01 問答としての商品交換

  

                      遠近法に吸い込まれそうな職場です。
 
01 問答としての商品交換 (20130312)
 
 商品交換は、一言も話さなくてもできます。例えば、果物屋さんの店先で一個100円で売っているリンゴを一つ掴みあげて、果物屋さんに100円玉を一つ差し出せば、何も話さなくても、リンゴを買うことができます。
 しかし、果物屋さんは、一個100円という値札を、リンゴの籠に置くことによって、「このリンゴを一個100円で売ります」「このリンゴを一個100円で買いませんか」と呼びかけている。私が黙ってリンゴを一個手にとって、100円を差し出すとき、私は「このリンゴを一個100円で買います」といっているのです。商品交換は、常に問答によって可能になり、問答を伴っています。
 これは当たり前のことですが、この当たり前のことについて、すこし分析してみたいとおもいます。
 商品とは、これから交換されるもの、あるいは先行する交換によって得られたもの、として考えられた時の財やサービスのことだと言ってよいでしょう。
 商品交換とは、財やサービスの所有者(個人ないし共同体)が、自分が所有している財やサービスを相手に与えて、その代わりに、相手が所有している財やサービスを手に入れることです。(交換には、商品交換以外の交換もありますが、交換一般についての定義は難しいので、必要になったときに考えることにします。)
 貨幣とは、このような商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3つの機能を持つものであると、一般的に言われています。
 この3つの機能について分析したいと思います。

24 経済活動とは何か

                                  年の瀬に賑わう道後です
 
24 経済活動とは何か (20130122)
 
12回目 (20120626)で示した図式の中に経済活動をどう位置づけるのかという問いに答えるには、「経済活動とは何か」に答える必要があります。
 
百科事典には次のような説明があります。
 
「〈経済〉とは,衣食住など物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体である。われわれ人間も他の動物同様,ものを食べなければ生きていけない。しかしわれわれがものを摂取する過程は,動物とは根本的に相違する。・・・われわれは単に生理的要求から消費しているだけでなく,文化的要求を満たすためにも消費している。すなわち文化を食べ,文化を身にまとい,文化のなかに住み,文化を呼吸し消費しなければならない。」(『世界大百科事典』平凡社、項目「経済」より)
 
この定義の中心的な部分は、次のとおりです。
  「衣食住などの物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体」
このなかに織り込み済みなのでしょうが、二点気になるので注記しておきます。
  1、狩猟採集を考えるならば、生産だけでなく、獲得もあげる必要があります。
  2、情報社会での財は物財に限らない。
 
 ポランニーや柄谷は、財の交換様式を、互酬性と再分配と商品交換の3つに区別しています。柄谷によると次のように歴史的に変化してきました(参照『世界史の構造』)。
  互酬性は、氏族社会の主たる交換様式
  再分配は、アジア的国家、古典古代国家、封建的国家における主たる交換様式
  商品交換は、近代国家の主たる交換様式です。
 
この三つのうち互酬性や再分配は、同時に政治の仕事でもあったと思われます。それらについては、経済と政治をはっきり分けて考えることはできません。政治と経済を分けて考えられるようになったのは、近代国家になり資本主義が発達して、交換が経済の統合形式になってからのことでしょう。
 
以上が「経済活動とは何か」へのとりあえずの答えです。
 
次に「経済活動を先の図式にどのように位置づけるのか」という問いに答えたいとおもいます。互酬性や再分配という制度は、政治制度でもありますから、社会問題を解決するものであったといえるでしょう。問題は商品交換です。  
「商品交換を先の図式にどうのように位置づけるのか」という問いに対しては、貨幣や市場は、社会全体で取り組まなければ解決できない社会問題を解決するために作られた社会制度だといえるでしょう。
 しかし、個々人が行う個々の商品交換は、個人が個人的な問題を解決するために行う行為です。これは社会問題ではなく個人問題にかかわる活動であるように見えます。
 

 

仕切り直し

 
 
23 仕切り直し (20130106)
 
