96 仕切り直し、語と対象、文と事実、問答推論、などの学習(Toward a reorganization: Learning words and objects, sentences and facts, question and answer reasoning, etc.)(20231216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(長く中断してすみません。考えあぐねていました。93回~95回の議論を仕切り直して、もう一度論じたいと思います。論じたいのは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」です。なぜなら、問答推論に着目して認識論を論じようとするならば、認識が成立するとは、問いに対する答えが真となるということに他ならないからです。この問いに取り組前に、今回は準備段階として、語、文、問答などの学習がどのように行われるのかをセッツ名したいと思います。)

#語と対象、文と事実、問答推論、などの学習

<語の学習は対象の学習と不可分である>

語「リンゴ」の学習は次のような問答によって行われるでしょう。

  「これはリンゴですか?」「これはリンゴです」

  「これはリンゴですか?」「これはリンゴではありません」

学習者がこのように問い、教師役のひとが このように答えを教えてくれます。このような問答を多くの対象について学習します。。それに基づいて、まったく新し対象について「これはリンゴですか?」と自問したり他者から問われたりしたときに「これはリンゴです」とか「これはリンゴではありません」と正しく答えられるようになった時、語「リンゴ」を学習したと言えるでしょう。

この時同時に、私たちは対象<リンゴ>が何であるかを学習しています。オースティンが指摘したように、語の学習と対象の学習は、同一のプロセスで行われる(注、オースティン「真理」信原幸弘訳、『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、191)。語「リンゴ」の学習と対象<リンゴ>の学習は不可分であり、同時です。つまり<語の意味の学習と語の指示対象の学習が不可分です>。(これは、フレーゲのSinnとBedeutungに対応します。)

<語の学習は、文の学習と不可分であり、さらに問答の学習と不可分です>

このような語と対象の学習において、同時に、「これはリンゴですか」という疑問文で問うことの学習と、「はい、これはリンゴです」あるいは「いいえ、これはリンゴではありません」という平叙文で答えることの学習も行っています。それゆえに、語「リンゴ」の学習と文「これはリンゴである」の学習は不可分に結合しています。「リンゴ」を学習するには、「これはリンゴである」がどのようなとき使用できるのか、どのようなときに使用できないのかを、学習する必要があります。そして、これを学習するためには、上記のような問答が必要です。それゆえに、語の学習は、文の学習だけでなく、問答の学習とも不可分に結合しています。

  

<この問答を学習するには、どうすればよいのでしょうか>

この問答の学習には、二種類のケースがあります。

一つの場合は、この学習が「これは、…ですか」とか「これは…です」のという一般的な形式の理解を前提として、この…に「リンゴ」を入れた疑問文や平叙文の理解として生じる可能性です。この一般的な形式の理解は、このような問答をいくつか学習し、そこからの抽象によって得られるでしょう。

もう一つのケースは、この問答の学習が、このような一般的な形式の理解を前提としておらず、初めてこの形式の問答を理解することになる可能性です。この後者のケースが、より原初的であるので、それがどのようにして可能になるのかを考えてみましょう。

幼児が最初に語を使用し始めるとき、それは一語文でしょう。親も亦、ミルクを手にもって振りながら「ミルク」という一語文を語るでしょう。最初から「これはミルクです」という文を理解することは難しいからです。

ミルクビンを手にもって、それに注意を向けるためにそれを揺らしながら、「ミルク」と発話するとき、「手に持っているこれが、ミルクだよ」というつもりで語っています。

ミルクビンを手にもって幼児の目の前で揺らすとき、おとなと幼児がそれに共同注意することが成立します。そのとき「ミルク」ということによって、共同注意の対象を「ミルク」と呼ぶことが成立します。

ミルクビンを振ると、それは変わった動作なので幼児はそれに注目します。そして大人もまたそれに注意を向けていること、おとなと幼児がミルクビンに注意しそのことを互いに気づいているとき、おとなが「ミルク」というとき、おとなと幼児は、「ミルク」という発話にも共同注意するでしょう。幼児は、そのとき大人が「ミルク」という発話と対象を結び付けていることに気づくでしょう。そのようなことが繰り返すことによって、幼児はその対象と「ミルク」という発話を結合します。大人が「ミルク」というときその対象のことを考えているのだと考えるようになるでしょう。

