21世紀に人類に迫りくる哲学的問題

 
2011年2月14日に大阪に降った雪です。
 
仰々しいタイトルをつけましたが、深刻な問題だと思っていることがあります。それは、脳科学の進歩によって、人間の脳の研究がすすみ、心の働きが解明されつつあることです。哲学では1970年代から、心と脳の関係の研究が進んできました。現在殆どの研究者は心と脳の二元論をとらずに、脳の一元論をとります。しかし、心を完全に消去する(消去主義)のではなく、一元論をみとめながらも、心が脳内の過程や状態にsupervene(付随)すると考える付随現象説、非法則的一元論(デイヴィドソン)をとるひともいます。まだ理論的には決着が付いていません。
 
しかし、消去主義が正しい可能性はあります。それどころか、一般の人々は、通常の生活では、心と脳の二元論を採用して生活しながらも、他方では、心は脳内の過程や状態に他ならず、いずれ完全に物理現象として説明されるだろうと思っているのではないでしょうか。少なくとも、物理主義の主張を聞いて驚く人は、いないのではないでしょうか。
 
他方で、コンピュータのハードの面での進歩はすさまじいものです。大脳には300億個のシナプスあるが、孫正義さんの予想によると、コンピュータの1チップの中のスイッチの数は、2018年に300億個を超えるそうです。これまでの30年で1000万倍になったので、ムーアの法則がこれからも当てはまるとすると、100年後には1兆の一億倍になるそうです。このとおりに進歩しないとしても、今世紀中には、コンピュータの1チップのスイッチの数は、人間の脳のシナプスの数の数万倍のものになることでしょう。スピルバーグの映画「AI」のような世界がやってきそうです。このとき、我々がコンピュータと人間を区別し続けることは不可能になるのではないでしょうか。
 
21世紀の脳科学とコンピュータ科学の進歩は、物理主義の受容を我々に迫ってくるように思います。
 
我々が、それを悪夢だと感じるのは、それが我々の自由を否定し、善悪や道徳や責任の概念を無効にするように思われるからです。
我々に可能な選択肢は、次ぎの3つだろうと思います。
(1)物理主義を批判すること
(2)物理主義と両立するような仕方で、自由や道徳を正当化すること
(3)物理主義を受け入れて、道徳について考えること
 
(1)(2)については、多くの議論が行われています。(私は物理主義ではなくて、反実在論的二元論なるものの可能性を追究したいとおもっていますが、まだそれに確信があるわけではありません。)
この書庫では(3)を考えてみたいとおもいます。つまり、もし心の自由が幻想であるとして、そのとき道徳はどのようなものになるのかを考えてみたいとおもいますこれを考えるのは、心の消去主義を恐怖して考えないようにするのではなくて、もしそれが真であるとした場合に、我々がどのような世界を受け入れざるを得ないのかを、見定めたいとおもうからです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

02 安全保障機能の遷移

きりたんぽの続編です。
 
 前回次のように書きました。
「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また対話不可能な国内で人権侵害をする国家はありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。」
 
 おそらくガンジーのような徹底的な平和主義者は、「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる」を認めないだろう。ガンジーのような人ならば、たとえ侵略されても、非暴力、無抵抗の態度をとるだろう。しかし彼は他の人にもそれを勧めるのだろうか?彼はそれが正しいことを論証できるのだろうか?おそらく、それは難しいだろう。
 もちろん、我々はガンジーのような人を尊敬するかもしれない。したがって、ガンジーのような国家があれば、その国家は尊敬されるかもしれない。しかし、国家についてもそのようにあるべきことを論証することは難しいだろう。そのような絶対的平和主義は、個人や共同体の決定にゆだねられるべき善構想であって、それを正義として論証することは難しいように思われる。
 
