52 4種類の矛盾の説明順序を逆転させる (20230501)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#4種類の矛盾の説明の順序

①構文論的矛盾(論理的矛盾)

②意味論的矛盾

③語用論的矛盾

④問答論的矛盾

これらは、この順番で説明されることが多いでしょう(拙著『問答の言語哲学』第4章でも、この順序で説明しました)。しかし、この説明の順番を逆にするほうが適切であるかもしれない。

まず、<③語用論的矛盾は ④問答論的矛盾から説明できます。>

語用論的矛盾は、命題内容と発語内行為の矛盾から生じるが、命題内容は問いへの答えとして成立する。他方で、発語内行為も亦、質問への返答として成立する。(この二点については、『問答の言語哲学』で論じました。)したがって、語用論的矛盾は、<相関質問への答えの命題内容>と<相関質問への返答としての発語内行為>の矛盾である。語用論的矛盾は、相関質問への答えの命題内容と、相関質問への返答の発語内行為の矛盾です。返答の発語内行為は、質問において既に指定されているので、語用論的矛盾は、発話の命題内容が、相関質問の想定と矛盾するということです。このように理解するとき、<すべての語用論的矛盾は、問答論的矛盾の一種である>と言えます。

次に、<①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。>

推論規則やそれに基づく論理的推論は、おそらくブランダムがMaking It Explicit、やArticulating Reason (『推論主義序説』)で主張するように、実質推論の一種として説明できるでしょう(これについても『問答の言語哲学』で論じました)。したがって、①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。

さらに最後に、<②意味論的矛盾は、③語用論的矛盾の一種として説明できるのではないでしょうか>。

「わたしは存在しない」は語用論的矛盾の一例です。こでは、<話し手が主張する>という発語内行為と、<話し手が存在しない>という命題行為(命題内容を構成する)が矛盾します。他方、「この赤リンゴは青い」は、意味論的に矛盾しています。この命題から、「このリンゴは赤い。かつこのリンゴは青い。」を導出できますが、これが矛盾するのは、「赤い」と「青い」という二つの述語を一つの対象に述語づけることができないからです。より正確にいうならば、「このリンゴは赤い」と「このリンゴは青い」が同一の問いに対する答だからです。同一の問いに対するこの二つのコミットメントが両立不可能だからです。

「この赤いリンゴは青いですか」に「それは青いです」と答えることは、問いの前提に矛盾します。つまり、この問いは、「この赤いリンゴ」が指示する対象が存在することを前提していますが、答えはその前提を否定しているからです。これは、問答論的矛盾です。また他方で、意味論的矛盾は語用論的矛盾の一種だともいえます。答えが、問いに対する答えとなるためには、問いの前提を受容している必要がありますが、問いに答えるという発話行為は、問いの前提を受容することを含意しているのに、答えの命題内容はそれを否定しているからです。

もし、発話の意味や発語内行為が、問答関係において成立するのだとすると、これらの矛盾は、問答論的矛盾から説明する方が適切であるかもしれません。

もし問答論的矛盾から論理的矛盾が説明することが適切であるならば、論理法則もまた問答論的矛盾から説明することが適切であるかもしれません。次回は、それを試みたいと思います。

92 遅くなりました3/10の研究発表の質疑の部分です (20230423)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

87回で予告したのですが、20230310の私発表「概念実在論と問答推論」の後に行われた質問コメントに対する回答を作りましたのでupしました。

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230422%20%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%80%8C%E6%A6%82%E5%BF%B5%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96%E3%81%A8%E5%95%8F%E7%AD%94%E6%8E%A8%E8%AB%96%E3%80%8D%EF%BC%88Ver3%EF%BC%89.pdf)

最後の2ページに以下の質疑の部分があります。その他の部分は、Ver2とまったく同じです。

以下には、質疑の部分だけを掲載します。

質疑:

1、川瀬さんからの質問:「発表の中での次の引用文

「彼は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

この中の「主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存」というのは、どういうことでしょうか。」

(多分このようなご質問だったと思いますが、記憶があいまいなのでちがっていたかもしれません。当日は、うまく答えられなかったので、ここで答えたいと思います。)

この「指示依存」は、たとえば語「机」が対象<机>を指示するというような表象関係のことではありません。発表の中で述べたように、指示依存は、概念間の依存関係であり、<概念Xが概念Yに指示依存する>とは、<概念Xの指示対象が、概念Yの指示対象が存在しなければ、存在しえない>ということです。たとえば、語「机」という主観的なものの概念は、対象<机>という客観的なものの概念に指示依存します。なぜなら、語「机」という主観的なものは、対象<机>という客観的なものが存在しなければ、存在しえないからです。

2,大河内さんからのコメント:問いは、発話の意味を考えるときの、一つの条件に過ぎないのではないか?