大人がミルクビンを指さして「ミルク」と発話することを繰り返せば、幼児は大人が指さしたものへの大人との共同注意を行うことができるようになるでしょう。これが学習で来たならば、対象を指さしとき、「ミルク」と発話することを求めていると考えるようになるのではないでしょうか。あるいはそう考えていなくても、そのとき「ミルク」といったら大人が喜ぶ様子を見ることを反復すると、ミルクビンを大人が指さしたら「ミルク」というようになるかもしれません。ちなみに、これはオペラント反応ではありません。なぜならオペラント反応は反射の一種であり、それを思考とは言えませんが、ここでは思考が行われているからです。相手が何を指さしたときに、それの呼び方を求めているのだと考えることは、それまで反復されていた指さし行為を見るという、経験と記憶に基づいた、推論によることだからです。つまり、ここではある対象を指さすことは、それの呼び方を求めることになります(これは言語的な問いのもっとも原初的な形態であるでしょう。)

同様にしてある対象指さしながら「これ」と発話し、対象に共同注意し、同時に「これ」という発話にも共同注意することを繰り返せば、「これ」と指さしている対象が結びつき、「これ」という発話で、指さしている対象に注意を向けるようになるでしょう。そして、今度は、ミルクビンだけでなく、スプーンやおもちゃなど様々な対象をもって振ったり、指さしたりしながら、「これ」と大人がいうのを、対象と「これ」の発話に共同注意をするとき、「これ」という発話は、おとなが手に持っている対象や、指さしている対象と結びつくことになるでしょう。

「これ」と発話してある対象を指さし、次に「ミルク」と発話することを繰り返せば、「これ」の指示対象と「ミルク」という発話が結びつくようになるでしょう。このような学習が進めば「これ、ミルク」という発話で、「これ」の指示対象を「ミルク」と呼ぶことを学習するようになるでしょう。

同様にして、「これはおしゃぶり」「これはおもちゃ」「これはランプ」なども学習すれば、ある対象を指さして「これは」といえば、それに続いて、「ミルク」「おもちゃ」などの対象の名前を発話することを求めているのだと理解するようになるのではないでしょうか。

ここでは「これは」という発話は、「これ」の指示対象の呼び方を問うことです。これは疑問表現を用いないで問うことである。「これ」の指示対象の呼び方を問うことを明示化するために、「これは何」「これはミルク」、「これは何」「これはおもちゃ」などの発話のペアを大人が聞かせれば、「これは何」で「これ」の指示対象の呼び方をもとめているのだと理解するようになるでしょう。こうして「何」という疑問詞の使用法を理解するようになるでしょう。

このようにして問答が成立するとき、私たちは問いに対する答えが真であると考えるが、それはどういうことでしょうか。それを次に考えたいとおもいます。

95 推論規則MPの正当化とその事例の正当化区別から仕切り直しへ(the distinction between the justification of the inference rule MP and the justification of its cases — toward a reorganization) (20231204)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#推論規則MPの正当化とその事例との正当化の区別

「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと考える者は、「これがリンゴである」を真であると考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。したがって、「これがリンゴであるならば、これは果物である」と「これはがリンゴである」を共に真だと考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。つまり<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これはがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと考えます。

以上を認めるとします。つまり、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと認める者は、<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと認めることになります。

この推論の形式を一般化すれば、MPとなります。したがって、このような推論を数多く行えば、それらかの一般化によって、明示化されたMPを獲得できるかもしれません。それが獲得できたならば、この推論は、MPの一事例であることになります。

このように考えるとき、私たちは、第一段落のような推論からMPを(帰納ないし一般化によって)正当化しているのであって、MPを用いてこの推論を行ったのではありません。

では、冒頭の段落の推論はどのようにして成立したのでしょうか。それは「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だとみなすことに依拠していました。p→rと考えることから、p→r、p┣r と推論することになったのです。p→rを真だとみなすことは、暗黙的にp→r、p┣rという推論できるということを含んでいるのです。