一般的にいって、社会制度や社会運動は、何らかの社会問題を解決するためのものであり、そのようなものとしてのみ正当化される(入江幸男「社会問題とコミュニケーション」(入江・霜田編『コミュニケーション理論の射程』ナカニシヤ出版、所収))を参照してもらえるとうれしいです)。国家制度を正当化する社会問題のなかでも、中心的なものの一つが、いかにして安全を確保するかという問題であった。自然状態では、つねに他者から攻撃される可能性があるので、平和な生活を確保するために、自由に活動する権利の制限を受け入れるとともに、お互いの権利を承認しあって、集団を作って互いの権利と安全を確保しようとする。この集団は、安全保障他のための集団である。このような機能を持つ集団として、家族や村を考えることもできるが、それだけでは不十分なことから、国家が作られたのである。少なくともそのように考えられて、国家制度は正当化されてきた。
この安全保障の機能は、とりわけ近代以後、家族、村、都市などから、国家への集中を強めてきた。(我々は様々な社会問題の解決を国家に集中させすぎたのかもしれない。システムによる「生活世界の植民地化」(ハーバマス)も起こってきた。)ただし、国家間の戦争の経験を経て、現代では諸国家が互いの安全保障のための集団(集団的安全保障)を形成しつつあり、安全保障の機能は国家からNATOやEUや国連などへ移りつつある。かつて国家への安全保障機能の集中によって、国家内部での平和がより確実なものになったように、世界全体での平和の実現のためには、安全保障機能を世界全体へ集中させることが、望ましいようにおもわれる。
 
A国がB国を侵略したときに、B国の国民にとって、それは国家として取り組まなければ解決できない問題であるだろう。外国の軍隊の侵略行為から国民を守るために、軍隊を準備しておいて軍隊で戦うことは、人々が国家を作った時の目的の一つに含まれているだろう。ただし現代では、このような問題は、B国だけで解決できる問題ではない。安全保障は、グローバルに取り組む必要のある問題になっている。その理由は、経済活動がグローバルに展開しており、そのために利害関係もグローバルに広がっていることにある。
 
 
 
  
 

01 平和を実現するための方法について

2011年1月10日の哲学ワークショップのあと、「きりたんぽパーティ」をしました。とてもおいしかったです。前にも書きましたが、一つの火と鍋を囲んで食事することは、おそらく最も原初的な食事の形態だとおもいます。もし縄文土器が鍋としても使われていたとすると、そのころから続いてきた歴史をもつのだとおもいます。それとも縄文土器は、鍋には使われていなかったのでしょうか。
 
さて、その若手哲学ワークショップは二部構成で、第一部のテーマは「平和を実現するにはどうするか」でした。それを聞いていて、つぎのように考えました。
・ガルトクングにならって、戦争のような暴力と構造的暴力を区別して、それぞれが無い場合を、「消極的平和」と「積極的平和」に区別する。
・戦争状態を、熱い戦争と冷たい戦争に区別する。
 
・まとめると次のようになります。
1、消極的平和:戦争状態でないこと
  ①熱い戦争がないこと
  ②冷たい戦争もないこと
2、積極的平和:貧困、飢え、などがないこと
 
国家の廃絶は、消極的平和には役立つが、積極的平和に役立つとはかぎらない。
 
「正義の戦争はあるのか?」
国家がある限り、対話不可能な侵略国家もまたありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また国内で人権侵害をしている対話不可能な国家もまたありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。ゆえに、国家がある限り、正義の戦争はありうる。
ゆえに、正義の戦争をなくするには、国家を廃棄して、世界共和国を作るしかない。
・次善の策は、世界の全ての国家の連合によって、正義の戦争だと認めた戦争のみの遂行を許可することである。(この許可の仕方については、さらに多くの議論が必要になると思われる。)
 
・「構造的暴力をなくすにはどうするか?」
貧困と飢えをなくすには、世界的な規模での再分配をおこなうしかない。
 
以上が、消極的平和と積極的平和を実現するための方法です。
 
これだけでは、机上の空論かもしれません。これを実現するための方策を考えることが難問なのかもしれませんが、しかしまずはこの空論が正しいかどうかについて、ご意見を伺いたいとおもいます。
 
是非、ご批判をお願いします。
 
 
 
 
 
 
 