[

わたしは、問いは、初の輪意味を考えるときの<一つの条件に過ぎない>のではなく、<不可欠な条件>であると考えています。その論拠として当日は、次の二点を答えました。

1,発話の意味は推論関係によって示されるが、より正確には問答推論関係によって示される。

2,発話は焦点をもつが、発話の焦点の位置は相関質問との関係によって明示化される。

この答えに、次の点を加えたいとおもいます。

3,発話がどのような発語内行為を行うかは、その相関質問においてすでに指定されており、発語内行為は、発話が相関質問への返答であることによって成立する。

以上の3点は、『問答の言語哲学』で詳しく論じたことでです。次は、最近考えていることです。

4,発話の意味は推論関係によって示されるのですが、ブランダムによれば、なかでも重要なのは<両立不可能性>と<帰結>の関係です。ところで、複数の発話の<両立不可能性>は、(コリングウッドが指摘したように)それらが同一の問いに対する答えであることによって成立します。また、ある発話から他の発話が<帰結>する実質的推論関係は、問いから答えが帰結するという実質的問答推論関係に基づいていると考えています(<帰結>についてはBSDの議論を援用して詳しく論じたいと思っています)。

3、(その後の居酒屋での)井頭さんからの質問:「ブランダムは、分析哲学研究にとって、ヘーゲル研究はどういう意味があると考えているのか?」

発表後、ブランダムの論文‘Some Pragmatist Themes in Hegel’s Idealism: Negotiation and Administration in Hegel’s Account of the Structure and Content of Conceptual Norms’(1995)を読んでみました。彼は、その冒頭において、二つのテーゼ:「意味論的プラグマティズムのテーゼ」=「言葉の意味は使用である」と、「観念論のテーゼ」=「概念構造と自己の構造は同一である」を示し、この二つのテーゼについて「意味論的プラグマティズムのテーゼは、観念論のテーゼによって実行可能になる」と主張します。ブランダムは、意味論的プラグマティズムが完成するためには、ヘーゲル的な観念論によって補完される必要があると考えているのだとおもいます。

                                                                                                                                                                                                                                                                                        

4、(居酒屋での)朱さんからのコメント:「問いの答えのペアが単位として閉じてしまう印象がある。」

ブランダムは語ではなく命題を言語的な意味の単位であると考えます。その理由は、命題の発話によって言語行為が可能になるからです。そして、それを「命題主義」と呼びます(AR訳、19,47)。それに対して私は、言語行為は問答のペアによって可能になると考え、それを「問答主義」と呼びたいとおもいます。したがって、問答のペアを強調するのは、<命題主義をより広い文脈に開くための問答主義>であり、また<推論主義をより広い文脈に開くための問答推論主義>の説明のためなのです。しかし、確かに朱さんの言うように、問答のペアが単位として閉じてしまうという印象を与えただろうと思います。それを回避するために、二重入れ子型問答関係を強調したいと考えます。それは次のような関係です。

Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1を立てその答えA1をもとに、Q2の答えA2に辿り着く>という関係です。私たちが問いを立てるとき、多くの場合それはより上位の問いに答えるためであり、そのより上位の問いは、さらにより上位の問いを解くために建てられているだろうとおもいます。A1を中心にみるとき、Q1→A1の関係は、Q1から必要に応じて他の前提を加えてA1を推論する<A1の上流推論>になってます。またQ2→A1→A2は、Q2とA1から必要に応じて他の前提を加えてA2を推論する<A1の下流推論>になっています。

