35 社会的現実としての情動について (20210205)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

情動の社会性を説明する前に、前回についての補足コメント:前回「情動概念」は、何らかの目的を持つ合目的的概念であると述べた。その理由は、概念は感覚刺激の分類によって構成され、その分類は類似性に基づくが、その類似性は発見されるものではなく、作られることによって可能になるのであり、ある類似性を作ることは、何からの目的をために行われるということであった。ところで、その場合の目的として考えられるのは、何よりも生物としての自己保存ないし生存の維持であろう。そうだとすれは、この分類は、「生存のために何に注意する必要があるだろうか?」と表現できるような探索の結果として成立することになるだろう。つまり、情動概念が合目的的概念であるとき、それは探索によって成立するということになる。<情動ないし情動概念は、探索-発見、ないし問-答によって成立する>ということになる。

バレットによれば、「社会的現実」とは、次のように構成されるものである。

「何かを作り、それに名前を与え、概念を作り出す。その概念を他者に教え、その人がそれに同意する限り、現実の何かを作り出したことになる。」(バレット、前掲訳225)

バレットによれば、このようにして作られる社会的現実の典型例は、「お金」であるが、「情動」もまた社会的現実であるという。

「情動は、社会的現実の成立に必要とされる人間の二つの能力を通じて、私たちにとって現実のものと化す。」

その二つの能力とは、「集団的志向性」と「言語」である。

集団的志向性が必要なのは、「花」「現金」「幸福」などの概念が存在することに同意する一群の人々が必要だからである。「この共有された知識は「集合的志向性」と呼ばれる。」(前掲訳226)

「社会的志向性」や「共有知」は、もっと詳しいい説明が必要な概念であるが、バレットは詳しい説明はしていない。

「言語」の必要性については、彼女は次のように説明している。

バレットは、まず「情動概念がなくても情動は存在しうる」という考えに反対する。自分の情動を経験したり、他者の情動を知覚したりするためには、情動概念が必要とされる(cf. 前掲訳236)。

「「怖れ」が概念がなければ、おそれを経験することはできない。また、悲しみの概念がなければ、他者の悲しみを知覚することはできない。」前掲訳236

次に言葉がなければ成立しない情動概念もあるという。たとえば「ポテチ・ロス」である。「ポテトチップスの袋に手を突っ込み、すでに空になっているときに気づいたときの、「落胆」「罪悪感」「くふく」などの感覚を「「ポテチ・ロス」と名付けて人々に教えれば、それは「幸福」や「悲しみ」と同様に現実の情動感覚になる。」前掲訳235

また、日本語「ありがた迷惑」前掲訳245もそうである。これらはことばがなければ成立しないだろう。

また、仮に言葉がなくても成立する情動概念であるとしても、それを他者と共有するには、言葉葉で表現することが必要である。

最後に、「第七章、社会的現実としての情動」の終わりに構成主義的情動理論についてのよくまとまった簡潔な説明があるので、それを引用しておきたい。

「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。かくして、脳と身体によって社会的現実が生み出され、情動が現実のものになるのだ。」前掲訳252

34「情動概念」はどのように作られるのか? (20210204)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 バレットの情動論に戻ります。バレットは、情動には、3つの要素(内受容、情動概念、社会的現実)が必要であると考えています(参照、バレット『情動はこうしてつくられる』高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019、p. 417))

 最初の「内受容」については「31 内受容と内因性ネットワークから気分が生まれる (20210128)」で説明したので、次に「情動概念」についての彼女の説明を紹介します。これは同書の第5章と第6章で説明されています。

 脳内活動の内因性ネットワークが、脳は常に膨大な予測と予測エラーの訂正を行っているということを、ディープラニングプログラムを応用して分析するというAndy ClarkやJakob Hohwyの研究は、主として人間の認知活動の説明に向かっていたが、バレットの仕事の意義は、このアプローチを情動研究に拡張したということにありそうだ。

 バレットは、「内因性ネットワーク」が「内受容感覚」と結合するとき、感覚刺激は分類刺され予測されるようになるが、その分類に使用されるものが、情動概念(「幸福」「怖れ」「苛立ち」など)であると考える。