「漱石は漱石だ」

2010年10月の信州です。この近くでサルの群れを見つけました。
 
「漱石は漱石だ」
これはどんな意味になるのだろうか。
これを説明するのに役立つのは、ドネランの「帰属的用法」と「指示的用法」の区別である。
 
ドネランは、確定記述の用法を二つに分けている。
「私が心にとめている確定記述の二つの用法を、帰属的用法と指示的用法とよびたい。主張において確定記述を帰属的に使用する話し手は、しかじかのものが何であれ、誰であれ、それについて何かを述べる。主張において確定記述を指示的に使用する話し手は、他方で、人物やものについて何かを話したり述べたりしているものを、聞き手が取り出すpick up ことを可能にするために記述を使用する。」(Donnellan ’Reference and Definite Descriptions’ in “The Philosophical Review”, 75(1966), pp.285)
 
たとえば、私がパーティで「あそこにいる美人は誰ですか」と友人に尋ねたとしよう。私が「あそこにいる女性」で指示しようとしていた人物は、実は女性ではなくて男性であったとしても、私は指示に成功するだろう。これが指示的用法である。それにたいして、私が友人に、「君の奥さんはどんな人ですか」とたずねて、友人が「世界で一番の美人だよ」と答えたならば、それは帰属的用法である。
 
我々は、この二つの用法を、確定記述ではなくて、一般名にも固有名にも使えるだろう。
 
「規則は規則だ」
これは、ある規則を指示して、それは守るべきものだ、と述べている。つまり主語の「規則」はある規則を指示するために使用されており(指示的用法)、述語の「規則」は守るべきものであるという性質を帰属させるために用いられている(帰属的用法)。
 
例えば低い山に登っていてしんどくなった時、
「山は山だ」
と言うとしよう。これは、「この山は、低いとはいってもやはり他の山とおなじように登るのはしんどいものだ」という意味になるだろう。ここでも主語の「山」は指示的用法であり、述語の「山」は帰属的用法である。
 
「漱石は漱石だ」
これは、夏目漱石を指示して、彼はやはり漱石と呼ばれるだけの大した文学者だ、というような意味で用いられている。ここでも主語の固有名「漱石」は、指示のために用いられており、述語の「漱石」はある性質を帰属させるために使われている。
 
「小沢は小沢だ」
これは、ある人物を指示して、彼はやはり評判どおりのこわもてだ、という意味で用いられているかもしれない。
 
「○○さんは、○○さんだ」
この○○に自分の名前を入れて、意味を考えて見ましょう。
 
 
 
 
 
 
 

消費税の逆進性への反論への批判

 

                            真夏の夜のキャンパスです
 
消費税には逆進性がないという悪質な議論をネット上に目にしたので、批判したいとおもいます。
 
その反論者も、消費税が、たしかに所得のごく一部しか消費しない人にとっては、税率が低くなっていまうことをみとめます。しかし、もし豊かな人も短期のうちにではなくて、生涯のうちには、その所得を消費に使ってしまうとすれば、同じ消費税率をはらうことになるというのです。
 
この反論には、二つの間違いがあります。
第一に、高額所得者が、その所得を障害のうちに消費してしまうということは、統計的にありえないということです。それは消費性向の値がしめしているとおりです。
第二に、もし長期のうちにかなりの所得を消費してしまうとしましょう。しかし、そのときでも例えば、それが平均20年後であるとすると、20年の間に所得には利子が付きます。それは5%以上のものになるかもしれません。結局、20年後の消費で5%との消費税を支払っても、彼は実質的にはまったく消費税がかかっていないことになります。
 
反論者も、高額所得者が、その生涯のうちに、その殆どの所得を消費してしまうとは、考えてないようです。そのかわりに、相続税に5%をうわのせすればよいのだと言います。しかし、それではまったく不十分です。前に述べたように、所得を得てから相続するまでに、利子がつきます。したがって、これでは、逆進性が解消されるとはいえません。逆進性を完全に解消sるうには、どうするべきでしょうか。(細かな計算方法に確信がもてませんが、例えば)所得を得てから相続するまでに得られる利子も税金とし、その元本に消費税をかけ、その残りに贈与税をかけると言うのならば、消費税の逆進性は、無くなるかもしれません。
 
私の批判は、まだ不十分かもしれませんが、消費税の逆進性を否定しようとする議論は、悪質としかいえません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

消費税の逆進性への反論への批判

 
 
