11 選択の問答論的必然性 (20230809)

[カテゴリー:自由意志と問答]

動物が行動するとき、選択していると言えます。しかし、それは意識的な選択ではありません。それはいわば見掛け上の選択です。木からリンゴが落ちるのは、見かけ上の落下ではなく、本当の落下です。落下は、リンゴの行動ではありません。では、リンゴの落下と、動物の行動の違いは何でしょうか。走性や反射による行動は、感覚刺激、知覚刺激に対する自動的反応です。リンゴの落下は、外的刺激に対する反応ではありません(ただし、リンゴと木が結合している個所の現象を細かくみれば、ある種の反応だと言えるかもしれません)。

動物がおこなう見かけ上の選択は、外的刺激に対する反応です。選択肢を意識したうえで、その一つを選択するという選択ではありません。その選択が、オペラント反応として生じるときにも、われわれ観察者には、他の選択肢が考えられるとしても、当の動物には、他の選択肢は意識されていません。それゆえに、それは反射の一種です。

これに対して、人間の行う選択は、外的刺激に対する単なる反応ではありません。人間の行う選択は、複数の反応の可能性を意識したうえで、一つの反応を選択することです。私たちにとってのここでのとりあえずの問題は、<複数の選択肢を意識したとき、どれかを選択することが不可避になるが、この不可避性(ないし必然性)は、問答論的必然性なのか>です。

問答論的必然性とは、<問いQに対する答えAが問答論的矛盾になるとき、Qを問われたときには、「¬A」と答えることが必然的になる>ということです。これを選択問題に応用すると、次のようになります。

「今Aを行うか、行わないか、という選択が可能であるが、私はどちらかを選択するのだろうか」という問いに、「いいえ、わたしはどちらも選択しません」と答えるとき、私はAを行っていない。したがって、Aを行わないことを選択したことになり、矛盾する。

「はい、私はどちらかを選択します」と答えるとき、私はAを行っていない。したがって、Aを行わないことを選択したことになる。この場合には、矛盾は生じない。

以上の説明でよいのかどうか、もう少し検討したいと思います。

48 ニーチェの「強者」の道徳と規則遵守問題 (20230715)

[カテゴリー:日々是哲学]

少し唐突ですが、自由について考えていて、ニーチェ風の「強者」の道徳を、規則遵守問題をもちいて批判できることに気づいたので、ここに記しておきます。

「自由であるとは、その帰結の責任を負うことである」というのは、小市民的な臆病な自由概念であるように見えます。ニーチェ的な「強者」ならば、自由な行為の帰結に対して責任を持たない自由を持つというでしょう。そのような強者またも、「Aを行うことから帰結する状態や出来事」を予測できるでしょうが。しかし強者はその責任を認めません。強者は、弱者からの訴えを無視できると思っているからです。強者は、弱者の道徳とは異なる自分が立てた規範に従うことができると思っているからです。

しかし、強者にとってもまた、「Aしよう」とする意志や行為が成立するためには、Aを理解可能にする、Aと他のものとの概念関係を認める必要があります。そのとき、概念的規則に従うことができるためには、社会的なサンクション、他者との相互承認が必要です。強者もまた、ある一定の内容の意志を持つためには、その意志の内容の理解についての相互承認が必要です。

09 <規則性、規範性、自由>の関係:再説 (20230711)

[カテゴリー:自由意志と問答]

今回は、規則の規範性の起源の解明のために、前回述べた<規則性、規範性、自由>の関係を再説します。

#規則性について

何かが規則的であるとは、何かが反復するということです。規則性は、(自然法則のような)事実としての規則性と、(法律のような)規範としての規則性に区別できます。事実としての規則性とは、ある事実(状態や出来事)が反復しているという事実です。規範としての規則性とは、行為が反復すべきであるということです。言い換えると、ある行為の規則性を実現すべきであるということです。したがって、規範性があるところには必ず規則性があり、規範性とは、ある規則に従うべきであるという規範性のことです。しかし逆は成り立たないように見えます。つまりすべての規則性が規範性をもつとは限らないように見えます。なぜなら、自然現象には規則性があるが、規範性はない、と思われるからです。

規範Rに従うとは、Rから帰結する行為Aをすることですが、単にある行為Aをすることでではなく、Aを、Rから帰結する行為として、言い換えるとRに従うこととして、行うことです。

