95 因果関係の正当化とMPの正当化(Justification of Causality and Justification of MP) (20231130)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(2)の因果関係は、経験によって認識され正当化されるだろうが、それは具体的にはどのようになされるのでしょうか。

 例として、次の因果関係を考えてみましょう。

  「雨が降る」→「道路が濡れる」

前件の「雨が降っている」という文の学習は、「今ここで雨が降っていますか」「はい、今ここで雨が降っています」という問答を学習することを繰り返すことによって、新しい状況で「今ここで雨が降っていますか」という問いに正しく答えられるようになることによって完了します。「雨が降っている」という前提が成り立つことは、規約の学習と、規約を学習したときの事態の知覚と問答の時点での事態の知覚の類似性によって正当化されます。

 後件の「道路が濡れている」という文の理解は、次のようになされるだろうと思います。「これは道路である」と「これは濡れている」についての(「これはリンゴである」の場合と同様の)学習を前提するとき、「この道路は濡れていますか」という問いに、「この道路は濡れています」と正しく答えることができるはずです。それは、「この道路」の指示対象の知覚が、「これは濡れている」を学習したときの対象の知覚と類似していることの認識によって成立するはずです。

 この前件と後件の恒常的な結合の認識、つまりこの因果関係の認識は、雨が降っていることを認識し、その雨が道路を濡らしていることを認識し、雨が降ると道路が濡れることを認識することを繰り返すことによって、「雨が降ると、道路が濡れる」を帰納推理することよって正当化されるでしょう。

#MPの正当化について

  p、p→r┣r

このMPが成立することは、p→rが成立するとは、pが成立したらrが成立するということです。したがって、「p→rが成立している」と考えるとは、「pが成立したら、rが成立する」と考えることです。それゆえに、「p→rが成立している」と考えるときに、「pが成立している」と考えるならば、「rが成立すると考えることになります。つまり、「p→rが成立している」と考えることは、「p、p→r┣rが成立する」と考えることを暗黙的に含んでいます。

したがって、条件文(p→r)の正当化は、暗黙的にMPの正当化を含んでいます。次に進む前に、この観点から、もう一度、条件文(p→r)の正当化を振り返ってみたいと思います。

94 問いに対する推論による答えの正当化(Justifying the answer to the question by reasoning) (20231128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#問いに対する推論による答えの真理性の正当化について

*実質推論の学習と実質問答推論の学習

語や原初文の学習が規約の学習として成立するが、原初的な推論の学習には、規約の学習として成立する場合とそうでない場合があります。他の推論に依拠しない原初的な推論を「実質推論」と呼ぶことにします。「実質推論」もまた、問いに答えるプロセスとして成立し、暗黙的な相関質問をもちます。「実質推論」は、暗黙的な「実質問答推論」です。暗黙的な相関質問を明示化すると、明示的な「実質問答推論」となります。

*推論の基礎p→r

推論の基礎は次の推論規則MPです。

p、p→r┣r

これの基礎はp→rという命題です。p→rは、pが成立したら、rが成立するという関係にあるということです。MPの正当化を考える前に、ここではp→rという形式の条件文や信念はどのようにして生じ、正当化されるのかを考えたい。p→rの信念は、次の種類に分けられるます。これらがどのようにして生じるのかを考察しよう。

(1)論理関係がその一つである。

「これはリンゴである」→「これは果物である」

「全てのカラスは黒い」→「このカラスは黒い」

    「これはリンゴである」→「少なくとも一つリンゴがある」

           「これは果物ではない」→ 「これはリンゴではない」

    「このカラスは黒くない」→「全てのカラスが黒いのではない」

    「リンゴは一つもない」→「これはリンゴではない」

(2)因果関係がその一つである。

    「雨が降る」→「道路が濡れる」

    「道路が濡れていない」→「雨が降っていない」

  • の論理関係は、概念間の無時間的概念関係です。この無時間的概念関係は、規約に基づくものであり、規約が変化しない限り変化しない確実な関係である。この論理関係の学習は、次のように行われるでしょう。