 久しぶりにこの書庫に戻って来ました。
 「会社は社会組織であるか」という問題に手間取っていましたが、会社は、社会組織であると思います。なぜなら、利益の追究が会社の目的であるとしても、一人では追求できない利益を複数の人間が会社を作って追求するのならば、それは複数の人間にしか解決できない社会問題を解決するための社会組織だと言えるからです。(この場合の「社会問題」という語の用法が、通常の用法から少し離れているので、それがこの問いの扱いを混乱させていたのだと思います。しかし、複数の人間でしか解決できない問題を解決する複数の人間が「社会」を構成するのであり、その問題を「社会問題」と呼ぶという定義に忠実に考えるならば、会社は、社会組織です。)
 
 ところで、ドラッカーによると、会社の基本的機能の一つは「マーケティング」です。マーケティングとは、市場での取引、あるいは販売促進活動です。会社は市場と貨幣を前提しています。市場は、「安定的に財の交換をおこなうにはどうすればよいのか」という社会問題を解決するために作られた社会制度だといえるでしょう。市場は、最初は、場所と時間が限られる仕方で、例えば、一定の場所で定期的に開かれる物の交換場所として登場したと思われます。もし定期的でなければ、それは単なる物の交換であって、市場とはいえません。物の交換が、定期的にある場所で開かれる市場として制度化される時、その運営が必要になります。つまり市場はひとつの組織であり、社会制度の一つです。
 会社は、市場や貨幣という社会制度を前提して、そこで生じる社会問題を解決するための社会組織の一つだと言えます。
  ところで、ポランニーは、人類の歴史上の経済システムは、互酬性、再分配、交換の3つにわかれると言います。市場は、交換のために作られた社会組織です。経済を考えるには、もう少し基礎的なところから考える必要があるようです。
 
 そこで、ここで少し仕切り直ししたいと思います。この書庫を読みなおして、「問答としての社会」という図式において気になる点は、次の3つです。
  「経済活動はこの図式とどう関係するのか」
  「文化はこの図式とどう関係するのか」
  「個人問題と社会問題の関係をどう理解するのか」
 
そこでまずしばらく「経済活動は、この図式とどう関係するのか」という問いに答えたいと思います。
 
 

グローバル化の時代における人文社会科学の二種類の問題設定

 
16 グローバル化の時代における人文社会科学の二種類の問題設定 (20130113)
前回、1990年頃に人文社会科学の課題は、ナショナルな視点からグローバルな視点へ転換したと述べました。
   「西洋近代とは何か」
   「私たちはどのように西洋に向かい合うべきか」
これらの問いが、1990年頃から次の問に変わったのです。
   「グローバル化とは何か」
   「私たちはどのようなグローバル化を選択すべきか」
しかし、それは正確ではありませんでした。
 
保守的な人々は、相変わらずつぎのように問うでしょう。
  「私たち日本人はグローバル化にどのように対応すべきか」
彼らにとっては、グローバル化は、外からやってきたものなのです。2012年12月の総選挙での自民党の勝利は、そのように考える人が多いことを示しています。この保守的な態度に従うなら、おそらく人文社会科学の研究もナショナルな視点から継続されることになるでしょう。その際、私たちは以前とよく似た次の3つの種類の答え方を反復することになるでしょう。
  (1)グローバリズム:グローバル化推進論者
  (2)復古主義:反グローバル化
  (3)オルターなティズム:反グローバル化
 
日本国が存続する限り、「私たち日本人はグローバル化にどう対応するのか」というナショナルな視点からの研究は、一方で継続するでしょう。
 
他方で、グローバル化は、グローバルな社会問題(環境問題、難民問題、食料危機、金融危機など)を生み出しており、これらは、グローバルな連携によってのみ解決できるものです。そのためには、私たちは「私たち人類は、どのようなグローバル化を選択するのか」とい問いを立て、グローバルな視点から取り組まなければなりません。
 
どのくらい続くかわかりませんが、私たちは、しばらくは、これらの二つの問いの立て方をすることになるでしょう。 
 

問いの見直し

                                        Heidelbergの有名なAlte Brueckeです。現在のものは戦後再建されたものです。
 
明けましておめでとうございます。
今年はどんな年になるのでしょうか。
反動があろうがなかろうが、グローバル化が進むことは間違いないでしょう。 
 
15 問いの見直し (20130105)
 