ちなみに、「ある状況である行為をすべきである」とは、「それとよく似た状況では、それとよく似た行為をすべきである」というということを含意する、つまり、ある行為をすべきであるとは、ある行為を反復すべきであるとか、ある規則に従うべきである、ということをつねに含意します。つまり、<ある行為をすべきである>とか<ある行為を反復すべきである>とか<ある規則に従うべきである>ということは、同義なのです。

ある行為Aは、単なる身体運動ではありません。行為は、ある条件下でのある身体運動です。行為は、意図的な身体運動です。行為とは、ある目的を実現するための身体運動です。

「その目的を実現するには、どうしたらよいのか」という問いに、「Aすればよい」という答えを得たなら、「その目的を実現するために、Aしよう」と意図し、その目的を実現するために>、Aすることになります。そのとき「何をしているのか」と問われたら、「Aをしている」と答え、「何のためにAしているのか」と問われたら、「その目的を実現するために、Aしている」と答えることになるでしょう。「なぜその目的を実現するために、Aするのか」と問われたら、先の実践的推論、精確に書けば次の実践的推論で答えることになるでしょう。

その目的を実現しよう。

その目的を実現するためにはどうすればよいのか。

Aすれば、その目的を実現することができる。

ゆえに、Aしよう。

ここでは、「Aすれば、その目的を実現することができる」という事実の規則性があって、それに基づいて、その目的を実現するためには、「Aすべきである」という規範性が成立します。

「Aすべきである」と考えることは、「Aできる」と考えることと「Aしないこともできる」と考えることを伴立します。さらに、「Aするか、Aしないか、を選択できる」と考えることを伴立します。行為の自由は、行為の選択可能性に他ならないでしょう。また、行為の規範性の意識は、常に行為の自由の意識をともないます。

他方で、行為の自由や、行為の選択可能性だけから、行為の規範性が生じることはないように見えます。行為の規範性は、行為の自由を制限することであり、行為の自由を前提する。この行為の自由の制限によって生じるのが、行為の規範性です。行為の規範性<Aすべし>とは、<Aすることも、Aしないこともできるが、Aすべし>ということであり、<Aしないこともできるが、Aしない可能性(自由)を制限して、Aすべし>ということです。

しかし、果たしてそうでしょうか。規範性は自由を前提するが、自由もまたある制限を前提するのではないでしょうか。

<Aすることができる>ということは、<Aしないこともできる>ということを伴立しています。さらに明示的に言えば<Aすることができるし、Aしないこともでもできる、つまりAするかしないかを自由に選択できる>ということを意味しています。ところが、この自由は、実はある制限によって可能になっています。その状況において一旦<Aすることができる>と意識したならば、<Aするかしないかを選択しなければならない>ことになるのです。つまり、<Aする自由を意識するときには、Aするかしないかの選択をせざるを得ない>という制限を伴うことになるのです。ある情況で、<Aする自由がある>ということは、その状況で<Aするかしないかのどちらかを選択しなければならない、という制限を引き受けることです>。

これに対しては、そのような状況では<Aするかしかないかという選択ではなく、Bするかしないかという選択をすることも可能である>という反論があるかもしれません。しかし、たとえそのように反論するとしても、その場合でも、自由であると意識するためには、(Aでも、Bでも、その他でもよいのですが)何らかのある行為をすることができると意識することが必要です。そして、そのような意識には、その行為をするかしないかを選択しなければならないという制限が伴うのです。したがって、自由は制限によって可能になるのです。

では、自由を可能にするこの制限は、規範性とどう関係するのでしょうか。

08 <規則性、規範性、自由>とデフレ的自由概念 (20230706)

[カテゴリー:自由意志と問答]

7か月ぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。

このカテゴリーでは、 まず「自由意志はあるのか、ないのか」を考え、次に、もしその答えが「自由意志は存在しない」ならば、そのときには「道徳や法をどう考えたらよいのか」、またもしその答えが「自由意志は存在する」であるとき、その場合の自由意志がどのようなものであるか、を検討する予定でした。

 これまでの01~07では、「自由意志はあるのか、ないのか」を考えるために、スピノザによる自由意志の批判とフィヒテによる自由意志の擁護を、考察しました。その最後07回では、スピノザの自由論とフィヒテの自由論を、インフレ的自由論とデフレ的自由論として捉え、前者の批判と後者の擁護を試みました。(01~07の考察は、フィヒテ協会シンポジウムでの発表の準備を兼ねていました。現在、その発表をもとに論文を仕上げる必要があり、それが7月末締め切りなので、その仕事に合わせて、しばらく、デフレ的自由概念について考えたいと思います。)

