10 二階の欲求とお金への欲望

                         蝉が必死に鳴いています
 
10 二階の欲求とお金への欲望(20130731)
 
お金の登場によって、いくつかの問題が、一人で解決できる問題になりました。そのような問題が、ふえることによって、そのような問題に取り組む主体としての「個人」を作り出すことになった可能性があります。
 
お金で解決できない個人の問題もありますが、それは近代以前には個人の問題ではなく、家や共同体の問題であったのです。それが近代以後に個人の問題とみなされるようになるのは、個人が登場したからに他なりません。
 
ところで、お金で解決できる問題には、二種類あります。一つは、お金がないという問題です。お金がないという問題は、お金を獲得することによって解決出来ます。もう一つは、お金で財やサービスを購入して解決できる問題です。それは、空腹を満たすことであったり、自動車を修理することであったりします。コンビニでパンを買って、空腹を満たすことができます。パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する時、お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です。お金は、様々な欲求をみたす手段になりますから、お金が欲望しいという欲望は、様々な欲求を満たしたいというより一般的な欲望になります。あるいは、特定の欲望を超越したより抽象的な欲望になります。
 
そこで、フランクファートのいう「二階の欲求」概念を用いてお金への欲望を分析したいと思います(H. G. Frankfurt, ‘Freedom of the will and the concept of a person' in The Importance of What We Care About, Cambridge UP.,1988. 近藤智彦訳 「意志の自由と人格という概念」『自由と行為の哲学』門脇俊介+野矢茂樹編・監修、春秋社)
 
フランクファートの定義では、「一階の欲求」とは、「あることをすること(あるいはしないこと)を欲求すること」です。これに対して「二階の欲求」とは、「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」です。「xへの欲求をもつことを欲する」としても、xを欲しているとはかぎりません。たとえば、彼の例では、麻薬中毒者を治療している医師は、麻薬に対する欲求がどんなものかを理解したくて、「麻薬に対する欲求をもつことを欲している」。しかし、麻薬を欲しているのではありません。もちろん、「xへの欲求をもつことを欲する」ときに、xを欲していることもあります。例えば、ある人がお金を稼ぐためにパンを作っているとしましょう。彼女はパンが好きで、美味しいパンを食べるという欲求をもっています。彼女は仕事熱心で、お客さんのパンへの好み、つまりお客さんの好みと同じようなパンへの欲求をもちたいと欲しています。これは、二階の欲求です。
 
このような二階の欲求は、行為の目的手段関係と次のように関係します。今仮に、目的Xを実現するためには、行為Yをしなければならないとしましょう。そして、ある人がXの実現を欲求しているとしましょう。このとき、彼女には行為Yをする必要があります。彼女が行為Yをしようとするとき、彼女は行為Yへの欲求をもつこと欲することでしょう(特殊な場合にはこのことが成り立たないかもしれませんが、大抵の場合はこのように言えるとおもいます)。これは二階の欲求です。
 
お金は、目的にも手段にもなるので、次の2つのケースが考えられます。
①何かの財やサービスを手に入れるという目的あり、そしてお金でそれを手に入れることができるとき、お金を手に入れることは、その目的実現のための手段になります。それゆえに、お金
への欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
②お金を稼ぐことが目的であって、働くことがその手段であるとき、お金への欲求から、働くことへの欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
 
 
(注:フランクファートは、書庫「問答としての人格」で取り上げたストローソンの人格論を批判します。ストローソンによれば,意識状態は常に一定の時間空間上で同定されるのであり、それゆえに意識状態と身体は不可分です。つまり「人格」こそが、原初的な概念なのであって、「身体」と「意識状態」から合成して作られる概念ではないということです。もっと言えば、「人格の同一性」こそが原初的な同一性概念なのであって、それを他のものの「同一性」から説明することはできない、ということです。
 これに対して、フランクファートは、このような人格概念は、動物にも当てはまるので、これによって動物と人間を分けることができないと批判しました。(それにたいして、ストローソンならばどう答えるでしょうか。これについては、書庫「問答としての人格」で論じるのがよいでしょう。フランクファートは、二階の意欲をもつことで、動物と人間(人格)を分けようとしました。
 これにたいして、ストローソンならばどう反論するでしょうか。これはまた別の機会に。)
 
