約束の誠実性と人格の同一性

 
 
 
■脇道:カントのうっかりミス2つ
 
うっかりミス1:カントは『純粋理性批判』序論で、数学の全ての命題は、アプリオリな綜合判断であると言う。カントにとって、数学とは幾何学と算術のことである。しかし、前回引用したように「三角形を作るには三本の線を引かなくてはならない」は分析判断である。それゆえに、<数学の全ての命題は、分析判断であるか、アプリオリな綜合判断である>とすべきだったことになる。
 
うっかりミス2:前回引用したように、カントは、「[三角形の]その二本の長さの和は三本目よりも長くなければならない」をアプリオリな綜合判断であると述べている。この命題はユークリッド原論の「命題20」にあたる。「命題」は「公理」から論理的に導出されたものである。ところで、「公理」がアプリオリな綜合判断であるので全ての「命題」(定理)はアプリオリな綜合命題になる、とカントは考える。これはよいだろう。しかし、この命題が定理である以上、これは公理から導出可能である。つまり理性の推論によって証明可能である。この点が、前回の引用部分「理性の推論によって証明することが不可能である」は、うっかりミスではないだろうか。(もちろん、前提をさかのぼって、公理まで行けば、理性の推論によっては証明できないので、究極的には証明不可能である。しかしそのような意味で「証明不可能である」と言ったのではないだろう。もし、そう言うならば、形式論理学においても、公理はもはや証明可能ではないのだから、全ての命題は、証明不可能になる。)
 
(念のためにいうと、前回は、約束をするときの誠実性と、約束を履行する義務を区別するために、カントに言及したまでであって、それ以上ではない。ここではカントの主張に依拠するつもりはない。なぜなら、カントの道徳論も法論も、「人格」を前提しているからである。それに対して、この書庫での私の課題は、「人格」概念を分析することである。
 ロックのような経験論では、全てが感覚に還元されてしまうので、人格の同一性をどう考えるかが、問題になったのだが、カントを含むドイツ観念論では、「超越論的な統覚」としての自我を想定するので、「人格の同一性」はほとんど問題にならなかった。)
 
■約束の誠実性と人格の同一性
以前に確認したように「約束の拘束力は、人格の同一性を義務にする」そこで、前回の最後に宿題「約束を守る義務をどう説明するのか」を立てたが、ここでは、その前に次の問いを考えておきたい。
 
問い「約束の誠実性は、人格の同一性とどう関係するのか?」
 
 たとえば、「来週の日曜日1時に会いましょう」と誠実に約束をすることは、少なくとも来週の日曜日までの人格の同一性を前提している。Davidsonの「三角測量」の議論が正しいとすると、私たちが何らかの信念を持つためには、他者とのコミュニケーションが必要である。したがって、私が計画を立てるためにも、潜在的には他者とのコミュニケーションが必要である。三角測量の議論では、「来週の日曜日に一時にyさんに会おう」という発話が有意味であるためには、私的言語であってはならず、公的でなければならず、したがって他者とのコミュニケーションが必要だ、と言うことであった。
 
 しかし、約束が成立するときには、計画の信念を持つために他者とのコミュニケーションを必要とするのとは、別の意味で、他者とのコミュニケーションを必要とする。「来週の日曜日1時に会いませんか?」と問われて、「はい、そうしましょう」と答えることによって、約束が成立する。約束するには
相手が必要であり、約束の発話は他者との会話の中で、より明確には上のような問答において成立する(あるいは、約束が曖昧であった場合には確認の必要があるが、それは問答によって可能になる)。
 
 これについては、二つの解釈が可能である。
 第一の解釈:xさんがyさんから「来週の日曜日の1時に会いませんか」と問われて「はい、そうしましょう」と答えるときに、yさんの問いとxさんの答えの間に、次のようなxさんの自問自答が行われている。「来週の日曜日1時にyさんに会おうかどうしようか」「会うことにしよう」
 第二の解釈:他者に問われてこたえるときに、上記のような自問自答が行われる場合もあるが、しかし他者の問いを理解し、それを自問しなおすことなく、直接に返答することもあるだろう。迷う必要のないような簡単な問いかけの場合にはそうである。
 