#<規則性、規範性、自由>の関係

 まず規則性と規範性の関係について説明します。規則性は、(自然法則のような)事実としての規則性と、(法律のような)規範としての規則性に区別できます。規範性があるところには必ず規則性があり、規範性とは常に、ある規則に従うべきであるという規範性のことです。しかし逆は成り立ちません。つまりすべての規則性が規範性をもつとはぎりません。なぜなら、自然現象には規則性がありますが、規範性はないからです。

 つぎに、規範性と自由の関係について説明します。規範としての規則性は、従うべき規則であり、それは、従うことが可能であること、従わないことが可能であることの二つを伴っています、あるいは前提しています。言い換えると、規範性は、意志決定や行為の自由を伴っています。

 もし<知は、問いに対する正しい答えとして成立する>と言えるならば、問いとそれに対する正しい答えの関係は、規則性をもち、また規範性を持つの、問いに答えること、知ることは、自由を伴うことになります。知は規範性を伴うので、自由を伴ういえるのではないでしょうか。

 このような知と自由の理解は、フィヒテが「意識の事実」(1810)で述べている次のことと、ほぼ同じことだと考えます。

「知そのものは、その内的形式と本質からすると、自由の存在である。[…]人は一見して、自由というのはそれだけで存立する別のなにものかがもつ特性であって、そのものに内属するのだ、と考えたくなるかもしれないが、そうではなくて、自由は独自の自立的存在にほかならないのである。そして、自由のこの自立的で別個の存在こそが知なのである、と言いたい」(SW II, 550, 全集19巻43)

知と自由についてこのように考えるとき、重要になるのは、規則の規範性をどうのように証明するかということになりそうです。

61 実質的暗黙的問答か形式的暗黙的問答か (20230626)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回推論の成立順序についてつぎのように述べました。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的明示的推論→形式的暗黙的推論

この最後の形式的暗黙的推論とは、形式的推論であるけれども、論理的語彙をもちいて完全に推論関係を明示化できていないという推論です。例えば、次のような省略三段論法がそれになります。

   「雨が降るならば、道路が濡れる。」

これを省略三段論法として理解するときには、次の()の中の前提が省略されていると考えます。

   「雨が降る。(雨が降れば、雨が当たるところは濡れる。道路には雨が当たる。)ゆえに

道路が濡れる」

ブランダムは、「雨が降るならば、道路が濡れる」を省略三段論法ではなく、実質的推論(私の分類では、実質的明示的推論)だと考えます。この違いについて、次のように言います。両略三段論法は、形式的明示的推論の前提のいくつかが省略されているものですが、実質的推論には、そのような省略はありません。

 では、ブランダムはなぜ実質的推論の存在を主張するのでしょうか。もし論理的語彙の意味が、その使用法であり、論理的語彙の意味から使用が決定するのではなく、論理的語彙の使用法から、その意味が決定されるのだとすると、論理的語彙の最初の使用は、論理的語彙の意味によって正当化されるのではないことになります。つまり論理的語彙の使用は、少なくとも当初は、形式的な使用ではありません。その使用は、実質的推論となります。

 同じことが、疑問表現にも言えるはずです。そこで、問答は少なくとも当初は、実質的問答であるはずです。明示的問答は少なくとも当初は、明示的実質的問答であるはずです。

第52回から論じてきたことは、<論理や意味や発話行為が問答に基づくだろう>また<論理的矛盾、意味論的矛盾、語用論的矛盾を問答論的矛盾から説明できるだろう>という予測です。

これらは、実質的問答(つまり、「問答関係の正しさが、その問と答えの概念内容を決定するような種類の問答」)のアイデアに基づいていると言えそうです。

 では、「私たちは、どうして問答関係の正しさを理解できるのでしょうか」あるいは「わたしたちは、どうして問答ができるのでしょうか」

60 問答の、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別 (20230618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前々回(58回)に、疑問表現を使用しない問答を「暗黙的問答」、疑問表現を使用した問答を「明示的問答」と呼ぶことにしました。次に、(前回(59回)紹介した)ブランダムの「実質的推論」の定義にならって、「実質的問答」を次のように定義したいと思います。

実質的問答」とは、「問答関係の正しさが、その問と答えの概念内容を決定するような種類の問答」です。これとの対比で、「問と答えの概念内容にもとづいて、問答関係の成立を説明できる問答」を「形式的問答」と呼びたいと思います。