 
 
 

09 お金と個人的問題

 
 
09 お金と個人的問題(20130724)
 
前回述べたように「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」。この「多くの問題」の中には、多くの個人的な問題も含まれています。前回述べたようにお金では解決できない個人の問題もたくさんありますが、お金で解決できる個人の問題もたくさんあります。(お金で解決できない問題の中には、死、老化、病、結婚、出産に絡む問題があり、それらの問題は、貨幣社会誕生前からある問題です。他方では、住まいの獲得、食べ物の獲得、など貨幣社会以前からある問題であって、貨幣社会になってからお金で解決できるようになった問題があります。もちろん、お金で解決できる問題の中には貨幣社会になってから生じた新しい問題もあります。)
 
ところで、05で述べたように、いわゆる「近代的個人の自由」は、資本主義社会が可能にした自由であり、その自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのだとしましょう。そうすると、お金で解決できる問題が、近代的個人を構成している問題なのではないでしょうか。お金で解決できない問題は、近代的個人が登場する前からあった問題です。しかし、それらが個人の問題になったのは、個人が登場した後のことであり、近代以前には、それらは家族の問題であったり、共同体の問題であったのではないでしょうか。
 
「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのではないでしょうか」
 
「近代的個人は資本主義社会の中で誕生した」ということは、陳腐な真理です。それは、資本主義社会が、財やサービスや労働の自由な売買契約に基づく社会であり、その中で、所有と契約の主体として「個人」が成立したという意味です。
 
しかし所有と契約の主体としての個人が、売買契約をするのは、それが必要だからであり、それによって何らかの問題を解決するためです。売買契約によって彼が解決しようとしている問題もまた、彼を個人に構成しているものなのです。それが売買契約によって解決できる問題である以上、それはお金で解決できる問題なのです。つまり、「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのです」
 
 

08 交換手段=問題解決手段

 
 
 
08 交換手段=問題解決手段 (20130715)
 
 人がお金である商品(財、サービス、など)を買うのは、その商品が必要だからです。その商品が必要なのは、通常は(買った商品をより高く売るためではなく)その商品によって何かの問題を解決するためです。それは飢えを満たすことであったり、寒さをしのぐことであったり、住まいを快適にすることであったり、気分転換をすることであったりするかもしれません。個人が抱えている多くの問題を、商品(財、サービス、など)の購入によって解決することができます。
 たとえば、自動車の修理が必要な場合には、その問題を解決するために必要なことは、それに必要な代金を稼ぐことです。ほとんどの問題は、その解決に必要なお金を稼ぐことで解決できます。お金は、万能ではありませんが、ある程度、一般性を持つ問題解決手段です。この場合、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 お金が問題解決手段となるのは、個人の問題に限りません。国家は、社会問題を解決するために作られた組織ですが、国家は、軍隊や警察や刑務所、裁判所や病院や学校、などの組織によって様々な社会問題を解決しようとします。そのとき、国家は、力を行使する権利を必要とするだけでなく、その活動のためのお金を必要とします。軍隊や警察の権力を持つためには人件費や施設や装備を購入するためのお金が必要です。そのためには徴税が必要になります。この場合にも、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 もちろん、お金で解決できない問題もたくさんあります。個人の場合には、死、老化、病気、就職、進学、結婚、出産、などの問題、国家の場合には、領土問題、戦争責任問題、人権侵害などの問題です。会社のかかえる問題にもおそらくお金で解決できない問題があるでしょう。
 とりあえず、私たちは個人や社会の問題をつぎの3つに分けることができます。
 ①お金で解決されている問題
 ②お金で解決可能であるが、支払い能力を超えているためにお金で解決できない問題。
 ③お金では解決不可能な問題。
 
イノヴェーション(新商品の開発など)によってある問題を解決することは、(ある場合には)、③ないし②の問題を①の問題に変換することです。(イノヴェーションには、他のケースもあるでしょう。)
 
「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」
これはごく当たり前のことですが、このテーゼのもつ含意が汲み尽くされていないように思えます。
 
 

 

07 価値尺度と功利主義

 
 
             一枚目のお好み焼きと二枚目のお好み焼き、その心は?
 