 おそらくは、第二のあり方がより基底的である。他者との問答を、自分一人で再現することによって、一人で考えることができるようになり、第一のあり方が可能になるのだろう。(もっとも、これが正しいかどうかは発達心理学での検証を待たなければならない。)
 
 この書庫では、<人格は問答であり、人格の同一性は問答の連鎖である>を説明し証明しようとしてきた。その際<問いは、現実認識と意図の矛盾から生じ、その現実認識と意図はそれぞれ別の問いの答えとして成立している>と考えてきた(これはこの書庫での前提であり、証明はしていない)。約束の発話「来週の日曜1時に会いましょう」というxの意図は、問いへの答えとして意味をもち得るのだが、もし第二のあり方がより基底的だとすると、その問いは、他者からの問いかけである。その問いは、「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図、しかし「土曜日まではxさんは出張している」というxとyの現実認識、そこで出てきた解決策の一つが「日曜の1時に相談する」である。「日曜の1時に会いませんか」という問いは、次の矛盾から発生する。「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図と、その意図を実現するための方策が未決定であるというxとyの現実認識との矛盾である。このように、他者の問いに答えるためには、問の共有が必要であり、そのためには問の前提である現実認識と意図(欲望、課題、計画など)の共有が必要である
 
 もちろん、現実認識や意図が全く違っているのに約束するということ(同床異夢)もありうるが、それは約束の基本的なあり方ではない。(これに対しては、「同床異夢こそが約束の基底であり、約束はいつ底割れするかわからない」という反論があるかもしれない。しかし同床異夢の場合であっても、約束によって、互いの行為調整ができている限りにおいて、何らかの現実認識や意図を共有していると言える。)
 
もし前々段落のように言えるとすると、約束は、現実認識と意図の共有に基づく共同計画として、成立することになるだろう。約束することは、共同計画の一部として人格を構成することである。誠実に約束するとは、誠実に共同計画の一部となることであり、不誠実に約束をするとは、共同計画の一部となっている振りをすることである。
 
 
(考えながら書いているせいで、結論から書き出せなくて、話が必要以上に複雑になってしまってすみません。)
 
 

<約束>と<人格の同一性>について

                                 梅の枝 生きる力の 優しさよ
 
<約束>と<人格の同一性>について  (20120304)
 
 前回までに確認したことは、私たちは計画を立て実行することによって、自己の人格の同一性を構成するということである。この文脈では、私たちが<人格の同一性>を構成する必要は、計画の必要性に由来しており、これはさらに、計画を必要とするような欲望に由来している。(この欲望は、おそらく、<<ある未来の時点t1が来れば、行為xを行おう>という形式の意図を実現することよって実現が可能になるような欲望>であると思われるが、これの検討には入らない。)
 
 (「人格の同一性」という概念とすることと、ある種の欲望は、おそらく同時に成立する。私たちが「人格の同一性」という概念を必要とするのだとすると、その概念の獲得は、それ自体が、おそらく何らの問題の答えの獲得になっているのだろう、と推測する。これについては、今後の宿題にしたい。)
 <計画する人格の同一性>について検討すべきことは、他にもありそうだが、とりあえずこれだけにして、次に進みたい。
 
 今回から説明したいことは、<約束>と<人格の同一性>の関係、言い換えると<約束>と<問答の連続性>の関係である。
 
 ところで、約束には次のようなものがある。
  ・自分との約束(?)
  ・他人との約束
  ・組織との約束(会社との雇用契約はこれに含まれる)
 
このなかで基本的なものは、<他人との約束>だろう。<他人との約束>を次のように分けることができる。
  ①法的な契約など、国家などの組織を介して成立する他人との約束
    (法的な婚姻はこれに属する)
  ②国家などの組織を介しない他人との契約
 
ここでは、②だけを扱いたい。(①については、国家や組織を考察するときに、扱いたい)
 
 まず、②と計画の違いを、簡単な例で確認しよう。
 「明日の朝10時に会いましょう」という提案に「はい」と答えた私は、明朝10時にひとと会う約束したことになる。10時にそこに行くためには、8時半には家をでなければならず、そのためには7時半におきなければならず、そのためには、12時ころには寝たほうがよい。約束をすると、それを実行するために、このように行動計画を立て、実行する必要が生じる。約束が単なる計画と異なるのは、何らかの事情が生じても、私一人で約束を解消したり、変更したりできないということである。
 