ここで重要なのは、問答のペアは、言語的な意味や言語行為の「単位」とはならないということです。問答関係は、他の問答関係と直列関係や並列関係になることもあるのですが、それと並行して、大抵は、内部に他の問答関係を含んでおり、また他方ではそれ自体がより大きな問答関係のなかに含まれています。問答関係は反復するパターンですが、意味や行為の単位ではありません。この説明によって、問答ペアが単位として閉じてしまうという印象を払拭したいと思います。

46 問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ  (20230416)

[カテゴリー:日々是哲学]

(第43回から、規則遵守問題および私的言語批判の問題を論じていました。43回では、私的言語も公的言語もなく、個人言語だけがあると論じました。44回では、個人言語について、規則に従っているかどうかをチェックできることを説明しました。45回には、問答できる限り、規則に従っているということを説明しました。「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ません。また自問自答の場合にも、「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ないということを説明しました。)

その後、私の考えは少し変化しました。私たちは共有言語を持たず、各人が個人言語をもっているにすぎないと考えることはできるのですが、その場合には、相手の個人言語のモデルを仮定して、それをもとに相手の発話の意味理解を予測し、それが正しいかどうかをチェックし、誤差が最小になるように習性を繰り返すことになるでしょう。そして自分の個人言語についても、どうように自分の個人言語のモデルを仮定して、それから自分の発話の意味の理解を予測し、予測誤差最小化śプロセスにかけるということになるでしょう。しかし、二人の個人言語のモデルが非常に類似している可能性があるときに、それぞれの個人言語モデルを仮定するのは、煩瑣ではないでしょうか。むしろ二人がある言語を共有していることを仮定し、共有言語のモデルを仮定して、予測誤差最小化プロセスにかけることが、現実に行われていることではないかと思います。公共的な共有言語があることを検証することはできませんが、他者の個人言語や自分の個人言語についても、それが成立していることを検証することは、同様に不可能です。

相手の個人言語の理解のチェックは、問答推論的意味論では、つぎのように説明できるでしょう。相手の発話の上流問答推論と下流問答推論の両方について、正しいものとそうでないものを判別し、それが相手のその判別と一致するかどうかをチェックします。しかし、相手の個人言語と私の個人言語を区別するとき、相手の個人言語のある発話についての私の(例えば)ある上流問答推論は、推論になりうるのでしょうか。異なる言語の二つの文が推論関係、例えば両立不可能性の関係に立ちうるのでしょうか。そのためには、二つの文が、同一問いへの答えでなければなりません。では、相手の個人言語の文が、私の個人言語の疑問文に対する答えになりうるでしょうか。

例えば、相手の「これはリンゴである」という発話と、私の個人言語の「これは何ですか」や「これは赤い」は、問答推論関係をもちうるでしょうか。共通の言語を前提することによって推論や問答が可能になるのではなく、発話の間に推論や問答が可能になることによって、共通の言語の想定が可能になるように思われます。このように考えなければ、言語の発生を説明できないでしょう。異なる言語の二つの文が、問答関係になることは可能です。異なる言語の二つの文が問答関係になることによって、それらは融合し一つの言語になると思われます。

今回のタイトル「問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ」を読んだ人は、問いや答え、推論を構成する文や発話が成立するためには、言語が成立しなければならないのだから、このタイトルは間違っている、と考えるかもしれません。しかし、発話の意味は、その問答推論関係であり、問答推論が成立することで、言語が成立するのだと考えます。

91 答えの両立不可能性と<問いの前提>の客観性  (20230410)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるでしょうか?」

この問いに答えたいと思います。

複数の主張が両立不可能であるのは、それらが同一の問いへの答えであることによります。もし主張が異なる問いに対する答えであれば、それらは両立可能です。したがって、主張の両立不可能性のあるところには、同一の問いがあります。

では、問いが同一であるとはどういうことでしょうか。前回述べたように、二つの問いが同一であるとは、二つの問いの<問われるもの>と<問い求められるもの>がそれぞれ同一であるということです。答えの違いは、多くの場合<問い合わされるもの>の違いに起因すると考えられます。例えば、

