23 知覚報告の特徴(肯定判断) (20210618)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 知覚報告は肯定判断の形式をとり、否定判断にはならない、と考えるのが一般的だろうと思われます。この場合、例えば、「これは青くない」という判断について、知覚を記述した知覚報告だとは考えません。「これは青くない」という知覚報告なされるのではなく、例えば「これは赤い」という知覚報告が真であることから、「これは赤い、赤いものは青くない、ゆえにこれは青くない」という推論によって、「これは青くない」という命題が真とされるのです。

 しかし、ラッセルはこのようには考えませんでした。なぜなら、「これは青い」と「これは青くない」は、どちらが知られる場合にせよ、同じような仕方で、知覚現象から直接に得られるように思われるからです。それゆえに、ラッセルは「これは青い」に対応する事実が存在するように、「これは青くない」に対応する「否定的事実」が存在すると考えました(参照、ラッセル『論理的原子論の哲学』高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、70-76)。

 確かに、「これは青い」も「これは青くない」も知覚から同じように直接に得られるように思われます。この点でラッセルは正しかったでしょう。しかし彼が間違えたのは、「これは青くない」が真の時、対応する事実があると考えたことです。つまり「否定的事実」の存在を主張した点です。

 私が提案したいのは、次のようなことです。「これは青いですか?」という問いが与えられたとき、知覚現象に基づいて、「これは青い」や「これは青くない」という答えが帰結する場合に、これらの判断は、知覚現象に基づいていますが、知覚現象に内容的に対応すると考える必要はないだろうということです。なぜなら、答えの命題内容を、決定するのは、知覚現象だけでなく、問いもそれに関わっているからです。問いにおいて、答えはすでに半分与えられており、知覚現象から残りの半分が与えられると考えられるからです。

 赤いリンゴを見ているときに、「それ白いですか」と問われたら「それは白くないです」と答え、「それは青いですか」と問われたら「それは青くないです」と答え、「これは黄色いですか」と問われたら、「それは黄色くありません」と答えるでしょう。このとき、「それは白くない」「それは青くない」「それは黄色くない」が対応する3つの否定的事実(ないし否定的知覚性質)を記述しているのだと考える必要はありません。

 さてしかし、知覚対象についての否定判断が、否定的事実を記述しているのだと考える必要がないのだとすれば、同様の理由で、知覚対象についての肯定判断も、肯定的事実を記述していると考える必要がないのではないでしょうか。

22 知覚報告の特徴(単称判断) (20210615)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告は、相関質問への答えであり、その相関質問の主語が単数であることが多いことが、知覚報告が単数形になることが多くなる理由だといえるでしょう。

知覚報告が知覚の記述であり、知覚の対象が個物であることが多いからだと言えるかもしれません。

#では、知覚の対象はなぜ個物であることが多いのでしょうか?

知覚は常にゲシュタルトをもちますが、言い換えると、ゲシュタルトが知覚の対象である言えます。ゲシュタルト(形態)は、一つの統一、あるいはまとまりをもつ一つの全体であるので、知覚は、常に一つのまとまりをもつ対象の知覚だと言えます。確かに私たちは大抵の場合、多くのものを同時に知覚しています。しかし、その多くのものは、明確なゲシュタルトを持つものとして知覚されているのではありません。それら多くのものはいわば知覚可能なものとして意識されているのです。たとえば、私が階段を降りる時、一段一段を明確に知覚しているのではありません。私は、なんとなく各段を知覚しているにすぎません。そのため、階段を下りた後で、私にはその一段一段を想起することができません。しかし、知覚報告するときの知覚は、意識的な知覚、明確な知覚、明確なゲシュタルトをもつ知覚です。そのため、知覚報告の主語は単数になることが多いのです。

 では、知覚のゲシュタルトは、なぜ一つの統一されたまとまりになるのでしょうか。それは知覚がノエのいう「行為の仕方」であることによるのです。動物の知覚は探索行為と不可分であり、探索行為を導くものだと言えるでしょう。ところで動物や人間などの行為主体は、一度に一つの方向にしか移動できません、つまり基本的に一度に一つの行為しかすることができないのです。その行為の要素となる細かな行為については、同時に複数の行為をしていることがあります。例えば、あるものをつかもうとするとき、そちらに腕を伸ばすと同時に掌を広げて掴む準備をします。しかし、それは、あるものをつかむという一つの行為をすることであり、そのとき同時に、別の物をつかむことはできません。知覚は行為を助けるものであり、行為は一度に一つの行為しかできないので、行為の対象は一つであり、行為を助ける知覚は、一つの対象の状態や運動などを知覚することに向かうのです。

