27 間話 お盆に考えたこと

                巨大な橋がつなぐ故郷です。
 
27 間話 お盆に考えたこと (20130822)
閑話ではないですよ。間話(intermezzo)です。
 
 久しぶりにこの書庫「問答としての社会」に戻ってきました。
 
 この書庫「問答としての社会」では、 「社会問題」を次のように定義しました。
<一人では解決できない問題があり、それを解決するために複数の人々の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む人々の集団を「社会」と呼ぶ>
 ここでは、家族や部族や国家もまたこのような意味の「社会」の一つだと考えてきました。ここには2つの問題があります。
 
 ①人間は、類人猿の段階から群れで生活していました。従って、個人が登場する前から、人間は集団を作っていたのです。そのことがこの定義には十分反映されていません。もちろん、それは起源についての話なので、それが現在の社会集団を説明するために適切であるとは限りません。そして、起源の説明と、現在の社会の説明の両方を同時に追求することは難しいです。そこで、現代社会の説明を優先しつつ、この定義を改良するという仕方で探究を進めたいと思います。
 
 ②さてこの定義では、家族や部族や会社などの説明ができたとしても、国家の説明はできないということに気づきました。なぜなら、柄谷行人によると、国家は共同体の共同体として誕生したからです。柄谷(あるいはマルクス)のこの指摘は正しいように思われます。このことは、歴史研究によって検証すべき事柄ですが、つぎのように推測して見ることはできます。
 人間は類人猿の段階から集団を形成していたので、国家が出来る前にも集団があった。人間は個人では解決できない問題を集団で解決していました。しかし、既成の集団では解決できない問題が生じてきたために、<既成集団とは別に、あるいは既成集団を解体して>、国家というより大きな集団を作った、と考えることができます。しかし、この後者の可能性は少ないとおもいます。なぜなら、既成集団が解決していた問題があるのですから、その問題解決のために既成集団を残しておくことが合理的だからです(ただし、この選択は新しく登場してきた問題の内容に依存します)。もう一つの可能性は、<既成集団では解決できない問題が生じたために諸集団が集まってより大きな組織を作った>ということです。柄谷(マルクス)はこちらが正しいと考えるのです。もし新しく生じてきた問題が、個人にとっての問題というよりも、共同体の存続に関わる問題であるなら、後者の可能性が高いでしょう。そして、私もまた後者が正しいだろうと推測します。それは新しく生じてきた問題とは、「いかにして他の共同体との戦いを避けて、共同体の存続を確保するか」という問題であっただろうと推測するからです。
 このとき、国家は次のように定義できるでしょう。<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、この問題に取り組む共同体の集団を国家と呼ぶ>
 おそらく、起源の説明としては、共同体の共同体は正しいのです。しかし、近代国家では、この性質が隠されています、あるいは消失したのかもしれません。
 近代の国家契約論は、自然状態にある個人が安全のために契約によって国家を作ると説明します。この定義は、国家が共同体の共同体であることを隠蔽することになりました。近代国家では、国家が主権を持ち、中間共同体が国家に対する自律性を失い、完全に国家の下位集団になり、国家が、共同体の共同体から、諸個人からなる共同体になったのです。
ace=”MS 明朝”> 国家契約論者は、国家の起源は共同体の共同体であるにしても、当時の国家の本質はすでに共同体の共同体ではなく、諸個人からなる共同体にある(あるいは、あるべきだ)と考えたのでしょう。
 これは、時代を先取りしていたとともに、国家の本質を一点において捉え損なったと思われます。まず、これが時代を先取りしていたことを確認しましょう。
 