これまで、推論はMPによって行われ、それはp→rのような条件文を使用するので、p→rの真理性を考えてきました。しかし、推論はMPによって正当化されるとは限らないことが、わかりました。推論規則MPの妥当性が正当化された後には、MPに依拠して推論をおこない、それを正当化することができるのですが、MPの正当化が行われる前に、MPに依拠しないで私たちは推論をしているのです。それがより原初的な推論です。

#仕切り直しへ

わたしたちは、93回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことかを考えてきました。

問いに対する答えが正しいとは、問いが理論的な問いである場合には、答が真であることであり、問いが実践的な問いである場合には、答が適切であることだと考えます。認識は理論的な問いに答えることであるので、認識の正当化とは、理論的な問いに対する答えが真であることであり、問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、考えてきました。その際、問いに対して知覚に依拠して答える場合と、推論によって答える場合にわけて、考察してきました。そして、推論は、MPに依拠して行われると考えてきましたが、原初的な推論はMPに依拠しないと思われることがわかりました。

さらに、実はこの原初的な推論においては、問いに対して知覚に依拠して答えることと、推論によって答えることの区別もまた曖昧になってきます。そこで理論的問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、次回から、仕切り直して論じることにしたいと思います。

95 因果関係の正当化とMPの正当化(Justification of Causality and Justification of MP) (20231130)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(2)の因果関係は、経験によって認識され正当化されるだろうが、それは具体的にはどのようになされるのでしょうか。

 例として、次の因果関係を考えてみましょう。

  「雨が降る」→「道路が濡れる」

前件の「雨が降っている」という文の学習は、「今ここで雨が降っていますか」「はい、今ここで雨が降っています」という問答を学習することを繰り返すことによって、新しい状況で「今ここで雨が降っていますか」という問いに正しく答えられるようになることによって完了します。「雨が降っている」という前提が成り立つことは、規約の学習と、規約を学習したときの事態の知覚と問答の時点での事態の知覚の類似性によって正当化されます。

 後件の「道路が濡れている」という文の理解は、次のようになされるだろうと思います。「これは道路である」と「これは濡れている」についての(「これはリンゴである」の場合と同様の)学習を前提するとき、「この道路は濡れていますか」という問いに、「この道路は濡れています」と正しく答えることができるはずです。それは、「この道路」の指示対象の知覚が、「これは濡れている」を学習したときの対象の知覚と類似していることの認識によって成立するはずです。

 この前件と後件の恒常的な結合の認識、つまりこの因果関係の認識は、雨が降っていることを認識し、その雨が道路を濡らしていることを認識し、雨が降ると道路が濡れることを認識することを繰り返すことによって、「雨が降ると、道路が濡れる」を帰納推理することよって正当化されるでしょう。

#MPの正当化について

  p、p→r┣r

このMPが成立することは、p→rが成立するとは、pが成立したらrが成立するということです。したがって、「p→rが成立している」と考えるとは、「pが成立したら、rが成立する」と考えることです。それゆえに、「p→rが成立している」と考えるときに、「pが成立している」と考えるならば、「rが成立すると考えることになります。つまり、「p→rが成立している」と考えることは、「p、p→r┣rが成立する」と考えることを暗黙的に含んでいます。

したがって、条件文(p→r)の正当化は、暗黙的にMPの正当化を含んでいます。次に進む前に、この観点から、もう一度、条件文(p→r)の正当化を振り返ってみたいと思います。

94 問いに対する推論による答えの正当化(Justifying the answer to the question by reasoning) (20231128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#問いに対する推論による答えの真理性の正当化について

*実質推論の学習と実質問答推論の学習

語や原初文の学習が規約の学習として成立するが、原初的な推論の学習には、規約の学習として成立する場合とそうでない場合があります。他の推論に依拠しない原初的な推論を「実質推論」と呼ぶことにします。「実質推論」もまた、問いに答えるプロセスとして成立し、暗黙的な相関質問をもちます。「実質推論」は、暗黙的な「実質問答推論」です。暗黙的な相関質問を明示化すると、明示的な「実質問答推論」となります。

