25 快苦と情動と探索 (20210115)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まず、情動についての二つの補足説明をします。

1,肉体的快苦は、情動ではない。

 たとえば、肉体的苦痛である痛みは、さまざまな無条件反射を引き起こす。昏睡状態の人もまたそのような無条件反射を行うので、意識がなくても肉体的苦痛は成立する(cf. ダマシオ、前掲訳102)。(逆に言うと、全ての脊椎動物は、脊椎反射をするだろうが、それだけでは意識を持つとは言えないことになるので、全ての脊椎動物が意識を持つとは言えない。)

 痛みと痛みの情動的反応は、異なる。ダマシオはそれについての3つの証拠を挙げている。一つは、「有痛性チック」としても知られる難治性三叉神経痛の重い症状の患者の例である。その人は、顔にそよ風が当たるだけでも激痛を感じるそうだ。その患者の前頭葉の特定の部位に小さな傷をつける手術をする。「手術では、局部的な組織の機能障害に応じて三叉神経系から出されている感覚パターンには、ほとんど何も手をつけなかった。つまり、組織の機能障害の心的イメージは変わっていなかった。だから患者は「痛みは同じ」と言う。しかし「手術によって組織の機能障害の感覚パターンが生み出していた情動反応はなくなっていた。苦しみは消えていた。男性の顔の表情、声、全般的な振る舞いは、痛みと関係しるようなそれではなかった。」(同訳104)

 後の二つの証明は、催眠暗示や特殊な薬(β-ブロッカーやベイリウム)を飲むことによって、同じように「痛みはあっても、痛みによって引き起こされる情動は減じられる」(同訳105)というこが生

じるという例である。

 ダマシオは、肉体的快についても、それは情動ではないと述べている。おそらくは、催眠術や薬物を用いた例を挙げるができるだろう。しかし残念ながら、痛みの場合とはちがって、その具体的例証をあげてはいない。

2,快と苦のメカニズムの違いと、情動としての探求

苦痛と快の説明は興味深いのでそれを引用しておきたい。

「肉体的苦痛は、怒り、怖れ、悲しみ、嫌悪といった否定的な情動と結びつき、それらの組み合わせが「苦しみ」を構成するが、快は、喜び、優越感、そして肯定的な背景的情動と結びついている。」(同訳106)

ただし、この二つのメカニズムは、大きく異なるという。

「肉体的苦痛は、生体組織の局所的機能障害に対する感覚的表象の知覚である」(同訳106)

「有機体は特定のタイプの信号を使って、現実の、ありは潜在的な有機体の組織の健全性喪失に反応するようになっている。その信号伝達では、白血球細胞の局所的な反応から、手足の反射作用、具体的な情動反応にいたるまで、多くの化学的、神経的反応が動員される。」(同訳106

これに対して、

「快の場合、問題は有機体をホメオスタシスの維持に通じるような態度や行動へと向けることである。」(同訳107)

「苦は、少なくともすぐには他の損傷の防止にはつながらないものの、損傷組織の保護、組織修復の促進、傷の感染防止になっている。これに対して快は先見に関するものである。快は、問題が生じ「ない」ようにするためにできることは何かという、賢明な予測に関することである。」(同訳108)

ここで注目したいことは、快と探求との結びつきである。

「快は報酬と連携し、探求、接近といった行動と結びついている。」(同訳108)

「ふつう快は、たとえば低血糖や高オスモル濃度のような不均衡の検出からはじまる。そうした不均衡が空腹や渇きという状態を生み(これは動機的・欲求的状態としてしられている)、今度はそれが食べ物は水の探索と関係する行動(これもまた動機的欲求的状態の重要な一部)をもたらし、そしてそれが食や飲という最終行動をもたらす。…快の状態は、現実的な目標を期待するその探索プロセスの中で始まり目標が達成されると高まる。」(同訳106)

つまり、快は、ホメオスタシスの棄損という否定的な状態が、飢えや渇きという苦痛の状態を生みだすことを予見し、それを予防するために、餌や水の探索行動を生み出し、それを摂取してホメオスタシスの回復を生み出す、あるいはい棄損を予防するというプロセスの中で、快は、ホメオスタシスの維持に役立っている。快は、それを報酬とするオペラント行動を引き出し、その行動の中に探求も含まれるということである。

 「探求」は、肉体的快への反応(オペラント反応)であり、(ダマシオは明言してはいないが)探求は情動の一種とみなされている。

 次回は、情動と感覚の関係について説明する。(議論の紹介の都合上、しばらく引用が多くなりますが、ご容赦ください。)

24 人間の探索行動の考察に向けて   (20210114)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 ここからは、動物の探索行動の考察を中断して、人間の探索行動を論じたい。

ダマシオの『意識と自己』(The Feeling of What Happens Body and Emotion in the Making of Consciousness田中三彦訳、講談社学術文庫、2018年、原書1999)を紹介しつつ、そこに問答の観点からの考察を加えることにしたい。

 この本でダマシオが説明しようとするのは、次の二つの問題である。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(同訳18)

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(同訳19)