■個人問題がふえるとき、家族や共同体の問題が減少する。
 ひとが単独で解決できる問題の増加は、個人を作り出します。言い換えると、人が共同体に依存することによって解決した問題が、お金によって一人で解決できる問題になるとき、既成共同体が解決する問題は減少します。米作りのためには、田に水を入れるための共同作業が必要です。しかし、会社に雇用されて、会社で働いてお金を得る場合には、地域共同体との関係は、希薄になります。食事作りや洗濯や風呂を沸かすことが時間のかかる仕事であるなら、家族での分業を必要としますが、機械によって一人で簡単にできるようになると、家族との関係は希薄になります。個人が単独でお金によって解決できる問題が増加すれば、地域共同体や家族の必要性が減少します。貨幣経済によって個人がお金で解決できる問題が増加することによって、「個人」が誕生することによって、中間共同体の弱体化とそれに対応した近代的主権国家の誕生がもたらされたのです。
 中間共同体の弱体化と、近代的主権国家の登場とは、次のように関係しています。土地と労働時間が商品となることによって、封建制は崩壊します(中間共同体は弱体化します)。その代わりに、市場のルールの明確化やそのルールの履行を保証し、貨幣の交換価値を保証する国家権力が必要になります。
 ナショナリズムは、国家内の文化的言語的社会的多様性を無視して、均質的統一性を強調するのですが、国家契約論がすでに、国家内の中間共同体を無視して、均質な統一性を強調する国家論になっています。
 共同体との感情的な結合が、中間共同体の消失とともに失われると、それに変わる同一化の対象が国家に求められるようになり、そこにナショナリズムが生まれてきたと言えるかもしれません。最近の日本で言えば、会社への同一化ができなくなるときに、国家への同一化をもとめ、それが近年のナショナリズムの復活になっているのかもしれません。
 
■次に国家契約論によって隠された点を確認しましょう。
 それは国家の超越性とでも呼ぶべき特徴です。
 もし国家が、諸個人が集まって契約によって作った共同体であるとすると、冒頭に上げた「社会問題」と「社会」の定義が国家にもそのまま当てはまります。しかし、もし国家が共同体の共同体であるとすると、国家の定義は、<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、そのような問題に取り組む諸共同体の集団>となります。この後者の場合には、個人にとっての問題であるが、個人では解決できない問題を解決するために国家を作ったのではなくて、共同体の存続という共同体にとっての問題を解決するために作られたものが国家です。共同体によって個人に関わる問題を解決してきたのですから、共同体の存続問題は、もちろん個人にとっても重大問題です。しかし、それは個人にとっての直接的な問題ではありません。
 個人問題の解決xのために共同体yを作り、共同体yの存続のために国家zを作ったとすると、xという目的の実現手段が、yであり、yの実現手段がzです。個人の生活がyの中にほとんど閉じている時には、zは個人にとっては直接関わることのない遠い存在です。さて、この状態から、貨幣経済によって、個人問題の解決xが(すべてではないにしても、また完全にではないにしても)yに依存しなくても解決できるようになり、yが弱体化し、その代わりにxが直接にzによる働きかけを必要とするように変化したとしましょう。このとき、個人の問題解決のために、国家が必要になっているのです。そして国家は、そのような働きによって個人から正当化されているのです。しかし起源において国家は個人が作ったものではありませんでした。国家は共同体が作ったものであり、個人を超越した存在でした。国家は、個人によって正当化されており、またそのような正当化を必要としているとしても、それ以前の共同体とは異質と言えるほど、個人からは遠いものです。
 
定義を、とりあえず次のように変更したいとおもいます。
<個人あるいは社会組織が単独では解決できない問題があり、それを解決するために複数の個人あるいは社会組織の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む個人ないし社会組織の集団を「社会」と呼ぶ>
 

 

12 貨幣貯蔵と個人

                                   人間もタイルも劣化する暑さかな (ひねりも劣化する還暦かな)
 
12 貨幣貯蔵と個人 (20130813)
 
前の2回で、フランクファートの自由意志の定義をもちいて、お金への欲求と人格論や自由意志論との関係を説明しょうとしました。しかし、次の区別を忘れていたわけではありません。
 