 このように知覚は行為と深く結びついているので、探索(行為)と発見(知覚)は不可分です。探索発見は不可分に結合しており、例えば、餌を探索するときに、仮に餌が見つからなくても、何も発見(知覚)が行われないのではなく、探索の結果として(言葉にすれば)「ここに餌はない」という発見(知覚)が成立しているのです。このように探索と発見は常に不可分に結びついています。

 これに対して問答は、分離しています。元来は、問答は、他者に質問し、他者がそれに答える。あるいは他者から質問され、それに答える、と言う仕方で発生します。従って、問うことは、答えが得られなくても成立しうるし、答えることは、元来の他者の質問に答えることなので、問うことから相対的に独立して成立します。一人で行う自問自答の問答も、このような対話における問答が内面化されて成立することなので、問答は分離しています(もちろん、問いと答えは、意味論的には結合しています)。

 知覚報告の主語は、すでに相関質問の中に登場するはずです。したがって、知覚報告の主語が多くの場合単数になることは、知覚の対象が一つの統一を持つまとまりであるためではありません。むしろ順序は逆なのです。つまり、知覚報告の主語が単数なのは、相関質問の主語が単数であり、一つの個物についての知覚報告を求めているからこそ、その質問に答えるための探求は個物へ向かうのです。

 では、この相関質問はどのようにして発生するのでしょうか。それはより上位の問いに答えるためであると思われます。より上位の問いに答えるために、知覚報告が必要であるとき、それを得るための問いとして、ある個物についての問いが設定されるのです。

 次に知覚報告が肯定判断になるという特性について、検討したいと思います。

21 知覚報告の特徴 (20210613)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(知覚報告とその他の経験判断の関係について説明したいと考え、いろいろと考えてみたのですが、多様な論点があり思った以上に複雑で難しく、スッキリと説明できません。複雑に絡み合った論点を成立するためにも、知覚報告についてもう少し分析しておきたいとおもいます。)

#知覚報告の特徴

 多くの場合、知覚報告は、単称判断であり肯定判断であり現在形です。

 では、知覚報告はなぜ単称判断になるのでしょうか。私たちは常に多くの対象を知覚しているにもかかわらず、その中から一つの対象を選択してそれについての報告するのは何故でしょうか?それは、知覚報告が、問いに答えるための知覚的な探索の結果である知覚を記述するものであり、問いがすでに一つの対象を選択しているからではないでしょうか。以前にも書きましたが、知覚報告には、一般的につぎのような問答と探索発見の入れ子型の関係があります。

   Q1→探索→発見(知覚)→A1(知覚報告)。

Q1が「これは何色か?」であれば、これの色を探索し、これの色を知覚し、A1「これは白い」と答えることになるので、主語が単数形になるのです。多くの場合、問いにおいて既に主語が与えられています。問いが対象を指示し、答えが述定を与えます。こうして問答によって、指示と述定の結合、主語述語文の知覚報告が出来上がります。

 ただし、問いの主語が複数のこともあり得えます。例えば、「この二つのお皿は似ていますか」に対して、肯定で答えるとき、類似性の知覚報告は、複数形になります。

 「多くの場合、知覚報告はなぜ単称判断になるのでしょうか?」という問いに対する答えは、「知覚報告の相関質問の主語が、多くの場合単数だからである」となります。知覚報告の相関質問は、知覚に依拠して答えられるような問いです。このよう問いの主語が単数になることが多いのは何故でしょうか。

私たちが知覚できるのは個物だ、という回答では、不十分です。なぜなら、私たちは、複数の対象を知覚できるからです。

 この問題を考えてみます。

20 原-概念は暗黙的な概念である (20210609)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回「知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできない。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなさない。」と述べました。まずこれに補足したいと思います。

知覚(原-概念)は、知覚報告を正当化します。ただしこれは、通常の証明、つまりある命題の真理性から他の命題の真理性を証明することとは、次の二点で異なります。

第一に、知覚には構造がありますが、それが原-概念的構造です。この原-概念と概念の関係は、通常の概念同士の関係ではありません。<白い>ものを見ることが、「それは白い」と語ることを正当化します。それは<白いもの>と「白いもの」の定義に基づいています。この正当化は、定義とその記憶に基づいています。(これは、クリプキがアプリオリで偶然的な真理の例として挙げた「メートル原器は1メートルの長さです」が真であるのと同じ意味で、定義により真です。ただし、ここで知覚を知覚報告で表現することは、定義に加えて、定義の記憶に基づいています。)