この書庫の問題設定を少し見直したいと思います。
 
明治維新から1990年ごろまでは、次の問いが日本の人文社会学にとって重要であり、
   「近代西洋とはなにか」
   「私たちは近代西洋にどう対処すべきか」
1990年以後は、次の問いが重要になったと言いました。
「グローバル化とはなにか」
「私たちは、グローバル化にどのように対処すべきか」
 
2番目の問いの「私たち」は日本人です。では、4番目の問い「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」の「私たち」とは、誰のことでしょうか。
 
2番目の問い「私たち日本人は、西洋社会にどう対応すべきか」という問いは、日本と西洋社会が別々に存在しており、それが出会った時の問題でした。グローバル化についても、日本人はしばしば「黒船」の喩で語ります、それは「外部」からやってきて開国を求めるものなのです。
 
しかし、正確に言うならば、グローバル化は、私たちの外部からやってきた出来事ではありません。日本の経済発展やバブルの崩壊は、グローバル化を引き起こした原因の(小さな部分であるにせよ)一部分だからです。どのような国にとっても、グローバル化は、外部の出来事ではなく、その国の変化が原因の一部になっている出来事です。そうすると、「私たちは、グローバル化にどのように対処するか」ではなくて、「私たちは、どのようなグローバル化を選択するのか」というべきでしょう。
 グローバル化が世界全体の動きであり、誰も部外者ではなく、誰もがそれに加担しているのだとすると、この問いの「私たち」は、「私たち人類」でもあり得ますし、「私たち人類は、どのようなグローバル化を選択するのか」という問いになるでしょう。
 
上記の問いの「私たち」の変化は、ナショナルな視点から、グローバルな視点への変化でもあります。学問においても、これは同様です。学問は、本来は普遍的なものだと思いますが、人文社会科学は、これまでナショナルな視点に拘束されてきたのだと思います。人文社会学そのものは、たとえば、ドイツ哲学とか、フランス文学とか、日本史とかのように、ナショナリズムをと結びついて発生したものであり、ナショナリズムが無効になった今日でもなおナショナルな視点と結びついています。
グローバル化のなかで、グローバルな視点からの人文社会学のための社会的な条件が成立したといえます。もちろん、グローバル化の時代になっても国家はなくならないし、ナショナル・インタレストもなくなりませんから、ナショナルな視点の人文社会科学もなくならないでしょうが、他方で、グローバルな視点の人文社会学の可能性も登場したということです。
たとえば、歴史学における世界システム論や、哲学における言語分析の哲学が、グローバルな視点からの人文社会科学の例として考えられると思います。
 このグローバルな視点からの人文社会科学は、黒船のようにやってきたのではありません。経済におけるとどうように、文化においても、グローバルな文化は、外からやってきたのではなく、これまでの文化の変化の帰結として登場したのだと思います。
 

 
 
 

近代文学が終る理由

 
13 近代文学が終る理由 (20121202
 
 前回述べたことは、柄谷自身が述べていることです。
「小説は、「共感」の共同体、つまり想像の共同体としてのネーションの基盤になります。小説が、知識人と大衆、あるいは、さまざまな社会的階層を「共感」によって同一的たらしめ、ネーションを形成するのです」(柄谷行人『近代文学の終り』インスクリプト、45
 
では、なぜ「近代文学の終り」がやってくるのでしょうか。柄谷はつぎのように述べています。
「今日ではもうネーション=ステートが確立しています。つまり、世界各地で、ネーションとしての同一性はすっかり根を下ろしています。そのためにかつて文学が不可欠であったのですが、もうそのような同一性を創造的に作り出す必要はない。人々はむしろ現実的な経済的な利害から、ネーションを考えるようになっています。」(同書、49
 
ネーション=ステートの同一性は確立しているので、文学は役割を終えたというのです。
グローバル化によって、ネーション=ステートの有効性が失われたので、文学の有効性が失われた、とは述べていません。(柄谷もまた、どこか他のところで、このように述べているかもしれませんが、…)。
 