それは、人格や自由意志の成立と、近代的な個人の成立の区別です。前者は、近代以後の人間にかぎらず、人間が言語を話すようになったときに成立していることだろうと思います。しかし、それから近代的な個人が登場するまでには、長い歴史があります。
 
貨幣経済によって、個人によって解決できる問題が増えたことによって、近代的個人が登場したと言うのが、0509で説明してきた仮説でした。個人が解決できる問題が少ないとすると、個人がもつ「欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求も少なかったと予測出来ます。例えば職業選択の自由がないとすると、「ある職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということも無いでしょう。もちろん、親の跡を継いで、ある職業につかなければならないけれども、その職業に付きたくないときに、「其の職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということがあるかもしれません。しかし、他の職業を選択する余地がまったくないときに、親の職業に就きたいとか、就きたくないとか考えたりしないのではないでしょうか。二階の欲求は、全く選択の自由のないところには成立しないよう思います。もちろん、近代以前の社会でも、個人には選択の余地はあるでしょう。しかし、それは近代社会においてよりも、狭い範囲にかぎられています。人間は言語を持ってから二階の欲求を持っていたけれども、近代的な個人は、それ以前に比べて非常に多くの二階の欲求をもつようになった、という違いがあるだろうおもいます。
 
 しかしそこにあるのは単に量的な問題だけでしょうか。近代的個人の特徴は、お金でひとが一人で自由に解決できる問題が増えたという事だけでなく、自由そのものを求めるひとが登場したということではないでしょうか。自分の自由そのものを求めるひとの登場が、個人の登場ということではないでしょうか。なぜなら、行動や欲求の自由がなければ、個人というものは成立しないからです。(近代的個人、ないし個人主義を定義する必要がありますね。)これを、この文脈で言い換えると、お金への欲求が自己目的になっている人が登場するということです。
 
貨幣社会では、すべての人はお金への欲求を持っています。なぜなら、お金が無ければ生存できないからです。生存への欲求から「お金への欲求をもつことを欲する」という二階の欲求が発生し、これが実現することによって、お金の欲求をもつことになります。しかし、お金への欲求は単なる生存への欲求や快楽や安全などへの欲求を超えて自己目的化することがあります。それはなぜでしょうか。
 
それは、お金は腐らないので、いくらでも貯めておくことができるからでしょう。貨幣には価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3つの機能があると言われています。この最後の価値貯蔵の機能は、お金がいつまでも腐らず錆びずに保存できるということに基づいています。織物やお米とちがって、貨幣は劣化しないので、ほぼ永遠に保存でき、ほぼ無限に貯めることができます。しかし、これはお金への欲求が自己目的化し、無限の欲求となるための、必要条件であっても、十分条件ではないように思います。
 
お金への欲求は、自己目的化したから、無限の欲求になったのでしょうか。それともお金の貯蔵への無限の欲求が可能になったから、自己目的化したのでしょうか。お金への欲求は、なぜ自己目的化したり、無限の欲求になったりしたのでしょうか。これらは、フランクファートのいう二階の欲求とどう関係するのでしょうか。
(お盆の間、田舎で考えてみます。)n>
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

11 二階の欲求による意志の自由の定義

 
 
                 おみやげ京都より来る、また樂しからずや
 
11 二階の欲求による意志の自由の定義 (20130807)
 
前回述べたことを訂正したいと思います。
前回「お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です」と述べましたが、これは、フランクファートが定義する意味での「二階の欲求」ではありませんでした。
 
フランクファートは「二階の欲求」を「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」と定義します。これは、「ある欲求を満たしたいという欲求(ないし欲望)」とは異なります。Aさんが欲求xをもつことを欲するとすれば、Aさんはまだ欲求xを持っていないはずです。しかし、Aさんが例えば欲求x「パンを食べたい」の満足を欲するとすれば、Aさんはすでに欲求xを持っているのです。仮に欲求xを持っていなくても、パンを食べることはできますが、そのときAさんは<欲求xの満足>を得ることはできません。なぜなら、欲求xをそもそも持たないからです。
 
