情熱と決定論

連休後半、信州でフィヒテの勉強に専念することができました。
空間を移動するということは、気分を転換するのによい方法です。

さて、人生論の続きをやりたいのですが、その前に気になったことを書いておきます。

<才能は自然によって決定しており、情熱は社会によって決定している>
とすると、我々が何をなしうるかは、自然と社会に決定されていることになり、個人の自由の余地がなくなってしいそうです。

決定論には、3種類あります。
(1)宗教的決定論
   神による決定、仏教のカルマ、など。
(2)自然法則による決定論
(3)社会的決定論

社会的決定とは、
 「歴史には法則があり、・・・が起こることが必然である」
 「来年も、約3万人が自殺することが、社会学的に予想される」
などです。
<我々が何を選択するか>が社会的の影響を受けているというだけでなく、それ以上に重要なのは、社会において<我々が選択を迫られている>ことと、<選択肢を社会から与えられている>ということです。

このような決定論と自由をなんとか両立させたい(Compatibilism)と思っていますが、
これは、単に自由論の問題のとどまらず、人生の意味についての議論に影響してくるだろうと思います。

情熱は社会的に構築される

ローマのコロセウム、情熱の跡です。

urbeさん、コメントありがとうございました。

「情熱が、社会関係の中で生まれる」
と書いたのは、次のような意味でした。
 ある若者が「ゴッホのような画家になりたい」と思ったとします。そのとき、彼のこの情熱は、ゴッホを知ることによって触発されたはずです。また、単に画家になりたいという欲望にしても、画家という職業がある社会でしか、生まれないはずです。
 このような意味で、すべての情熱は、あるいは欲望は、社会の中で生まれるのだとおもいます。それを、今風の言い方をすれば、「情熱は社会的に構築される」ということになるだろうとおもます。

才能と努力

urbeさん、blogを拝見しました。5月に一時帰国されるのを楽しみしています。

 何事かをなすために必要なこと、それは、実も蓋もないことですが、
   才能と努力
です。ある特定の才能は、訓練で伸ばすことが出来るかもしれませんが、それをなすためには、やはり、
   才能と努力
が必要です。そして、才能については、どうしようもないので、我々に出来るのは努力することだけです。例えば、将棋に強くなろうと思えば、我々にできるのは、努力することだけです。
 もちろん、努力の仕方、練習の仕方、の良し悪しはあるでしょう。良い方法を見つけることが必要ですが。それを見つけるために必要なものは、またしても、
   才能と努力
です。では、努力は、何で図ったらよいのでしょうか。重要な指標は、時間と集中力でしょう。
 
 ところで、努力するには、情熱が必要です。
ヘーゲルは、「世界における偉大なことで情熱なしに成し遂げられたことはない」(『歴史哲学』(Hegel Werke Bd.12, S.38)と述べています。一般的にいって、個人の情熱は、彼の社会関係の中で生まれます。つまり、個人が生得的に持つ才能と、社会関係の中で個人の中に発生する情熱が、何かを成し遂げるのでしょう。
  我々の中にどれだけの才能と情熱があるか、それはやって見なければ誰にも解かりません。
  只々努力。