「リンゴ」の学習は、「これはリンゴですか」「はい、これはリンゴです」「いいえこれはリンゴではありません」などの正しい問答を何度も教えられて、新しい対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、正しく答えられるようになった時に完了すると説明しました。このとき、リンゴとリンゴでないものの区別ができるようになっています。

同様にして「ナシ」を学習したとしましょう。。このとき、「あるものがリンゴでありかつナシであることはない」ということは、「リンゴ」「ナシ」の学習を終えている者には、「リンゴ」と「ナシ」の意味から推論できます。「リンゴでありかつナシであるものはない」や「リンゴであるものはナシではない」「ナシであるものはリンゴではない」は、「リンゴ」と「ナシ」の意味に基づいて推論され、正当化されることになるでしょう。

次に、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法について考えてみます。これを全称命題に変形したものが「(全ての)リンゴは果物である」という命題になります。これらの認識の発生について考えてみましょう。

「果物」という語の学習はどのように行われるのでしょうか。一つの可能性は、「リンゴ」の学習と同様に、多くの対称について「これは果物ですか」「はい、これは果物です」「いいえ、これは果物ではありません」という問答を学習して、未知の対象についての「これは果物ですか」という問いに、正しく答えられるようになるということです。この場合は、「リンゴは果物である」は(「リンゴはナシでない」の場合と同様に)、「リンゴ」と「果物」の意味に基づいて推論され、正当化されます。

もう一つは、「木や草になる間食用の果実」などの、定義によって、「果物」という語の意味を学習することです。これは、定義に用いられる語の学習を前提としますが、それを前提できるとします。この場合、「リンゴは、木や草になる果実である」と「リンゴは、間食用である」が言えれば、「リンゴは、木や草になる間食用の果実である」が推論でき、そこから「リンゴは果物である」が推論できます。

「リンゴは、木や草になる果実である」は、「リンゴは、木になる果実である」から推論できます。「リンゴは、木になる果実である」は、対象<リンゴ>が性質<気になる果実である>をもつこと(木になっていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

「リンゴは間食用である」は、(「間食用」を学習済みであるとすると)対象<リンゴ>が性質<間食用>をもつこと(間食に食べられていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

次に、p→rが(2)因果関係を表示する場合を考察したいと思います。(MPの正当化の説明は、そのあとになります。)

93 認識の正当化:問いに対する真なる答えの正当化 Justification of the true answer to the question (20231127)

(Justification of recognition: Justification of the true answer to the question) (20231127)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(これまでのこのカテゴリーでの議論の歩みについては、カテゴリーの冒頭の(書き直した)説明をご覧ください。ブランダムの概念実在論の考察にいずれ戻ると思いますが、しばらく、問いに対する答えが真であることをどうやって正当化できるのかを論じたいと思います。まず、基本的な知覚報告から考えます。

#知覚報告「これは赤い」の真理性

「あかい」の学習は、「これは赤いですか」に対して「これは赤い」とか「これは赤くない」という正しい答えを学習することによって、行われる。このような学習を繰り返して、未知の対象についての「これは赤いですか」という問に、正しく答えられるようになるとき、語「赤い」を学習したと言えます。このプロセスは、性質<赤さ>を学習するプロセスであり、「これは赤い」という文の意味学習するプロセスでもあります。

「これは赤い」が真であることは、語「赤い」を学習したときの諸事例と、問われたときの事実が類似しているということによって、正当化されます。

この類似性は、語の学習時の事例の記憶に基づきます。この記憶の正しさの問題は、私的言語の問題と似ている。それは、感覚Eにたいする私的言語の使用が規則に従っているかどうかは、判定できないという問題と、似ています。規則遵守問題が、言語共同体の承認によってしか解決できないのだとすると、知覚報告は、社会的承認によって正当化されることになります。

「赤い」を学習したときの諸事例の類似性は、社会的承認によって正当化されます。言語を学習するとは、言語表現の使用規則を学習することです。また学習後の「これは赤い」という知覚報告の真理性もまた、社会的承認によって正当化されます。