私がつぎのように言うべきでした。
「パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する」ということは、「お金が欲しいという欲求をもちたいと欲する」という二階の欲求が実現することによって成立する事態です。したがって、ここにはもはやこの二階の欲求はありません。
 
以上が訂正です。
 
さて前回の繰り返しになりますが、物への欲求があるなら、それを手に入れるためのお金への欲求は、二階の欲求の実現によって成立します。逆に、もしお金への欲求がすでにあるならば、それを手に入れるための(労働などの)行為への欲求は、二階の欲求の実現によって成立すると言えます。
 
殆どの人は、前者のお金への欲求はすでに持っているので、お金への欲求を持ちたいという欲求は、すでに実現しています。多くの人が、お金に関係して通常持っている二階の欲求は、後者です。ある目的のために、やりたくないことをやらなければならないとき、人は二階の欲求をもつことになります。
 
フランクファートは、行為の自由との類比にもとづいて、意志の自由を定義します。彼によると「行為の自由」とは、「人が欲していることをする自由」である。これと類比的に考えると、「意志の自由」とは、「自分が欲したいと欲していることを欲する自由」であり、「より正確には、彼には自分が意志したいと欲していることを意志する自由があるということ、あるいは、自分の欲する意志をもつ自由があるということ」である。「意志の自由についての問いは、その意志が、彼がもつことを欲している意志であるかどうかに関わる。」(邦訳、116
 
 
フランクファーとの「自由な意志」の定義は、次のように説明できるでしょう。
<「欲求xを持つことを欲する」という二階の欲求があって、それによって(それが原因となって?)欲求xを持つことになったとき、そのような欲求xは、「自由な欲求(意志)」である>
size=”3″ face=”Century”> 
したがって、お金を稼ぐために、「労働への欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求をもつ生真面目な労働者が、実際に労働への欲求xをもつようになったとき、その欲求は自由な欲求(意志)です。
なんだか、悲しい自由です。
 
 
 
 
 

10 二階の欲求とお金への欲望

                         蝉が必死に鳴いています
 
10 二階の欲求とお金への欲望(20130731)
 
お金の登場によって、いくつかの問題が、一人で解決できる問題になりました。そのような問題が、ふえることによって、そのような問題に取り組む主体としての「個人」を作り出すことになった可能性があります。
 
お金で解決できない個人の問題もありますが、それは近代以前には個人の問題ではなく、家や共同体の問題であったのです。それが近代以後に個人の問題とみなされるようになるのは、個人が登場したからに他なりません。
 
ところで、お金で解決できる問題には、二種類あります。一つは、お金がないという問題です。お金がないという問題は、お金を獲得することによって解決出来ます。もう一つは、お金で財やサービスを購入して解決できる問題です。それは、空腹を満たすことであったり、自動車を修理することであったりします。コンビニでパンを買って、空腹を満たすことができます。パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する時、お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です。お金は、様々な欲求をみたす手段になりますから、お金が欲望しいという欲望は、様々な欲求を満たしたいというより一般的な欲望になります。あるいは、特定の欲望を超越したより抽象的な欲望になります。
 
そこで、フランクファートのいう「二階の欲求」概念を用いてお金への欲望を分析したいと思います(H. G. Frankfurt, ‘Freedom of the will and the concept of a person' in The Importance of What We Care About, Cambridge UP.,1988. 近藤智彦訳 「意志の自由と人格という概念」『自由と行為の哲学』門脇俊介+野矢茂樹編・監修、春秋社)
 