この二つの問題を解くために、ダマシオは、情動、感情、意識(中核意識、拡張意識)を順番に論じていくので、これを紹介しよう。

#情動について

ダマシオは、情動と呼ばれているものを次の3つに分類する。

「一次の情動」あるいは「普遍的情動」6つ。

  喜び、悲しみ、怒り、驚き、嫌悪

「二次の情動」あるいは「社会的情動」

  当惑、嫉妬、罪悪感、優越感、

「背景的情動」 

  優れた気分、不快な気分、平静、緊張

これらの情動に共通する「中核」を次のように説明する。

(1)「情働は、一つのパターンを形成する一連の複雑な化学的、神経的反応である。」

「その役割は有機体の命の維持を手助けすることである」(同訳72)

(2)「情動は生物学的に決定されたプロセスであり、…生得的にセットされた脳の諸装置に依存している。」(同訳72f)

(3)「情動を生み出すこれらの装置は、脳幹のレベルからはじまって、上位の脳へと昇っていく、かなり範囲の限定されたさまざまな皮質下部位にある。」(同訳73)

(4)「そのすべての装置が、意識的な熟考なしに作動する。」(同訳73)

(5)「すべての情動は身体(内部環境、内臓システム、前庭システム、筋骨格システム)を劇場として使っているが、情動はまた多数の脳回路の作動様式にも影響を与える。」(同訳73)

一言で言えば、情動は、(ダマシオによれば)遺伝的に決定された「化学的、神経的反応」である。

ダマシオは、単細胞生物もこのような情動を持つという。

「情動の基本的な形態は単純な有機体に、いや単細胞生物にさえ見ることができるから、喜び、恐れ、怒りといった情動の起源を、そうした単純な生物に求めることもできるかもしれない。もちろん、どう見てもそうした生物にはわれわれが持っているような情動の感覚はない。」96f

ダマシオは、PC上にも類似のものを見る。

「同じことは、コンピュータの画面の上を動き回る単純な小片についても言える。速いジグザグ運動は「怒り」のように見えることもあるし、調和のとれた、しかし爆発的なジャンプは「歓喜」のようにも見える。また、はっと飛びのくような動きは「恐れ」のように見えるだろう。われわれが動物やコンピュータ画面上の小片を心ならずも擬人化してしまう理由は単純だ。情動とは、その言葉が示しているように、ある特定の環境での、ある特定の状況に対する「動き」に関すること、外面化した行動に関すること、ある原因に対するいくつかの統合的反応に関することであるからだ。」(同訳97)

この引用箇所によると、PC上の小片と同じく、単細胞生物に見ることができる情動もまた、擬人化であり、本当には存在しない「見かけ上の情動」であることになるのかもしれない。

ダマシオは、この単細胞生物とジャンボアメフラシと犬の情動についてつぎのように語る。

「アメフラシのえらに触れると、えらは完全に引っ込んでしまう。そのとき、アメフラシの心拍数は上昇し、敵を欺かんとまわりに墨を放つ」(同訳97)

「アメフラシは、似たような状況でわれわれ人間が示す反応と、ただ単純なだけで形式的には少しも変わらない反応を示す。」(同訳97)

「神経系に情動的状態を表象できる程度には、アメフラシも感情の素材を持っているかもしれない。アメフラシが感情を持っているかどうかは、われわれにはわからないが、たとえ感情をもっているとしても、そういった感情を認識できるとはとても想像しがたい。」(同訳98)

(ジャンボアメフラシは、神経の実験による使われる動物である。ちなにみ、2018年に、ジャンボアメフラシによる実験で、RNAを移植することによって、記憶を移植することができること、つまり記憶が(少なくともある種の記憶は)、RNAに蓄積されることが証明された。記憶の移植が原理的に可能であるということになりそうだ。)

これらをまとめると次のようになる。

1、単細胞生物:<見かけ上の情動>をもつ。

2,アメフラシ:情動を持つ。アメフラシが「神経系に情動的状態を表象できるかどうか、感情を持つかどうかは、わからない。しかし感情を認識することはできない。

3,犬:情動を持つ。情動によって引き起こされる感情を認識できる。意識を持つ。

ダマシオは、「情動」と「感情」と「意識」の関係について次のように述べている。

「有機体は情動を経験し、それを提示し、それをイメージ化する(つまり、情動を感じる)。」(同訳111)

「有機体自身がいま感情を持っていることを知るには、情動と感情のプロセスの後に意識のプロセスを加えることが必要だ。以下の章で、意識とは何かについて、そしてそれがあるとどうやってわれわれは「感情を感じる」のかについて、私の意見を述べる」(同訳111)

これをまとめると次のようになるだろう。

情動(emotion):遺伝的に決定された「化学的、神経的反応」

感情(feeling):情動のイメージ

意識(consciousness):感情のイメージ

この本では、「意識」と「自己」の発生が問題になっているので、感覚や対象の知覚についてはあまり語られない。

 次に探索と情動の関係、情動と感情の関係の説明を紹介しよう。

22 アフォーダンスの選択(抽出)  (20210101)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(明けましておめでとうございます。今年も、問答の考察に取組んでゆきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。)