次に、問いに対する推論による答えの正当化について説明したいと思います。

15 インフレ的自由論対デフレ的自由論Inflationary versus Deflationary Liberty (20231121)

[カテゴリー:自由意志と問答]

『フィヒテ研究』が今年の第31号からweb掲載となり拙論「自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護――インフレ的自由論対デフレ的自由論―」が公開されました (My essay "Spinoza's Criticism of Free Will and Fichte's Defense - Inflationary versus Deflationary Liberty" has been published.)
http://fichte-jp.org/2023FichteStudien31/04Irie.pdf をご覧ください。

17 利害の衝突を解決するためのコミュニケーションの方法(How to communicate to resolve conflicts of interest)(20231026)

[カテゴリー:平和のために]

利害の衝突、思想の対立、を果たして話し合いで解決できるかについては、悲観的、懐疑的な非ともたくさんいると思いますが、少なくともそれは、話し合い以外のものでは解決できません。

では、どのような話し合いが有効でしょうか。相手を説得しようとするコミュニケーションは、おそらく有効ではなく、むしろ有害かもしれません。何よりも必要なことは、互いの利害の衝突や思想の対立を明確にすることでしょう。

 論争によって相手を説得することは、学問研究においてすら難しいことですが、ましてや政治においてはほぼ不可能なことだと思います。しかし、お互いの差異を明確にしようとする話し合いは多くの場合可能です(これが不可能な場合には、第三者を介する話し合いが必要になります)。

 差異を明確にするためのコミュニケーションもまたコミュニケーションであって、それが成立するには、「好意の原則」(デイヴィドソン)や「協調の原理」(グライス)に従うことが必要です。コミュニケーションを継続すれば、いずれ信頼関係も生まれるでしょう。

「ライバルと交流すれば、彼らを人間として扱うようになる。そうすれば、協力、交渉、そして信頼が可能になるのだ。」(ブライアン・ヘス、ヴァネッサ・ウッズ『ヒトは<家畜化>して進化した』藤原多加夫訳、白揚社、p. 29)

差異を明確にすることで可能になることは、最悪でどこまで譲歩すれば対立の解消になるのかをお互いが理解できるようになることです。それを出発点にして、互いにどこまで歩み寄れるかを交渉することが可能になります。

 たとえ戦争状態になっても、全体としての最悪の選択を避けるためには、対話を継続することが重要です。対話では、差異を明確にして、最悪の譲歩地点を確認し、すこしでもましな妥協点を交渉する。(今のところ、これ以上のことを思いつきません。動物は復讐しません。その点だけは動物を見習いたいです。)

16 感情的反応と二種類の合理的反応:イスラエルのガザ地区本格攻撃を目前にして(202301016)

Emotional reactions and two types of rational reactions: In the face of Israel's full-scale attack on the Gaza Strip

[カテゴリー:平和のために]

ガザ地区のハマスによるイスラエル攻撃に対して、イスラエルのネタニヤフ政府は大規模な報復攻撃をしようとしています。これについて内田樹さんが、YouTubeチャンネル「デモクラシー・タイムズ」で、感情の問題と合理的な対応を区別しなければならないと指摘しています。その通りだと思います。

家族や仲間を殺された人が復讐したいとおもう感情は人間にとってはある意味で自然なことです(動物は復讐しません)。しかし、それでは悲惨な復讐の連鎖はいつになっても止まりません。それを回避するには、双方にとっての長期的な利害を合理的に考える必要があります。しかし、この文脈での合理的な反応には二種類のものがあります。

一つは、「囚人のディレンマ」ゲームにおける合理的な反応です。「囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すというゲームです。

このゲームが成り立つには、二つの重要な条件があります。一つは、<囚人同士が互いにコミュニケーションできない>ということ、もう一つは、<二人の囚人がどちらも、自分の利益だけを最大にしようとしている>ということです。

この帰結を回避するには、この二つの条件を変えることが必要です(囚人のディレンマ・ゲームにおける配点を変更する、ということも、最悪の状態を避けるための一つの方法ですが、これは現実には難しいことがおおいので、触れません)。