フランクファートの定義では、「一階の欲求」とは、「あることをすること(あるいはしないこと)を欲求すること」です。これに対して「二階の欲求」とは、「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」です。「xへの欲求をもつことを欲する」としても、xを欲しているとはかぎりません。たとえば、彼の例では、麻薬中毒者を治療している医師は、麻薬に対する欲求がどんなものかを理解したくて、「麻薬に対する欲求をもつことを欲している」。しかし、麻薬を欲しているのではありません。もちろん、「xへの欲求をもつことを欲する」ときに、xを欲していることもあります。例えば、ある人がお金を稼ぐためにパンを作っているとしましょう。彼女はパンが好きで、美味しいパンを食べるという欲求をもっています。彼女は仕事熱心で、お客さんのパンへの好み、つまりお客さんの好みと同じようなパンへの欲求をもちたいと欲しています。これは、二階の欲求です。
 
このような二階の欲求は、行為の目的手段関係と次のように関係します。今仮に、目的Xを実現するためには、行為Yをしなければならないとしましょう。そして、ある人がXの実現を欲求しているとしましょう。このとき、彼女には行為Yをする必要があります。彼女が行為Yをしようとするとき、彼女は行為Yへの欲求をもつこと欲することでしょう(特殊な場合にはこのことが成り立たないかもしれませんが、大抵の場合はこのように言えるとおもいます)。これは二階の欲求です。
 
お金は、目的にも手段にもなるので、次の2つのケースが考えられます。
①何かの財やサービスを手に入れるという目的あり、そしてお金でそれを手に入れることができるとき、お金を手に入れることは、その目的実現のための手段になります。それゆえに、お金
への欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
②お金を稼ぐことが目的であって、働くことがその手段であるとき、お金への欲求から、働くことへの欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
 
 
(注:フランクファートは、書庫「問答としての人格」で取り上げたストローソンの人格論を批判します。ストローソンによれば,意識状態は常に一定の時間空間上で同定されるのであり、それゆえに意識状態と身体は不可分です。つまり「人格」こそが、原初的な概念なのであって、「身体」と「意識状態」から合成して作られる概念ではないということです。もっと言えば、「人格の同一性」こそが原初的な同一性概念なのであって、それを他のものの「同一性」から説明することはできない、ということです。
 これに対して、フランクファートは、このような人格概念は、動物にも当てはまるので、これによって動物と人間を分けることができないと批判しました。(それにたいして、ストローソンならばどう答えるでしょうか。これについては、書庫「問答としての人格」で論じるのがよいでしょう。フランクファートは、二階の意欲をもつことで、動物と人間(人格)を分けようとしました。
 これにたいして、ストローソンならばどう反論するでしょうか。これはまた別の機会に。)
 
 
 
 

09 お金と個人的問題

 
 
09 お金と個人的問題(20130724)
 
前回述べたように「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」。この「多くの問題」の中には、多くの個人的な問題も含まれています。前回述べたようにお金では解決できない個人の問題もたくさんありますが、お金で解決できる個人の問題もたくさんあります。(お金で解決できない問題の中には、死、老化、病、結婚、出産に絡む問題があり、それらの問題は、貨幣社会誕生前からある問題です。他方では、住まいの獲得、食べ物の獲得、など貨幣社会以前からある問題であって、貨幣社会になってからお金で解決できるようになった問題があります。もちろん、お金で解決できる問題の中には貨幣社会になってから生じた新しい問題もあります。)
 
ところで、05で述べたように、いわゆる「近代的個人の自由」は、資本主義社会が可能にした自由であり、その自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのだとしましょう。そうすると、お金で解決できる問題が、近代的個人を構成している問題なのではないでしょうか。お金で解決できない問題は、近代的個人が登場する前からあった問題です。しかし、それらが個人の問題になったのは、個人が登場した後のことであり、近代以前には、それらは家族の問題であったり、共同体の問題であったのではないでしょうか。
 
「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのではないでしょうか」
 
「近代的個人は資本主義社会の中で誕生した」ということは、陳腐な真理です。それは、資本主義社会が、財やサービスや労働の自由な売買契約に基づく社会であり、その中で、所有と契約の主体として「個人」が成立したという意味です。
 