 レヴィンやコフカは、事物の価値や効用は、直接に知覚されると考えていたが、しかしそれらが物理的な実在性を持つのではなく、「現象的な「場」において、事物と自我との間に何らかの力が働くためであると考えていた。つまり、要求や動機が働いていると考えていた。(参照、エドワード・リーチ、レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠』境淳史、河野哲也訳、勁草書房、350f)

 しかし、ギブソンはそれら事物の価値や効用は、直接に知覚されるだけでなく、客観的に実在すると考えていた。つまり、「事物のアフォーダンスは、観察者の要求の変化に関わりなく、変化しないと考えられている。例えば、ある物質がある動物にとって食べられるか否かは、その動物が、空腹か否かとは無関係である。ある動物がある面の上を歩けるという事実は、(どの動物の移動能力やその動物の行為システムと関連してはいるが、)実際にその動物がその上を歩くか否かに関わりなく存在する。」(前掲訳、350)。

 このことは「負のアフォーダンス」にも成り立つ。「対象・場所・動物が観察者を傷つける力、すなわち、それらの負のアフォーダンス《negative affordance》も、観察者がそれらを恐れるか否か、嫌悪するかいないか、回避するか否かと言ったこととは無関係である。」(前掲訳、350)

 問題は、アフォーダンスが一つの事物について無数にあるということである。なぜそれが問題になるかというと、アフォーダンスは無数にあるが、そこにいる動物に知覚されるアフォーダンスはそれらの一つにすぎない(場合によっては複数のアフォーダンスが同時に知覚されるかもしれないが、全てのアフォーダンスが知覚されるのではない)ということである。そうすると、そこでのアフォーダンスの知覚(選択、抽出)はどのように行われるのか、を説明する必要が生じる。

 これを説明するのは、一つには、動物の環境の中での位置、動物の内的要因、などであろう。これらによって、知覚されるアフォーダンスは限定されるだろう。ギブソンは「要求は、アフォーダンスの知覚を制御し(選択的注意)、行動を開始させる」(前掲訳、350)と述べているが、この「要求」は、動物の内的要因の一種であろう。

 ギブソンは、ゲシュタルト心理学が、心理と物理の二元論(前掲書、349)を前提していることを批判するのだが、アフォーダンスの中のどれを知覚するのか(選択するのか、抽出するのか)ということを説明しようとすると、動物の内的要因を考慮する必要が生じ、探索行動を考慮する必要が生じるだろう。そうすると、アフォーダンスの知覚の説明は、ゲシュタルトの知覚の説明とあまり違わないものになるのではないだろうか。

 ゲシュタルトの知覚も、アフォーダンスの知覚も、動物の探索行動によって規定されている、と言えそうである。しかし、今の私にはこれ以上の解明ができないので、一旦動物の探索行動の考察を中断し、人間の問いに考察に向かいたい。

 (ただし、次にこの問題に戻ってくるときのために、もう一つの難題をここに書き留めておきたい。それは次のようなことである。無脊椎動物が、方向性を持つ刺激に対して走性反応をするとき、その行動の全体は、動物が探索しているように見える(たとえば、餌を探索しているようにみえる)ものであっても、その行動は遺伝的に決定した行動であって、その動物が個体として探索しているということは、そう見えるというだけの<見かけ上の探索>である。このとき、走性を引き起こする「方向性を持った刺激」はゲシュタルト構造を持つ知覚だと言えるだろう。そして、対象がどのようなゲシュタルトで知覚されるかは、動物がどのような探索行動をしているかによって規定されている、と想定してきた。しかし、探索が<見かけ上の探索>ならば、ゲシュタルトの方も観察者にそう見えるだけの<見かけ上のゲシュタルト>であることになりそうである。しかし、もしそうだとすると、観察者からみての<見かけ上のゲシュタルト>をもつ刺激に、動物が走性反応をするということになってしまう。これをどう説明したらよいのだろうか? もし知覚と探索(問い)行動の対応関係を主張しようとするならば、この問題に答える必要がのこる。)

 次回からは、人間の問いの起源に取り組みたいと思います。

22 アフォーダンスの生態学 (20201230)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(動物の知覚と探索行動の関係を考察していたのに、前回は、郵便ポストのアフォーダンスの話しをしてしまって、議論が拡散しすぎたとおもいます。郵便ポストのアフォーダンスは、言語を持つ人間にとってのアフォーダンスと問答の関係として、考察すべき話題でした。いずれはそこに向かいたいと思いますが、そのまえに、無脊椎動物にとってのアフォーダンスと探索行動の関係の考察を続けたいと思います。)

 知覚を考察するとき、主体と対象の関係だけでなく、環境を考える必要があるというアフォーダンス論の主張は正しいだろう。そのとき、アフォーダンスを、主体と環境(対象は環境の一部である)の関係として考えるのではなく、環境の中での動物と対象の関係と考えるのが正しいだろう。その関係は環境の中に含まれていると言ってもよいだろう。では、その環境とは何だろうか。

 ギブソンによれば、動物や人間の環境は、「媒質(medium)」と「物質(substances)」と「両者を分かつ面(surfaces)」の3つにわけられる(ギブソン『生態学的視覚論』訳17)。