07 価値尺度と功利主義 (20130708)
 
すべての商品の価値が貨幣で図られる時、そこでは使用価値の差異は無視されます。功利主義者が、快楽や幸福の質を区別せず、すべての快楽や幸福を量で測れると考えたことは、すべての商品の使用価値の質の違いを無視して、すべての商品をその交換価値の量で測れると考えたことと似ています。交換価値の同じ商品が交換可能であるのと同じく、量の同じ快楽や幸福は交換可能なものと見なされます。
 
私があるお金を持っている時、それでどの商品を買うかは、私の自由です。そのとき、私がどの商品を買うかで私の快楽や幸福の質は異なります。それだけでなく、そのとき何を買うかで私の快楽および幸福の量も変化します。
 
あるお金で買える商品によって得られる満足は、どの商品を買っても同じというわけではありません。もしそうならば、店先でどれを買うかで悩んだりしないでしょう。選好に個人差があるということももちろんですが、限界効用逓減の法則があるからです。一杯目のコーヒーも二杯目のコーヒーも同じ値段であるが、二杯目のコーヒーのもたらす満足は、一杯目のコーヒーのもたらす満足よりも少なくなります。これが、限界効用逓減の法則です。そこで経済学では、ひとは、一定の金を使うときには、ひとつないし少数の商品ばかりを買うのではなくて、様々な商品買うことによって、貨幣単位あたりの限界効用が最大になるような仕方で消費すると考えます。
 
私たちにとっての快楽や幸福は、私が自由に選択できるものであす。その限りで、逆にいうと私はその快楽や幸福を選ばないこともできたということですから、それらの快楽や幸福から自由であるということです。私にとって不可欠な快楽や幸福と私にとって偶然的な快楽や幸福の区別は、功利主義者にはないのです。そこにあるのは量的な区別だけであって、質的な区別はないからです。
 
快楽や幸福を選択する私は、その限りで快苦から独立な自己です。売買できる能力や権利をもつ主体が存在すること、つまり功利計算ができる理性的で自由な選択の主体が存在することは、資本主義社会にとっても、功利主義にとっても、社会の不可欠な前提条件です。
 
 

 

06 売り手の自由と均質な時間空間

 
06 売り手の自由と均質な時間空間 (20130624)
 売買とは、貨幣と商品との交換の契約です。この売買契約は、他の契約と同様に、両者が自由に契約できることを前提しています。自由な契約でなければ、それは契約とは言えないでしょう。自由は、「契約」という概念の中に含まれています。
 お金や商品を自由に売買できるためには、それらを自由に処分できるものとして所有していることが必要です。自由に処分できるためには、その対象は、他の対象から分離可能でなければなりません。例えば、ある人Aが木の根の部分を所有しており、Bがその幹の部分を所有しており、Cが枝と葉の部分を所有しているとしましょう。このとき、Aは根の部分を勝手に処分できるとすると、Aの自由な行為が、他者の所有物である幹や枝の部分にも大きな影響を与えることになります。したがって、Aが木の根の部分だけを所有するということは、そもそもあまり考えられません。たとえば、その木全体の元の所収者Dがいるとしましょう。彼は、根の部分だけをAに売ったりはしないでしょう。なぜなら、根の部分をAに売ったときに、Aがその根の部分を運び出そうとすると、所有者Dは、幹の部分や枝の部分を枯らしてしまうことになるからです(『ベニスの商人』も似た話です)。そのように考えると、Aが根の部分だけの所有権をもつようになるということは考えにくいことです。しかし、Dがその木全体を掘り出したあと、それを売ろうとして、根の部分と幹の部分と枝の部分を別々に売ることはありうることです。
 ある対象が商品になるということは、他の対象から分割可能だと見なされるということです。たとえば、労働者が、自分の労働力を商品として売るとき、あるいは自分の8時間の労働を商品として売るとき、彼のその労働力ないし8時間の労働は、彼の他の能力ないし他の時間から、分割可能だと見なされています。
 商品を売る者は、自由な契約によってそれを行うのですが、それは自分の所有物の一部を自由に分割できることを前提しています。彼の所有物は、世界から分割可能なものとして、彼の所有物になっているのですが、彼がそれを自由に売れるとすれば、それは彼がそれを自由に分割できるということです。
 様々なものが商品となることによって、様々なものの使用価値の質的な差異は無視され、貨幣で交換価値が表現される等質なものとなります。しかも、それらは、自由につまり任意に分割可能なものとなります。近代に登場する自然科学が想定する均質な時間空間は、市場社会における商品の均質性および分割可能性と深い関係がありそうです。(マルクスか既にどこかで言っているのかもしれません。)
 
