10 実践的問いを問うのはどのような場合か(2) (20201026)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

次に(2)願望と意図が葛藤する場合と、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合を考えよう。

(2)願望と意図が葛藤する場合:ある行為を意図するとき、それと同時には実現できない願望を持つことはありうる。例えば、禁煙をしようと意図するときに、同時にタバコを吸いたいという願望をもつことがありうる。この場合に問題が生じるとすれば、それは「どうやって禁煙をいじするか」という問いであろう。つまり、願望と葛藤関係にある意図をどうやって実現するか、という問いである。

(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合:例えば、パンを焼きたいが、どうすればよいのかわからない場合、「どうやってパンを焼けばよいのか?」という実践的な問いを立てることになる。

(2)と(3)では、実現すべき意図は与えられているので、問題は、その意図をどうやって実現するかである。(2)は意図の実現を妨げるものが願望であるのに対して、(3)では意図の実現を妨げるものが無知である。

この実現すべき意図は、どのようにして設定されるのだろうか。それはより上位の意図(目的)を実現するためであろう。より上位の意図(目的1)を実現するための実践的問い「どうやって目的1を実現すればよいのか?」の答えが、「目的2を実現すればよい」であるとき、「どうやって目的2を実現すればよいのか?」という下位の実践的問いを設定することになる。これが、(2)と(3)の場合の問いになる。

 多くの場合、意図は、より上位の意図を実現するために設定される。この場合には、下位の意図とより上位の意図は、手段と目的の関係にある。上位の目的の実現を実現しようとするとき、大抵は唯一ではなく複数の手段が可能である。それにゆえに、「上位の目的1をどうやって実現すればよいのか?」という問いに答えるとき、選択が必要になる。

 このように考える時、実践的推論について再考する必要が生じる。

   Aしよう

   Bすれば、Aできる

   ∴Bしよう。

この場合、Bすることは、Aするための唯一の手段ではないが、手段の一つである。もしそうだとすると、「どのようにしてAを実現しようか?」という問いに答える時、この答えは、選択に基づいている。つまり、実践的推論は、推論であるけれども、選択によって可能になる。

 ここで、「どのようにしてBを実現しようか?」という問いが立てられ、さらにそれに対する答えも、選択に基づいているとしよう。このときの選択を選択1とすれば、この選択1は、Aを実現するためのB以外の他の目的をC、Dの中から、Bを選択したときの選択を選択2とするとき、選択2は、「選択1の選択」となっている。

 実践的問いを上位の実践的問いとの「二重問答関係」において考える時、「選択の選択」が行われている。つまり、実践的問いは、(1)(2)(3)の全ての場合に、「選択の選択」が行われている。

09 実践的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201023)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 実践的な問いとは、答えが真理値をもたない問いである。例えば、「パンを作るにはどうすればよいだろうか?」の答えが「イーストを手に入れよう」であるとき、この答えは命令文であるので真理値を持たない。ただしこの答えは、「パンを作るには、イーストが必要である」という条件文に基づいており、この条件文は真理値を持つ。これはつぎのような実践的問答推論になっている。

   パンを作ろう。

   パンを作るにはどうすればよいだろうか?

   パンを作るには、イーストが必要である。

   ∴ イーストを手に入れよう。

実践的な問いは、多くの場合、ある目的を実現するために「どう行為したらよいのか」を問うものである。実践的問いの答えは、多くの場合、「…しよう」という事前意図(行為に先行する意図)になる。

 実践的な問いが、<願望ないし意図と現実の衝突>から生じるのだとして、この衝突にはどのような場合があるだろうか。理論的問いの場合と似た仕方で、次のような場合を考えられるだろう。(1)二つ以上の願望が葛藤している場合、(2)願望と意図が葛藤する場合、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合、である。

(1)二つ以上の願望が葛藤している場合:たとえば、目の前のケーキを食べたいと思い、同時に痩せたいのでケーキを食べるのをやめようと思うとき、この二つの願望を同時に実現することはできないが、同時に持つことはできる。このような葛藤関係にある多くの願望をもつことは日常的にあふれている。葛藤関係にあるのは二つ以上の願望の場合もある。週末に、山に行きたいし、海にもゆきたいし、美術館にもゆきたいし、映画も見たいし、小説も読みたい、などである。