 地上環境の「媒質」は、空気という気体であり、水中環境の「媒質」は、水や海水という液体である。

 ギブソンが「物質」というのは固体ないし半固体(植物や動物は、この半固体の一部であろう)であり、媒質の中にある。

 この「媒質」と「物質」の間には「面」がある。面の中でも地面は、「陸生動物の知覚や行動の基盤である。すなわち、地面は動物の支持面である。水と空気の境界は、水面である。水と個体の境界は、海底、湖底、川底などである。この場合、陸上生物にとっては、海や川は媒質ではなく、物質であるあろう。つまり、水面もまた、媒質(空気)と物質(海水、水)の境界である。(逆に水中生物にとって、水は媒質であり、空気は物質になるのかもしれない。)

 さて、動物は、媒質のなかを移動する生物である。そして、その移動は、でたらめなものではなく、多くの場合誘導ないし制御されている。媒質は、光、音、匂いなどの化学物質を伝えるものである。そして、動物は、光や音や匂いなどに誘導されて媒質のなかを移動する生物である。「走性」もまた、このような移動である。媒質のもう一つの特性は、それが酸素を含み、呼吸を可能にするということである(前掲書19)。また媒質は、おおよそ均質であり、重力による上下という絶対的関係軸を有する。このような媒質が提供する様々なもの(情報)をギブソンは「アフォーダンス」と名付けた(前掲書20)。

 動物はこのような媒質の中で対象を知覚する。(物質(動物とその対象)と媒質と面からなる)このような環境の中で「アフォーダンス」が成立している。

 ここでもう一度問いを繰り返そう。動物の探索行動はこのようなアフォーダンスとどう関係しているのだろうか?

21 ゲシュタルト心理学とアフォーダンス理論    (20201229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?](見出しタイトルだけ変えました)

『生態学的視覚論』において、ギブソンは、アフォーダンスを単に<主体(動物/人間)と対象の関係において成立するもの>と考えるだけでなく、それをエコロジカルな視点から理解する。つまり、<主体(動物/人間)と環境の関係において成立するもの>とみなす。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

 まず「アフォーダンス論」とゲシュタルト心理学の違いを確認しておきたい。ゲシュタルト心理学もまた、アフォーダンスに似た知覚を認めていた。

「コフカの『ゲシュタルト心理学の原理』1935(福村出版)から引用すると、「果物は『食べて下さい』といい、水は『飲んで下さい』と語り、雷は『恐がって下さい』と、また女性は『愛して』と語りかけている」(p.7)」150

これらを、コフカは「要求特性demand character」とよび、クルト・レヴィンは「誘発特性(invitation character)」とか「誘発性(valence)」と呼んでいた。

 ゲシュタルト心理学は、形や色などの性質と同様に、これらの誘発性が直接に知覚されることを認めていたが、しかしこれらを物理的なものと区別して現象的なものとみなした。つまり「対象の誘発特性は、経験を通じて対象に付与されるものであり、観察者の要求により付与されるものである。」(『生態学的視覚論』151) と考えた。

 これに対して、ギブソンは、アフォーダンスを誘発性から明確に区別する。

「アフォーダンスの概念は、誘発性、誘因性、要求の概念から導き出されてはいるが、それらとは決定的な違いがある。ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は、自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないし、しないかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとして常にそこに存在する。アフォーダンスは、観察者の要求や知覚するという行為によって、対象に付与されるのではない。」(同書、151)

「コフカにとっては、手紙を郵送することを誘いかけるのは現象的な郵便ポストであり、物理的な郵便ポストではなかった。しかし、この二元性は、有害である。そこで私は以下のように言う方がよいと思う。つまり、実際の郵便ポストが(これだけが)。郵便制度のある地域では手紙を書いた人間に、手紙を郵送することをアフォードする。このことは郵便ポストが郵便ポストとして同定されるときに知覚され、そして郵便ポストが視野内にあってもなくても理解される。投函すべき手紙を持っているときに、郵便ポストへの特殊な誘引力を感じるということは、驚くべきことではないが、しかし、重要なことは、その誘引力が環境の一部として――我々が生活している環境の一つの項目として――知覚されることである。…郵便ポストのアフォーダンスの知覚は、それゆえ、郵便ポストがもちうるそのときどきの特殊な誘引力と混同されるべきではない。」(同書、151f)

ギブソンは、アフォーダンスは、主体が対象に投影したものではなく、対象の形や色と同じように客観的に実在している、と考える。郵便ポストは、手紙を入れることを促している。郵便制度がない社会に、ポストをおいてもポストは手紙を入れることを促さないだろう。しかし、郵便制度がある社会では、ポストは手紙を入れることを促す。それは、私たちの生活環境の一部として知覚される。それは、郵便制度がある社会では、誰がいつみても知覚できるアフォーダンスである。その意味で、アフォーダンスは客観的に存在する。アフォーダンスは、主体と対象(郵便ポスト)の関係として成立するのではなく、郵便制度という環境の一部として成立している。

