36 「分析的に真」と「アプリオリに真」の新定義の提案 (20210724)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、クワインの「分析的に真」への批判を踏まえてうえで、その困難を回避する仕方で、「分析的に真」「アプリオリに真」などの定義を提案したいとおもいます。

#クワインによる「分析的に真」への批判

クワインは論文「経験論の二つのドグマ」で分析的真理の定義の試みが失敗することから、分析的真理と綜合的真理の区別を否定しました(この概略については、私の以下の講義ノートをご覧ください。

https://irieyukio.net/KOUGI/kyotsu/2018SS/2018ss03%E3%80%80%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%A8%E7%B6%9C%E5%90%88%E3%81%AE%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%81%AE%E5%90%A6%E5%AE%9A%20.pdf)

この論文で、クワインは「分析的に真」の「意味論的規則」による定義がつぎのような欠点を持つとして、それを諦めます(他にも論点はあるのですが、私は最も重要なのは、これだと思っています。

「意味論的規則」の概念を用いて定義しようとすれば、「言明Sが言語L0において分析的であるのは、…」という仕方の意味論的規則になるのですが、これを理解するためには、一般的関係名辞「において分析的」を理解していなければなりません(参照、クワイン「経験主義の二つのドグマ」『論理学的観点から』飯田隆訳、岩波書店、1992、50)しかし、「どの言明がL0において分析的であるかをいうことによって説明されるのは「L0において分析的」であって、「分析的」や「において分析的」ではない」(同訳、51)

このようにして、クワインは、「意味論的規則」によって定義しようとするとき、言語に依存しない形で「分析的に真」を定義できないことを指摘しました。

#クワインの批判に応える「分析的に真」の新定義の提案

以上のクワインの議論には、多くの批判がありますが、私はそれらの批判はクワインへの応答としては不十分だと思っています。私は、クワインの議論を批判するのではなく、クワインやその批判者とは、全く違った仕方で「分析的に真」を定義することを提案したいとおもいます。それは、「分析的に真」を文や命題の性質としてではなく、問答の関係の性質としてとらえるという定義です。

(これは、命題の意味を問答関係として捉え、そこから知識を問答関係として捉え、さらにその知識の定義から、真理を問答関係として捉える、というアプローチです。)

 まず、次の定義を提案したいと思います(提案の検討は、少しづつ行うことになるとおもいます。)

#「分析的真」と「アプリオリに真」などの定義

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLの疑問表現と論理的概念だけを含み、Qの内容とその意味論的前提から、Lの論理的規則だけをもちいて、pを導出できる>とき、Qとpの問答関係を「分析的に真」という。

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLの疑問表現と論理的概念と経験的概念を含み、Qの内容とその意味論的規則と語用論的前提によって答えが得られる時、その問答を「アプリオリに真」という。つまり、アプリオリに真という性質は、問答関係がもつ性質である。(また、アプリオリに真なる問答関係の答えを「(派生的に)アプリオリに真」と呼ぶことにする。)

・<言語Lがどのような言語であっても、言語Lで表現される問いQと文pにおいて、QがLでの疑問表現と論理的概念と経験的概念を含み、Qの内容の理解とその意味論的規則、語用論的前提、知覚、他の経験的命題によって答えが得られる時、その問答を「アポステリオリに真」と言う。つまり、アポステリオリに真と言うその答えを「綜合的かつアポステリオリに真」であるという。

なお正しい問答関係であって、「分析的に真」でないものを、「綜合的に真」なる問答関係と呼ぶことにする。上記の「アプリオリに真」なる問答関係は、「分析的に真」なるものと「綜合的に真」なるものとに区別される。

繰り返しになりますが、「分析的に真」「アプリオリに真」「アプリオリに真」という性質は、問答関係が持つ性質であり、分や命題の性質ではありません。そのように捉えようとすると、クワインが指摘した困難に陥るからです。

この定義に対して、次の反論があるかもしれません。

反論1:この定義は日本語で書かれている。したがって、この「分析的に真」の定義は、日本語にとっての定義であり、クワインが指摘した問題は生き続けている。

この反論には、次のように答えたい。<この定義は、日本語で書かれているが、他の言語にも翻訳可能である。その限りにおいて、この定義を翻訳可能な言語にとっては、この定義は妥当する。>

反論2:この定義のなかの「論理的規則」「意味論的規則」の定義が言語に依存する(クワインはその点を指摘していた)のだから、この定義はやはり言語相対的である。

この反論には、次のように答えたい。<私たちは、「論理的規則」とは、論理的語彙の導入規則と除去規則であり、「意味論的規則」とはその表現の導入規則と除去規則であると考えることができる。言語表現の「導入期測」と「除去規則」の意味は、もはや言語に依存しないといえるのではないだろうか。>

以上の議論は、「論理的概念」と「経験的概念」の区別を前提しているので、この区別を次に考えたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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