*推論の基礎p→r

推論の基礎は次の推論規則MPです。

p、p→r┣r

これの基礎はp→rという命題です。p→rは、pが成立したら、rが成立するという関係にあるということです。MPの正当化を考える前に、ここではp→rという形式の条件文や信念はどのようにして生じ、正当化されるのかを考えたい。p→rの信念は、次の種類に分けられるます。これらがどのようにして生じるのかを考察しよう。

(1)論理関係がその一つである。

「これはリンゴである」→「これは果物である」

「全てのカラスは黒い」→「このカラスは黒い」

    「これはリンゴである」→「少なくとも一つリンゴがある」

           「これは果物ではない」→ 「これはリンゴではない」

    「このカラスは黒くない」→「全てのカラスが黒いのではない」

    「リンゴは一つもない」→「これはリンゴではない」

(2)因果関係がその一つである。

    「雨が降る」→「道路が濡れる」

    「道路が濡れていない」→「雨が降っていない」

  • の論理関係は、概念間の無時間的概念関係です。この無時間的概念関係は、規約に基づくものであり、規約が変化しない限り変化しない確実な関係である。この論理関係の学習は、次のように行われるでしょう。

「リンゴ」の学習は、「これはリンゴですか」「はい、これはリンゴです」「いいえこれはリンゴではありません」などの正しい問答を何度も教えられて、新しい対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、正しく答えられるようになった時に完了すると説明しました。このとき、リンゴとリンゴでないものの区別ができるようになっています。

同様にして「ナシ」を学習したとしましょう。。このとき、「あるものがリンゴでありかつナシであることはない」ということは、「リンゴ」「ナシ」の学習を終えている者には、「リンゴ」と「ナシ」の意味から推論できます。「リンゴでありかつナシであるものはない」や「リンゴであるものはナシではない」「ナシであるものはリンゴではない」は、「リンゴ」と「ナシ」の意味に基づいて推論され、正当化されることになるでしょう。

次に、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法について考えてみます。これを全称命題に変形したものが「(全ての)リンゴは果物である」という命題になります。これらの認識の発生について考えてみましょう。

「果物」という語の学習はどのように行われるのでしょうか。一つの可能性は、「リンゴ」の学習と同様に、多くの対称について「これは果物ですか」「はい、これは果物です」「いいえ、これは果物ではありません」という問答を学習して、未知の対象についての「これは果物ですか」という問いに、正しく答えられるようになるということです。この場合は、「リンゴは果物である」は(「リンゴはナシでない」の場合と同様に)、「リンゴ」と「果物」の意味に基づいて推論され、正当化されます。

もう一つは、「木や草になる間食用の果実」などの、定義によって、「果物」という語の意味を学習することです。これは、定義に用いられる語の学習を前提としますが、それを前提できるとします。この場合、「リンゴは、木や草になる果実である」と「リンゴは、間食用である」が言えれば、「リンゴは、木や草になる間食用の果実である」が推論でき、そこから「リンゴは果物である」が推論できます。

「リンゴは、木や草になる果実である」は、「リンゴは、木になる果実である」から推論できます。「リンゴは、木になる果実である」は、対象<リンゴ>が性質<気になる果実である>をもつこと(木になっていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

「リンゴは間食用である」は、(「間食用」を学習済みであるとすると)対象<リンゴ>が性質<間食用>をもつこと(間食に食べられていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

次に、p→rが(2)因果関係を表示する場合を考察したいと思います。(MPの正当化の説明は、そのあとになります。)

93 認識の正当化:問いに対する真なる答えの正当化 Justification of the true answer to the question (20231127)

(Justification of recognition: Justification of the true answer to the question) (20231127)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(これまでのこのカテゴリーでの議論の歩みについては、カテゴリーの冒頭の(書き直した)説明をご覧ください。ブランダムの概念実在論の考察にいずれ戻ると思いますが、しばらく、問いに対する答えが真であることをどうやって正当化できるのかを論じたいと思います。まず、基本的な知覚報告から考えます。

#知覚報告「これは赤い」の真理性

「あかい」の学習は、「これは赤いですか」に対して「これは赤い」とか「これは赤くない」という正しい答えを学習することによって、行われる。このような学習を繰り返して、未知の対象についての「これは赤いですか」という問に、正しく答えられるようになるとき、語「赤い」を学習したと言えます。このプロセスは、性質<赤さ>を学習するプロセスであり、「これは赤い」という文の意味学習するプロセスでもあります。