「そのリンゴは何色ですか?」「そのリンゴは赤色です」

という問答の問いに登場する「そのリンゴ」の指示対象が、<問われているもの>であり、「そのリンゴ」の指示対象の色の説明が<問い求められていること>です。<問われているもの>は答えの中の「そのリンゴ」の指示対象でもあります。そしてこの答えが<問いも求められていること>を提供するものです。この問答において、問いと答えの中の「そのリンゴ」は同一の対象を指示することに成功しています。もし成功していなければ、それは問いと答えの関係になりません。

もし別の二人が「あのリンゴは何色ですか?」「あのリンゴは青色です」という問答を行い、その問いの「あのリンゴ」の指示対象が、前の問いの「そのリンゴ」の指示対象と同じであるとき、この二つの問いは、<問われれるもの>と<問い求められること>が同一であり、この二つの答えは両立不可能となります。この二つの問い中の「そのリンゴ」と「あのリンゴ」は同一の対象を指示するとき、同一の対象の指示が、異なる仕方で行われています。それによって、対象の存在の客観性が暗黙的に示されています。

<問い求められていること>は、前の問いでは「その対象」の指示対象がどんな色を持つか、ということであり、後の問いでは「あの対象」の指示対象がどんな色をもつか、といことであり、「その対象」と「あの対象」の指示対象が同一であるならば、二つの問いの<問い求められていること>もまた同一です。

前の問いの前提は、<「その対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、後の問いの前提は、<「あの対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、二つの問いの<問いの前提>も同一です。この問いの前提は、同一の事実であり、これらの問いを受け入れる者は、同一の事実を受け入れていることになります。

ところで、主張の両立不可能性は、客観的なものではなく主観的なものです。なぜなら、両立不可能性は客観的事実の中にはないだろうからです。そして、客観的事実の中に両立不可能性がないにも関わらず、主張の両立不可能性があるから、その両立不可能性を解消する必要性があります。この必要性は、客観的なものとここでの主観的なものの両立不可能な関係から生じます。このことが、事実の客観性の論拠となるでしょうか。

私たちは、事実の記述を答えとする理論的な問いの答えの客観性は、問いの前提の客観性を前提としていますが、問いの前提の概念構造は主観的に構成されたものである可能性があります。しかし、私たちが主張の両立不可能性を修正しようとするとき、問いの前提は客観的なものであると考え、それに対する主観的な答えを修正しようとしています。私たちが変化を認識することは、変化しないものとの対比において可能になります。(今は、これ以上のことが言えません。)

90 両立不可能性は<問い合わされるもの>の違いから生じる  (20230403)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 二つの記述が両立不可能になるのは、それらが一つの対象についての記述(descriptions of one object)だからであるというのがブランダムの指摘ですが、私はそれらが一つの問いについての答えであるからだ、というほうがより正確だと考えます。

では、同一の問いとはどういうことでしょうか。前回述べたように、問いが<問われるもの><問い求められるもの><問い合わされるもの>という3つの要素を持つとき、同一の問いであるというためには、この3つがすべて同一であることが必要でしょうか。<問われるもの>と<問い求められるもの>は同一である必要です。なぜなら、これらは疑問文の中で明示される必要があるからです。しかし<問い合わされるもの>は疑問文の中には明示されていません。「Xさんは何歳ですか」という問いの<問われるもの>はXさんであり、<問いも求められるもの>はXさんの歳ですが、<問い合わされるもの>は、この疑問文の中には明示されていません。それをネットで調べてもよいし、友人に訪ねてもよいし、本人に尋ねることもできるかもしれません。<問い合わされるもの>がことなるとき、答えが異なることがあるかもしれません。問いに答えるには、何かに問い合わせる必要があり、問いの答えが異なる場合、その差異は、問い合わされるものの違いから生じることも最も多いだろと思います(ただし、同じものに問い合わせても、何らかの勘違いで、異なる答えを引き出すことはあり得ます)。

問いに答えることは、推論によって答える場合と推論によらないで答える場合があります。推論によって答える場合、<問い合わされるもの>から得られる平叙文が、その推論の前提の一部になります。問い合わされるものが異なれば、その異なる平叙文が前提として利用されます。場合によっては、<問い合わされるもの>が同一であっても、そこから異なる平叙文を得て、それを前提とする推論で答えに至るとき、答えは両立不可能なの者になるかもしれません。