 次に<計画する人格の同一性>と<約束する人格の同一性>の類似性と差異を確認しよう。
 <約束をし、実行し、時に約束を変更すること>は、ある意味では<計画を立て、実行し、変更する>ことと似ている。これらのプロセスを通じて<人格の同一性>を主張できるのは、それらが合理的に行われているからであり、言い換えると、問答によって行われているからである。(この点で、計画する人格の同一性と類似している)
 
 ただし、約束の場合には、一人で勝手に約束したり、勝手に変更したりできない。つまり、約束は拘束力を持つ。もし約束した人格が現在の私の人格と同一でないならば、私には約束を守る義務はなく、したがって約束を破ることもできない。私は謝罪する必要がないからである。例えば、もし私が記憶喪失のために約束したことを忘れてしまっていたら、私には約束を守る義務はないだろう。なぜなら、私は約束した時と同じ人物ではないからだ。したがって、<私の人格に連
続性がないならば、私には約束を守る義務がない>
といえる。これの対偶は、<私に約束を守る義務があるならば、私の人格には連続性がある>となる。
 
 ところで、私が約束を破ることは、物理的には可能である。その場合にも、私の身体は同一性を保っている。では、人格の同一性についてはどうだろうか。もし私が約束を破ったことを認め、謝罪するのならば、私の人格の同一性は保たれているといえるだろう。
 私が、約束したことをうっかり忘れていたのだとすると、私は約束していたことを指摘されてすぐに思い出すだろう。そのときには、謝罪するだろう。そのとき、私は(私自身にとっても、相手にとっても)約束した人物と同一人物であり、約束を守る義務を負う。
 
 <約束を守る義務を負うとは、もしその義務を履行しなかったときには、責任をとる義務を負うということである。もし責任を取らなかったならば、責任を取らなかったことについての責任をとる義務を負うということになるだろう。一旦背負った義務は、もしそれが履行されなければ、形を変えて別の義務となり、履行されるまで、どこまでも迫ってくる。>
 
 したがって、次が帰結する。
 <一旦約束をすると、仮に約束を実行しないとしても、実行しないことについての責任をとることを要求され、私は同一人物であり続けることを要求される。>
 
 つまり、<約束の拘束力>は<人格の同一性>を義務にする
 
 では、なぜ<約束の拘束力>が生まれるのだろうか。
 
 
 
 

<約束>の前にもう一点

    
                        
 
                                         花を待つ 桜の枝の 頼もしさ
 
 
 <約束>の前にもう一点 (20120227)
 <約束する人格の同一性>を論じる前に、<計画する人格の同一性>についてもう一点検討しておくべきことがあった。
 前回までは、<単に計画する人格の同一性>について説明した。<計画する人格の同一性>を構成しているのは、様々な計画の設定、実行、修正などの調整の<合理性>であり、それは計画の調整のための問答によって保証された。この計画調整のための問答の連鎖が、<計画する人格の同一性>に他ならない。
 以上の説明は、計画と<人格の同一性>の共時的な関係、あるいは構造的な関係である。
 それでは、発生の上で、計画と<人格の同一性>はどのように関係しているのだろうか。(<約束>について考える前に、これを考えておきたい。)
 
 ここでは、計画の設定と実行を分けて考える必要がある。
 計画を実行するためには、実行する期間にわたる人格の同一性が必要である。
 では、単に計画を立てるだけのためなら、実行する期間にわたる人格の同一性は必要ないのだろうか。そうではない。実行する期間にわたる人格の同一性は「計画」そのものの中に組み込まれているはずであるので、計画を立てるときに、すでに実行する期間にわたる人格の同一性が想定されている。そして、計画を立てただけの時点では、計画を実行するための人格の同一性は、未来の事柄である。たとえば「丸太小屋を建てる」という計画を立て時点においては、計画を実行する過程は未来の事柄である。未来にわたる人格の同一性は、現在の私の期待の内容にとどまる。
 計画を立てることは、同時に、実行プロセスにおける人格の同一性を期待ないし想定することでもある。計画を実行することは、その期待した人格の同一性をまさに実現する過程でもある。普通の大人のように、これまでに、計画を立て実行した経験があるならば、その経験によって形成された過去の<人格の持続>を未来に期待して、それを実現することができるだろう。
 では、生まれて初めて計画を立てる場合はどうだろうか。その場合であっても、自覚的に事前に計画したのではないが、結果として振り返ってみれば、時間経過を必要とする仕事を成し遂げた、(たとえば、家から小学校まで歩いて行くというようなこと)という体験がもしあれば、つぎにはそれを事前に意図して、学校に行くこと、あるいは他の場所に行くことを計画することが可能になるだろう。
 計画を立て実行する体験を重ねれば、次第により長期のより困難な計画を立て実行することもできるようになる。こうして私たちは、さまざまなスキルを身に着けるとともに、自分が何者であり、何ができるか、何ができないか、を理解するようになる。
 