 
 
 

 

05 貨幣の流動性と自由な個人

 
05 貨幣の流動性と自由な個人 (20130616)
 
 封建社会というのは、おおよそ身分制の社会であり、身分制の社会とは、おおよそ生まれで身分が決まっている社会だといえるでしょう。つまり、そこに職業選択の自由はありません。また住所選択の自由もありません。結婚の自由も身分性によって制約されていたでしょう。こういう社会の中では、おそらく、個人に許された選択の自由が非常に少なかったと言えるでしょう。これらの個人の社会的な自由は、資本主義社会になって可能になったものであり、労働力や土地を含めてあらゆるものが商品として、おおよそ市場で自由に売買される社会において可能になったといえるでしょう。資本主義社会こそ自由な個人を創りだしたのです。(私は歴史研究者ではないので、このあたり全くの推測です。)
 個人の自由の核にあるのは、いわゆる「意志の自由」です。そして意志の自由の核心部分は、他行為可能性(他の行為をすることができた)にあります。この他行為可能性とは、職業選択、居住の自由、結婚の自由などの社会的な自由についていえば、多くが契約の自由と結びついています。雇用契約、賃貸契約、婚姻契約などです。そして、契約の多くが売買契約です。
自由な売買契約ができるのは、お金が何とでも交換できるからです。お金のこの流動性と個人の自由は、深く結びついています。流動性をもつお金が支配している世界だからこそ、個人の自由が成り立っているのです。
 ヘーゲルは、古代では一人の君主だけが自由であり、その後の貴族制の世の中では少数の人間が自由であり、近代国家において全員が自由になると考えましたが、資本主義社会の市民たちは、古代の王様よりはるかに自由な存在です。この自由は、資本主義社会が可能にした自由なのです。
 もちろん、お金がない人は、資本主義社会では不自由な生活を強いられます。そして、そういう人が多いことも事実です。お金がある限りで、私たちは自由なのです。私たちの自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのです。
 
 
 
 

04 一般的交換手段と一般的価値形態

 
04 一般的交換手段と一般的価値形態 (20130609)
 
金や銀は、それ自体が使用価値をもつと考えられていなければ、交換手段として用いられることはありえないでしょう。では、なぜ金や銀は、それ自体で価値をもつものと考えられるようになったのでしょうか。それらは、装飾品として他の金属よりも価値をもつと考えられたのでしょう。
 