しかし所有と契約の主体としての個人が、売買契約をするのは、それが必要だからであり、それによって何らかの問題を解決するためです。売買契約によって彼が解決しようとしている問題もまた、彼を個人に構成しているものなのです。それが売買契約によって解決できる問題である以上、それはお金で解決できる問題なのです。つまり、「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのです」
 
 

08 交換手段=問題解決手段

 
 
 
08 交換手段=問題解決手段 (20130715)
 
 人がお金である商品(財、サービス、など)を買うのは、その商品が必要だからです。その商品が必要なのは、通常は(買った商品をより高く売るためではなく)その商品によって何かの問題を解決するためです。それは飢えを満たすことであったり、寒さをしのぐことであったり、住まいを快適にすることであったり、気分転換をすることであったりするかもしれません。個人が抱えている多くの問題を、商品(財、サービス、など)の購入によって解決することができます。
 たとえば、自動車の修理が必要な場合には、その問題を解決するために必要なことは、それに必要な代金を稼ぐことです。ほとんどの問題は、その解決に必要なお金を稼ぐことで解決できます。お金は、万能ではありませんが、ある程度、一般性を持つ問題解決手段です。この場合、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 お金が問題解決手段となるのは、個人の問題に限りません。国家は、社会問題を解決するために作られた組織ですが、国家は、軍隊や警察や刑務所、裁判所や病院や学校、などの組織によって様々な社会問題を解決しようとします。そのとき、国家は、力を行使する権利を必要とするだけでなく、その活動のためのお金を必要とします。軍隊や警察の権力を持つためには人件費や施設や装備を購入するためのお金が必要です。そのためには徴税が必要になります。この場合にも、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 もちろん、お金で解決できない問題もたくさんあります。個人の場合には、死、老化、病気、就職、進学、結婚、出産、などの問題、国家の場合には、領土問題、戦争責任問題、人権侵害などの問題です。会社のかかえる問題にもおそらくお金で解決できない問題があるでしょう。
 とりあえず、私たちは個人や社会の問題をつぎの3つに分けることができます。
 ①お金で解決されている問題
 ②お金で解決可能であるが、支払い能力を超えているためにお金で解決できない問題。
 ③お金では解決不可能な問題。
 
イノヴェーション(新商品の開発など)によってある問題を解決することは、(ある場合には)、③ないし②の問題を①の問題に変換することです。(イノヴェーションには、他のケースもあるでしょう。)
 
「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」
これはごく当たり前のことですが、このテーゼのもつ含意が汲み尽くされていないように思えます。
 
 

 

07 価値尺度と功利主義

 
 
             一枚目のお好み焼きと二枚目のお好み焼き、その心は?
 
07 価値尺度と功利主義 (20130708)
 
すべての商品の価値が貨幣で図られる時、そこでは使用価値の差異は無視されます。功利主義者が、快楽や幸福の質を区別せず、すべての快楽や幸福を量で測れると考えたことは、すべての商品の使用価値の質の違いを無視して、すべての商品をその交換価値の量で測れると考えたことと似ています。交換価値の同じ商品が交換可能であるのと同じく、量の同じ快楽や幸福は交換可能なものと見なされます。
 
私があるお金を持っている時、それでどの商品を買うかは、私の自由です。そのとき、私がどの商品を買うかで私の快楽や幸福の質は異なります。それだけでなく、そのとき何を買うかで私の快楽および幸福の量も変化します。
 
あるお金で買える商品によって得られる満足は、どの商品を買っても同じというわけではありません。もしそうならば、店先でどれを買うかで悩んだりしないでしょう。選好に個人差があるということももちろんですが、限界効用逓減の法則があるからです。一杯目のコーヒーも二杯目のコーヒーも同じ値段であるが、二杯目のコーヒーのもたらす満足は、一杯目のコーヒーのもたらす満足よりも少なくなります。これが、限界効用逓減の法則です。そこで経済学では、ひとは、一定の金を使うときには、ひとつないし少数の商品ばかりを買うのではなくて、様々な商品買うことによって、貨幣単位あたりの限界効用が最大になるような仕方で消費すると考えます。
 