「本章(第5章)では、情動を自ら経験したり、他者の情動を知覚したりするたびに、人は概念を用いて分類し、内受容刺激や五感から意味を作り出していることを明らかにしていく。この考えは、構成的情動理論の主要なテーマをなす。」149

私たちは、情動概念によって情動を分類することによって、情動を構築しているのだが、しかしバレットによれば、私たちは、類似点を見つけて分類しているのではない、むしろ類似点を作り出しているのだ。情動概念は(おそらく情動語だけでなく、全ての概念も)合目的的概念である。(前掲訳、158)

バレットは、この感覚情報を分類する能力を統計的に学習する能力だと考えるが、それは人間だけに限られるのではないという。

「統計的に学習する能力をもつ動物は人間だけではない。人類以外の霊長類、イヌ、ラットなども、その能力をもつ。単細胞生物でさえ、統計学的学習や予測をおこなう。環境の変化に反応するだけでなく、それを予期するのだ。」164

しかし、

「純然たる心的概念を構築するためには、もう一つの隠れた構成要素が欠かせない。そう、言葉だ」166

「厳密に言えば、情動のインスタンスを構築するのに情動語は必要とされない。しかし、言葉を持つとそれが容易になる。効率的な概念を持ち、誰かに伝えたいのなら、言葉はとても有用である。」179

「情動概念を処理するシステムが貧弱な場合、心は情動を知覚できるのか?…答えは一般的に、「ノー」だと判明している」181

これらの引用からすると、情動概念をもつために言葉が必要であるのかどうか、曖昧であるが、少なくとも、犬は、情動概念を処理するシステムが貧弱であるので、情動を知覚できないことになる。

ところで、私たちは、認知だけでなく情動に関しても、感覚情報を情動概念で分類し、予測し、予測エラーを修正し、ということを繰り返すが、バレットによれば、概念と予測は、同一である(前掲書199)。これは、「概念」の意味の使用説と言ってもよいかもしれない。

たとえば、ある少女が持つ「ケヴィンおじさん」の概念は、ケヴィンおじさんに関する100ほどの予測にから成っているという。「ケヴィンおじさんは、あんな髪形をしている」「ケヴィンおじさんは、あんな歩き方をしている」「ケヴィンおじさんはあんな服は着ない」などなどである。

つまり、概念と予測は同一である。情動概念についても同様であり、たとえば、「幸福」という情動概念は、「幸福」に関する無数の予測と同一である。

バレットは、ここで「内受容ネットワーク」と(概念や予測の)「コントロールネットワーク」で、次のように情動現象を説明する。(この「コントロールネットワーク」は前に「内因性ネットワーク」と呼ばれていたものの一つの機能になるだろう。)

「内受容ネットワークは、…様々な概念の無数の競合するインスタンス(そのそれぞれが脳全体にわたる予測の連鎖をなす)を発行するだろう。その際コントロールネットワークは、脳がインスタンスを効率的に生成し、その中から勝者をえらべるように支援する。そして、特定のインスタンスの生成にニューロンを関与させることで、いくつかのインスタンスを存続させ、それ以外のインスタンスを抑制するよう導く。現状に最も即したインスタンスが生き残って知覚や行動を形作るという点でこの手法は、自然選択にも似る。」207

「情動の構築には、コントロールネットワークと内受容ネットワークが不可欠である。さらに言えば、この二つの核心的なネットワークは両者を合わせて、脳全体にわたる情報伝達に関与している主たる中枢のほとんどを生む。」208

このようにして、予測され構成される情動は、社会的なものであり、社会的現実を構成する。情動のこの第三の性質を次にみよう。

33 探索が意識されるのはどんなときか? (20210201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットの情動論の説明に戻ると言いましたが、その前に前回のupの補足をさせてください。

前回の結論として、予測を意識するには、探索が意識的になっている必要があると述べました。ところで、「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」では、問いないし探索が意識される場合を、次のように説明していました。