貨幣が誕生したということは、一般的な交換手段として、交換が広まっていることを示しています。では、貨幣が誕生するためには、交換は、社会の中でどの程度広まっている必用があるのでしょうか。共同体間の取引にだけ貨幣のようなものが使用されるということがあるかもしれませんが、そのような取引では、何でも取引されるわけではないでしょう。つまり、そのときの交換手段は、また一般的交換手段だとは言えません。それが一般的交換手段つまりほとんどの交換に利用できる交換手段となるのは、多くの物の交換が社会の中に広まっている必要があります。金や銀は、腐りにくく持ち運びに便利なので、最初は遠隔地交易のための交換手段として利用されるようになったのかもしれません。しかし、いずれにせよ、金や銀は、共同体の中での活発な交換の手段として用いられるようになります。
 貨幣が一般的な交換手段になるということは、多くの物の交換価値が、貨幣との交換比率という一つの尺度で表現されるということです。それは言い換えると、多くの物の価値を、一様化することです。すべてものの価値が、貨幣価値で表現されることになります。つまり、貨幣が「一般的価値形態」になるということです。これは物の世界を大きく変化させるでしょう。(ちなみに、Marxは一般的価値形態と貨幣形態を区別します。それはコメや麻布が一般的な交換手段として用いられることがあるとしても、金が一般的交換手段として用いられる場合とは異質であるということです。ここではその区別を無視しています。)
 貨幣で多様なものを買えるということは、貨幣をもつ者は、いつでも多様なものを自由に買えるということです。貨幣をもつ者は、多様な行為の選択肢をもつことになります。これが、貨幣所有者を、自由な個人にするのでは無ないでしょうか。
 (ちなみに、Marxによれば、商品の交換価値とは、「人間労働の凝結物」です。投下労働時間によって、交換価値が決定することになります。それでは、Marxは、国によって賃金の違いがあることをどう説明するのでしょうか。それは、単一のグローバルな労動市場がなく様々な規制があるために生じているということでしょうか。それとも価値を投下労働時間ではかることが間違いなのでしょうか。)
 

 

02 価値尺度としての貨幣

 
                               3個の10円玉硬貨と3本の商品(その心は?)
 
02 価値尺度としての貨幣 (20130526)
 
[しなければならないことと考えなければならないことが、色々とあって、ブログのupができず失礼しました。この書庫にようやく戻って来ました。
 この書庫を開いたのは書庫「問答としての社会」の中で、会社を社会の中でどう位置づければ良いのか困ったために、経済について考えたいと思ったからです。私が考えたいのは資本主義経済なので、まずは貨幣について考えたいと思います。貨幣の登場によって、様々な経済活動とその活動体が成立するようになったといえるでしょう。その一つが会社ですが、個人もまた貨幣が生み出した活動体なのではないかと推測します。できれば、これを論証したいです。社会問題や個人的な問題を解決するために構成される活動体は、問題、言い換えるとコンフリクトによって駆動するのですが、そのコンフリクトのあり方が、貨幣というコミュニケーション媒体の登場によってどのように変化したのかを突き止めたいと思います。]
 
果物屋さんの店に、カゴに入れたリンゴが並んでいて、そのカゴに「1個100円」と書いた紙が貼ってあるとしましょう。
 
「一個」はそのカゴの中のリンゴ一個のことでしょう。(私たちは状況からそのように判断します。例えば隣のカゴのリンゴには「1個200円」と書いた紙が貼ってあったりするからです。)もしそのカゴのなかに5個のリンゴがはいているとすると、その中のどれでも「一個100円」なのです。そのカゴの中のリンゴの個体差は無視しされています。
 
「100円」とは、何を指すのでしょうか。私がポケットの中に100円玉を3個持っているとして、私は、そのなかのどの百円玉でも、カゴの中のリンゴ1個と交換できるでしょう。百円玉でなくても、10円玉10個でもよいでしょう。あるは千円札を出して900円のお釣りをもらうこともできるでしょう。100円とは、リンゴ一個の価値の大きさを表現しているのです。
 
この場合には、カゴの中のリンゴの個体差は無視されていますが、世界で一つしか無いものが商品になる場合もあります。ある土地とか、ある絵画とか、ある中古車とか、これらが商品になるときには、それは世界で一つしか無いものです。
 