 この場合、郵便制度もまた客観的に成立していることになる。そうすると、ギブソンは「社会構築主義」、しかも自然も社会的に構築されていると考える「強い意味の社会構築主義」を採用するように見える。彼は、<自然は社会的に構築されていないが、社会制度(社会制度、社会規範)は社会的に構築されている>と考える「弱い意味の社会構築主義」ではなく、<自然も社会も同じように社会的に構築されている>と考える「強い意味の社会構築主義」であるように見える。しかしはたして、このギブソン理解は正しいのだろうか。言い換えると、生態学的アプローチは、強い社会構築主義と結びつくのだろうか。(この問題を追及すると、話がそれてしまうので、この問題はペンディングにしておきます。)

 動物と対象との関係においてアフォーダンスが成立するのだとすると、アフォーダンスは動物の探索活動に対応していると言えそうなのだが、もし生態学的な環境の中でアフォーダンスが成立するのだとすると、その場合にも、アフォーダンスは探索によって規定されているといえるのだろうか。その場合、アフォーダンスと問いは、どう関係するのだろうか。

20 アフォーダンスと問答    (20201227)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 動物の走性が「方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動」であるとすると、外部刺激は方向性をもっており、つまりゲシュタルトを持っている。そうすると、単細胞動物を含めてすべての動物はゲシュタルトを知覚していると言えそうである。

 この外部刺激のゲシュタルトは、動物の探索行動に応じて成立していると言えないだろうか。これに対しては次の反論が考えられる。<外部刺激に対する反応として走性行動が生じるのだから、ゲシュタルトが、走性行動によって成立するとは言えない。時間的に外部刺激は走性行動に先行するからである。>

 この反論に対して次のように応答できるだろう。外部刺激よる走性行動の解発は、複雑な条件をともなっている。

「動物が環境の変化をどのように知覚でき、またはできないかは、感覚能力の研究によって推論することができるが、観察される反応を解発するものがいったいなんであるのか、については確固たる回答が得られない。このことは、動物は、その感覚器官が受け取る環境の変化すべてに対して反応するのではなく、そのほんの一部に反応するに過ぎないという、特殊な事実に関係している。」(ティンバーゲン『本能の研究』前掲訳27)

「さらにいえることは、感覚器官が反応の解発に含まれている時でさえ、それが感受できる刺激のごく一部だけが実際に効果的なのである。」(同訳、28)

さらに、反応を複雑にする要因の一つは、内的な状態である。私たちも、空腹のときには、食べ物の匂いにより敏感になり、よりおいしそうに感じるだろう。食べ物のにおいのゲシュタルトは、主体の内的状態に依存する。そして内的状態は探索行動へ向かわせるものでもあり、食べ物を探索する反応が、匂いのゲシュタルトに影響を与えることになる。

 以上が反論への応答であるが、この説明では、<走性における外的刺激のゲシュタルトが探索行動の影響を受けている>という可能性を示せただけで、その証明としては不十分である。ただし、ノエが言うように、知覚は、行動に組み込まれており、行動の仕方であるとするならば、そしてまた、全ての行動は探索であると言えるならば、知覚のゲシュタルトは、探索によって規定されていると言えるだろう。

 ノエのエナクティヴィズムによれば、<物を知覚するとき、その対象に関わる可能な行為の集合を認知している>と言えるだろうが、アフォーダンス論によれば、<私たちは、物を知覚するとき、その物が促している(アフォードしている)行動を認知している>。物が何をアフォードするかは、主体のありようによって異なる。体重の重い人にとっては、ゆっくり歩くことを促す折れてしまいそうな板であっても、体重の軽い人にとっては、強く踏んづけても大丈夫な板であるかもしれない。喫煙者には、吸い込みたくなる良い香りでも、タバコ嫌いには、息を止めたくなる匂いかもしれない。このアフォーダンスの違いは、主体が何を求めているかの違いでもある。

 有名な例を挙げよう。ダーウィンのミミズの研究は有名である。翻訳が出たときに読んだダーウィンの『ミミズと土』(平凡社ライブラリー)が家にあるはずなのに、見つからないので、エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学』(細田直哉訳、佐々木正人監修、新曜社)をもとに説明したい。<ミミズは、体が乾燥してはいけないので、穴の出口をものでふさごうとする。その素材としてその松の葉を穴の出口近くにおいておけば、その松の葉で出口をふさごうとするのだが、松の葉の針の方が穴の中を向いているようにしたら、ミミズが外に出る時に刺さってしまうので、ミミズは、松の葉の元の方から穴の中に引っ張り込む。> このようなことをダーウィンは調べた。このミミズの行動を、アフォーダンス論で説明すれば、松の葉の先の針のところは、そこを穴の内側にするな、とアフォードし、松の葉の元の方は、ここをつかんで引き入れよ、とアフォードする、ということになるだろう(リード前掲訳、42-54)。

 このようなアフォーダンスの知覚もまた、ミミズの行動の課題に依存しており、ミミズの<穴をふさぐにはどうすればよいか>の探索(見かけ上の探索)に依存しているといえるだろう。

 ところで、ギブソンのアフォーダンス論は、アフォーダンスを単に<主体と対象の関係において成立するもの>と考えるだけではない。それをエコロジカルな視点から理解するのである。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