真夏の夜のキャンパスです
 
消費税には逆進性がないという悪質な議論を目にしたので、批判したいとおもいます。
 
その反論者も、消費税が、たしかに所得のごく一部しか消費しない人にとっては、税率が低くなってしまうことを認めます。しかし、もし豊かな人も短期のうちにではなくて、生涯のうちには、その所得を消費に使ってしまうとすれば、同じ消費税率を払うことになるというのです。
 
この反論には、二つの間違いがあります。
第一に、高額所得者が、その所得を生涯のうちに消費してしまうということは、統計的にありえないということです。それは消費性向の値が示しているとおりです。
第二に、もし長期のうちにかなりの所得を消費してしまうとしましょう。しかし、そのときでも例えば、それが平均20年後であるとすると、20年の間に所得には利子が付きます。それは5%以上のものになるかもしれません。結局、20年後の消費で5%との消費税を支払っても、彼は実質的にはまったく消費税がかかっていないことになります。
 
反論者も、高額所得者が、その生涯のうちに、その殆どの所得を消費してしまうとは、考えていないようです。そのかわりに、相続税に5%を上乗せすればよいのだと言います。しかし、前に述べたように、所得を得てから相続するまでに、利子が付きます。したがって、これでは、逆進性が解消されるとはいえません。逆進性を完全に解消するには、どうするべきでしょうか。(細かな計算方法に確信がもてませんが、例えば)所得を得てから相続するまでに得られる利子も税金とし、その元本に消費税をかけ、その残りに贈与税をかけると言うのならば、消費税の逆進性は、無くなるかもしれません。
 
私の批判は、まだ不十分かもしれませんが、消費税の逆進性を否定しようとする議論は、悪質としかいえません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

就職の国際化

 
 
最近の大企業は、日本人の大卒の採用を控えて、外国人の大卒の採用を増やしているようです。
それは企業として、当然の選択だろうとおもいます。
 
では、日本の学生はどうすればよいでしょうか。日本の学生もまた、日本企業だけでなく外国の企業への就職を考えたらよいのではないでしょうか。海外の企業のほうが、日本企業よりも高く評価してくれるかもしれません。これが進めば、おのずと4月一斉の新卒採用という制度もなくなるでしょう。
 
今流行の「龍馬」なら、絶対に外国で働く道を選ぶでしょう。
 
そのために、何よりも必要なのは、語学力ですね。
 
 
 
 

前の問に戻ろう

 
 
2年前の5月、木曽川にかかる鯉のぼりです。この地域では、川にこのようにたくさんの鯉のぼりをかけるのをよく見ます。川に鯉がいるのは、当たり前だから、自然な発想なのかもしれません。最近写真を撮っていないので、不本意ながら、昔の写真にしました。
 
 
 
「雇用契約は、どのような制限を受けるべきか」
これが最初の問いでした。すぐに思いつく答えは次のようなものです。
「雇用契約は、契約者の人権を損なうものであってはならない。なぜなら、そのときその契約は、<互いの権利を尊重した上での自由な契約であった>という正当性を失うからである。」
 
そこで次に、「契約者の人権はどのようなものであるのか」言い換えると、「我々は、契約者の人権や人格をどのようなものとして主張しうるのか」が問題になりました。
これもすぐに思いつく答えは次のようなものです。
「契約することが可能であるためには、<ある種の合理性をもっている>、<ある種の合理性の発揮が保証されている>、<コミュニケーションが可能である>などが前提条件となる。したがって、これらの前提条件の尊重が、契約の前提となる。これが、近代的な人格の権利の基本的な内容であった。これを保証することは、契約社会にとっての必要条件であった。」
 
仕切りなおしのために、もう少し前の問いに戻りましょう。
それは「労働力は商品か」ということでした。このといは、「会社は誰のものか」という問と関係していました。
 
もし労働力が、商品であるとすると、その商品の買い手は、雇用契約の相手である会社(の代表者)になるのだろうとおもます。したがって、労働力商品の売り手は、会社の持ち主ではないことになります。労働者は、会社の持ち主ではないのでしょうか。もし「労働者が会社の構成員である」と言えるとすると、それは「労働力は商品である」という発言と矛盾するのではないでしょうか。なぜなら、会社に商品を売るものは、会社の構成員ではないからです。