工場で大量につくられた製品が商品になるようになって、多くの商品は、商品は個体としてのかけがえのなさ(とりあえず個性と呼ぶことにします)を失いました。そして、貨幣もまた、そのような意味で個性のない物として作られたものです。貨幣が善い貨幣として流通するためには、同じように作られていることが必要だからです。あるいは、貨幣はそのような意味で個性のない最初のものであるかもしれません。
 
私たちは貨幣で、リンゴや、自動車や、土地や、観劇や、電車の利用に、多くの財やサービスの購入に使用することができるので、それらの価値の共通の尺度になります。
 
では、貨幣が価値尺度であるというというときの貨幣とは何でしょうか。私のポケットに入っている100円玉でしょうか。すべての日本円の硬貨と紙幣の全体でしょうか。
 
 
 
 

6 矛盾とコンフリクト

 
6 矛盾とコンフリクト (20130428)
Kim Sensei から、欲求の矛盾というより、欲求のコンフリクトというほうがよいのではないか、というコメントをいただきました。たしかに、そうです。これまでの箇所で、欲求や感情の矛盾と呼んできたものは、通常論理学で言う意味での矛盾とは異なるので、コンフリクトと言うほうが、より適切なものです。
 
(1)意図(あるいは、意志。ここではとくに区別する必要はないと思います)と意図のコンフリクトについて。
一人の人間が同時に実現することが不可能な二つの意図については、それらを同時に持つことは不可能です。ただし、実際には同時に実現することが不可能な二つの意図であるけれども、不可能であることを知らない場合には、それらを同時に持つことは可能です。したがって、正確に言うならば、ある人が、二つの意図を同時に実現することは不可能であると思っているなら、その人がその二つの意図を同時に持つことは不可能です。このような二つの意図を、これまでは「矛盾する(二つの)意図」と呼んできましたがが、「衝突する(二つの)意図」と呼ぶことにします。
 
では、衝突する二つの意図を同時に持つことができないのは、何故でしょうか。意図は、この語の意味からして、直接に行為に結びつくものだからです。同時に実現できないと考えている意図を同時に実現しようとすることは、通常の合理的な人間の場合には、不可能であるとおもいます。もし実現できないと考えつつ、それを実現しようと意図するのだとすると、それは、不合理な振舞い、あるいは自己矛盾した振る舞いだと思います。
 
(2)欲求と欲求のコンフリクトについて。
同時に実現することが不可能である二つの欲求を、(その人が、その不可能性を知っていようと、知っていまいと)、同時に持つことは可能です。なぜなら、欲求は、つねに直ちに行為に結びつくとは限らないからです。このような二つの欲求を、これまでは「矛盾する(二つの)欲求」と呼んできましたが、「衝突する(二つの)欲求」と呼ぶことにします。
 
(3)意図と欲求のコンフリクトについて
ある意図とある欲求の両方を同時に実現することが不可能であるとき、(その人がその不可能性を知っていようと、知っていまいと)、その両方を同時に持つことは不可能ではありません。なぜなら、意図は行為に結びつくけれども、欲求のほうは行為に結びつくとは限らないので、ある意図を実現しつつ、それと衝突する欲求を持つことは、可能だからです。
 
(4)意図と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを意図するとき、意図は常に事実の認識と衝突するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図している限り、Aは実現していない(少なくともAは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現するつもりです」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう行為拘束型発話(Commissives)であり、真理値を持たないからです。意図が実現された状態「A」と現実の認識「Aでない」が矛盾するのです。意図と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
 
(5)欲求と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを欲求
するとき、欲求は常に事実の認識と衝突するものです。なぜなら、欲求するとは、何か(Bとします)の実現を欲求することであり、
もしBが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Bの実現を欲求しているかぎり、Bは実現していない(少なくともBは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Bでない」が真となります。欲求の内容は、「Bを実現したい」です。このとき、「Bでない」と「Bを実現したい」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう表現型発話(Expressives))であり、真理値を持たないからです。欲求が実現された状態「B」と現実の認識「Bでない」が矛盾するのです。欲求と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
 
