時τにおいて)同時である。》」(同書104)

この「相互作用同時性の原理」からは、固有時での時刻が、物理的時間のなかでは、幅を持つことが帰結します。

「ニューロンBが、ニューロンAの時刻t=0における発火によって、正の影響を受けて、その結果発火したとする。その時刻が、例えばt=10ミリ秒であったとしよう。

 この時、ニューロンAの時刻t=0における発火とニューロンBの時刻t=0ミリ秒における発火は、固有時τとしては同時なのである。すなわち、

 「t=0」(ニューロンA)=

 「t=10ミリ秒」(ニューロンB)=

 「τ=0」(ニューロンA、ニューロンBに共通な固有時)

と言うことになるのである。」(同書105)

「物理的時間の中ではじわじわと伝わっていく因果の連鎖を、心理的な時間の中では、ぴしゃっと瞬間に「つぶしてしまう」のである。」(同書107)

「認識の時空において局所的なプロセス」は、「物理的時空において局所的なプロセス」(同書108)となります。

これは非常に興味深く、重要な主張です。

しかし、では固有時における時間経過や時間的前後関係を、どう定義したらよいのでしょうか。二つの固有時が異なることは、どのように定義され、どのように知覚されるのでしょうか。

今仮に、Aの発火がBの発火を引き起こし、Bの発火がCの発火を引き起こすとしましょう。

このとき、Aの発火とBの発火は、固有時の同時性の定義からして同時です。Bの発火とCの発火もまた、同様に、同時です。

このように考えるならば、ニューロンの発火の連鎖は、どんなに長くなっても、全て同時であることになります。私智の野内のニューロンの発火は連続して継起しているとすれば、これは不都合なことになります。固有時における時間経過や時間的前後関係をどう説明するかは、今後の改題にあります。それは短期記憶や長期記憶の説明にとても必要なことです。

次回は、いよいよクオリアの説明を紹介したいとおもいます。

38 認識のニューロン原理とマッハの原理 (20210212)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

ここからしばらく、茂木健一郎『脳とクオリア』の議論を紹介し検討しながら、意識とクオリアの発生について考えたいと思います。

#認識のニューロン原理

茂木は、ホラス・バーロー(Barlow, H.)が提唱した「認識のニューロン原理」を高く評価し、それを次のようにまとめます。

「認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、35)

(ちなみに、Barlowのこのアイデアは、前に言及したHohwyによれば、Helmhotzのカント的な心理学から来ているようです。Andy ClarkやHohwyは、このアイデアをcomputational neurosienceとして展開するという研究の流れに属します。)

茂木が言うようにこの原理は非常に重要だとおもいます。

「重要なことは、認識の内容を導き出すには、ニューロンの発火がどのようなパターンになっているかという情報以外は、いっさい何も仮定してはならないということである。」(同書、40)

「視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚における物理的刺激と感覚器における変換過程がどのようなものであれ、私たちの心の中でそれぞれのモダリティが持つクオリアのユニークさは、それでは説明できない。モダリティの間の差は、あくまでもそれぞれのモダリティをつかさどる脳の中のニューロンの発火パターンの差によってのみ説明されなければならないのだ。」(同書、41)

たとえば、視神経が発火し、その信号が脳に伝達するとき、脳に伝わるのは、神経の発火だけです。その発火が視神経の発火から伝わってきているという情報は、発火の中には含まれていません。赤い光を受けて発火した神経からの伝達で発火していること、青い光を受けて発火した神経からの伝達で発火していること、という情報はそれらの発火の中には含まれていません。

脳にあるのは、発火のパターンだけです。脳は、赤い光を感じたこと、青い光を感じたこと、音を感じたこと、辛さを感じたこと、などなどの感覚の差異をすべて、発火のパターンから構成しなければなりません。これは、非常に重要な指摘です。

#認識におけるマッハの原理

茂木が提案する第二の原理は、「認識におけるマッハの原理」です。物理学に関する「マッハの原理」を認識に応用したものです。これらは、それぞれ次のように定式化されます。

「《マッハの原理=ある物体の質量は、その物体のまわりのすべての物体との関係で決まる。他に何もない空間の中では、ある物体の質量には、何の意味もない。》」(同書、76)

「《認識におけるマッハの原理=認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。》」(同書、77)

茂木は、このマッハの原理の後半に対応して、次のことも「認識におけるマッハの原理」に含まれるといいます。

「《ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない。》」(同書、77)

(哲学には「知覚の因果説」というものがあり、それは、赤いという知覚は、赤い対象からの因果的な連鎖によって生じる、とみなすのですが、この二つの原理から、知覚と対象の間に最終的に因果連鎖があると言えるとしても、それは単純な単線的な因果連鎖ではないことが分かります。)

37 これまでの振り返り(2) (20210210)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

動物が行う探索をいくつかの段階に分けることができます。

①見かけ上の探索(意図的ではないが意図的探索であるように見える行動)

②無意識的な意図的探索

③意識的な意図的探索

④言語的、意識的、意図的探索

⑤言語的、無意識的、意図的探索

探索というのは、常に意図的探索であるので、上記の意図的は冗語ですが、意図がどのように生じるのかにも注意して考察を進めたいので、書いておきます。

①と④と⑤は、存在するといってよいでしょう。⑤は、発達の上では、④が可能になった後に発生する探索だと思います。

問題になるのは、②と③です。

「②と③があるのかどうか」「②と③はこの順番に登場するのか、それとも同時か、それとも③が登場した後で②が生じるのか」

探索に注目したこのリストには登場しませんが、「意図的でない意識が存在するのかどうか」「意識は常に意図の成立を前提するのかどうか」なども、重要な問題になります。

前回最後に述べましたが、これらの問題に取り組むには、ボトムアップの方法で、①から出発して、どのように④や⑤への発展が生じるのかを見ていくか、トップダウンの方法で、④⑤から出発して、それがどのように③から、③がどのように②から、②がどのように①から成立するかを、考察する方法があるだろうとおもいます。(この後者のアプローチでは、グライスの意図ベース意味論で、重要な役割をはたした「再帰的意図」が重要になるだろうとおもいます。おそらく「意識の成立」は「再帰的意図の成立」また「探求発見(問答)の成立」として説明できるだろうと予測しますが、それだけで十分であるかどうかは、まだわかりません。)ただし、トップダウンの方法を成功させるためにも、しばらくボトムアップで考察したいと思います。(結局両方必要だということになりそうです。)

次回からしばらく、茂木健一郎『脳とクオリア』の議論を紹介し検討しながら、意識とクオリアの発生について考えたいと思います。