「問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。」

この「問い」を(広義の)「探索」に拡張すると、次のように言い換えられるでしょう。

①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②探索を意識するもう一つの場合は、探索しているものを発見できないので、その発見のために、別の探索をするときときである。このときこの「別の探索」を私たちは意識する。

ここでは、この①と②を再検討したいと思います。

まず①について気になるのは、<探索がうまくいかなくてそれを意識することは、行為がうまくいかなくてそれを意識するということの、特殊ケースである>という点です。むしろ、<行為の方こそが、探索の特殊ケースである>と思われるからです。

 探索するには、認知や、推論や、人に尋ねることなどの様々な方法があり、行為もまたその方法のひとつなのではないでしょうか。行為には目的がある。行為は、その目的をどうやって実現するかを探索することなのではないでしょうか。例えば、卵焼きをつくる時、どうやってうまく卵を焼くかを探索しているのではないでしょうか。

次に②について気になるのは、探索Aしているものを発見できないので、その発見のために探索Bをする、という場合、探索Aが意識的な場合と無意識的な場合を分けて考えた方がよいのではないだろうか、ということです。つまり、<もし探索Aが意識的なものであれば、探索Bも意識的なものになるだろう。ただし、もし探索Aが無意識的なものであれば、探索Bも無意識的なものになるのではないだろうか?>、ということです。

この点を検討するためには、(先ほど少し訂正した)①についても、もう一度検討する必要がありそうです。仮に「①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである」を認めるとしても、しかし、逆に「無意識に探索しているものを発見できないときには、探索を意識することになる」と言えるかどうかは疑問です。つまりこれが常に成り立つとは言えないように思えるのである。

 私たちのこれまでの考察が正しいとすれば、人間を含めた生物の意識の発生のメカニズムを明らかにすることは、この①のメカニズムを明らかにすることにかかっているはずです。どう考えればよいが、考えあぐねています。

 そこでこの問題を気にしつつ、とりあえずバレットの情動の説明に戻ることにします。

32 内因性ネットワークはなぜ予測するのか? (20210131)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットは、「内因性脳活動」ないし「内因性ネットワーク」は、人が生きているか限り、絶えず膨大な予測をしていると考えている。彼女はそれの証拠をあげておらず、第4章の注15でAndy Clark, Jakob Hohwy, Sophie Deneve and Renard Jardri,Andyの文献を挙げているだけである。そこで、Andy Clarkの論文 ” What ever Next? Predictve Brains, Situated Agents, and the Future of Cognitive Science,” 2013と彼の近作Searching Uncertainty、2016とJakob Hohwy, The Predictive Mind, 2013をつまみ読みしてみた。

 ClarkとHohwyの研究関心は大変にている。どちらも情動研究よりは認知研究に重心がありますが、ともに面白い。彼らは、人間の認知プロセスを説明するときに、ディープラーニングの研究を応用してアプローチする。予測をしてそれをチェックしてエラーを修正し、次第にエラーを少なくしていくというディープラーニングの手法を人間に当てはめて、人間の知覚を説明しようとする。

(認知や情動を理解するには、やはりディープラーニングのプログラムを勉強することが必要なようだ。)

(ちなみに、彼らはともに、Helmholtzの視覚生理学の研究を、その先駆として高く評価している。ヘルムホルツは、Handbuchder Physiologischen Optikの第三巻で「知覚のための無意識の推論」を無視式的な知覚的推論」の重要性をしてしていたようで、それを高く評価する。 HohwyのPredictive Mind (p.5)によれば、Helmholtzのこの研究はカントの認識論の影響を受けているとのことである。)

今後は、探索と発見の関係(広義での「探索と発見」)を、それが言語によって行われるときには、「問いと答え」と呼び、言語に寄らない場合には、「探索と発見」(狭義での「探索と発見」)と呼ぶことにしたい。人間以外の動物、および言語を獲得する以前の人間については、探索と発見として語り、言語を獲得した後の人間については問答として語ることになる。ただし、言語を獲得した後の人間も、言語を用いないレベルで探索と発見をしている場合があるだろう。

ところで、「予測」は、探索による発見として、あるいは問いに対する答えとして得られるものだろう。なんの必要も理由もないところで、いきなり何かが予測されるということはありえず、何かについての何かの予測が生じるとしたらそれが求めらているからであろう。