私たちにできそうなことは、<当事者や関係者が相互にコミュニケーションすること>です。それができれば、最悪の事態を避けられるでしょう。もしコミュニケーションが十分にできるならば、他者の利益や全体の利益を考慮することが、結果として自己(目先の利益ではなく)長期的な利益を最大にすることになることがわかるでしょう。

他者の利益や全体の利益を考慮し、自己の長期的な利益を考慮するためには、合理的に考える必要があります。

合理的反応の一つは、他者とコミュニケーションせずに、自分の短期的な利益だけを、合理的に追及することです。合理的反応のもうひとつは、他者とコミュニケーションし、自己や他者や全体の利益を考え、自己の長期的な利益を合理的に追及するということです。

ホッブズが言ったように、人間は理性を持っているにも拘わらず争うのではなく、むしろ理性を持っているからこそ争うのです。理性的にふるまうことは重要ですが、それだけでは不十分です。少なくとも理性的なコミュニケーションが不可欠です。テロやヘイトスピーチは、コミュニケーションを壊してしまいます。

52 Transformerと人間の思考(Transformer and human thinking) (20231012)

[カテゴリー:日々是哲学]

Chat GPTのソフトTansformerは、次の語が何になるのかを計算しているだけであるのに、それが考えながら話しているように見える、ということが不思議だと言われることがあります。確かに、私たちが考えながら話すとき、「次の語は何になるのか」とは問うていません。しかし、私たちは、たいていは、事前に語る内容を心のなかにあいまいな形で考えていて、それを言葉にしていくのではなく、話しながら考えています。このような場合、話すことは、脳内で次の語を決定する作業の連続として生じているのではないでしょうか。そうすると、このとき私たちは、Transformer と同じく、次の語を計算しているだけです。もちろん私たちは、こうしてできた文を反省して、それを前提に推論することができます。しかし、この推論のプロセスも亦、次の語を計算することの連続として成立するのです。

 では、Chat GPTと人間の脳の違いはどこにあるのでしょうか。

51 会話の継続と問答(Continuation of conversation and questions and answers)(20231003)

[カテゴリー:日々是哲学]

ローティは、おそらく「会話の継続」を人類の最上の目的としていると思われます(今『哲学と自然の鏡』が手元にないので確認できません)。「会話の継続」は問答が成立するための超越論的条件であるので、「会話の継続」を目的として設定することは、問答論的必然性として超越論的に証明できるだろうと考えます。

 では発話の継起が「会話」ないし「会話の継続」になっているための条件は何でしょうか。その条件の一つは、発話の継起が、問答および問答の継起になっていることだと思います。問いとそれへの答えが一回行われるだけでなく、問答が継起しなければ、会話を継続できません。この問答の継起の仕方には、様々なパターンがあり、それを分析する必要があります。しかし他方で、前の問答とはまったく無関係な問答を始めたとしても、二人ないしそれ以上の会話者が同一人物であるならば、つまり会話の参加者が同一であるならば、そこで行われる問答の継起は「会話の継続」だといえます。「会話の継続」のためには、会話の内容の連続性(これも重要ですが)よりも、会話者の同一性の方がより重要だと思われます。例えば、わたしが突然会話のテーマを変えたとしても、相手はそのことに会話の含みを読み取るのです。発話の継起を会話の継続にするのは、会話者が発話の前提を共有していることによるのだと言えそうです。

ローティが「人類の会話」というとき、その参加者は人類ですが、何をもって「会話の継続」と言うのでしょうか。その会話参加者の中にAIが加わるようになるとき、「人類及びAIの会話の継続」が目的になるのかもしれません。

ところで、人類とAIは会話できるでしょうか。ここで気にしているのは、AIが思考できるかどうか、と言うことではありません。会話するためには前提の共有が必要です。しかし、人間の記憶能力には限界がありますが、AIの記憶能力には原理的な限界がありません。AIと人が会話するとき、AIは、人が話したことを記憶しているが、人はAIが話したことを記憶していない、と言うことがあり得ます。AIは人間の記憶能力を考慮して、前提として共有している知識を正確に理解することができるでしょうから、AIは人間と会話できるでしょう。しかし、それは対等な会話ではなくなりそうです。AIは人間を置いてきぼりにして、AI同士で勝手に会話を進めていくことになるかもしれません。

