10 知覚の志向性と素朴実在論(20210522)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回説明したように、脳科学と素朴実在論の結合に矛盾はないとしても、それが説明の循環をもたらすでしょう。つまり、脳科学の知見の正しさは、最終的に脳科学に基づき、素朴実在論の正しさもまた最終的に素朴実在論に基づくということが成り立つとしましょう。この循環論証は、脳科学と素朴実在論の結合を想定したときに生じる循環です。ところで、私たちにとってのとりあえずの課題は、脳科学と素朴実在論の結合の正しさを論証することです。そのために、まず行ったことは、この結合が整合的であること(矛盾しないこと)を示すことでした。もし矛盾しないことが示せたとしても、それだけでは証明することにはなりません。

 これを証明する方法が分からないとすると、とりあえずできそうなことは、前回の最後に述べた二つのことになりそうです。

  第一に、これと矛盾する主張を反駁すること。

  第二に、これから帰結する有用な主張を示すこと。

さて、素朴実在論と矛盾するようにみえる主張の一つは、知覚は志向性を持つという主張です。サールは、知覚が志向性を持っており、それは知覚内容を世界に適合させるという適合の方向を持つと考えます。これは素朴実在論と矛盾します。なぜなら、素朴実在論は、<私たちは、知覚において、知覚像を介して世界を捉えるのではなく、世界そのものを直接に見ている>と考えるからです。

私は、知覚が適合の方向を持つとか、知覚イメージがあるとか、考えません。まずそれを説明しましょう。私が机の上にマグカップがあるのを見る時、マグカップそのものをそこに見ているとおもっています。このとき、私は、マグカップ(対象)に注意しています。私がマグカップ(対象)を見ていることも意識しています。しかし、私はマグカップの知覚イメージには注意していません。したがって、知覚において、知覚イメージのようなものがあり、それが対象に適合しているとか、適合すべきだとか、考えていません。

 では、私たちが知覚イメージについて考えるのはどのような場合でしょうか。確かに私たちは、対象や世界を知覚するとき、知覚イメージを持っている、と考えがちです。その場合の<知覚イメージ>は、対象についての知覚経験(感覚器官を介した知覚的経験)の記憶ではないでしょうか。

 私たちは、錯覚や幻覚を持つことがあります。ただし、知覚経験が錯覚や幻覚であることが分かるのは、後からのことです。つまり、知覚経験が記憶になったときなのです。記憶された知覚的イメージが事実に合わないとき、その知覚的イメージは、錯覚や幻覚であったと事後的にわかるのです。記憶された知覚的イメージが事実に一致するとき、そのイメージは、真正の知覚であったことが確認されるのです。ところで、「記憶された知覚的イメージが事実に一致するとき」と言う時の「事実」とは、その時に知覚されている事実に他なりません。錯覚や幻覚や真正な知覚は、確かにすべて知覚的イメージですが、しかしそれは記憶され想起された知覚的イメージなのです。現実の知覚においては、知覚されているのは対象そのものであり、知覚イメージが存在するわけではありません。

 ただし、「対象を直接に知覚する」ということは、前(08回)にも述べたように<緩く>理解する必要があります。視覚がぼやけていたり、二重になったり、眼がゆれて視覚がブレたりすることありますが、そのような場合にも私は対象そのものを「見ている」のであり、視覚像を見ているのではありません。それを想起するときに、ぼやけた視覚や、二重になった視覚野、ブレる視覚が、「視覚像」として想起されるのです。

 ところで、知覚が志向性を持つと考えるサールは、志向性を看過しているという点で、素朴実在論を批判するのですが、しかし、他方では、素朴実在論に対して好意的な発言をしているようにも思われます。次回は、この点を確認したいとおもいます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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