近代文学が終わる理由ないし原因として考えられるのは、次の3つでしょうか。(ご意見がありましたら、ぜひおねがいします。)
原因1:ネーション=ステートの同一性は確立したので、近代文学の役割は終わった。
原因2:ただし、ネーション=ステートが存続する限り、「共感」の共同性を常に維持し続ける必要があるのだとしたら、近代文学の重要度は低下するにしても、それは重要であり続けるはずである。しかし現代では、「共感」の共同性は小説よりもむしろ映画やTVのドラマやトーク番組によって維持されている。
原因3:ネーションステートの確立や維持が、現代社会の最重要の問題ではなくて、グローバリズムにどう対処するかが、最重要の問題になっているので、「共感」の共同性の確立と維持が、問題としての重要性を失った。
 
 文学の重要性が下がると文学は娯楽になる、と柄谷は言います。「文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じ事」であり、「その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです」(同書46f)もしこれが正しいとすると、文学研究は娯楽研究、文化産業研究になりそうです。
 
 他方で、グローバル化の時代に必要とされる感受性や想像力を形成するという役割を文学に見ようとしている人(スピヴァク)もいます。もしこれまでと同様に、「道徳的課題」を背負ったグローバルな文学というものが可能であるとすると、文学研究はこれまでと同様に続いていくのかもしれません。
 
 
 
 

近代文学と感情の共同体

 
12 近代文学と感情の共同体 (20121122)
 
前回の引用を再説します。
「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠である」(柄谷行人『近代文学の終わり』p.173)。
 
 この主張は、次のように証明できるのではないでしょうか。
 共通語としての日本語は、新聞や本などのメディアと学校教育によって成立したと思われます。(共通語としての日本語は、現在ではこれらに加えて、ラジオやテレビやインターネットをとおして、常に再構築されています。)これらのメディアによって、知識や情報を共有する同質的な日本社会が成立します。新聞で共有されるのは、社会問題や社会制度や社会的な出来事についての認識です。これによって、ナショナル・インタレストの共有が生まれるでしょう。
 メディアの中で、近代文学に特徴的な機能は、感情表現の共有であり、それによる感情の共有でしょう。文学が語る特徴的な内容は、感情です。主として、登場人物の個人の欲望、悩み、です。それらを語る言葉を共有することによって、私たちは似たような感情を共有するようになります。自分の知らない方言で表現された感情は、その意味を説明されても、共感することが難しいのですが、自分の知っている方言で表現された感情は、よく理解できます。それは、自分の感情そのものが自分の方言で構成されているからです。感情表現に用いる日本語を共有することによって、私たちは感情を共有するようになります。近代文学によって、感情の共同体が可能になるのです。ところで、ネーションは(幻想であるにせよ)感情の共同体であることを必要とします(なぜ?)。従って、「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠である」と言えます。
 
 

 

「近代文学の終り」

                hervestの秋からfallの秋へ
 
11 「近代文学の終わり」 (20121113
 
柄谷行人は、次のように述べています。
「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠であること、「言文一致」や「風景」もまたその一環であること」(『近代文学の終わり』p.173)、
「近代文学は一九八〇年代に終わったという実感があります。いわゆるバブル、消費社会、ポストモダンと言われた時期です。」(同書39
「私が「近代文学の終わり」というときには、それを批判するかたちであらわれたエクリチュールやディコンストラクティヴな批評や哲学も含まれています。そのことがはっきりしたのが一九九〇年代ですね」(同書39
「日本のバブル的経済はまもなく壊れましたが、むしろそれ以後にこのような大衆文化がグローバルに普及し始めた。その意味で、世界はまさに「日本化」し始めたように見えます。グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統指向と内部指向を根こそぎ一掃し、グローバルに「他人指向」をもたらしていることを意味するにすぎません。近代と近代文学は、このようにして終わったのです。」(同書、69
 
これ以上に述べるべきことを思いつきません。
 
 

ナショナリズムとグローバル化

                                   アムステルダムで一番有名なビールは?と尋ねるとハイネケンだ
                という答だったので、二番目に有名なビールを頼みました。
 

10 ナショナリズムとグローバル化 (20121101)

 

「文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答えようとして、

 

  ・政治経済的な要因

  ・有用性という要因

  ・翻訳という要因

 