「予測」についても、それが探索による発見として得られる場合と、問いに対する答えとして得られる場合があるを区別できるだろう。そして、この区別とは別に、「予測」についても、「意識された予測」と「無意識の予測」を区別できるだろう。

 前に「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」で「問いを意識するの」場合と、「問いの答えを意識する場合」についてのべた(そこでは、証明はなく、結論だけを述べたのだが、それはどうやって証明したらよいのかわからなかったからである。しかし「より良い対案」を今のところ思いつかない)。後者、つまり問いの答えを意識する場合には、次の3つであった。

①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。

②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。

③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

これを「予測」に当てはめると次のようになる。

①意識的におこなう探索にたいする(発見としての)予測を得たときには、私たちは、その予測を常に意識している。

②無意識的におこなう探索にたいする予測を得たときには、大抵は、それを意識していない。

③その予測が、他の意識している予測と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

では、無意識の予測が、他の無意識の予測と衝突するときには、どうなるだろうか。

その場合には、それをどう解決するかは、無意識の探索になるのではないだろうか。

ところで、ディープラーニングによるコンピュータの探索は、意識を持たないので、その成果である予測も意識を持たない。上の①にあるように、予測が意識的なものになるのは、意識的な問いに対する答えとして生じる時だとすると、意識の発生を説明するには、意識的な探索がどのように生じるのかを説明する必要がある。

 話があちこちしてしまいましたが、いろいろと考えるべきことが分かってきました。しかし、とりあえずバレットの情動の説明にもどって、最後まで見ることにしたいとおもいます。

31 内受容と内因性ネットワークから気分が生まれる (20210128)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

気分はどのようにして生じるのだろうか? バレットによれば、気分は内受容に由来する。内受容(interoception、「内受容感覚」と訳されることもある)とは、「体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報の脳による表象」(前掲訳104)である。

interoception は、Charles Sherrington(英、生理学者)が作った言葉と言われている。彼は、感覚を3つに分類したようです。詳しく説明すると次のようになるようです。

①interoception (内受容感覚)

これは、「心房、頸動脈、大動脈の伸長受容体、骨格筋の代謝受容体によって生じる感覚で、内臓や血管の状態の知覚に関わっている。心拍や血圧、呼吸などの変化の受容にはこの感覚が主にかかわっており、感情の生起にともなって観察される感情反応と呼ばれる身体反応の多くは、内受容感覚器が検出できる変化をもたらすものである。」(寺澤悠理「感情認識と内受容感覚――感情関連疾患と内受容感覚の下位概念について――」(www.jstage.jst.go.jp/article/jjbf/44/2/44_97/_pdf/-char/ja))

②exteroception (外受容感覚)

これは、「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」からなる。(寺澤悠理「感情認識と内受容感覚――感情関連疾患と内受容感覚の下位概念について――」(www.jstage.jst.go.jp/article/jjbf/44/2/44_97/_pdf/-char/ja))

③proprioception (固有感覚)

これは、「四肢の位置や動き、関節の曲り具合、筋肉の力の入れ具合などを感知するものです。「proprioception」は、筋・腱・関節など自分の身体内部の状態を知るための感覚なので、「自己受容感覚」とも訳されています」(http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/dokusho/dokusho6.html

これは「外受容感覚」の五感に対して、「シックスセンス」と呼ばれることもあるようです。

さてバレットによれば、内受容から気分は生じるのは、「内因性脳活動」による。ところで、彼女によれば、脳は、外部からの刺激を待って反応するようなものではない。

「刺激と反応による見方は、わかりやすいが誤っている。巨大なネットワークに結びつけられた脳の860億のニューロンは、起動されるのを静かに待ってなどいない。十分な酸素と栄養素が与えられれば、「内因性脳活動」と呼ばれる、興奮の巨大な連鎖は誕生してから死ぬまで続く。」106

「内因性脳活動は、……「内因性ネットワーク」と呼ばれる、絶えずともに発火するニューロンの集合によって組織化されている。」(前掲訳107)