19 エナクティヴィズムとアフォーダンスと問答    (20201225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 このカテゴリーでは、「人は何故問うのか」に答えることが課題であるが、その前に人が問うことは、動物の探索とどう違うのかを明らかにしようとしてきた。これにまだまだ時間がかかりそうである。

 さて、動物が、走性や無条件反射で行動しているとき、それが探索行動であると見えても、それ遺伝子で決定している行動であるので、個体が探索しているのではない。動物が、条件反射とオペラント行動によって探索していると見る時、その行動は経験によって成立するものなので遺伝子と経験によって決定されている個体の行動である。それは、意図的行為ではないが、個体による探索行動だといえるかもしれない。ただし、この探索は、過去の経験と遺伝子と現在の経験によって決定されている。前者を「遺伝的行動」、後者を「経験的遺伝的行動」と呼ぶことにしよう。

 知覚は、どちらの行動であれ、探索のためのものであり、知覚のゲシュタルトは、何を探索しているかによって規定されているだろう。

 前回述べたノエの「知覚のエナクティヴズム」は、どちらの行動にも妥当するだろう。魚は、流れの上流に向かって泳ぐという走性(走流性)をもっている。その行動は、水の流れの知覚は、魚が上流に向かって泳ぐという行為と結合している。もしさなかが下流に向かって泳ぐとすると、スピードが速くなりすぎて危険なのかもしれない。つまり、走流性は危険回避という機能を持つのかもしれない。水の流れを感じるということは、その水の上流に向かっておよぐにはどうするかを感じることであるだろう。

 (メダカの走流性については次のビデオをご覧ください。 

  https://www.youtube.com/watch?v=1IOGXL7i9VM  )

走性については、第12回の記事で、「走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である」と説明した。魚の場合には、走性というよりも無条件反射というべきかもしれないが、魚の走流性については「走性」として語れることが多い。無条件反射も走性も、その反応が遺伝によって決定しているという点では同じだと言えるだろう。

 魚は水の流れを知覚し、その刺激(無条件刺激)に対して、無条件反応(走流性)を示すのである。魚の水流の知覚は、ゲシュタルトをもっているだろう。ところで、上のビデオにあるように、模様の刺激(視覚刺激)に対しても、魚は同じような反応をするが、これも無条件反射である。そして、この模様がつくる水流に対する錯覚もまた、同じような知覚のゲシュタルトを形成するのだろうと推測する。触覚刺激であると視覚刺激であるとに関わらず、おなじような反射を引き起こす点は、非常に興味深い。

 ノエのこのような「知覚のエナクティヴズム」は、「知覚のアフォーダンス理論」と親和的である。まずこの親和性を確認して、次にアフォーダンスもまた、探索行動に規定されていることを説明したい。

 アフォーダンス理論とは、ギブソンが提唱した知覚論であり、対象を知覚することは、対象を何かを私たちにアフォードするものとして理解することだと見なす。例えば、平らな床は、そこを歩く人間を支えるものであり、椅子はそこに腰掛けることをアフォードし、ドアノブはそれをつかむようにアフォードし、ケーキは、それを食べるようにアフォードする。知覚のエナクティヴズムによれば、知覚は私たちが対象に対してどのようにふるまうことができるかを示すが、アフォーダンス理論は、知覚は、対象をある行為を誘うものとして知覚することを主張する。言い換えると、知覚は、対象の表情、価値、誘導価の知覚である。

 対象が何をアフォードするかは、主体の状態にも依存する。柵は、大きな人にはまたいで超えることをアフォードし、小さな子供には、下を潜り抜けることをアフォードするだろう。「どうしたら柵の向こうに行けるだろうか?」という問いに対するこたえとして、柵は、これらをアフォードする。ゲシュタルトは、探索にたいして生じると述べたが、アフォードの内容は、問いに応じて変化するが、しばしば問いに対する答えそのものとして生じる。

 「エナクティヴズム」は、対象の知覚を、<対象に関する可能な行為の仕方>の集合として説明するが、「アフォーダンス理論」は、対象の知覚を、その集合をさらに限定して、<対象に関する好ましい行為の仕方>として説明する。 両者の親和性は、Noeも強調する点である。

 次に、「アフォーダンス」もまた動物の探究活動に相関していることを確認したい。

18 知覚は行為の仕方である  (20201223)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回は、知覚のゲシュタルト構造が、知覚がどのような探索を行っているかに依存することを説明した。知覚が、動物にとっては探索の結果であり、人間にとっては問いに対する答えであることを説明するうえで有用なのは、アルヴァ・ノエの「知覚のエナクティヴィズム」である。

 アルヴァ・ノエ(1964-)は、『知覚の中の行為』(門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、2010、原著2004)で、「知覚とは行為の仕方である」と主張する。

 彼の知覚論の基礎的なモデルになっているのは、触覚である。物を触る時、触覚は対象の全体を一度に知ることはできない。対象を触りながら対象の形や大きさを知り、それがどのようなものであるかを知ることになる。触覚の内容は、触れ方と相即している。彼によれば視覚の場合もこれと同様のことが言える。視覚にも、対象の細部にわたる全体が一度に与えられるということはない。細部を知るにはその部分に近づいてみる必要がある。私たちは、ある細部はそこに近づくと見えるだろうものとして予想している。例えば、トマトは赤くて丸いものとして知覚されるが、しかしその裏側が見えているわけではない。その横に回ればトマトの側面が見え、さらに後ろに回れば、背面が見える。トマトの丸い形を知覚しているとは、視点を移動したらそのように側面や裏面がどのように見えるかが分かっているということである。トマトの丸さの知覚は、トマトに対する目の位置を変えるその「行為の仕方」に他ならない。