 ところで、このように複数の願望が葛藤関係にあるとしても、常に実践的な問いが問われるわけではない。複数の願望の葛藤関係をそのまま放置しておくことも可能である。実践的な問いが問われるのは、その願望の中のどれかを選択しなければならないときである。では選択しなければならないのは、どのような場合だろうか。例えば、ケーキを目の前にしたとき、私がそのケーキを食べるかどうかを選択しなければならなくなるとすると、それは選択の可能性に気づいたためではないだろうか。あるときあるところで「いまここで…についての選択が可能である」と気づいたときには、そのときそこで…についての選択をすることは不可避になる。なぜなら、選択を先延ばしにすることもまた、そのときそこでひとつの選択をすることだからである。

  では、ケーキを眼にしたとき、食べるかどうかの選択の可能性があると思うのは、どのような時だろうか。各瞬間において、人にとって可能な選択は無数にあるだろう。しかしある瞬間に、人が実際に行う選択は一つであろう。では、可能な選択のなかの一つの選択に取組むことはどのようにおこなわれているのだろうか。多くの可能な選択の中からの一つの選択はどのようにおこなわれるのか? これを「選択の選択」と呼ぶことにしたい。これは、<ある瞬間において、論理的にも現実的にも可能な複数の選択の中から、その時に実際に取組む一つの選択を取り出すこと>である。

選択の選択は、そのときに人が取り組んでいる問いを解くために必要なないし有用な選択を取り出すこととして行われるのではないだろうか。

 たとえば、白い箱に入ったウェブカメラを探しているときに、白い箱の中のケーキを見つけたとしても、それを食べるかどうかという選択は、カメラ探しに必要なないし有用な選択ではないので思い至らないし、かりに思い至ってもすぐに忘れるだろう。

 この(1)の場合には、より上位の問いに答えるために、「どの願望を実現するべきか?」という問いが立てられ、その場合の<二つ以上の願望が葛藤関係にある>という現実と、<より上位の問いに答えたいという意図>が矛盾している。

 次に(2)と(3)の場合について考えよう。

07 理論的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201018)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回述べたように、問いを理論的問いと実践的問いに区別し、問いが発生するのは、<願望/意図と現実が葛藤する場合>だとしよう。このとき、実践的問いが、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることは、わかりやすいだろう。理論的問いについては、わかりにくいかもしれない。理論的な問いについても、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることについては、つぎのように説明できるだろう。

 科学研究において、理論と観察命題が矛盾したりする場合(つまり、理論に基づく予測と実験結果や観察報告が矛盾する場合)に、理論的問いが設定されることになるだろう。そこには二つの事実命題の矛盾という現実がある。しかし、このような矛盾があるだけでは、問いが発生するには、不十分である。それとともに、整合的な認識を得たいという意図が研究者になければならない。その証拠に、金言や格言には矛盾したものが沢山あるが、人々はそれらの矛盾をふつう問題にしないからである。つまり、矛盾する命題があるというだけで直ちに問いが発生するわけではない。<事実命題の矛盾という現実>と<整合的な認識を得えたいという意図>の葛藤があるときに、理論的な問いが発生する。(参照、拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM

ところで、理論的な問いを生じさせる<願望/意図と現実の葛藤>という時の<現実>は、次のように3つに分類できるだろう。

(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合。上の段落で述べた、理論と観察命題の矛盾する場合は、この場合に属する。

(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合。

(3)ある事柄について無知である場合、などである。

これらは、それぞれ次の意図との間で葛藤を生じさせる。(a)整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得ようとする意図、(b)確実で真なる認識を得ようとする意図、(c)ある事柄について知ろうとする意図、である。

これらの3つは、「人はなぜ理論的問いを問うのか?」という問いに対する答えとなりうるだろう。他方で、これとは違った仕方で、次のようにこの問いに答えることもできる。

 理論的問いを問うことは、行為一般と同様に、目的をもつ。その目的は、より上位の問いに答えることである。理論的な問いは、(ア)別の理論的問いに答えるために問われる場合と、(イ)実践的問いに答えるために問われる場合がある。