第二に、知覚は、原概念ですが、正当化された原-概念ではないということです。知覚は、正当化されません。後で錯覚だと分かる時には、知覚は訂正され、否定されますが、錯覚や幻覚だと分からないとき、その知覚が正当化されているということではありません。なぜなら、知覚は、知覚報告を正当化するが、知覚は、知覚報告によって正当化されることないし、また他の知覚によって正当化されることもないからです。

 ただし、知覚の報告が、他の知覚の報告によって修正されることがあります。これは、知覚が後から錯覚や幻覚であると分かる場合です。

#原概念は暗黙的な概念である。

世界は、多様な仕方で知覚されることが可能であり、そこでは多様な原-概念が可能である。世界が現実にある仕方で知覚されるとき、原-概念が成立する。知覚において、態度や行為をアフォードする(促す)のは、対象や媒質や環境ですが、それらはある主体に対してアフォードするのです。つまり、知覚やアフォーダンスは、対象などと主体との関係として成立するのです。特定の対象と主体とのあいだにも、多様なアフォーダンスが可能ですが、ある対象は、様々な主体との関係において、様々なアフォーダンスを持ちえます。  

 その中である対象がある主体との間に、ある時点であるアフォーダンス(原-概念)が生じているとすれば、それを決定しているのには多くの要因があります。主体の側でいえば、その主な要因は、主体の探索だと言えるでしょう(例えば、ふいに物音がしたときに、動物が何だろうと注意することは、「探索反射」とよばれるようです)。

 このような知覚の記述が知覚報告です。知覚報告は、知覚を変化させないとおもわれます。「それは白い」という知覚報告も知覚を変化させないのです。それゆえにその時の知覚は<白さ>の知覚と考えられています。「それはリンゴだ」という知覚報告も、知覚を変化させず、素朴実在論が正しければ、知覚は事実そのものを知覚しているので、そのものなので、それに対応する事実が成立していることになります。そうすると、知覚報告に使用される概念が、知覚ないし事実そのもの中にも暗黙的に存在することになります。したがって、原-概念は、暗黙的な概念だと考えられます。

 次のように言えそうです。

 <原概念は、暗黙的な概念、あるいは概念化可能な性質であり、それが知覚報告で明示化されるとき、概念になる。原-概念は、動物が世界を知覚するときに成立するものである。アフォーダンスは、言語化すれば「…したい」「…した方がよい」「…できる」「…できない」などの規範的な原概念になる。>

 このような説明で問題がないかどうかまだ確信が持てませんが、このような説明のチェックのためにも、次から、知覚報告とその他の経験判断の関係について考えたいと思います。

20 原-概念について  (20210607)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

動物の知覚にもゲシュタルトがあると思われます。たとえば、光に向かう走性をもつ動物は、光の方向を知覚しています。光の方向は、ゲシュタルトであり、その動物にたいして、光ないし環境は、光源の方向に向かうことをアフォードしています。光の有無やや光の方向を知覚するとき、光の有無や光の方向という区別(原概念、分節化)が環境に内在しています。これは、物理現象であり、物理的な状態、性質、出来事である。カエルには、ハエを見たときに発火するニューロン・クラスタ-があることが知られています。それが発火した時、カエルは、無条件反射で舌を伸ばしてハエを捕まえます。カエルはハエをみたとき、その視覚刺激をハエのパターンとして認識しているのです。そしてそのハエの存在は、カエルに対して舌を伸ばすことをアフォードします。ところで、このような動物の走性、無条件反射、条件反射、オペラント行動は、物理的現象に反応していると言えるでしょう。

#このような物理現象は、言語が発生する前から存在しますし、それらのゲシュタルトやアフォーダンスの知覚もまた、言語の発生する前から存在するでしょう。そして、物理現象(光、ハエ、など)の定義は、語「光」「ハエ」の定義と同時に成立します。多様な物理現象のなかで、どの物理現象が定義されるのかは、それに対応する語の定義の有用性に依存するでしょう。

ノエは、知覚は原-概念的であるといいます。ノエによれば、知覚は、感覚運動的技能であり、「私が提案したいのは、感覚-運動的技能を、それ自身概念的、あるいは「原-概念的」な技能として考えるべきだということです(アルヴァ・ノエ『知覚の中の行為』門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、299)。