さて、このように定義した「実質的問答」は存在するでしょうか。まず明示的問答の前に成立していたと考えられる「暗黙的問答」は、実質的問答でしょうか、形式的問答でしょうか。いまだ疑問表現を持たない言語、あるいはまだ疑問表現を学習していない幼児を考えると、その場合の

「これは」「リンゴ」

というような問答は、これらが問答関係になることを、それぞれの発話を構成する表現(「これは」「リンゴ」など)の意味から説明することはできません。したがって、これは「実質的暗黙的問答」です。また、形式的問答が成立するには、疑問表現が言語に導入されていること、また疑問表現を幼児が学習済みであることが必要になることがわかります。

ところで、疑問表現を使用する明示的問答が最初に登場するとき、疑問表現の意味はまだ曖昧です。その意味は、その使用において明確になり構成されるでしょう。したがって、この段階の明示的問答は、問いと答えの意味に基づいてその問答関係を説明することはできません。したがって、この問答関係の正しさから、問いを構成する疑問表現の意味が説明されるでしょう。つまり、少なくとも当初の明示的問答は、「実質的明示的問答」です。

こうして疑問表現の意味が成立し、また習得されたとすると、「形式的明示的問答」が可能になります。一旦「形式的明示的問答」が成立すると、これに含まれる疑問表現を省略したものとして、「形式的暗黙的問答」が可能になるのだと思われます。

まとめると次のような順序で成立することになります。

<実質的暗黙的問答→実質的明示的問答→形式的明示的問答→形式的暗黙的問答>

前回は推論についてて次の順序で成立すると述べました。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的暗黙的推論→形式的明示的推論>

しかし、この最後の二つの順序は次のように逆にすべきでした。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的明示的推論→形式的暗黙的推論

論理的語彙の意味が学習されて、形式的推論が可能になり、形式的明示的推論が成立した後で、はじめて、そこから論理的語彙を省略して形式的暗黙的推論が可能になるからです。

さて、以上を踏まえて、私たちが日常的によくおこなう暗黙的問答は、「実質的暗黙的問答」なのか「形式的暗黙的問答」なのか、を考えたいと思います。

59 暗黙的推論と実質的推論 (20230611)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

私は、疑問表現を取得したあとも、私たちは暗黙的問答を行っていると考えているのですが、これを検討する前に、問答推論ではなく通常の推論についての「暗黙的推論」と「実質的推論」の関係について考えておきたい思います。      

R・ブランダムは、「推論の正しさが、その前提と結論の概念内容を決定するような種類の推論」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳、春秋社、p. 71)を「実質(的)推論」と呼ぶ。通常の推論つまり「形式的推論」では、推論の正しさは、それに含まれる論理的語彙の意味に基づいて説明されるます。しかし、実質的推論では、逆に、推論が正しいということから、論理的語彙の意味を決定します。また論理的語彙の意味だけでなく、その他の語彙の意味も決定することになります。

では、この実質的推論は、前に見た暗黙的推論とどう関係するのでしょうか。暗黙的推論とは、例えば、「雨が降っている」から「道路が濡れる」を結論する推論です。この推論を論理的語彙を用いて明示化すると、「雨が降っているので、道路が濡れる」などの文になるでしょう。これは、原因と結果の関係(前提と帰結の関係の一種)を明示的に表現しています。「ので」は、原因と結果の関係、ないし前提と帰結の関係を明示化する語彙です。

ここで、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味からこの暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことがわかるのだとすれば、それは「形式的推論」です。逆に、この暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことから、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味が規定されると考えるとき、この暗黙的推論やこの明示的推論は、「実質的推論」です。つまり、暗黙的推論と明示的推論の区別と、形式的推論と実質的推論の区別は、独立しています。

ところで推論は原初的には暗黙的推論であり、それが明示化されるのだと考えられます。さらに、語や文の意味は、原初的にはその使用法であるとすると、暗黙的推論は、原初的には実質的暗黙的推論です。では、実質的暗黙的推論は、次に実質的明示的推論になるのでしょうか。それとも形式的暗黙的推論になるのでしょうか。形式的暗黙的推論は、それぞれの文の意味に基づいて正しいとされる推論でした。そのためには、それぞれの文の意味が前もって確定していなければなりません。文の意味の確定、つまり明示化は、それの使用法、それを用いた推論の明示化かによって可能になります。したがって、実質的暗黙的推論は、まず実質的明示的推論になり、その後で、形式的暗黙的推論になり、最後に形式的明示的推論になるのだと思われます。

 これを準備作業として、次に、問答についての、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別について考えたいとおもいます。