では、この(ア)(イ)の区別と、(1)(2)(3)の区別は、どう関係するだろうか。

(ア)では、ある理論的な問いQ1に答えるために、別の理論的な問いQ2の答えが必要であるとしよう。そして、Q2の答えがわからないとしよう。このとき、私たちがQ2を問うのは、Q1に答えるためにQ2の答えを知りたいという願望ないし意図のためである。これは、上の(3)のケースになるだろう。

(イ)では、ある実践的な問いQ3に答えるために、理論的な問いQ4の答えが必要であるとしよう。例えば「どうすれば早くパンをつくれるだろうか?」という問いに答えるために、「イーストの発酵に適した温度は何度か?」を知る必要があるとしよう。このとき、Q4を問うのは、Q3に答えるためにQ3の答えを知りたいという願望ないし意図である。これもまた上の(3)のケースになるだろう。

 では、上の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。

06 人が問うのはどのような場合か(2) (20201013)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回挙げた拙論「問題の分類」では、「意図と現実の矛盾」という「問題状況」を、認識問題状況、実践問題状況、決定問題状況、という3つに区別した。現在私は、問いを理論的問いと実践的問いの二つに区別するが、この二種類の区別の関係は、ここでの3つの区別と次のように関係するだろう。

  「理論的問い」「認識問題状況」での問い

  「実践的問い」「実践問題状況」あるいは「決定問題状況」での問い

さて、この論文では、問いは「意図と現実の矛盾」から生じると述べたが、それについて二点修正したい。

 まず、「矛盾」を「衝突」に修正したい。その理由は、この論文でも述べていたことである。つまり、「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」つまり、正確にいえば、意図と現実は矛盾しないからである。そこで、問いは「意図と現実の衝突」から生じる、と言う方がよいだろう。

 第二の修正点は、「意図と現実の衝突」だけでなく「願望と現実の衝突」から生じる場合もあることから、問いは「願望/意図と現実の衝突」から生じる、と変更することである。これを実践的問いで説明しよう。

 例えば「ケーキを食べたい」という願望と「ケーキがない」という事実の衝突がある場合にも、「どうやってケーキを食べようか?」という問いが生じるだろう。とこで、願望と意図の間には次のような違いがある。

<違い1:願望(欲求、欲望など)と願望の衝突、意図と意図の矛盾>

 私たちは互いに衝突する願望を持ちうる(たとえば、「TVを見たい」と「勉強したい」というように)。そして、二つの願望が衝突するとしても、その衝突を解消するために願望を修正しようとはしない。TVを見たいと勉強したいという二つの願望は衝突するが、矛盾するのではない。なぜならこれらは両立可能だからである。

 他方で、私たちは互いに矛盾する意図を持つことはない(たとえば、「TVをみよう」と「TVを見るのをやめよう」は矛盾する)。そして、もし二つの意図が矛盾することに気づいたら、直ちに一方ないし両方の意図を修正するだろう。

<違い2:意図は実現可能性を前提するが、願望は実現可能性を前提しない>

 「Aしよう」という意図は、「Aできる」ということを前提している。Aできるかどうかわからないときには、私たちは「Aしよう」とは思わないだろう。「Aしよう」と思うのは、Aできると信じている場合である。つまり、Aできることを信じているが、どのようにしてそうしたらよいのか解らないときに、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うのである。

 他方で、Aできるかどうかわからないときにも、私たちは、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。つまり、「Aしよう」と意図しているのではなく、「Aしたい」と願望しているときにも、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。

 つまり、「Aするには、どうすればよいのか?」と問う時には、「Aしよう」と意図している時と、「Aしたい」と願望しているときの二種類がある。

05 人が問うのはどのような場合か?(1) (20201007)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(動物が、意識や表象を持つのかどうか、という問題、動物の探索と人間の問いの比較、については、奈良に戻ってNoeの本を検討してからにして、別の論点を議論したいと思います。)