「これは赤い」が真であることは、語「赤い」を学習したときの諸事例と、問われたときの事実が類似しているということによって、正当化されます。

この類似性は、語の学習時の事例の記憶に基づきます。この記憶の正しさの問題は、私的言語の問題と似ている。それは、感覚Eにたいする私的言語の使用が規則に従っているかどうかは、判定できないという問題と、似ています。規則遵守問題が、言語共同体の承認によってしか解決できないのだとすると、知覚報告は、社会的承認によって正当化されることになります。

「赤い」を学習したときの諸事例の類似性は、社会的承認によって正当化されます。言語を学習するとは、言語表現の使用規則を学習することです。また学習後の「これは赤い」という知覚報告の真理性もまた、社会的承認によって正当化されます。

次に、問いに対する推論による答えの正当化について説明したいと思います。

60 問答の、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別 (20230618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前々回(58回)に、疑問表現を使用しない問答を「暗黙的問答」、疑問表現を使用した問答を「明示的問答」と呼ぶことにしました。次に、(前回(59回)紹介した)ブランダムの「実質的推論」の定義にならって、「実質的問答」を次のように定義したいと思います。

実質的問答」とは、「問答関係の正しさが、その問と答えの概念内容を決定するような種類の問答」です。これとの対比で、「問と答えの概念内容にもとづいて、問答関係の成立を説明できる問答」を「形式的問答」と呼びたいと思います。

さて、このように定義した「実質的問答」は存在するでしょうか。まず明示的問答の前に成立していたと考えられる「暗黙的問答」は、実質的問答でしょうか、形式的問答でしょうか。いまだ疑問表現を持たない言語、あるいはまだ疑問表現を学習していない幼児を考えると、その場合の

「これは」「リンゴ」

というような問答は、これらが問答関係になることを、それぞれの発話を構成する表現(「これは」「リンゴ」など)の意味から説明することはできません。したがって、これは「実質的暗黙的問答」です。また、形式的問答が成立するには、疑問表現が言語に導入されていること、また疑問表現を幼児が学習済みであることが必要になることがわかります。

ところで、疑問表現を使用する明示的問答が最初に登場するとき、疑問表現の意味はまだ曖昧です。その意味は、その使用において明確になり構成されるでしょう。したがって、この段階の明示的問答は、問いと答えの意味に基づいてその問答関係を説明することはできません。したがって、この問答関係の正しさから、問いを構成する疑問表現の意味が説明されるでしょう。つまり、少なくとも当初の明示的問答は、「実質的明示的問答」です。

こうして疑問表現の意味が成立し、また習得されたとすると、「形式的明示的問答」が可能になります。一旦「形式的明示的問答」が成立すると、これに含まれる疑問表現を省略したものとして、「形式的暗黙的問答」が可能になるのだと思われます。

まとめると次のような順序で成立することになります。

<実質的暗黙的問答→実質的明示的問答→形式的明示的問答→形式的暗黙的問答>

前回は推論についてて次の順序で成立すると述べました。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的暗黙的推論→形式的明示的推論>

しかし、この最後の二つの順序は次のように逆にすべきでした。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的明示的推論→形式的暗黙的推論

論理的語彙の意味が学習されて、形式的推論が可能になり、形式的明示的推論が成立した後で、はじめて、そこから論理的語彙を省略して形式的暗黙的推論が可能になるからです。

さて、以上を踏まえて、私たちが日常的によくおこなう暗黙的問答は、「実質的暗黙的問答」なのか「形式的暗黙的問答」なのか、を考えたいと思います。

59 暗黙的推論と実質的推論 (20230611)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

私は、疑問表現を取得したあとも、私たちは暗黙的問答を行っていると考えているのですが、これを検討する前に、問答推論ではなく通常の推論についての「暗黙的推論」と「実質的推論」の関係について考えておきたい思います。      