「内因性ネットワークは、最近の10年間における神経科学の、もっとも重要な発見の一つとみなされている。」(前掲訳107)

内因性ネットワークにとっては、内受容(内受容感覚)もまた、外界についての感覚と同様に脳にとっての外部からの刺激であるだろう。そして、内受容から内因性ネットワークによって、気分が生じるのだとすると、外受容感覚と固有感覚から内因性ネットワークよって、知覚表象が生じるといえかもしれない。

ところで、この内因性ネットワークは何をしているのだろうか。バレットによれば、これは内部からの刺激外部からの刺激をうけて常に様々な予測をしている。

外受容と固有感覚に関しては「多数のニューロンの会話は、その人が経験するはずの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に関するあらゆる情報の断片と、とるはずのないあらゆる行動を予測しようとする。こうした予測は、外界で生じている事象に関する、また、無事に生きていくためにはそれにどう対処すべきかに関する、脳の最善の推測なのである。」108

「内受容は、感情を経験するためではなく、身体予算を管理するために進化したのであり、体温、体内のグルコースレベル、損傷をうけた組織の有無、心拍、筋肉の収縮などの身体の状況を追跡できるよう脳を支援している。快や不快、あるいは興奮や落ち着きの感覚は、身体予算をめぐる状況の簡素な要約とみなすことができる。「貯金は足りているだろうか?」「貯金を引き出しすぎだろうか?」「預金が必要だろうか?必要ならいますぐにか?」などのように。」128

内因性ネットワークにおいて、気分を含めてあらゆる意識が発生しているだろう。バレットは、この内因性ネットワークは、身体の内部や外部からの刺激があろうとなかろうと、人が生きているか限り、絶えず膨大な予測をしていると考えている。彼女はなぜ、そう考えるのだろうか。それをつぎにみよう。

 内因性ネットワークが、常に膨大な予測をしていると言えるならば、常に膨大な探索をしている(人間の場合には、問いを立てている)ということになるのではないだろうか。

30 犬は情動を持つのか? (20210126)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(「構成主義的情動理論」はthe theory of constructed emotionの訳です。前回の見出しは、当初「構成的情動理論」と書いてしまいましたが、高橋洋訳に従って訂正しました。直訳すれば「構成された情動の理論」となりますが、「構成主義的情動理論」の方が、わかりやすいと思います。) 

犬も情動を持つのだろうか。『情動はこうして作られる』「第12章 うなる犬は怒っているのか」での、バレットのこの問いに対する答えは、次のようになる。。

「人間以外の動物は何らかの気分を感じるが、情動という点になると、現在の知見にもとづいて言えば、私たちが動物に投影しているに過ぎない。」(前掲訳455)

その理由は、バレットによれば、情動には、3つの要素(内受容、情動概念、社会的現実)が必要であるけれども、犬は、「内受容」をもつが、「情動概念」と「社会的現実」を持たないので、情動を持たない、ということである。人間は、この三つを持っているので情動を持つということになる。この3つを順番に説明したい。

 まず犬が「内受容」を持つことについて、バレットは次のように言う。

「動物は、内受容によって身体予算を調節しているのだろうか? 動物界全体を対象に答えることはできないが、ラット、サル、類人猿、犬などの哺乳類に関して言えば「イエス」と答えても問題ないだろう。動物は気分を経験しているのか?生物学、ならびに動物行動学の知見に基づけは、それに対する答えも確実に「イエス」である]440

 この引用を理解するには、「内受容」と「身体予算」と「気分」を理解する必要があるので、これも順番に説明したい。

 「内受容」について次のように言う。

「単純な快や不快の感情は、「内受容」と呼ばれる体内の継続的なプロセスに由来する。内受容とは、体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報の脳による表象を意味する。」104

分かりにくいが、快不快の感情は、「内受容」に由来するが、「内受容」自体も表象である。それは「体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報」の表象である。

(ここでの「感情」「内受容」「感覚情報」の関係は、ダマシオの「感情の認識」「感情」「情動」の関係に似ているように見えるが、用語の使い方が全く異なるので、この対応付けはうまくいかない。)