 人が問うのはどのような場合だろうか。一つは、より上位の問いに答えるために、問いを立てる場合である。問いを理論的な問いと実践的な問いに区別すると、次のような4つの場合を想定できる。

①理論的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

②実践的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

③理論的な問いに答えるために実践的な問いを立てる。

④実践的な問いに答えるために実践的な問いを立てる

この③が存在するかどうかについて、カテゴリー「問答推論主義に向けて」の「16」「17」で論じ、③は存在すると論じたが、少し疑念が残るので、③についてはそのカテゴリーで改めて議論することにし、ここでは①②④を想定しておきたい。

このようにより上位の問いに答えるために問うのだとすると、そのまた上位の問いへと無限にさかのぼることになり、説明が閉じない(上位の問いが、明示化されておらず、暗黙的である場合もあるだろうが、その場合でもその暗黙的な問いはどのように発生するのか、を問う必要がある)。

 では、上位-下位の問いの系列の最初の問いは、どのように生じるのだろうか。 問いの発生については、「意図と現実の矛盾」から生じると論じたことがある(拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM)。そこでは次のように述べた。

 「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」

 これについて、次に考えたい。

04 動物は表象を持つのか (20200928)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 「人はなぜ問うのか?」が課題だった、この問いは、人が問うことを前提している。そこで、「人が問うとはどういうことかだろうか?」を問い、さらに「動物の探索と、人が問うことの違いはなにか?」を問うことになった。動物は、それが移動を始めたときから、感覚し、探索していると思われる。では、「動物は、表象や意識を持つのか?」

 この問いに答えることは、非常にむつかしい。なぜなら動物自身に答えてもらうことができないので、それを動物の行動の振る舞いから推測するしかないからである。したがって、動物が表象や意識を持つこと、ないし持たないことについての、間接的な証拠を見つけなければならない。

(あるいは脳科学が発達して、人間がリンゴの表象をもつとき、どのような脳状態の変化が生じるのかを特定できるようになれば、動物の脳状態にもよく似た変化が生じるかどうかで、動物がリンゴの表象をもつかどうかを判定できるようになるかもしれない。ただし、厳密に言えば、その場合でもそれは間接的な類推にとどまっている。)

 意識や表象の有無について考察するとき、痛みなどの意識をもつかどうか境界は、脊椎動物/非脊椎動物の区別に置かれ、表象を持つかどうかの境界は、哺乳類/非哺乳類の区別に置かれることが多いのではないかと思われる。ただし、専門家の間でも定説はないようである

 意識や表象をもつとは、どういうことかを考えるための手がかりとして、(話が元に戻ってしまっているように思われるかもしれないが)人間の場合を考えよう。

 人間は、(痛みの)意識を持ち、(パイン飴の)表象を持つように思っているが、それはどういうことだろうか。パイン飴を食べようとして、パイン飴を探すとき、黄色くて丸くて穴の開いたパイン飴を表象している。パイン飴の表象は、パイン飴を図とし、その他を地とするゲシュタルト構造を持つ。対象を表象するとは、対象を図とし、その他を地とするゲシュタルト構造を表象することである。しかし、最近の知覚論であるNoeの「エナクティヴィズム」は、このような知覚像は存在しないと主張していたのではないか。

(今手元にNoeの本がないので、奈良に戻ってからこの点を調べます。)

03 走性から二種類のオペラント学習へ (20200914)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 西村三郎著『動物起源論』(中公新書)の植物と動物の区別をもう一度引用しよう。

「植物とは、自ら動くことはできないが、光合成(炭酸同化作用)を通じて無機物から有機物を合成し、自分の体を作り上げていくことのできる生物、一方、動物は感覚し、そして動き回ることができるが、みずからは有機物を合成できないので、外から有機物を取り込んで体を作っていかねばならぬ生物のことを指している。」(p. 12)