 もう一度整理すると、私たちは過去の<人格の持続>の体験をもとに、未来の<人格の持続>を必要とする計画を立てる。そして、それを実行することによって、<人格の持続>を実現する。もちろん、うまくゆかないこともあるし、計画を修正することもあるだろう。しかし、発生の上での、計画と<人格の同一性>の基本的な関係は、このようなものであろう。

 

3.11 空気 同一性

 
 空気読む、春は遠いか まだまだか (へたですみません)
 
3.11 空気 同一性
 
 2011年の3.11のあと、あるパーティの立ち話で、「これからは哲学の時代ですね」と言われた。そのとき、その期待に応えたいとは思ったけれども、かなり難しいことであるとも感じた。そのときには、「心の豊かさ」や「生きる意味」を哲学が語ることが求められているのかと思ったのだが、最近は、哲学に求められていることの中には、社会のあり方、あるいはあるべき姿について、根本的に考え直す、という課題があると考えている。
 今ならそのような哲学に社会の方も耳を傾けてくれるのかもしれないと思う。(これについては、社会問題についての書庫をいずれ立ち上げたい。)
 
 最近3.11に関連して考えることは、3.11によって日本社会が変わった、空気が変わったとしばしば言われることについてである。9.11のときにも、世界が変わったと言われた。その時の私の当初の印象は、「そうかなあ」と言うものだった。しかし、「みんな」が「世界が変わった」と言うものだから、次第に私にも「世界はあまり変わっていない」と考えつづけることが困難になってきた。そのうち私にも9.11前の世界がどんな世界で、どんな気持ちで生きていたのかが、わからなくなってしまった。今回の3.11についても同様だ。「みんな」が「日本社会は変わった」と言うものだから、私も次第に3.11前の日本社会がどんなもので、どんな気持ちで生活していたのかが、わからなくなってしまった。そうなると、3.11は私にとっても、大きな断絶になる。
 
 人格の同一性について、書庫「問答としての人格」で思案中である。そこで確認したことの一つは、<人格の同一性は、他者とのコミュニケーションの中で成立する>ということだ。これと同じことが社会の同一性についても言えるのではないか。社会の同一性にも、客観的な基準があるのではない、日本社会の仕組みのようなものの連続性や同一性を主張しようとしても、それは他者とのコミュニケーションの中で確認される必要がある。その証拠に、戦前に日本社会の本質のように言われた「国体」なるものも、その同一性も、敗戦とともに消えてしまった。
 3.11で日本社会が変わったと「みんな」がいうので、日本社会は変わってしまったのである。「空気」が変わったのだ。
 
「空気」と「世間」
 昔は「世間」と呼んでいたものが、今は「空気」と呼ばれている。「空気」は「世間」と同じく同調圧力をもつが、しかし「世間」が持っていたような規範性をもたない。規範性の有無は、時間的な持続性の有無にかかわっている。「空気」はまさに「その場の」「その時の」ものであるが、「世間」はもう少し持続するものである。「空気」はどんなに変化しても、規範性を持たないので自己矛盾しない。しかし「世間」は変化しないものとして考えられている。両者の間には空間的な広狭の違いもある。「空気」は狭い範囲の人間関係のなかにもあるが、「世間」は公的な一つの社会に存在する。
 廣松渉にならって、「空気」も「世間」も物象化の所産である、といえるだろう。
 
 

合理性と同一性

 
 

 