では、問いに対する答えが知覚報告として、推論によらずに得られる場合には、<私たちが問い合わすもの>は何でしょうか。

「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)そのものに問い合わせるのだとすると、その答えは、対象の知覚についての報告というよりも、対象の色についての報告というのがよいでしょう。(もし、「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)の知覚に問い合わせるのだとすると、その答えは、知覚についての報告だというのがよいでしょう。しかし、大抵は、対象の色の知覚に問い合わせるとは思っていなくて、対象の色そのものに問い合わせていると思っているのではないでしょうか。)

 ある物体を指さして「これは何色ですか」と問われたとき、それに答えるためには、問われるまではぼんやり見ていた対象の色に注意します。そのとき注意するのは、その物体の色ですが、私たちはその物体の色を指示できるでしょうか。物体の色を指示できるとすれば、それは色のトロープ(個別的属性、<この赤さ>など)です。しかし、逆転スペクトルの思考実験を考えるとき、もし物体の色があるとしても、それがどのようなものであるかは、知りえないことになります。私が知覚している色を、他者も知覚しているという保証がないからです。

 「これは何色か」に答えようとするとき、私たちは対象の色そのものに問い合わせることはできないとすれば、(たとえ、対象の色そのものに問い合わせていると思っているとしても)私たち実際に問い合わしているのは、対象の色の知覚です。そして、ノエの「知覚のエナクティヴィズム」が主張するように、その知覚は静止画のような像ではない、知覚は注意におうじて常に変化しているものです。 対象の色の知覚は、(非言語的)探索の(非言語的)答えとして成立している知覚変化だと思われます。この知覚変化は、客観的なものではなく、主体に依存した主観的なものです。

この(非言語的)探索が問い合わせているものは、対象についての事実そのもの、脳の外部に成立している事実だといえるかもしれません。この場合、対象についての事実そのものは、知覚にも知覚報告とも異なり、それ自体を捉えることのできないものです。

事実の概念構造や概念関係の客観性というものは、知覚報告とは別のところに求める必要がありそうです。主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるかもしれません。

これを次に考えてみます。

89 主張の両立不可能性と問答  (20230328)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、ブランダムは、主張やコミットメントの両立不可能性は、対象や主体が一つであることを前提して生じていること、また、それらの両立不可能性を修復するプロセスは、対象や主体の統一性を確立するプロセスでもあることを、主張します。

(これによって、対象に関する事実の客観性を証明できているとは言えないと思いますが、ブランダムならば、対象は客観的に然々である、と語ることは、of志向性で語るしかなく、これ以外の仕方で対象の客観性について語ることはできないと言うでしょう。だからこそ、ブランダムは「概念的観念論を最終的に主張するのです。」

主張やコミットメントの両立不可能性が成立するのは、対象や主体が一つであるためである>というブランダムの指摘に対しては、問答の観点から次の批判が可能です。

#コリングウッドの指摘からの展開(2023年3月10日の研究会での発表原稿の一部です)

コリングウッドの指摘によれば、二つの命題が矛盾するのは、それらが同じ問いに対する答えであることによる。これに従うならば、二つの概念関係が両立不可能であるのは、二つの概念関係が同じ対象についてのものであるからではなく、同じ問いに対する答えであるからである。なぜなら、同じ対象であっても、問いが異なれば、答えが異なっていても、両立不可能ではないからである。たとえば、「リコリスはおいしい」と「リコリスはまずい」はそれぞれの相関質問が「チョコレートを食べたあとリコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」と、「リンゴを食べた後リコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」とであるとき、この二つの答えは両立可能であるかもしれない。

ここで次の反論があるかもしれない。この場合、<「チョコレートを食べた後のリコリス」と「リンゴを食べた後のリコリス」は同一の対象ではないので、二つの答えが両立可能になるのだ>という反論があるかもしれない。この反論をみとめてもよいのだが、しかしこのように考えるときには、対象が同一であるかどうかは、問いが同一であるかどうかに依存することになる。

したがって、主張が両立不可能であることは、問いの同一性を前提としていることになり、問いの同一性を構成することになる。コリングウッドがいうように、二つの命題が両立不可能であるのは、それらの相関質問が同じであることによる。