「例えば、感覚-運動的な「概念」とは、明らかに、言語を持たない動物や幼児も所有しうるような種類の技能なのであって、そうだとすれば、動物からの議論〔つまり、動物が知覚はしているが、概念を持っていないという議論〕は支持を得られないだろう。」(同訳299)

知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできません。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなしません。

 t0時のある知覚1がp1「これは白い」を正当化し、その後t1時の知覚2がp2「これは青い」を正当化するとき、p2は、p1とは両立しないので、p2から¬p1が帰結します。p1が否定されることによって知覚1が否定さます。つまり、p1は錯覚ないし幻覚であったことになります。

 とりあえず、物理現象がもつ原-概念と知覚判断の概念の関係をこのように説明できるのではないかと考えました。まだあいまいな部分が残っていますので、それを詰めながら、このような理解でよいのかどうか、検討したいと思います。

19 アフォーダンスの知覚と発話の下流推論 (20210605)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ギブソンは、行為や態度のアフォーダンスは客観的に実在し、それを直接に知覚すると考える(参照、ギブソン『生態学的視覚論』サイエンス社、152)ので、彼の知覚論は素朴実在論と親和的です。今回は、アフォーダンス論をもとに、動物の知覚と人間の知覚の関係、人間におけるアフォーダンスの知覚と発話の下流推論関係との類似性、について説明したいとおもいます。(アフォーダンスの説明については、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の19回~22回の記述を参照してください。)

 動物の場合のアフォーダンスの例は次のようなものです。ミミズは、棲家である穴の中の乾燥を防ぐために穴の入り口に松葉を詰めますが、そのときに、針のようになった先の部分が穴から出ていくときに突き刺さらないように、松葉の元の部分から穴の中に引き込んでいきます。松葉は、ミミズに対して、中から引きこむことをアフォードしています。

 人間の場合の例は次のようなものです。郵便ポストは手紙を入れることをアフォードします。もちろんこれは、郵便ポストがどういうものであるかを知っている人間に対してのアフォーダンスです。

 このようなアフォーダンスは、知覚に続いて一定の行為が続くことを促しています。例えば、熊が渓流をみれば、鮭を捕まえるようにアフォードされます。熊が鮭を探すとき、鮭のいそうな渓流は、そこで鮭を探すことをアフォードします。そしてそこに見つからなければ、他の渓流が、鮭を探すようにアフォードするでしょう。それを繰り返して、鮭を見つけることになります。このとき、この一連の行為は、鮭の発見をゴールとする一つの探索行為を構成するということもできます。他方で、これは沢山の探索と(鮭がいないことの)発見の繰り返しでからなります。鮭が見つかるまでの沢山の探索の連鎖は、互いに対して目的手段関係にはなっていません。しかし、その一連の行為を一つの探索行為とみて、次のような欲求と行為の連鎖の中に位置づける時、それは目的手段関係を構成することになります。

  <鮭を食べたい→鮭を捕まえたい→鮭を見つけたい(探索)→鮭を見つける(発見)→鮭を捕まえる→鮭を食べる>

ところで、熊は、このような目的手段関係を意識していません。熊の行動は、(おそらく)刺激と反射行動の連鎖で出来ています。それらの行動は目的手段関係の連鎖になっており、その目的手段関係の連鎖は客観的に成立しているのですが、しかしそれは熊が理解していることではありません。しかし、人間はそれを理解できます。人間の場合には、鮭を見つけることは、様々な目的と結合しうるし、鮭を捕まえることも、様々な目的と結合しうるし、鮭を食べることも、様々な目的と結合することが可能です。人間の場合には、これらの行動を選択し、目的手段の関係において結合しなければ、この連鎖は成立しないのです。したがって、目的手段関係を意識していることが必要です。これに対して、熊の場合には、鮭を見つけるのは、捕まえるためであり、捕まえるのは食べるためであり、食べるのは生存のためです。そこには行為の選択の余地はありません。それらを意識的に結合する必要はないのです。

人間がこのように複数の行為を目的手段関係で結合することは、それぞれの知覚や行為に伴っている問答もまた結合しているということです。その結合の基本となるのは、二重問答関係です。人間の場合の知覚をめぐる問答は、単独の問答ではなくて、より上位の問いに答えるために行われ、二重問答関係を構成します。この二重問答関係は、時間的な(全体と部分の)入れ子構造になりますが、他方では論理的な(目的と手段の)入れ子構造になります。例えば、つぎのような二重問答関係になります。