R・ブランダムは、「推論の正しさが、その前提と結論の概念内容を決定するような種類の推論」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳、春秋社、p. 71)を「実質(的)推論」と呼ぶ。通常の推論つまり「形式的推論」では、推論の正しさは、それに含まれる論理的語彙の意味に基づいて説明されるます。しかし、実質的推論では、逆に、推論が正しいということから、論理的語彙の意味を決定します。また論理的語彙の意味だけでなく、その他の語彙の意味も決定することになります。

では、この実質的推論は、前に見た暗黙的推論とどう関係するのでしょうか。暗黙的推論とは、例えば、「雨が降っている」から「道路が濡れる」を結論する推論です。この推論を論理的語彙を用いて明示化すると、「雨が降っているので、道路が濡れる」などの文になるでしょう。これは、原因と結果の関係(前提と帰結の関係の一種)を明示的に表現しています。「ので」は、原因と結果の関係、ないし前提と帰結の関係を明示化する語彙です。

ここで、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味からこの暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことがわかるのだとすれば、それは「形式的推論」です。逆に、この暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことから、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味が規定されると考えるとき、この暗黙的推論やこの明示的推論は、「実質的推論」です。つまり、暗黙的推論と明示的推論の区別と、形式的推論と実質的推論の区別は、独立しています。

ところで推論は原初的には暗黙的推論であり、それが明示化されるのだと考えられます。さらに、語や文の意味は、原初的にはその使用法であるとすると、暗黙的推論は、原初的には実質的暗黙的推論です。では、実質的暗黙的推論は、次に実質的明示的推論になるのでしょうか。それとも形式的暗黙的推論になるのでしょうか。形式的暗黙的推論は、それぞれの文の意味に基づいて正しいとされる推論でした。そのためには、それぞれの文の意味が前もって確定していなければなりません。文の意味の確定、つまり明示化は、それの使用法、それを用いた推論の明示化かによって可能になります。したがって、実質的暗黙的推論は、まず実質的明示的推論になり、その後で、形式的暗黙的推論になり、最後に形式的明示的推論になるのだと思われます。

 これを準備作業として、次に、問答についての、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別について考えたいとおもいます。

92 遅くなりました3/10の研究発表の質疑の部分です (20230423)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

87回で予告したのですが、20230310の私発表「概念実在論と問答推論」の後に行われた質問コメントに対する回答を作りましたのでupしました。

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230422%20%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%80%8C%E6%A6%82%E5%BF%B5%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96%E3%81%A8%E5%95%8F%E7%AD%94%E6%8E%A8%E8%AB%96%E3%80%8D%EF%BC%88Ver3%EF%BC%89.pdf)

最後の2ページに以下の質疑の部分があります。その他の部分は、Ver2とまったく同じです。

以下には、質疑の部分だけを掲載します。

質疑:

1、川瀬さんからの質問:「発表の中での次の引用文

「彼は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

この中の「主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存」というのは、どういうことでしょうか。」

(多分このようなご質問だったと思いますが、記憶があいまいなのでちがっていたかもしれません。当日は、うまく答えられなかったので、ここで答えたいと思います。)

この「指示依存」は、たとえば語「机」が対象<机>を指示するというような表象関係のことではありません。発表の中で述べたように、指示依存は、概念間の依存関係であり、<概念Xが概念Yに指示依存する>とは、<概念Xの指示対象が、概念Yの指示対象が存在しなければ、存在しえない>ということです。たとえば、語「机」という主観的なものの概念は、対象<机>という客観的なものの概念に指示依存します。なぜなら、語「机」という主観的なものは、対象<机>という客観的なものが存在しなければ、存在しえないからです。

2,大河内さんからのコメント:問いは、発話の意味を考えるときの、一つの条件に過ぎないのではないか?