この内受容から生じるのは、気分(すなわち、快不快などの基本的な感情)である。

これについてバレットは次のようにいう。

「たった今、あなたの身体の内部で何が起こっているかを考えてみよう。そこには動きがある。心臓は動脈や静脈を流れる血液を送り出し、肺は空気で満たされたり空になったりし、胃は食物を消化している。その体内の活動は、快から不快、落ち着きからいらだち、さらには完全に中立的な状態に至る、基本的な感情のスペクトルを生んでいる。」105

バレットは、人間だけでなく他の哺乳動物も「気分」を持つと考える。この「気分」は、生物が持つ最初の心的なものであるかもしれない。(感覚や知覚は、非脊椎動物も持つが、気分を持たないだろう。哺乳類以外の脊椎動物が気分を持つかどうかはわからない。)では、哺乳類は、どのようにして気分をもつことになったのだろうか。

 それを次に見よう。

29 「構成主義的情動理論」の紹介 (20210124)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(見出しを「構成的情動理論」から「構成主義的情動理論」に修正しました。20210126) 

人間にとっての初期の問いは、個体にとっても、ヒトという種にとっても、知覚イメージに関わるものになるでしょう。ですから、知覚イメージや意識がどのようにして生じるのかを明らかにしたいのですが、情動についての面白い議論を見つけましたので、それを紹介し、そこで意識の成立についてどう論じられるかを、確認しておきたいとおもいます。

 ダマシオの情動論に納得できずに困っていたのですが、それを批判する情動論を見つけました。

Lisa Feldman Barrett、How Emotions Are Made、2017(バレット『情動はこうしてつくられる』高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019)です。バレットは、「情動は、生まれつき組み込まれている身体の内部で起こる明確に識別可能な現象なのだ」という「古典的情動理論」を批判します(同訳、8)。ダマシオの情動論も、この「古典的情動論」に含まれると思います。二か所(同訳、138,268)で、ダマシオについて批判的に言及しています。

 これに対してバレットは、「構成主義的情動理論」(前掲訳63)を次のように定義します。

「目覚めているあいだはつねに、脳は、概念として組織化された過去の経験を用いて行動を導き、感覚刺激に意味を付与する。関連する概念が情動概念である場合、脳は情動のインスタンスを生成する」(前掲訳63)

構成主義的情動理論の二つの中心的な考えは、次の通りです。

①怒りや嫌悪などの「情動カテゴリー」には、身体や脳における指標は存在しない。

「たとえば怒りの或るインタスタンスは、他のインスタンスと同じように見えたり感じられたりするとは限らず、また同一のニューロン群によって引きおこされるとも限らない。」66

 バレットは、独自の情動経験を「情動のインスタンス」と呼び、「情動インスタンスを知覚する」という言い方をする(前掲訳77)これに対して、一般的な恐れ、怒り、幸福、悲しみなどを「情動カテゴリー」と呼ぶ。

②「人間が経験し知覚する情動は、遺伝子によって必然的に決められているわけではない」必然的なのは、「人間は、世界に内在する身体に起源を持つ感覚入力に意味を見出すための、ある種の概念[情動概念]を持つ」67

「「怒り」や「嫌悪」などの個々の概念は、遺伝的に決まっているわけではない。身に沁みついた情動概念は、まさにその概念が有意味かつ有用であるような特定の社会的な文脈のもとでそだったがゆえに組み込まれているのであり、脳は、本人の気づかぬうちに概念を適用し、経験を構築するのだ。」67

「心拍の変化は必然的だが、その情動的な意味は必然的なものではない。文化が異なれば、おなじ感覚入力から異なる種類の意味が生成されうる。」67

「構成主義的情動論」は、次の三つの構成主義の流派をすべて取り入れている。「社会構成主義」からは文化と概念の重要性を、「心理構成主義」からは情動が脳や身体の内部の中核システムによって構築されるとする考えを、そして「神経構成主義」からは経験によって脳が配線されるという考えを取り入れている(前掲訳70)