同様のことは、コミットメント両立不可能性についても言えるだろう。二つのコミットメントが両立不可能であるのは、それが同一の問いに対する答えであることによるのであり、同一の主体のコミットメントであることによるのではない。「コーヒーが欲しいですか」という問いに、「欲しいです」と答えることと「欲しくありません」と答えることが両立しないのは、主体が同一だからではなく、問いが同一だからである。同じ主体であっても、異なる状況で発せられたのであれば、同じ疑問文でも異なる意味をもつ問いとなる。

複数の主張やコミットメントが両立不可能になるのは、たしかにそれらが一つの対象、一つの主体についてのものであることが必要だが、しかしそれではまだ十分ではない。それらが同一の問いに対する答えであることが必要である。(つまり、問いの同一性が、対象や主体の同一性を構成するのである。)

―――――――ここまで

ハイデガーは、『存在と時間』の第二節で、問いが次のような3つの要素からなると考えました。

・問われるもの(Gefragtes)

・問い合わされるもの(Befragtes)

・問い求められること(Erfragtes)

ある対象についての問いに答えるには、何かに何かに問い合わせることが必要です。推論で問いの答えを得るときには、他の知識に問い合わせて、それを推論の前提として使用します。推論によらずに直接に答えをえるときには、例えば、知覚報告で答えると時には、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることになります。推論の前提となる知識は、別の問いの答えとして得られると思われます。では、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることは、どのようにして可能なのでしょうか。

 これについて、次に考えたいと思います。

88 BSDから概念実在論を考える  (20230325)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#BSDから概念実在論を考える

BSDでブランダムが論じるのは、「語用論的に媒介された意味論」であり、具体的には語彙を運用する実践に媒介された語彙と語彙の関係です。BSDが、概念実在論と関係するのは、対象を指示するof志向性の語彙の意味を、語用論的に媒介された意味論で説明するからです。

#of志向性とthat志向性の説明

of志向性とは、「Xさんが、対象Yについて(of)、pと信じる(pと推測する、pかどうか疑う)」(X believes of Y that p)などで表現される志向性である。他方、that志向性とは、「Xが、pということを信じる(pと推測する、pかどうか疑う)」(X believes that p)などで表現される志向性である。Of志向性は、対象Yを指示して、それについてpと信じること(あるいは他の志向的態度をとること)です。

#コミットメントの両立不可能性の客観的側面と主観的側面

BSDでは、主張やコミットメント間の両立不可能性が生じることは、一つの対象を前提することから生じると説明します。また両立不可能なコミットメントを修正しなければならないという規範性は、コミットメントの主体が一つであることから生じると説明します。

これによって、<対象>と<主体>の形而上学的構築が行われると説明します。

・両立不可能な複数の主張を修正して、両立不可能性を解消することは、一つの対象を形而上学的に構築することである。

・両立不可能な複数のコミットメントを修正して、両立不可能性を解消することは、一つの主体を形而上学的に構成することである(cf. BSD193)

主張やコミットメントの両立不可能性を取り除くプロセスがどうじに、対象と主体を構成するプロセスなのです。このプロセスは、事実の概念構造の客観性を説明するプロセス、つまり概念実在論のただしさを説明するプロセスでもあります。このプロセスは、志向性の語彙の運用によって行われます。その運用実践は、「理由を与え求める」実践ですが、問い答えるの実践でもあります。

何かしっくりしない、曖昧な、話ですみません(こういうとき、私は背中がムズムズします)。次回は、主張やコミットメントの両立不可能性の議論を問答の観点から見直したいと思います。

87 疑問文を使わない問答  (20230317)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず、下の図 (BSD46) を説明したいと思います。(いきなりこの図の説明を読んでも、理解するのが難しいかもしれません。ゆっくりと読んでみてください。)

ブランダムは、この図式で、論理的語彙を使用しない推論を考えています。BSDのなかでは一般に、Vは「語彙」、Pは「実践」(実践ないしその能力」を表します。PV-suffは、の出発点のPが、矢印の先のVを運用するのに十分であること(being sufficient to deploy)を示します。PV-necは、矢印元のPが矢印の先のVを運用するのに必要であることを示します。上の図式は、「もし…ならば」という条件文を作る語彙Vconditionalsと、条件法を含まない語彙V1の関係を表現しています。条件法を含まない語彙でもそれが使用される時には、推論を行っています。その推論を行う実践がPinferingであり、それは、V1を運用するのに必要であるので、PV-necの矢印がPinferingからV1へ向かっています。