私たちにとっての快楽や幸福は、私が自由に選択できるものであす。その限りで、逆にいうと私はその快楽や幸福を選ばないこともできたということですから、それらの快楽や幸福から自由であるということです。私にとって不可欠な快楽や幸福と私にとって偶然的な快楽や幸福の区別は、功利主義者にはないのです。そこにあるのは量的な区別だけであって、質的な区別はないからです。
 
快楽や幸福を選択する私は、その限りで快苦から独立な自己です。売買できる能力や権利をもつ主体が存在すること、つまり功利計算ができる理性的で自由な選択の主体が存在することは、資本主義社会にとっても、功利主義にとっても、社会の不可欠な前提条件です。
 
 

 

06 売り手の自由と均質な時間空間

 
06 売り手の自由と均質な時間空間 (20130624)
 売買とは、貨幣と商品との交換の契約です。この売買契約は、他の契約と同様に、両者が自由に契約できることを前提しています。自由な契約でなければ、それは契約とは言えないでしょう。自由は、「契約」という概念の中に含まれています。
 お金や商品を自由に売買できるためには、それらを自由に処分できるものとして所有していることが必要です。自由に処分できるためには、その対象は、他の対象から分離可能でなければなりません。例えば、ある人Aが木の根の部分を所有しており、Bがその幹の部分を所有しており、Cが枝と葉の部分を所有しているとしましょう。このとき、Aは根の部分を勝手に処分できるとすると、Aの自由な行為が、他者の所有物である幹や枝の部分にも大きな影響を与えることになります。したがって、Aが木の根の部分だけを所有するということは、そもそもあまり考えられません。たとえば、その木全体の元の所収者Dがいるとしましょう。彼は、根の部分だけをAに売ったりはしないでしょう。なぜなら、根の部分をAに売ったときに、Aがその根の部分を運び出そうとすると、所有者Dは、幹の部分や枝の部分を枯らしてしまうことになるからです(『ベニスの商人』も似た話です)。そのように考えると、Aが根の部分だけの所有権をもつようになるということは考えにくいことです。しかし、Dがその木全体を掘り出したあと、それを売ろうとして、根の部分と幹の部分と枝の部分を別々に売ることはありうることです。
 ある対象が商品になるということは、他の対象から分割可能だと見なされるということです。たとえば、労働者が、自分の労働力を商品として売るとき、あるいは自分の8時間の労働を商品として売るとき、彼のその労働力ないし8時間の労働は、彼の他の能力ないし他の時間から、分割可能だと見なされています。
 商品を売る者は、自由な契約によってそれを行うのですが、それは自分の所有物の一部を自由に分割できることを前提しています。彼の所有物は、世界から分割可能なものとして、彼の所有物になっているのですが、彼がそれを自由に売れるとすれば、それは彼がそれを自由に分割できるということです。
 様々なものが商品となることによって、様々なものの使用価値の質的な差異は無視され、貨幣で交換価値が表現される等質なものとなります。しかも、それらは、自由につまり任意に分割可能なものとなります。近代に登場する自然科学が想定する均質な時間空間は、市場社会における商品の均質性および分割可能性と深い関係がありそうです。(マルクスか既にどこかで言っているのかもしれません。)
 
 
 
 

 

05 貨幣の流動性と自由な個人

 
05 貨幣の流動性と自由な個人 (20130616)
 