 もうひとつ丸い皿の例を挙げよう。丸い皿が丸く見えるのは、真上ないし真下から見たときであり、大抵の視点では楕円に見える。しかし、楕円に見えていても、その皿が丸いことを知覚していることは、その皿のまわりで視点移動の「行為の仕方」を理解しているということに他ならない。

 このように皿を知覚するとき、その皿をどのように使えるかを判断できるだろう。例えば、その皿に丸いクリスマスケーキを載せられると分かるだろう。

 「皿の現実の形を見定めることは、その皿のプロファイルを知覚すること、そしてこのプロファイルすなわち見た目の形が運動に依存しているあり方を私たちが理解していることから成り立っている。このような事例から言えそうなことは、私たちが皿の形を経験することができ、見ることができるのは、非明示的な仕方でさらの感覚運動的プロファイルを把握しているからである、ということだ。皿の感覚-運動的プロファイルを把握することによってこそ、経験のなかで皿の形が利用可能になるのである」(前掲訳、125)

 ノエは(少なくともこの本では)、知覚のゲシュタルトについて取り立てて語っていないのだが、皿の形の知覚は、もちろんゲシュタルトの知覚である。皿の形や大きさのゲシュタルト知覚が成立するのは、「あのケーキはこの皿に乗るだろうか?」という問いに答えようとするときに、(ゲシュタルト知覚)のである。「あのケーキをこの皿に載せようとするとどうなるか?」という行為の仕方に関する問いに答える必要が生じるからである。

 知覚内容と行為が密接に結合しており、知覚が「行為の仕方」であるならば、行為は目的を持ち、それを実現しようとすることであるのだから、「どうやってそれを実現するか」という行為の仕方関する問いに答えようとする中で、知覚が成立することになるだろう。つまり、知覚は探索(問い)への答えとして成立する。

17 発話の焦点構造と知覚のゲシュタルト構造  (20201221)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

同じ文でも、異なる問いに対する答えとなる時には、ことなる焦点を持つ。

  「どれがりんごですか」「[これ]Fがリンゴです」

  「これはなにですか」「これは[リンゴ]Fです」

発話は必ずどこかに焦点を持ち、この焦点位置は相関質問によって規定されている。

これは、知覚のゲシュタルト構造に似ている。同一の絵が異なるゲシュタルトを持ちうる。

そのときゲシュタルトの違いは、問いの違いによって規定されている。

「何処から雨漏りしているのだろう?」と思って天井を見るとき、「何処が濡れているのか?」と問い、天井の色の違いに注目するだろう。そして、一部が丸く変色しているのを知覚するかもしれない。それに対して「この天井もそろそろ改修しなければならないだろうか?」と思って天井を見る時には、「天井板が古くなっていないかどうか?」と問い、天井板一枚一枚に注目して、隣の板との違いを知覚するかもしれない。この二つの場合には、同じ天井を知覚しても、そのゲシュタルトは異なる。

 このように知覚のゲシュタルトが、問いかけに依存して成立するのだとすれば、ゲシュタルトを知覚する動物もまた、何らかの仕方で探索している(問いかけている)と言える。前回述べた鶏は、ボタンの大小関係というゲシュタルトを知覚している。そのようなゲシュタルト知覚が生じるのは、鶏がどちらを押せば餌がもらえるかという探索をしているためだと言えるだろう。この探索は、(遺伝によって決定している)走性や無条件反射による<見かけ上の探索>ではない。過去の経験にもとづいて生じる探索である。

 もう一つ例を挙げよう。ティンバーゲン『本能の研究』(永野為武訳、三共出版株式会社)において、「じゅん鶏類、アヒルおよびガチョウの雛が猛禽の飛行に対して示す反応は、なににもまして「短い首」というサイン刺激で解発される」(p. 76)という。下のような模型を動かすとき、左に動かすと、アヒルやガチョウの雛は、それを猛禽類だと認識して逃避するが、右に動かすときには、逃避しない。

「「体軸の一端は短い突起に、またその反対側は長い突起になっている。この模型は、右方向に飛ばすと、首は短く尾は長くなる。逆方向へ飛ばせば首は長く尾は短くなる。前者の場合、模型は逃避反応を起こさせたが、後者はできなかった。この違いは翼の形に基づかないから、おそらく頭と尾についてのその鳥の認識にもとづくものでなければならない。このことは、両テストとも同じものを使っているから、サイン刺激として作用するものは、形ではなく、運動の方向と関連した形であることを意味している。」(p. 76f)