PP-suffは、矢印元の基礎的Pが矢印先の複雑なPをアルゴリズムに従って作り上げるのに十分であるということを示しています。PADPからV1への矢印がP-suffとなっているのは、ADP (an aoutonomous discursive practice)(自律的言説実践)(これは「他の言語ゲームをすることなくその言語ゲームをすることができるような言説実践」(BSD41)です)が、条件文を含まない語彙V1を運用するのに十分であるということを意味しています。

PAlgEl は、「Pをアルゴリズムに従って作り上げること」(Pをアルゴリズム的に精緻化すること)を意味します。上の図のPAlgEl3:PP-suffは、「もし…ならば」の語彙なしに推論する実践Pinferingから、アルゴリズムによって、「もし…ならば」を含む語彙Vconditionalsを運用する実践Pconditionalsを、構成することができることを示しています。つまり、論理的な語彙を使用しなくても、私たちは推論しているということです。そしてそのような推論を、ブランダムは(「形式的推論」と対比して)「実質的推論」(material inference)と呼びます。ここで重要なのは、Vconditionalsを用いて、Pinferingを特定(specify)ないしコード化(codify)できるといことです。つまり、論理的語彙を使用せずに実質的に行っている推論実践を、論理的語彙をもちいて記述できます。この関係は、VconditionalsからPinferingへの矢印VP-suffで表示されています。このとき、Vconditionalsは、V1の中で実質的に暗黙的に行われている推論を明示化(explicate)するという関係にあります。この明示化の関係は、実践を解する間接的な関係であり、Res:VV(resultantな(結果として成立する)VとVの関係)であり、「語用論的に媒介された意味論的関係」です。このような「語用論的に媒介された意味論的関係」Res:VVは、これ以外にもあるのですが、このようなRes:VVをブランダムは「LX関係」と呼びます。Lは、elaborationの関係を表現し、Xはexplicationの関係を表します。この両方をともなうとき、Res:VVを「LX関係」とよび、それを成立させるVconditionalsのような語彙「LX語彙」と呼びます。

ブランダムは、条件法の語彙以外のLX語彙として、「指示詞」の語彙、「様相」の語彙、「規範」の語彙を挙げています。彼によれば、「指示詞」の語彙は照応の語彙に対してLXの関係にあり、「様相」の語彙は「経験的語彙」に対してLXの関係にあり、「規範」の語彙も「経験的語彙」に対してLXの関係にあります。

私がここで指摘したいのは、疑問の語彙もまた「LX語彙」である、ということです。

ブランダムは疑問の語彙については、何も述べていません。また問答関係についても全く言及しません。ブランダムは、よく「理由を与え求めるゲーム」(the game of giving and asking for reasons)について言及するのですが、そのとき彼の念頭にあるのは、問いと答えではなく、ある主張の理由を与える<上流推論>と、その主張を前提として他の命題に理由を与える<下流推論>だと思われます。

しかし、私たちは、ブランダムの語用論に媒介された意味論を、疑問の語彙に適用できると思います。

私が考える「疑問の語彙」とは、「疑問詞」(「どれ」「なに」「なぜ」「どのように」「いつ」「どこ」「だれ」など)と決定疑問文です(ブランダムのいう「語彙」は語の集合を意味するのではなく、「発話」(locution)の集合ですので、決定疑問文(ないしその文形)もまた「疑問の語彙」に含まれると思います)。

上のPinfering が条件法を用いないで推論を行う実践Pを意味していましたが、それと同様に、Pquestioning and answering で、疑問の語彙をもちいないで問答を行う実践Pを意味したいとおもいます。そのような実践とは、つぎのような発話です。

 「これは」「それはリンゴです」

  「リンゴは」「それです」

  「リンゴの色は」「それは赤色です」

このような問答が日常ではよく行われています。多くの場合、これらの問いは、次のような疑問文の省略形だと説明されるでしょう。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

