[カテゴリー:問答の観点からの認識]
サールによれば、知覚の哲学には、伝統的に3つの立場(素朴実在論、表象説、現象主義)があります。(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、78)。「素朴実在論」とは、知覚の対象は、対象そのものであると考える立場です。「表象説」とは、「視覚経験ないし感覚与件は何らかの意味で物的対象の模写ないし表象であるとされる」(同訳80)立場です。「現象主義」とは、「その対象は何らかのしかたでまさに感覚与件の集まりに他ならないとされる」(同所)立場です。
彼は「表象説」と「現象主義」を次のように批判します。「表象説」には次のような難点があります。「「知覚されるもの、すなわち感覚与件と、その感覚与件の表象するもの、すなわち物的対象とのあいだの類似を主張するとしても、その対象の項が定義上感覚に与えられえないものである以上、両者の間の類似という概念も了解不可能なものとならざるを得ない。」81そして、「現象主義」の難点は、「それが独我論に帰してしまう」(同訳81)ということです。
この二つの立場は、どちらも知覚の対象を「感覚与件」と見なす立場(感覚与件論)です。サールは、この感覚与件論に対して、感覚与件ではなく対象そのものを知覚すると考える素朴実在論者を対比させますが、次のようにどちらも批判しています。
「伝統的感覚与件論者は、われわれが視覚的であれ他の形においてであれ経験を有していることを見て取った点においては正しかったのであるが、他方その経験が知覚の対象であると想定することにおいて、知覚の志向性の所在を誤って位置付けてしまった、ところが逆に素朴実在論者の側では、物的対象ないし出来事が本質的に知覚の対象であることをみてとった点においては正しかったのであるが、他方彼らの多くのは、知覚が志向内容を有しており、その志向内容の担い手が視覚経験であるからこそ、物的対象も視知覚の対象たりうる、という点を見損ねてしまったのである。」(同訳82)
サールは、素朴実在論が「知覚が志向内容をもつこと」を見損なっているとして批判します。つまり、知覚は志向性を持ち、適合の方向を持つということをみそこなっているということではないでしょうか。もし知覚が事実に適合するという「適合の方向」を持つと考えるならば、確かに、直接実在論は採用できなくなります。
ただし、サールは、これに続くところで、知覚の因果説を批判して、素朴実在論をとろうとしているように読めます。
「知覚の因果説」とは、上記の「表象説」が知覚表象の説明のために主張する立場です。「知覚の因果説」は、視覚経験がある時、対象が原因として、視覚経験を引き起こしている、と考えます。言い換えると対象が知覚を引き起こす原因として対象が存在すること(あるいは、対象が然々の状態にあること)を推論します。しかしサールは知覚の因果説をとりません。その理由は、対象が知覚の原因であることを推論しても、そのことを確証できないからです。
サールは次のように言います。
「車が私の視覚経験を引き起こしていることを、私は決して推論する(知る、あるいは見出す)のではない。私は端的に車を見ているのである。」(同訳101)
「その車が私の視覚経験を引き起こしたという知識は、私が車をみているという知識から引き出されてくるのであり、決してその逆ではない。」(同訳102)
「私はそこに車が存在することを推論するのではなく、端的にみているのである。」(同訳102)
このように、サールは車が存在することを「端的にみている」というのですから、素朴実在論を採用していると言えそうです。
前述のように他方で、サールは、知覚の志向性を認めます。私は現在、知覚に志向性を認めない方がよいと考えています。なぜなら、知覚が世界に適合すべきだとするということは、車の知覚と車を区別することになるからである。したがって、素朴実在論を認めることと両立しないと思われるからです。
私は、脳科学と知見と素朴実在論が両立するだけでなく、それを結合できると考えています。では、サールは、脳科学の知見とこのような知覚論の関係をどう考えるのでしょうか。次にそれを確認しておきたいと思います。