50 人権を正当化する二つ目の方法(The second way to justify human rights)(20230922)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回は、人権を正当化する一つの方法は、<より上位の目的の実現のための手段>として正当化することだと説明しました。<より上位の目的>の例として、<キリスト教の神>と<資本主義>を挙げました。しかしこの方法は、<より上位の目的>を共有しない人には無効です。イスラム教徒はキリスト教の神を認めませんし、仏教徒や無神論者は、そもそも神をみとめません。社会の在り方として資本主義を認めない人も沢山います。

では、全ての人が共通して認める<より上位の目的>は、存在しないのでしょうか。たとえば、<人類の存続>を<より上位の目的>として設定することが可能かもしれません。それを実現するための手段として、人権尊重を主張することができるかもしれません。例えば、ローティのいう<人類の会話の継続>を<より上位の目的>とし、その実現のための手段として人権尊重を主張することは可能でしょう(ローティ自身が、人権についてこのような論じ方をするかどうかは、わかりません)。

しかし、<人類の存続>は、すべての人が共通して認める<より上位の目的>ではないかもしれません。動物の権利を主張する人や、輪廻転生を信じる仏教徒ならば、人類に限らない生命全体の存在を<より上位の目的>とするかもしれません。シンギュラリティーを超えた未来のAIによるポスト人類の知性やデジタル生命を<より上位の目的>とするようになるかもしれません。

権利は、何かをする自由であるので、人権を尊重するとは、自由を尊重するということでもあります。自由の尊重を、<より上位の目的を実現する手段>としてではなく、別の仕方で正当化できれば、それが人権のもう一つの正当化方法になると考えます。

人間が自由であることについては、カテゴリー[自由意志と問答](特に9回~12回あたり)で論じました。そこでの自由の論証は、「意図的行為」や「選択」という概念を前提とした超越論的論証でした。そこで論じたのは社会的というよりも道徳的な意味での自由の尊重です。しかし、もし自由が道徳的に尊重されるべきならば、それは社会においても尊重されるべきである、言い換えると人権は尊重されるべきである、と考えます。人権を正当化するこの方法は、超越論的論証、だと言えます。

人権を正当化する方法は、<より上位の目的を実現する手段>として正当化することと、<「意図的行為」や「選択」の超越論的条件>として正当化することの二つあります。多くの場合、人権の正当化は前者で行われますが、後者の方が有効ではないかと思います。なぜなら、共有できる<より上位の目的>の設定が難しいからです。

49 人権を正当化する二つの方法 (Two ways to justify human rights)(20230911)

[カテゴリー:日々是哲学]

人権を正当化する一つの方法は、<より上位の目的の実現のための手段>として正当化することです。

人権概念は、歴史的には、キリスト教に由来するものです。ジョン・ロックは、『市民政府二論』で、人は、神がその目的を実現するための手段であるので、価値を持つと主張しました。ここでは、人権は、より上位の目的の実現のための手段として正当化されています。「より上位の目的」にあたるのが、「神が設定する目的」ということになります。(神を認める人が、このような仕方で人権を正当化するとは限りません。スピノザは、神は意志を持たないと考えましたので、スピノザならば、違った仕方で、人権を正当化するでしょう。もっともスピノザはキリスト教徒ではありません。)

資本主義社会は、契約による商品交換を基礎としています。そこでは、人間の労働力も商品の一つです。それは、(精神活動を含めて)労働力を商品とみなしますが、しかし他方で、人間はそれらの商品の売買契約の主体として尊重されます。したがって、資本主義社会では、人間は、商品の所有とその売買契約の主体としての権利を持ちます。ジョン・ロックは、所有権を人権の基本とみなしました。資本主義は、その契約社会を成り立たせるものとして、人権を正当化します。ここでも人権を<より上位の目的(資本主義社会の成立)の実現のための手段>として正当化します。

人権を正当化するもう一つの方法については、次回に書きます。