  <Q2「どこで鮭を捕まえようか」→Q1「鮭はどこにいるのか」→探索→(鮭の)知覚→A1(知覚報告「ここに鮭がいる」)→A2「ここで鮭を捕まえよう」>

  <Q2「手紙を送るにはどうすればよいのか」→Q1「どこかにポストがないだろうか」→探索→(ポストの)知覚→A1「ここにポストがある」→A2「手紙をこのポストにいれるのがよい」>

動物の知覚も人間の知覚もアフォーダンスの知覚であり、(一定の条件がそろえば)一定の態度や行為が続くことになります。動物の場合には、その態度や行為は、走性、無条件反射、条件反射、オペラント行動、などであり、いわば自動的に連鎖していくのです。それに対して人間の場合には、それらの知覚や態度や行為は、それぞれ探索や問いに対する答えとして成立し、二重問答関係を構成します。二重問答関係(Q2→Q1→A1→A2)におけるA1からA2への推論はA1の下流推論ですので、アフォーダンスは、下流推論を促していると言えます。

次に、動物と人間の知覚や行為における概念について考えてみたいと思います。

18 知覚のゲシュタルトと発話の焦点の類似性 (20210603)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(もう一度、人間の「言語的な知覚」について説明します。)

#性質<白い>の定義と語「白い」の定義

オースティンが指摘したように、対象<象>を定義することと語「象」を定義することは不可分であり、どちらか一方だけを先に行うことはできません(『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、「第5章 真理」、191)。それと同様に、性質<白い>の定義と語「白い」の定義も不可分です。「これは白い」という知覚報告が可能であるのは、そこで使用される知覚語の定義を学習しているときであり、そのときには知覚的性質の定義の学習も終わっています。したがって「どれが白いですか?」と問われたとき、その問いを理解しているのならば、語「白い」を理解しており、したがって知覚される対象(「これ」)についても、その知覚的性質<白い>の定義は完了しており、その知覚的性質<白い>を理解しています。

人間の「言語的な知覚」とは、知覚語と同時に定義されている知覚的性質についての知覚です。したがって、私たちが、知覚語を理解している時には、それを用いた知覚報告を行うことが可能になります。

#知覚のゲシュタルトと発話の焦点の類似性

・知覚のゲシュタルトは、発話の焦点と似ています。発話の焦点位置は、相関質問によって決定しますが(参照『問答の言語哲学』第二章)、知覚のゲシュタルトもまた、問いないし探索によって決定するでしょう。有名な老婆と若い女性の反転図形がありますが、それを老婆の絵が並んでいるところにこれをおけば、それは老婆の絵として知覚されるでしょう。若い女性の絵が並んでいるところにおけば、それは若い女性の絵として知覚されるでしょう。このようにゲシュタルトが変化するのは、その絵をみるときに「どんな老婆だろう」とか「どんな若い女性だろうか」という問いかけ(探索)をしながら見ることになるからです。ゲシュタルトの違う知覚は、異なる問い(探索)に対する答えです。

・発話の焦点位置が、より上位の問いに依存するように、知覚のゲシュタルトは、行為のより上位の目的に依存する。知覚は、行為の仕方であり、行為にはより上位の目的があるので、全ての行為は、探索である。知覚のゲシュタルトは行為のより上位の目的に依存する。

・発話の焦点が二重問答関係をもつように、知覚のゲシュタルトも問答と探索発見からなる二重の関係をもつ。知覚のゲシュタルトは、相関する探索によってきていされ、ゲシュタルト知覚からの下流推論は、相関する探索のより上位の問いに答えるプロセスである。

   「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」

次回は、動物の非言語的な知覚と人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのかを考えたいと思います。

17 知覚と知覚報告と問い (20210602)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーの01回から03回は、認識についての問答の区別を論じました。04回から16回は、錯覚論証の検討に始まり、脳科学と素朴実在論の結合(これを「結合説」と呼ぶことにします)を提案しました。「結合説」の説明および証明にはまだほど遠いのですが、そのためにも、ここからしばらく知覚と知覚報告について考察したいと思います。

#知覚と知覚報告と問い

日常の最もありふれた認識は、知覚報告です。「これは白い」「これは汚れている」などです。このような知覚報告はどのようにして生じ、それが真であることを保証するものは何でしょうか。