  「リンゴはどれですか」「それがリンゴです」

  「リンゴの色は何ですか」「それは赤色です」

私は、このような疑問文とそれへの答えという問答においては、「疑問の語彙」が用いられていますが、そのような語彙が導入される前に、上のような仕方で問答が成立していただろうと考えます。いったん疑問の語彙の使用を学習したならば、それを使用しない問答は、疑問文による問答の省略形だとみなすことができるでしょうが、しかしそのような語彙の導入前に、上記のような暗黙的な問答が成立しているだろうと考えます。

では、ここから、概念実在論について何が言えるでしょうか。

45 「あり得ない」の意味  (20230320)

[カテゴリー:日々是哲学]

「私の発話は、規則に従っていますか」と問われた者が、「いいえ、あなたの発話は、規則に従っていません」と答えることはあり得ません。なせなら、「いいえ」と答えるとき、相手の問いを理解している必要があり、そのためには、相手の発話が規則に従っているとみなしているからです。

「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ませんん。なぜなら、この問いに答えるとき、この問いを規則に従ったものとして理解しているからです。問うた者が、規則に従っていないときには、問われた者はその問いを理解できないので、その問いに答えることができないのです。(これは『問答の言語哲学』第4章で論じた問答論的矛盾の一種です。)

 同じことが自問自答の場合にも言えます。「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ません。なぜならそう答えるとき、自分の問いを理解して、有意味に使用している、つまり規則に従って使用していると信じているからです。もちろん規則に従っていると信じていても、規則に従っているとはかぎらず、それゆえに私的言語は成立しないのですが、…

次のどれがあり得ないのでしょうか?

  ①規則に従っていて、規則に従っていると信じている

  ②規則に従っていて、規則に従っていると信じていない

  ③規則に従っておらず、規則に従っていると信じている

  ④規則に従っておらず、規則に従っていると信じていない。

  ⑤規則に従っておらず、規則に従っていないと信じている。

その場合「あり得ない」とはどういう意味でしょうか?

44 個人言語が成立するには二人必要  (20230319)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、私的言語も公的言語も存在しないといいました。(なぜなら、それらが存在するとは言えないとすれば、それらは存在しないからです。この地下にミミズが存在するとは言えないとしても、それは存在するかもしれませんが、私が話す言語については、私がそれが存在すると言えないのならば、それは存在しないのです。)

 では、それでもコミュニケーションができていると言えるのはどういうことでしょうか。

クワインの「翻訳の不確定性」、「指示の不可測性」によって、他者の言語の規則を解釈する方法は無限に存在し、それゆえに、どれが正しい解釈なのかを決定することが出来ません。「翻訳の不確定性原理」(principle of indeterminacy of translation)とは、「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには、種々のことなる手引きが可能であり、いずれの手引きも言語性向全体とは両立しうるものの、それら手引き同士は互いに両立し得ないということがありうる。」(『ことばと対象』邦訳42)ということです。「指示の不可測性(inscrutability)」とは、不確定性(indeterminacy)」とは、名詞や名詞句の指示対象を、一つに確定することが不可能であるということです。

他者の言葉の翻訳の仕方、理解の仕方が複数あるとすれば、互いに相手の言葉を、相手が理解するような仕方では理解していないのかもしれませんが、それでもコミュニケーションが成り立つことはありえます。例えば、相手がドイツ語を話し、私がそれを理解して日本語で話し返し、相手は私の日本語を話して、ドイツ語で話し返すとき、コミュニケーションは成り立ちます。これと同じことが、日本語を話す二人の間でも生じています。AとBがいて、AがBに日本語Aで話し、Bはその日本語Aを理解して、日本語Bで話し返し、Aはその日本語Bを理解して日本語Aで話し返す、ということが可能です。二人の日本語が同一ではなく、それぞれの個人言語である日本語AとBであることが可能です。むしろ、二人の日本語が同一であること、同一の規則をもつことを、証明することはむしろ不可能です(これは規則遵守問題が示していることです)。

 しかし、この個人言語が成立するには、すくなくとも話し手とその解釈者の二人が必要です。その解釈者とのコミュニケーションが可能であることによって、個人言語の話し手は、<自分が規則に従って話していること>と<規則に従って話していると信じていること>を区別できるようになるからです。