に言及してきました。この先が見えなくなってきたので、最初の問いに戻ります。

この書庫の問いは、次の二つの問いでした。

 「グローバル化とは何か」

 「グローバル化にどう対応すべきか」

 

とりあえず、文化について、これらの問いの答えようとしてきました。

そこで次のような問いを立てました。

 「文化はグローバル化によって、どのように変容するのか」
 

この問いに答えるために、次の問いを立てたいと思います。

 「グローバル化によって、文化において失われていくものは何か」
 

これへの簡単な答えは、「伝統的なローカルな文化」です。これには、つぎのように答えることもできます。「ナショナリスティックな文化が失われていく」
 

 例えば、日本史研究、日本文学研究、日本思想史研究、これらはナショナリズムと結びついています。あるいはドイツ史研究、ドイツ文学研究、ドイツ思想史研究出会っても同じです。歴史意識は、ナショナリズムと共に民族共同体のアイデンティティを求める動機で生まれたものです。民族言語による文学も同様でしょう。思想も、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス哲学などと国名をつけて呼ばれるときには、ナショナルな文化です。
 

 ナショナルな文化の後退を惜しむ人たちがいますが、しかし他方ではナショナルな文化からの精神的な解放を喜ぶ人たちもいます。異文化理解の意義として、自己文化をより知ることになる、ということがあげられることがありますが、しかし、自国文化から解放されるということもあるのではないでしょうか。

 外国で生活すると、外国かぶれになるか、日本回帰するか、どちらかになりがちであるとすると、それはナショナリズム、ナショナルな文化の拘束がきついことの裏返しではないでしょうか。グローバリズムは、このような文化的な拘束から我々を解放してくれるのではないでしょうか。それは外国かぶれになることとは別のことです。
 

 

 というわけで、ナショナリズムとグローバリズムの関係を考えてみたいとおもいます。

 
              
                    
 
 
 
 
 
 
 
 

文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

                                   パトカーもまた世界中で似たような形をしています。

           

09 文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

問い「文化をグローバル化するとはどういうことか?」に対する

前回の答えは次のものでした。

「もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、次のいずれかである。

  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること

  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること 」

この二つはどのような関係にあるでしょうか。

①で、ある文化の有用性をグローバルに知らせるためには、<その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

②で、ある文化をグローバルな有用性をもつように変化させるためには、<その文化をグローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

 この二つの前提は、少し異なっています。

  <その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>

  <その文化をグローバルに理解可能なものにすること>

とりあえず、後者が何を意味するのかを考えたいとおもいます。

前回取り上げた文学を例にすると、日本語で書かれた文学作品はローカルな文化です。それをグローバルに理解可能なものにするには、翻訳する必要があります。しかも、厳密に言えばすべての言語に翻訳する必要があります。(ニュースも同様です。CNNのニュースは、各国語に翻訳されて放送され、日本のニュースも各国語に翻訳されて世界のニュースになります。)

「私たちは日本文学をローカルな文学として理解していますが、それをグローバルな文学として理解することはできるのでしょうか?」

 たとえば、村上春樹の小説を日本語でよむことは、それをローカルな文学として読むことでしょう。それは多くの外国語で翻訳されていますが、外国人は、それを日本文学としても読むのでしょうか。それともグローバルな文学として読むのでしょうか。例えば、エジプト人がそれを日本文学として読むことも、外国文学と読むことも、世界文学として読むことも、可能であるように思われます。

 たとえば、世界中の人がスパゲッティをイタリア料理として食べていたとしても、スパゲッティは世界中に普及しているという意味でグローバルな食べ物です。イタリア料理として食べ、かつグローバルな料理として食べることが可能です。そのとき、イタリア料理であることは、その料理の歴史的な起源を説明しているにすぎません。

 もし村上春樹の作品が日本文学として世界中で読まれているとすると、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学です。そのとき、日本文学であるとはその歴史的な起源を説明しているにすぎません。“EN-US”>

 このとき、日本人がそれを日本語で読むときにも、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学なのです。もし多くの日本人が村上春樹の作品をもっぱら<日本文学として>読んでおり、<グローバルな文学として>は読んでいないとしても、それはまた別のことです。