 植物は、自ら有機物をつくるが、動物は、外から有機物を取り込んで体をつくる。つまり、動物が感覚し、動きまわるのは、有機物を取り込むためである。動物が探索するのは、餌となる有機物を求めるためである。餌となる有機物は、動物の進化に応じて、無生物→植物→動物と変化してきた。動物を食べる動物が登場すると、動物は、餌をとるためだけでなく、敵(捕食者)から身を守るためにも、探索するようになる。動く餌を捕まえたり、敵を見つけて早く逃げるためには、眼が必要になる。運動するためには、姿勢の感覚が必要であり、餌や敵を探索するには、外界についての感覚が必要である。このように探索するためには、感覚器官が必要である。

 単細胞の動物が、多細胞になり、脊椎動物になるまでに長い経緯があるが、それらの動物の探索はすべて、走性によるものと言えるのだろうか。ゴキブリが人の気配で物陰に隠れることも、走性で説明できるのだろうか。(勉強不足でわかりません。)いずれにせよ、その探索は、感覚器官によって行われる。

 脊椎動物は、反射、条件反射、オペラント学習によって、探索を行う。すべての脊椎動物は、反射と条件反射をもつだろう。しかし、オペラント学習についてはどうだろうか。魚やカエルもオペラント学習するのだろうか。ネズミや猫の鶏のオペラント行動については読んだことがあるが、魚類、両生類でもオペラント行動があるのだろうか。たまたま行った行動で、餌にありついたということがあり、同様の行動をして餌を手に入れるようになるということが、魚類や両生類にもあるかもしれない。

 動物の探索行動の進化は、走性と反射⇒条件反射⇒オペラント行動、という仕方で理解できるのかもしれない(専門家がどういっているのか、勉強不足でわかりません)。反射の中に発展段階の違うものを見つけることができるかもしれないし、条件反射の中にも発展段階の違うものがあるだろう。人間の探索行動との比較で重要なのは、オペラント行動の中の発展段階の違いである。

 サルが、手が届かないところにぶら下がったバナナをとるのに、近くにある箱を持ってきて、その上にのってバナナをとるという話を読んだことがある。イモを洗うサルの話も読んだことがある。これらの場合、サルは目標の状態を表象しているのではないだろうか。もしそうならば、オペラント行動には、目標状態の表象を持つ場合と持たない場合を区別できるだろう。

 <すべての動物は感覚を介して行動し、一部の動物は、表象を介して行動する>と言えるだろうか。目標状態の表象を持つとき、その行動は、観察者によって探索行動として記述されているだけでなく、動物自身にとっても探索として意識されているのだろうか。

 動物は、表象や意識を持つのだろうか。表象とか意識とは何だろうか。

02 反射と条件反射とオペラント学習 (20200912)

[カテゴリー:ヒトはなぜ問うのか?」

動物のほとんどの行動は探索である、といえるだろう。しかし、それには様々なレベルのものがある。とりあえず3種類の探索を説明しよう。

#走性と反射

・植物は、外部刺激(光、重力、接触、水分など)に応じて成長運動や示す現象(屈性)があるのに対して、動物には、方向性のある外部刺激(光、重力、接触、水分、など)に対して反応する生得的な行動(走性)がある。

・脊椎動物の場合、特定の刺激に対して意識されることなく起こる反応は、「反射」と呼ばれる。これは脊椎動物についてのみ言われるようであり、「脊椎反射」と呼ばれることもある。これは、姿勢反射、体性反射、内蔵反射に分類される。

 (これは、非脊椎動物の「走性」と同じ種類のものなのだろうか、それとも異なるものであって、脊椎動物の場合には、走性と反射の両方があるのか、頭が良いとされるタコについても「反射」とは言わないのかどうか、などについては今のところ勉強不足のためにわからない。以下では、とりあえず、非脊椎動物の走性と脊椎動物の反射を同種のものとして扱うことにする。)

 このように「走性」と「反射」を理解するとき、非脊椎動物が行う餌の探索は、「走性」の一種だと言えるだろうし、脊椎動物が行う「反射」もまた、探索の一種だと言えるだろう。ここまでのところ、動物がおこなう運動は、「走性」か「反射」であり、それらはすべて探索だとみなせるのではないだろうか。