                寒椿、穏やかな雨に、色を増す
 
 
合理性と同一性
 
 計画したり、計画を変更したりすることが可能なのは、計画が事前意図、行為内意図と変化したり、計画実現のための部分計画を立て、順番に、あるいは、同時に実行したり、必要に応じて計画を変更したりするときに、一つの人格が持続していることを前提する。逆に言うと、非常に複雑に関連している計画の設定、実行、変更において、一つの人格が持続しているといえるのは、計画の設定、実行、変更が、「合理的に」行われているからである。
 「合理的に」というのは、もし「合理的に」行われていなければ、仮に行動するものの身体の持続性があっても、人格の同一性があるとは言えないからである。人格の同一性があるためには、意識内容の単なる連続性だけではおそらく不十分である。意識内容の諸部分が少しずつ連続的に変化していく場合であっても、意識内容全体としては連続的に変化したといえる。しかし、その変化がもし無秩序なものであれば、そこに人格の同一性があるとは言えないだろう。
 その「合理性」は、計画の設定や分割や変更が問答によって行われているということである。それゆえにその変化に理由があり、もしその理由が問われるならば、当の行為者は即座にそれに答えることができる、ということである。
 
 このように考えるとき、<計画する人格の同一性>にとって重要なのは、問答によって構成される「合理性」であって、<計画>はあまり重要ではないと思われるかもしれない。なぜなら、<計画>は問答によって設定される事前意図にすぎず、それをいつでも変更でき、変更しても同一性が損なわれるわけではないのだからである。
 
 すべての事前意図は計画なのだろうか。それとも、計画は単なる事前意図とは異なるのだろうか。
 
 
 
 

計画と問答

宮本武蔵の生家です。昭和17に火災にあって再建されたものです。それ以前には、茅葺だったそうです。
人格の同一性も、家の同一性も、変化を乗り越えて、社会的に構成されます。
 
 
 計画と問答
 
 計画は、問答とどのように関係しているのかを考えよう。
 以前に述べたように、問いは現実認識と意図の矛盾であり、それらの現実認識や意図それ自体も、別の問いの答えとして生じる。計画は、それが最初に設定されるときには、事前意図である。その事前意図は、何らかの問いの答えとして設定されるものである。
 
 では、計画は、どのような問いに対するどのような答えなのだろうか。
 意図は、行為の理由であるが、行為の理由には、大抵より上位の理由(意図y)がある。より上位の意図(y)と現実が矛盾するとき、「yをどのように実現しようか」という問いが生まれ、その答えとして「ある行為xをしよう」という意図が答えとして与えられることになる。これが計画(事前意図)になる。計画である事前意図は、より上位の意図について「それをどのように実現しようか」という問いに対する答えなのである。そのより上位の意図もまた、別の問いへの答えとして得られたものであろう。
 
 ところで、<計画する人格の同一性>において重要なのは、計画の変更である。私たちは、しばしば計画の変更を行う。もし計画の変更が合理的な根拠もなくランダムに生じるのだとすると、そのとき、その人格の連続性を我々は身体にしか見いだせないだろう。計画が変更されたときにも、人格の連続性ないし同一性を確保できるのは、その変更が、より上位の計画に基づいていたり、以前から持っていたその人の欲求や信念に基づいていたりする場合であろう。
 
 では、このような計画の変更は、問答とどのように関係するのだろうか。たとえば、次のように考えて、計画を変更するとしよう。「日曜日に買い物に行こうと計画していたけれども、一週間後の研究発表のことを考えると、そんなことをしている余裕はない。日曜日は、発表の準備を優先した方がよいだろう。」
 この場合に、計画の変更をすることになったのは、次のような理由である。私たちは、たいていは複数の計画を同時にもっている。日曜日に買い物に行くこと、来週の研究発表を行うこと、あと2時間すれば、大学を出て帰宅すること、その途中でコンビニによること、などである。これらの計画は、ある計画とその部分計画という関係の場合もあれば、とりあえず無関係な計画の場合もある。二つの計画の両方を実現することの困難が予測されるとき、「どうしようか」という問いを立て、多くの場合、一方を優先させて、他方の計画を変更する。多くの計画を同時に抱えている以上、しばしば、このような調整のための変更が必要になる。この調整の際には、問答が行われており、計画の変更はそのような問いの答えである。多数の計画の調整統合は問答によって行われており、この問答が人格を構成している。
 