 では、このように情動が、概念で構成されていると考える時、ペットの犬は情動を持たないことになるでしょうか。それを次に確認したいとおもいます。

なおバレットのTEDでの大変わかりやすい講演が以下にありますのでご覧ください。

28 知覚イメージの発生について (20210121)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(今回は、人間と動物に共通の話です。)

#知覚することと知覚像(知覚イメージ)を持つことの区別

 眼を持つ動物は、空間とその中にある対象の形と表面の色や質感を知覚するだろう。また空間の中での身体の移動に合わせた対象の見えの変化を記憶し予測しているだろう。つまり、既に見えなくなった側面を記憶し、これから見えるであろう側面を予測しているだろう。その記憶と予測がなければ、動物は適切に行動できないからである。

 しかし、動物が、知覚することと、知覚像(知覚イメージ)を持つことは別のことであろう。動物が、対象について知覚し、それを記憶し、それを予測しているとしても、そのことを意識しているとは限らないし、それらの知覚を像として意識し、像として記憶し、像として予測しているとは限らない。動物が知覚することは、感覚器官をもつことを確認することで知ることができるが、知覚像を持つことは直接的に知ることができない。

 たとえば、魚を取るための定置網は、垣網に導かれて囲網の中に入った魚が外にでられず、さらに箱網の中に入るとますます出られなくなるという仕組みです。

  (参照:https://trevally.jp/2018/04/15/machibusegatagyohoutetiami/)

魚は、網を知覚してそれにぶつからないように泳ぐことができます。しかし、網全体のイメージを描くことができないので、そこから抜けられないのです。つまり、魚には視覚はあっても、視覚イメージはないということになります。もし魚が上記の定置網の配置全体のイメージを持っているならば、魚は網が開いているところから逃げていくはずですが、そうしないということは、定置網の配置全体のイメージを持っていないということです。魚は、対象を知覚しても、その知覚像を持たない

#知覚イメージを持つことの有用性

 もし動物が進化の過程で知覚像(知覚イメージ)を持つことになったとすれば、①そのようなイメージを持つことは生存に有利であること、あるいは、②そのようなイメージを持たないことで危険に直面するということ、によって知覚イメージを持つことになったのだろう。

 幼児の場合を例に挙げると、次のように言えるだろう。幼稚園児が、ひとりで幼稚園に行くことはできるが、家から幼稚園までの地図を描くことができないとき、次のような危険に直面するする可能性がある。幼稚園児が何かに気を取られて、道を間違えたときに、迷子になってしまうという危険がある(②の例)。逆に、地図をかければ、幼稚園児は、道に迷っても、家が大体どの方向にあるかがわかり、家に帰れる可能性が高くなるというメリットがある(①の例)。

 同様のことは、動物でもいえるだろう。縄張りを持つ動物は、縄張りの空間についてのイメージを持っているのではないだろうか。

 次に、知覚を意識すること、知覚イメージを持つことが、どのようにして生じるのかを考えてみたい。




27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)

ダマシオを少し離れて、意識ないしイメージの発生について考えてみよう。

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まず、問いの意識の答えの意識について考えてみよう。

#問いを意識するとき

私たちは、意識せずに何かを問うていることがある。例えば、自分のコーヒーカップをつかおうとするとき、「私のコーヒーカップはどこかな?」と問いながら、食器棚を探す。あるいは、「コーヒーカップは机の上にあったかな?」と問いながら、机の上を探す。このときに、コーヒーカップがすぐに見つかれば、私は、その問いを問うたことを意識することはなく、またその答えも意識しないということがあるだろう。

#では、問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。

#では、問いの答えを意識するのは、どのような場合だろうか。

①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。

②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。

③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

26 情動と感情  (20210119)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回の発言の後、ダマシオの「感情」についての説明を理解しようとしてきましたが、彼の議論は大変わかりにくく、すこしお手上げ状態です。(なお、訳者の田中三彦氏が、ダマシオのemotion を「情動」、 feelingを「感情」と訳しているので、この訳語を踏襲しますが、これらは、ダマシオが専門用語として導入しているものなので、日本語の「情動」や「感情」の通常の意味とも、また英語のemotionとfeelingの通常の意味ともズレることをお断りしておきます。)