 「これは白い」という知覚報告の真理性を保証するのは、知覚ですが、その知覚はたとえば「どれが白いですか」という問いに答えようとして、注意してみることによって成立します。「どれが白いですか」という問いを受けて、目の前にあるいくつかの対象をみて、それぞれが白いかどうか、に注意します。

 この問いを理解する者は、「白い」を理解しています。「白い」の理解は、この語の意味を学習によります。その学習は、いくつかの対象について、問い「これは白いか」に対する正しい答え「はい」ないし「いいえ」を学習する、という仕方で行われます。この学習に基づいて、新しい対象について「これは白いか」という問いに正しく答えられるようになる時、学習が終了したことになります。

 このようにして「白い」を学習している人が、「どれが白いですか」と問われて、目の前の対象を知覚するとき、それが「白い」と言えるかどうかを自問しながら、その色に、あるいは「白さ」に注目して、知覚します。このときの知覚行為はどのように行われるのでしょうか。ここに次のような問答と探索発見の二重の関係を見つけることできるでしょう。

  「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」

対象が白いかどうかに注意して見ることは、探求の一種です。問答は、言語による探求ですが、言語によらない知覚的な探求をとりあえず「探索」と呼びたいと思います。言語をもたない動物も探索を行います。

 ただし、ここでの探索は、対象について「それは白い」と言えるかどうかの弁別であり、そのための知覚です。したがって、この知覚は、言語的な世界の中を動いており、この知覚は、言語的な世界の中での「行為の仕方」(ノエ)であり、言語的な世界の中での「行為のアフォーダンス」(ギブソン)です(これらについては、後述します)。その意味で「言語的な知覚」だと言えるかもしれません。

 ところで、動物の知覚は、非言語的な知覚です。これは人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのでしょうか。

16 第二性質と素朴実在論 (20210530)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

素朴実在論に対する最も基本的な批判としては、色や匂いなどの第二性質が対象そのものに属していないということがあります。色そのものは、対象には属さず、対象の表面で反射する光が眼に入って生じる性質だと考えられます。しかし、素朴実在論者ならば、対象そのものが色をもつと考えるはずです。この矛盾をどう考えたらよいでしょうか。

私たちが色をどう知覚するかを考えてみましょう。私たちは、面を見て、そこに色を見ないことはできません。つねに何らかの色を見るでしょう。しかも、同じような条件下では、同じような色を見ます。その意味で、色は一回的なものではなく、反復可能なものです。色は、対象の表面そのものがもっている性質ではないかもしれませんが、対象の表面が太陽光のもとで光を反射して網膜の視神経を刺激して、その発火が大脳に伝わり視覚野で一定の発火パターンをもつときに付随する感覚です。ここには、形や大きさという第一性質の知覚の場合とは異なる主観的な現象が生じているわけではありません。色は知覚の状況によって変わって見えますが、形や大きさも知覚の状況に応じて変化して見えます。円盤は斜めからは楕円に見え、沈む夕日は大きく見えます。

したがって、第一性質と第二性質を区別して、第一性質についてだけ、対象の性質そのものを知覚しているとは言えません。つまり、いわゆる第二性質の存在は、素朴実在論とは矛盾しないのです。

15 視覚パーツと触覚パーツ (20210529)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

視覚空間と触覚空間がズレているときでも、私が見ているのはマグカップそのものであり、触っているのはマグカップそのものです。ただし、そのときに見ているものと触っているものが、同一だと思えないということが生じています。このような事態は素朴実在論とは矛盾しません。視覚と触覚がそれぞれ対象そのものを捉えており、その二つをどのように統合するかが問題だからです。二つの空間の同一化を再構築するとき、対象を適切に捉えることができるようになりますが、しかしそれができる前でも、対象そのものを捉えていたと言えるからです。対象の視覚パーツと触覚パーツがバラバラになっており、うまく組み合わせることができていないけれども、視覚パーツそのものと触覚パーツそのものは与えられていると言えるのです。先天盲の人は、触覚パーツだけを対象そのものとして理解しています。もちろん、視覚パーツがあることを聞いて理解していますが、それがなくても、その人は対象そのものを捉えているのです。また、例えばコウモリの空間認識のように、人間にはないような感覚器官をもった生物がいれば、それは対象について人間が知らないパーツを持っているかもしれません。

このように理解するとき、逆さ眼鏡の経験は、素朴実在論と矛盾するものではありません。