 つまり、この模型が左に動いたときと右に動いた時では、別のものに見える。つまり、異なるゲシュタルトをもつ。アヒルやガチョウの雛が(もし言葉にすれば)「敵はいないだろうか?」「あれは敵だろうか?」と探索しながら、模型を見る時、左に動くときには、進行方向の先頭に頭があるとすると、首が長く尾が短く見え、猛禽に見えるが、模型が右に動くときには、進行方向の先頭に頭があり、首が短く尾が長くみえるので、猛禽には見えない。つまり、「敵ではないだろうか?」と探索しながら模型を見る時、模型がどちらの方向に動くにせよ、進行方向の先頭に頭があり、進行方向の後方に尾があるというゲシュタルトで模型を見ることになる。それゆえに、この場合のゲシュタルト知覚は、「敵はいないだろうか?」「あれは敵だろうか?」という探索に対応して成立している。もちろん、アヒルやガチョウの雛はこのような問いを立てることはない。しかし、<見かけ上の探索>をおこない、そのような探索に対して、ゲシュタルトが生じている。

 鶏が大小の二つのボタンのゲシュタルト知覚をする場合は、経験を必要とするオペラント行動の先行刺激となる知覚であったが、この模型の知覚は、無条件反射を引き起こする無条件刺激となる知覚のゲシュタルトの例である。したがって、ゲシュタルト知覚に対応している探索もまたことなっている。後者は遺伝的に決定している<見かけ上の探索>行動である。

 動物のゲシュタルト知覚については、無条件反射の無条件刺激がゲシュタルト知覚である場合と、オペラント行動の先行刺激がゲシュタルト知覚である場合があることがわかる。他にも、条件反射における中性刺激がゲシュタルト知覚になる場合があるだろう。

 動物の知覚のゲシュタルト構造は、探索行動ないし<見かけ上の探索行動>と深く関係している。そしてそれは人間の場合の知覚のゲシュタルト構造が問いと深く関係していることを示唆しているし(これについては、いずれ詳しく述べる予定である)、発話の焦点位置が相関質問と深く関係していることに繋がっている。(発話の焦点位置が相関質問によって規定さていることについては『問答の言語哲学』の第二章で詳しく論じた。)

16 オペラント行動の規範性  (20201220)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回の「「おすわり」の規範性」というタイトルは、誤解を招いたかもしれない。人間が犬に「おすわり!」というとき、それは命令であり、命令が規範性を持つことは自明であるからである。ちなみに、ここで命令が「規範性を持つ」とは、<命令に従えば、褒められたり餌を得られたり、よいことがあるが、命令に従わなければ、叱られたり、餌をもらえなかったり、ひょっとすると罰を与えられたり、など悪いことがある>ということである。

 しかし、前回言いたかったのは、誤解はなかったとは思うが、人間の「おすわり」という発話が人間にとって規範性を持つことではなく、この発話が犬にとっても規範性を持つということである。このような主張に対しては、<そのような理解は、犬に自分の規範意識を投影しているだけであり、犬自身は規範意識を持っておらず、オペラント反応は、条件反射と同じように意識活動なしに生じるものである>という反論があるだろう。

 この反論に答えるには、犬自身が「おすわり」という発声に、またそれに対する自分の反応についての規範性を理解している証拠が必要である。

犬が、「おすわり」という声をきいたとき、従ったときと従わないときに何が後続するかを明確に理解していないが、<従ったときと従わないときでは後続することに何らかの違いがあることだけは理解している>ということがありうるだろう。これを「弱い規範性」の理解と呼ぶことにする。

 この弱い規範性の理解の証拠となるかもしれないのは、次のような実験である。<ケージの中に大小二つのボタンがあり、鶏が、大きな方のボタンをつつけば、餌が出てくるようになっている。そのケージの中で、鶏は、大きなボタンを押して餌を手に入れるというオペラント行動を学習する。先行刺激は大小のボタンの知覚であり、オペランント行動は大きい方のボタンをつつくことであり、餌を手に入れることが、結果である。次に、この大小のボタンをいろいろな大きさのものに取り換えて、ただし常に大きな方のボタンをつついたら餌がでることを学習させる。そして、ボタンの大小の違いが簡単には判別できないようなものにしたとき、鶏はどちらをつついたら良いのか分からずにストレスを感じているような振る舞いをした。> (この実験報告を、ベイトソンの本で読んだような気がするのだが、どの本であったかおもいだせない。また他の本でも似たような報告を読んだ気がする。どなたがご存知の方がいたら教えてください。)

 もちろん、鶏がストレスを感じているような振る舞いをするとしても、そう見えるだけかもしれないし、ストレスを感じているとしても、それは私たちが意識するようなストレスではないかもしれない。これは、どちらかのボタンを押さなければならないという「弱い規範性」を理解している証拠にならないだろうか。

 オペラント条件付けの先行刺激とオペラント反応は、第三者から見れば、つねに規範性を持っている。つまり、反応に応じて、利と害が生じる。しかし、オペラント反応をする動物自身がその規範性を意識できているとは限らない。その規範性を意識できていない動物は、オペラント行動によって、探索しているとは言えないだろう。

 人間が問うことによって何かを探索するとき、問うことは、その成否を意識しており、答えの規範性を意識している。つまり、問うときには、常に真なる答え(あるいは適切な答え)を得る必要があるという、規範性を意識している。