 前述のように、ダマシオは、「情動」を「遺伝的に決定した化学的、神経的反応」ととらえていました。これに対して、「感情」とは「情動を感じる」こと、あるいは情動についての「心的イメージ」であると言われます。

 ダマシオは、単細胞生物の動物を含めて、全ての動物が情動を持つと考えていますが、しかし、感情については、情動を持つすべての動物が、情動の感情を持つとは考えていないと思います。進化のあるレベルで感情が発生したと考えていると思われる。ネコやイヌなどのペットは感情を持つと述べている(ダマシオ、前掲訳96)ので、少なくとも哺乳類は感情を持つのだと思われます。しかし、魚などの脊椎動物も感情を持つと考えているかどうかはわかりません。

 情動についての心的イメージ(感情)が生じる時、感情は情動についての何らかの表象である。その感情に対応する脳のニューロン・パターンと心的イメージの関係について、ダマシオは、二元論を拒否している。

「イメージは、ニューラル・パターンから生じる。しかし、イメージがニューラル・パターンから「どのようにして」出現するかに関しては謎がある。一つのニューラル・パターンがどうやって一つのイメージに「なる」のかは、いまだに神経生物学が解決できていない問題だ。」420

「イメージはニューラル・パターンそのものではなく、ニューラル・パターンに「依存し」そこから「生じる」もの、と言うとき、私は一方にニューラル・パターン、他方に非物質的思考という、不用な二元論を述べ立てているわけではない。」420

ダマシオは、「イメージ」もまた「生物学的実在物」であり、しかもそれはニューラル・パターンに後続して生じるものだと述べている。

「私が明確にしておきたいのは、ニューラル・パターンは、私がイメージと呼んでいる生物学的実在物の前兆であるということ。」421

しかし、ここでいう「生物学的実在物」がニューラル・パターンでないとしたら、それはいったい何だろうか。感情が、心的イメージであり、かつ生物学的実在であるとしたら、それはどういうことになるのだろうか。

 ちなみに、ダマシオは、この感情は、また無意識的であり、この感情が認識されたときに、意識が生じると考える。彼は、この意識を、中核意識と拡張意識に分ける。これらは、おそくらく次のような対応関係を持っている。

  感情――原自己

  中核意識――中核自己

  拡張意識――自伝的自己

ダマシオは、『意識と自己』が取り組む二つの問題を次のように説明している。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(前掲訳18

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(前掲訳19

「対象のイメージ」や「認識のさなかの自己の感覚」を扱う時、これらの心的現象に関する諸概念(感情、意識、自己、表象、イメージ、など)と生物学ないし脳科学や神経科学の諸概念の関係が私には曖昧であるように思われる。その曖昧さの理由の一つは、心的現象に関する概念の曖昧さにある。

 ダマシオは、次のような方法論を述べる。

「以下の三つの関係を確立することは可能だ。

(1)いくつかの外的発現。たとえば、覚醒状態、背景的情動、注意、特定の行動。

(2)そうした行動を有する人間の、それらの行動に対する内的発現。これはその人間の報告による。

(3)観察者である我々が被観察者と同等の状況に置かれたとき、我われが自分自身の中で検証できる内的発現。

 我々はこの三つの関係によって、外的な行動にもとづいて人間の私的な状態を合理的に推測することができる。」(前掲訳115)

たとえば、ノエの知覚のエナクティヴィズムでも、ギブソンのアフォーダンス論でも、「視覚像」や「知覚像」を認めることに慎重であり、たとえそれらを認めても、認識におけるその重要性に関しては懐疑的である。また「意識」(consciousness)という語は、ロックがconsciousから作った新しい語であり、それ以前には人々はconsciousnessという語で心を理解してはいなかった。「自己」という語もまた多義的であり、時代や社会によって異なる意味をもつ語である。そう考える時、上記の方法論の(2)の部分は、心についての一人称の報告文として明確なものになりうるとしても、その報告文の意味内容については、曖昧なままである。それゆえに、上記のダマシオの方法論は、少し素朴すぎるように思われる。

 さて、どうしたものだろうか。