 

<計画する人格>の同一性

 
 
厳寒に ゆっくり動く オブジェかな 
 
 
<計画する人格>の同一性
 
これまでの議論の流れの中で、<人格の長期の同一性>は社会制度に関係するものであり、<人格の中期の同一性>は、<計画する人格の同一性>であるとしたが、前回も触れたように<計画する人格の同一性>の中には社会制度に関係するものもあった。そこで、次のように修正しておきたい。
 
 
<計画する人格の同一性(中期と長期の同一性)>の下位分類として次の二つ、
  <社会制度に関わるもの(長期の同一性)>
  <社会制度に関わらないもの(中期の同一性)>
を区別する。
 
ところで、「明日同じ時間同じ場所で会いましょう」という約束をすることは、計画を立てることでもある。そこで、<社会制度に関わらない中期のもの>をさらに次の二つ区別したい。
  <単なる計画によって必要になる人格の同一性>
  <約束によって必要になる人格の同一性>
この二つは異質である。
そこで、もう一度分類を修正しておきたい。
 
<計画する人格の同一性(中期と長期の同一性)>の下位区分が
  <単に計画する人格の同一性>
  <約束する人格の同一性>
である。この<約束する人格の同一性>のさらに下位区分が
    <社会制度に関わる同一性(長期の同一性)>
    <社会制度に関わらない同一性>
である。
 
 
まず<約束による計画ではない単に計画する人格の同一性>から考えよう。
 
行為論では、行為内意図(intention in action)と事前意図(prior intention)を分ける。行為内意図とは、「何をしているの?」と問われて、「コーヒーを淹れているんだ」と即座に観察によらずに答えられるのは、「コーヒーを淹れる」という意図をもって私が行為しているからである。このような行為を構成している意図を行為内意図と呼ぶ。それに対して、「お湯が沸いたら、お風呂に入ろう」と意図しているが、まだお湯が沸いていないのでTVを見ながら待っているとき、「お風呂に入ろう」という意図は、「事前意図」である。 
計画は、行為内意図だろうか、事前意図であろうか。普通に考えれば、「今度の日曜日に買い物をしよう」というような計画は、事前意図である。しかし、全ての計画が事前意図であるのではない。上の計画に基づいて、私が今自動車でショッピングセンターに向かっているところだとしよう。私は、すでに計画を実行中である。しかし、まだ買い物は完了していない。この場合には、計画は行為内意図である。
 
今が金曜日で、次のように考えたとしよう。
  ①日曜日に買い物をしよう
これは金曜日と土曜日には、計画であり、かつ事前意図である。
 
さて、日曜日になり、今まさに私は自動車でまさにショッピングセンターに向かっているとしよう。
  ②今日は買い物をしよう
これは、現在進行中の計画である。これは「買い物をする」という行為内意図である。
  ③自動車でショッピングセンターに向かう
これは計画(これは②の計画の部分計画である)であると同時に現在の行為内意図である。
  ④ショッピングセンターについたら4階へ行こう。
これは計画(これは②の計画の部分計画である)であると同時に事前意図である。 
 
整理するとこうなる。ある計画が進行中である時、その計画は行為内意図である。そのとき、その計画のさまざまな部分計画の内のあるものは、行為内意図であり、他のものは、事前意図である。
 
ところで金曜日と土曜日には、①の計画は事前意図である。しかし、事前意図を持つとき、その行為はまだ開始されていないが、私の行為は、計画を立てること(事前意図をもつこと)によって拘束される。つまり①のような計画を立てたならば、(計画を変更する場合を除いて)土曜日に23日の旅行に出発したりしない。つまり、事前意図段階の計画も人の行為を拘束する。その拘束がその間の人格の同一性を必要とするものであり、また人格の同一性を構成するものである。もちろん実行中の計画もまた同様に人格の同一性を要求し、かつ構成する。計画設定から計画完了までの行為の拘束は、このような意味で人格の同一性を構成する。
 