58 疑問表現を用いない暗黙的問答について (20230604)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前々回に、論理的語彙を使用せすに行われる推論を暗黙的推論と呼びましたが、それと同じように、疑問表現をもちいなくても問うことや問答が行われることがあり、それを「暗黙的問い」や「暗黙的問答」と呼びたいと思います。例えば、

  「これは」「リンゴです」

なにかを指さして「これは」といえば、相手は「これは何ですか」「これはいくらですか」などの問いとして理解し、「リンゴです」とか「100円です」とか答えるでしょう。このとき、「これは」は「これは何ですか」「これはいくらですか」などの省略形である場合もあるでしょう。

しかし「なに」という語(の使用法)を知らない場合にも、「これは」で何かを求めていると理解できる必要があるのではないでしょうか。もしそれが理解できないとすると、「何」という語の使用法を学習することや教えることの説明がかなり難しいでしょう。

 言語を持つ以前の人間や他の動物は、探索行動をします。例えば、エサを探します。言語化すれば、「これは食べられるだろうか」とか「これはなにだろうか」などの問で表現できる探索行動をしていると思われます。「これ」や「リンゴ」などの語を取得すれば、それらをもちいて問うことができるでしょう。「これ」や「リンゴ」などの語を学習するためにも、探索が必要です。そこでは語の使用方法を確認しようとする問答が必要になるはずです。

 ところで、すでに疑問表現を習得している私たちも、このような暗黙的な問答を行っているのではないでしょうか。それを次に考えたいと思います。

57 保存拡大性の定義の修正 (20230528)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 私には、tonkで明示化できるような暗黙的な推論は成立していないように思われます。しかし、それを証明することも難しように思われます。

そこで、<暗黙的推論を認めると、「tonk」のような不適切な論理的語彙もまた保存拡大的であることになってしまう>という懸念を回避するために、保存拡大性の定義をつぎのように修正したいとおもいます。

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった明示的推論が正しくなることはなく、正しかった明示的推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の明示的推論関係が保存される>としたいと思います。

このようにすれば、tonkのような論理結合子を排除できます。

56 暗黙的推論について (20230527)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#暗黙的推論(implicit inference)

論理的語彙とは、推論関係を明示化するための語彙ですが、推論は、論理的語彙がなくても可能です。例えば、「これはリンゴです」から「これは果物です」と言うことができます。このとき、私たちは暗黙的に推論を行っています。その推論を明示化すると「もしこれがリンゴであるなら、これは果物です」ということになります。ここでは論理的語彙「もし…ならば、…」を使用しています。私たちは、暗黙的に行っている推論を明示化するために、論理的語彙を使用するのです。もう一つ例を挙げましょう。「これはリンゴです」から「これはナシではない」と言えます。このときも私たちは暗黙的に推論を行っており、その推論を明示化すると、「これはリンゴであり、リンゴはナシではないので、これはナシではない」ということになります。ここでは、論理的表現「ない」「ので」を使用しています。暗黙的に行っている推論を明示化するには、このような論理的語彙が必要なのです。

#論理的語彙の保存拡大性

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙(論理結合子と量化子。このほかに何を含めるかは論争の余地があります)を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった推論が正しくなることはなく、正しかった推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の推論関係が保存される>ということです。

N.BelnapやM.Dummettがこのような論理的語彙の保存拡大性を考えたとき、彼らは暗黙的推論を想定していなかっただろうと思います。私も、『問答の言語哲学』では、このような暗黙的推論を考えていませんでした。

#暗黙的推論を認めるとき、論理的語彙の保存拡大性は変化するのか?

 論理的語彙によって明示化される明示的推論は、論理的語彙を用いないでも暗黙的に成立している暗黙的推論であるとすると、論理的語彙によって可能になるすべての推論は、論理的語彙を除去規則によって除去しなくても、論理的語彙を導入する前から、暗黙的推論として成立していたことになります。したがって暗黙的推論をこのようなものとして想定するとき、論理的語彙の保存拡大性は、自明なこととして成立します。

 ところでベルナップが論理結合子が「保存拡大性」を持つべきだと提案したのは、次の「tonk」のような不適切な論理結合子を排除するためでした。これは、次のような導入規則と除去規則を持つ論理結合子です。

  p┣ptonk r  (導入規則)

      ptonk r┣ p  (除去規則)

    ptonk r┣ r  (除去規則)

上記のような仕方で暗黙的推論を認めると、「tonk」のような不適切な論理的語彙もまた保存拡大的であることになってしまいます。

 この問題を解決するにはどうしたらよいでしょうか。