(6)問いとコンフリクト
私はこれまで、問いを、事実認識と意図の矛盾から生じるものとして、説明してきました。そして、そのつど、この「矛盾」が論理的な意味での矛盾ではないことを断ってきました。問いは、事実認識と意図のコンフリクト(衝突)から生じるというのが、より正確です。ただし問いは、事実認識と意図のコンフリクトから生じるものだけではありません。問いには事実認識と欲求のコンフリクトから生じるものもあります。
事実認識と意図のコンフリクトは、必ず解決される必要があります。しかし、私たちは日常生活でたくさんの問いを立てていますが、それらの全てに答えているわけではありません。つまり、問いを立てるけれども、答えのないままに放置している問いがたくさんあるのです。それが可能なのは、その問いが事実認識と意図のコンフリクトから生じているのではなくて、事実認識と欲求のコンフリクトから生じているということです。私たちは、多くの欲求を持ち、その多くを実現しないままに放置しています。
 

 

5 感情発生の因果性と理由 

 

                             先週東京出張でした。
 
5 感情発生の因果性と理由(20130421)

 
Kim先生の質問は、こうでした。
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
私が前2回で示したのは、「感情が合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)である」ということでした。しかし、感情が何らかの論理に従うとしても、それだけから、感情が能動的であることを導出することはできません。言い換えると、感情が何らかの推論によって説明されるとしても、それだけから感情が能動的であることを導出することはできません。
 
感情の発生を説明する推論が、自然的因果法則を用いた推論になるとき、感情は受動的なものであることになるのでしょうか。そして、感情の発生を説明する推論が、理由に言及する推論であるとき、感情は能動的なものであるということになるのでしょうか。
 
確かに、例えば、感覚の発生は、自然的な因果関係によって説明できそうであり、感覚は受動的なものだと考えられそうです。
 
しかし、食欲の場合には同でしょうか。食欲が因果関係で生物学的に説明されるということはありうることだろうと思いますが、しかしその場合でも、食欲という欲望は能動的なものだと考えられるのではないでしょうか。しかし、感覚と欲望は、次の点でことなります。「あなたはなぜ、何かを食べたいのですか」ととうと、「なぜなら、空腹だからです」という答えが帰ってくるだろう。空腹は、生理学的な身体状態であると同時に、ある感覚でもあります。そして、私たちが食欲を感じるのは、空腹を含めて、身体状態についての感覚を持つからでだと思います。もしそうならば、食欲は、感覚を理由とする推論によって説明することが可能です。食欲は、一方では、生物学的な因果法則にもとづいて説明されうるかも知れませんが、しかし他方では同時に、理由にもとづく推論によって説明されるのであって、それゆえに、欲望は能動的なものとして理解されるのではないでしょうか。
 
感情についても、科学者は生理学的な、あるいは心理学的な自然法則を前提とする推論によって感情の成立を説明できるかもしれませんが、しかし、同時に感情については、「あなたは、なぜ悲しいのですか」という理由を問う問いに答えることできます。(なんらかの薬を飲んで、ある気分になっているときにも、「あなたは、なぜうれしそうなのですか」と尋ねたら、「薬を飲んだからです」という原因を答えるだけでなく、「今日はいい天気だからです」などと理由(この場合には、いい天気できもちがよい、というような感覚の存在が理由になる)を挙げてこたえるのではないでしょうか。)
 
以上は単なる推測ですが、心理学で経験的にチェック可能なはずです。もしそれが正しければ、そこから次のように考えることできるでしょう。
<心的なものの発生についての自然的因果法則を用いた推論と、理由に言及する推論は、両立しうる。そして、感情については両方が同時にありうるが、しかし前者の推論ができない場合も含めて、理由に言及する推論はつねに行われる。なぜなら、もしこれができないときには、おそらくその人は自分の感情について理解できず、有意味に語ることができないからである>
 
同一の感情の発生について、二種類の推論による説明が可能であるとすると、そのことは、感情は受動的なものとして理解されることもあるし、能動的なものとして理解されることもある、ということを意味するのでしょうか。