つぎに、このような計画が、問答とどのように関係しているのかを考えよう。
 

中期の人格の同一性

一里松、百五十年、海を見る
 
中期の人格の同一性
 
 短期と中期の人格の同一性を区別するメルクマールとして、「計画」に注目したい。
 
「明日の朝は、早く起きて仕事にゆかなければならないので、お酒をこれ以上飲むことは、やめておこう」とか「211日の研究発表に間に合わせるためには、この週末に草稿を仕上げておこう」とか、ひとは計画に追われて生活している。追われているにせよ、自ら立てるにせよ、私たちは計画を立てて、生活している。
 計画には、社会との関係で必要になるものもある。例えばローン返済の計画を立てるというようなことである。ここでは、社会との関係において立てられる計画については、考えない。(それについては「社会とはなにか」を含めて、別の書庫で考えたい。)
 ここで考えたいのは、上記の例のような、我々が日常生活で個人として立てる計画である。ブラットマンは「人間は計画する生き物である」と述べ、特に行為論の文脈で計画のもつ重要性に注目する。(参照、ブラットマンの論文「計画を重要視する」『行為と自由の哲学』門脇俊介、野矢茂樹訳、春秋社、p. 259。日常生活において、「計画をもつということはどのようなことなのか」を検討し、計画設定の合理性や、計画に従って行為することの合理性や、計画の変更の合理性など、計画にかかわる我々の行為の合理性について、様々な検討を行っている。ブラットマンによれば、計画は「行動を制御する肯定的態度」である。計画は、個人間の調整の役割もはたす。計画にはある程度の安定性があり、重大な問題に直面しない限り、「それを再検討しない」。計画は、部分的であって、あらゆる状況を想定しないし、身体運動の細部まで指定しないし、計画の細部まで詰めない。)
 
 現代の行為論ではしばしば、行為は<信念と欲求>によって説明される。信念とは、現実についての認識である。それゆえに、行為のこの説明は、問いを<現実認識と意図>の矛盾からなると説明することと似ている。このように行為の説明方式と問いの説明方式似ていることには、次のような原因がある。つまり、意図的な行為は、つねに問題解決のための行為であるということだ。<信念と欲求から行為が説明される>のは、<信念(現実認識)と欲求(ないし意図)の矛盾から問いが生じ、その解決として行為が行われる>からである。
 欲求と意図は、もちろん異なる。我々は、テレビを見たいという欲求と、明日の仕事の準備をしたいという欲求など、両立しない欲求をたくさん持っている。その欲求に応じて、様々な問いが思い浮かぶ。しかし現実に採用できる欲求は一つだけであり、それが意図となる。(意図については、両立しない意図をもつことはできない。)そのとき、さまざまな欲求に応じて想定されたさまざまの問いの中から、意図に対応したある問いが現実に採用され、問われることになる。
 欲求と計画の関係についていうと、とりあえず、次のようになる。行為が計画によって制御されるとき、行為は信念と計画によって決定される。テレビをみたいという欲求が強くて、仕事の計画が変更されるときもあるかもしれないが、仕事の計画を実行するために、テレビをみたいという欲求を無視することになる。ダイエットの計画を実行するために、ケーキに手を付けるのをあきらめる。
 
 このように<計画する人格>は、<単に欲求する人格>とは異なる種類の同一性をもつだろう。この違いについて、もう少し詳しくけんとうしてみよう。
 
 

反論への正しい応答

  

有島武男の歌碑「浜坂の遠き砂丘の中にして、さびしき我を見出でけるかも」
有島は大正

12430日にこの歌を詠み、約一か月後に情死しました。この歌で鳥取砂丘は有名になったそうです。

 
反論への正しい応答
 
少し復習しよう。
(1)<人格の同一性=身体と心的内容の連続性>と考えられることが多いのだが、その場合の困難は、それを個人の記憶で保証することができないということであった。
(2)この困難については、Davidsonの三角測量で克服できるかもしれない。つまり、身体と心の連続性は、個人の記憶ではなくて、当人と他者の記憶によって公共的に保証されるのである。
(3)<三角測量によって人格の同一性を保証することは、もし三角測量が人格を前提しているのなら、循環論法になる>
 
以上の議論と、私のこれまでの議論が異なっているのは、(1)の部分である。私たちの信念は問いに対する答えであり、それゆえに、<人格は問答の連鎖である>と考えた点が、従来の人格論と違っている点である。(Davidsonの三角測量を、人格論に応用することが、新しい論点であるのかどうかは、わからないが、これは誰でも思い付く応用である。)もちろん、問答の連続性として人格をとらえても、上記の循環論法になるというという反論は成り立つだろう。
 