 では、「条件反射」もまた探索行動だろうか。

#条件反射

 上記の「反射」は「無条件反射」と呼ばれ、生得的におこなう行動である。これに対して、経験によって獲得された反射行動を「条件反射」(conditioned reflex)と呼ぶ。これは「条件反応」(conditioned response)とも呼ばれる。パブロフの犬は、メトロノームの音を聞いただけで唾液を出すようになる。この条件反射は、探索行動だとは言えないように思われる。ところで、例えば、犬が餌の匂いを嗅ぎつけて、そちらの方向に向かい、餌を発見して食べることを学習したとしよう。このとき、餌の匂いを嗅いで、そちらの方向に向かう行動は、「条件反射」だと言ってよいだろうか。もしそう言えるのならば、この条件反射は、探索行動であるだろう。それとも、これは次に見るオペラント行動だろうか。

 (ちなみに、人間ならば、食べ物の匂いを嗅ぎつけて、そちらに向かい、食べ物を発見してそれを食べるとき、「何が美味しそうなものの匂いがする、その匂いはあちらからやってくる、あちらに食べ物があるのだろう、あちらに行ってみよう」というような推論をして、そちらに向かうだろう。だから人間の場合には、反射でも条件反射でもない。)

#オペラント行動とオペラント学習

 「オペラント行動」とは、自発的な行動のことである。行動が自発的であるとは、刺激に対する反応としての行動(反射や条件反射)ではないということであろう。オペラント条件づけとは、特定の自発的行動に対して餌を与えて強化したり、電気を流して弱化することである。特定の自発行動をして、餌をもらうことを学習するプロセスは、探索である。例えば、ネズミがたまたまレバーを押して、餌を手に入れる、という経験を、何度かしたのちに、レバーを押して餌を手に入れることを学習するとき、これを「オペラント学習」とよぶ。レバーを押すことと餌を手に入れることの関係を学習し、餌を手に入れるために、レバーを押せば良いことを学習するとき、この学習は、餌を手に入れる方法の探求だと言える。これは、実現したい目標を実現する方法の探索であり、欲しい対象そのものの探索ではない。

 さて、上記の例、犬が餌の匂いを嗅ぎつけて、そちらの方向に向かい、餌を発見して食べることを学習した場合を考えよう。このとき、餌の匂いを嗅ぎつけて、餌の方に向かうことは、刺激に対する学習された反応、だと言える。したがって、これは条件反射であろう。しかし、餌の匂いの方向に歩いて、餌を見つけるということの学習は、オペラント学習であろう。この場合、前半の条件反射も、後半のオペラント学習も、探索だといえる。

 もう一つ、例を検討しておきたい。排泄行為は、自発的行動だろうか。それは膀胱に尿が溜まってきたという刺激に対する反応ならば、反射であろう。人間の場合には、トイレに行こうと考えて、トイレに行き、そこで排泄するので、大脳を介した行為である。(条件反射もまた大脳を介してした反応であるが、しかしトイレで排泄することは、条件反射ではないだろう。)ペットの犬の場合には、トイレで排泄するように指示されて、成功すると褒められ強化されるという、学習過程を経て排泄行為をするようになるだろう。そうすると、これはオペラント行動である。

 人間の探索とこれらの探索との違いは、何だろうか?

01 動物はいつ探索を行うようになったのだろうか? (20200909)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 人はいつ問うようになったのだろうか? 問うことは、通常は言語を用いて行う行為である。動物は問うことはしないかもしれないが、しかし探索は行う。では、動物はいつ探索を行うようになったのだろうか。動物の探索と人の探索はどこが違うのだろうか。しばらく、これらを考えたい。

西村三郎著『動物起源論』(中公新書)では、次のように植物と動物を次のように定義する。

「植物とは、自ら動くことはできないが、光合成(炭酸同化作用)を通じて無機物から有機物を合成し、自分の体を作り上げていくことのできる生物、一方、動物は感覚し、そして動き回ることができるが、みずからは有機物を合成できないので、外から有機物を取り込んで体を作っていかねばならぬ生物のことを指している。」(p. 12)

動物の本質は、「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。

 では、ここから人間探索までに、どのような道程があるのだろうか。