 封建社会というのは、おおよそ身分制の社会であり、身分制の社会とは、おおよそ生まれで身分が決まっている社会だといえるでしょう。つまり、そこに職業選択の自由はありません。また住所選択の自由もありません。結婚の自由も身分性によって制約されていたでしょう。こういう社会の中では、おそらく、個人に許された選択の自由が非常に少なかったと言えるでしょう。これらの個人の社会的な自由は、資本主義社会になって可能になったものであり、労働力や土地を含めてあらゆるものが商品として、おおよそ市場で自由に売買される社会において可能になったといえるでしょう。資本主義社会こそ自由な個人を創りだしたのです。(私は歴史研究者ではないので、このあたり全くの推測です。)
 個人の自由の核にあるのは、いわゆる「意志の自由」です。そして意志の自由の核心部分は、他行為可能性(他の行為をすることができた)にあります。この他行為可能性とは、職業選択、居住の自由、結婚の自由などの社会的な自由についていえば、多くが契約の自由と結びついています。雇用契約、賃貸契約、婚姻契約などです。そして、契約の多くが売買契約です。
自由な売買契約ができるのは、お金が何とでも交換できるからです。お金のこの流動性と個人の自由は、深く結びついています。流動性をもつお金が支配している世界だからこそ、個人の自由が成り立っているのです。
 ヘーゲルは、古代では一人の君主だけが自由であり、その後の貴族制の世の中では少数の人間が自由であり、近代国家において全員が自由になると考えましたが、資本主義社会の市民たちは、古代の王様よりはるかに自由な存在です。この自由は、資本主義社会が可能にした自由なのです。
 もちろん、お金がない人は、資本主義社会では不自由な生活を強いられます。そして、そういう人が多いことも事実です。お金がある限りで、私たちは自由なのです。私たちの自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのです。
 
 
 
 

04 一般的交換手段と一般的価値形態

 
04 一般的交換手段と一般的価値形態 (20130609)
 
金や銀は、それ自体が使用価値をもつと考えられていなければ、交換手段として用いられることはありえないでしょう。では、なぜ金や銀は、それ自体で価値をもつものと考えられるようになったのでしょうか。それらは、装飾品として他の金属よりも価値をもつと考えられたのでしょう。
 
貨幣が誕生したということは、一般的な交換手段として、交換が広まっていることを示しています。では、貨幣が誕生するためには、交換は、社会の中でどの程度広まっている必用があるのでしょうか。共同体間の取引にだけ貨幣のようなものが使用されるということがあるかもしれませんが、そのような取引では、何でも取引されるわけではないでしょう。つまり、そのときの交換手段は、また一般的交換手段だとは言えません。それが一般的交換手段つまりほとんどの交換に利用できる交換手段となるのは、多くの物の交換が社会の中に広まっている必要があります。金や銀は、腐りにくく持ち運びに便利なので、最初は遠隔地交易のための交換手段として利用されるようになったのかもしれません。しかし、いずれにせよ、金や銀は、共同体の中での活発な交換の手段として用いられるようになります。
 貨幣が一般的な交換手段になるということは、多くの物の交換価値が、貨幣との交換比率という一つの尺度で表現されるということです。それは言い換えると、多くの物の価値を、一様化することです。すべてものの価値が、貨幣価値で表現されることになります。つまり、貨幣が「一般的価値形態」になるということです。これは物の世界を大きく変化させるでしょう。(ちなみに、Marxは一般的価値形態と貨幣形態を区別します。それはコメや麻布が一般的な交換手段として用いられることがあるとしても、金が一般的交換手段として用いられる場合とは異質であるということです。ここではその区別を無視しています。)
 貨幣で多様なものを買えるということは、貨幣をもつ者は、いつでも多様なものを自由に買えるということです。貨幣をもつ者は、多様な行為の選択肢をもつことになります。これが、貨幣所有者を、自由な個人にするのでは無ないでしょうか。
 (ちなみに、Marxによれば、商品の交換価値とは、「人間労働の凝結物」です。投下労働時間によって、交換価値が決定することになります。それでは、Marxは、国によって賃金の違いがあることをどう説明するのでしょうか。それは、単一のグローバルな労動市場がなく様々な規制があるために生じているということでしょうか。それとも価値を投下労働時間ではかることが間違いなのでしょうか。)