さて、反論に応えよう。反論は、次のようなものであった。
「三角測量は、私や他人の存在を前提している。したがって、三角測量によって、(私や他人の)人格(の同一性)の成立を説明することは循環論証である」
 
しかし(自分で挙げておいて申し訳ないのですが)この反論はよく見ると的外れだった。
 
三角測量を持ち出したのは、人格の同一性を保証するためであった。より具体的にいうと、例えば、昨日のある人物と今日の私が同一人物であることを保証するために、三角測量に頼ったのである。この場合に三角測量が前提する人格は、今日の私と(今日の私がコミュニケーションする)ある他人である。この三角測量をするために、昨日のある人物と今日の私が同一であることを前提する必要はない。従って、ここには循環はない。
 
もし人格の同一性の問題が、「時点T1における人格1と時点T2における人格2が同一であるとはどういうことか」とか「それらの同一性をどのようにして知ることができるのか」という問題であるとすれば、その問題に答えるときに、三角測量を利用することは、循環論証にならない。
 
確かに、個々の人格が最初にどのようにして発生するかの説明、或いは個々の人格が社会的にどのように構成されるのかの説明が、三角測量に頼るとするとそれは循環論証になるだろう。
しかし、三角測量による人格の同一性の説明は、ある時点での人格の存在を認めたうえで、その人格のより長い時間にわたる同一性を説明するためのものであった。短時間の人格をもとにして、長時間の人格を説明するということであった。したがって、ここに循環論証はない。
 
そこで(?)次の問題を考えたいと思います。
 
「ひとはなぜ、長期にわたる人格の同一性を必要とするのでしょうか」t>
 
 

反論への不十分な応答

 
年末に訪れた鳥取砂丘です。
 
「反論への不十分な応答」です。
 
予想される反論は次のようなものだった。
 
「三角測量は、私や他人の存在を前提している。したがって、三角測量によって、(私や他人の)人格(の同一性)の成立を説明することは循環論証である」
 
「三角測量は、私や他人の存在を前提している」という反論者の主張を確認しておいた方がよいだろう。三角測量についてDavidsonは確かにそのように主張している。
 
「二つの視点があって初めて、思考の原因に場所が与えられ、ひいては、思考の内容が定まる。それはある種の三角測量とみることができる。つまり、二人の人物の各々は、一定の方向から流れ込む感覚刺激に別様に反応している。刺激が流れ込んでくるさいの通路を外部へ引き延ばすと、その交点が共通の原因である。二人の人がお互いの反応(言語の場合なら、言語的反応)に気づくとするなら、各人は、それらの観察された反応を、自分が世界から得た刺激と結びつけることが出来る。こうして共通の原因が特定される。これによって、思考と発言に内容を与える三角形が完成する。しかし、三角測量のためには、二人が必要である。328
 
彼はこの最後の部分で「三角測量のためには、二人が必要である」と述べている。
 
Davidsonは論文「自己の概念の還元不可能性」(『主観的、観主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社)のなかでも「二人の人物と一つの共通世界からなるこの基本的な三角形は、我々がそもそも思考を持つならば、気付くはずのものの一つである。」(邦訳、146)と述べている
 
彼は、人物についての知識がどのようにして発生するのかについて、次のように語っている。
 
「私が、その文を発話したのであれば、私はそれを発話したのが私であるということを観察することなく知っている。このようにして私は、「そこ」(「ここ」、「私の後ろに」)、「それ」(「これ」)、「今」(「明日」、あるいはすべての時制化された動詞)、「あなた」といった語をしようすることにより、自分自身を様々な場所や物体や時間や他の人々と関係づけるのである。この方法以外に自分を公共的世界の中におく方法は存在しない」(邦訳、145
 
おそらく次のように考えているのであろう。<自分の心や発話についての知識は、物についての知識や他者の心についての知識との関係づけの中で成立する。知識が成立するときに、二人の人物についての知も成立するが、それらは互いに関係づけあう中で同時に発生するのだと思われる。> Davidsonは、明言していないが、おそらく人格の発生と三角測量の発生は同時なのである。
 
しかし、これではおそらく反論者は納得しないだろう。