 
というわけで、「会社は誰のものか」を考えたいとおもいます。しかし、この問いの立て方は、うまくないかもしれません。「会社とはなにか」のほうがよいかもしれません。ただし、これだとピントがぼけてしまいそうです。
資本主義社会を跋扈している恐竜は、会社です。不思議な存在です。
 
 
 
 
 

 

 

仕切り直しに向けて

 
別府の白池地獄です。初夏のような日差しでした。
 
考えあぐねているうちに、ご無沙汰してしまいました。
人格をめぐる議論は、多様でかつ膨大なのでどんな風にアプローチすべきが考えているうちに、いつのまにか白池地獄の中に落ち込んでしまったかのようです。
 
人格が実体として存在する、と考えるのは難しいという結論でした。
しかし他方で人格がやはり何らかの仕方で存在するのだとすると、とりあえず思いつくことは、人格は構成されている、と考えることでした。このときの問題は、何が人格を構成するのかです。とりあえず思いつくのは、以下のようなものです。
①人格は経験的なものであるので、それを構成するのは経験的でない超越論的な意識である。物的でも心的でもないセンスデータが存在するとして、それらから物的対象や人格を構成するのは、「超越論的な意識」である。しかし、この場合にはこの超越論的意識がもし個人的なものだとすると、実体としての人格を認めることになってしまいそうです。
 
②人格は、言語ないし理論によって構成される。ストローソンは、我々の言語を分析して、それが物体と人格の存在を想定していることを指摘しました。彼はこのような形而上学を、我々の言語が想定している存在論を記述しているという意味で、記述的形而上学と呼びました。これは、我々の言語使用が成り立つための超越論的な条件として物体と人格の存在を論証した「超越論的論証」でした。討議倫理学でも、討議が成立するための超越論的な条件として人格の存在を論証するのではないかと思われます。或る意味では、討議論理学も、人格は言語によって構成されると考えているといえるかもしれません。これらは「経験的な構成」と区別して「超越論的構成」と呼べるかもしれません。
 
③人格は、社会的に構成される。これは②の言語的なコミュニケーションにかぎらず、言語や行為や物を介するコミュニケーションないし社会的相互行為によって人格が構成されると考える立場になるでしょうか。
 
雇用契約を結ぶ人格について考えるときに、適切なのは①②③のどれでしょうか。それとも、これらとは別のものでしょうか。
 
 
 
 
 

誰が人格を構成するのか

 
残念ながら、カヌーに乗っているのは私ではありません。
来年の連休はカヌーに乗っていたいものです。
5月の自然湖でした。
 
 
さて、人格は実体として存在しているのではなくて、構成されているのだとしよう。
では、その構成はどのように行われるのだろうか。
 
 
エイヤーは『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳、岩波書店)で「自己」を「感覚-経験からの論理的構成」(p. 160)されたものであると考える。その構成は次のようにして行なわれる。
 
「我々が自己の本質を尋ねる場合、我々が尋ねているのは《もろもろの感覚-経験が同一の自己に属するためには、どんな関係がそれらの感覚-経験の間に成立しなくてはならないか》ということなのである。この問に対する答えは、《二個の感覚-経験が同一の自己に属するための必要にして十分な条件は、それらが同一の身体の要素である有機的な感覚-内容を含む》ということである。」(p. 160)
 
では、この構成は誰が行なうのだろうか、それともそれは自然に生じるのだろうか。エイヤーにとって、物的な対象も他者も自己も「感覚-経験からの論理的構成」であるが、物的な対象と他者を構成するのは、私であるように思われる。
 
「私は、《私は物質的な事物の存在を信ずるのに十分な理由をもっているのと同じ程度に、また他の人々の存在を信ずるのに十分な理由をもっている》ことを知るのである。なぜなら、どちらの場合にも私の仮定は、私の感覚-史に適当な感覚-内容の系列があらわれるという事実によって検証されるからである。」(p.168
 

 
私が、物や他者を感覚-経験から構成するのだとすると、自己を構成するのも私であろう。しかし、自己を構成する私は、自己の構成以前に存在していなければならない。そのような私もまた構成されたものでしかないとすると、説明は循環してしまう。これをどう考えればよいのだろうか。