[

わたしは、問いは、初の輪意味を考えるときの<一つの条件に過ぎない>のではなく、<不可欠な条件>であると考えています。その論拠として当日は、次の二点を答えました。

1,発話の意味は推論関係によって示されるが、より正確には問答推論関係によって示される。

2,発話は焦点をもつが、発話の焦点の位置は相関質問との関係によって明示化される。

この答えに、次の点を加えたいとおもいます。

3,発話がどのような発語内行為を行うかは、その相関質問においてすでに指定されており、発語内行為は、発話が相関質問への返答であることによって成立する。

以上の3点は、『問答の言語哲学』で詳しく論じたことでです。次は、最近考えていることです。

4,発話の意味は推論関係によって示されるのですが、ブランダムによれば、なかでも重要なのは<両立不可能性>と<帰結>の関係です。ところで、複数の発話の<両立不可能性>は、(コリングウッドが指摘したように)それらが同一の問いに対する答えであることによって成立します。また、ある発話から他の発話が<帰結>する実質的推論関係は、問いから答えが帰結するという実質的問答推論関係に基づいていると考えています(<帰結>についてはBSDの議論を援用して詳しく論じたいと思っています)。

3、(その後の居酒屋での)井頭さんからの質問:「ブランダムは、分析哲学研究にとって、ヘーゲル研究はどういう意味があると考えているのか?」

発表後、ブランダムの論文‘Some Pragmatist Themes in Hegel’s Idealism: Negotiation and Administration in Hegel’s Account of the Structure and Content of Conceptual Norms’(1995)を読んでみました。彼は、その冒頭において、二つのテーゼ:「意味論的プラグマティズムのテーゼ」=「言葉の意味は使用である」と、「観念論のテーゼ」=「概念構造と自己の構造は同一である」を示し、この二つのテーゼについて「意味論的プラグマティズムのテーゼは、観念論のテーゼによって実行可能になる」と主張します。ブランダムは、意味論的プラグマティズムが完成するためには、ヘーゲル的な観念論によって補完される必要があると考えているのだとおもいます。

                                                                                                                                                                                                                                                                                        

4、(居酒屋での)朱さんからのコメント:「問いの答えのペアが単位として閉じてしまう印象がある。」

ブランダムは語ではなく命題を言語的な意味の単位であると考えます。その理由は、命題の発話によって言語行為が可能になるからです。そして、それを「命題主義」と呼びます(AR訳、19,47)。それに対して私は、言語行為は問答のペアによって可能になると考え、それを「問答主義」と呼びたいとおもいます。したがって、問答のペアを強調するのは、<命題主義をより広い文脈に開くための問答主義>であり、また<推論主義をより広い文脈に開くための問答推論主義>の説明のためなのです。しかし、確かに朱さんの言うように、問答のペアが単位として閉じてしまうという印象を与えただろうと思います。それを回避するために、二重入れ子型問答関係を強調したいと考えます。それは次のような関係です。

Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1を立てその答えA1をもとに、Q2の答えA2に辿り着く>という関係です。私たちが問いを立てるとき、多くの場合それはより上位の問いに答えるためであり、そのより上位の問いは、さらにより上位の問いを解くために建てられているだろうとおもいます。A1を中心にみるとき、Q1→A1の関係は、Q1から必要に応じて他の前提を加えてA1を推論する<A1の上流推論>になってます。またQ2→A1→A2は、Q2とA1から必要に応じて他の前提を加えてA2を推論する<A1の下流推論>になっています。

ここで重要なのは、問答のペアは、言語的な意味や言語行為の「単位」とはならないということです。問答関係は、他の問答関係と直列関係や並列関係になることもあるのですが、それと並行して、大抵は、内部に他の問答関係を含んでおり、また他方ではそれ自体がより大きな問答関係のなかに含まれています。問答関係は反復するパターンですが、意味や行為の単位ではありません。この説明によって、問答ペアが単位として閉じてしまうという印象を払拭したいと思います。

91 答えの両立不可能性と<問いの前提>の客観性  (20230410)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるでしょうか?」

この問いに答えたいと思います。

複数の主張が両立不可能であるのは、それらが同一の問いへの答えであることによります。もし主張が異なる問いに対する答えであれば、それらは両立可能です。したがって、主張の両立不可能性のあるところには、同一の問いがあります。

では、問いが同一であるとはどういうことでしょうか。前回述べたように、二つの問いが同一であるとは、二つの問いの<問われるもの>と<問い求められるもの>がそれぞれ同一であるということです。答えの違いは、多くの場合<問い合わされるもの>の違いに起因すると考えられます。例えば、

「そのリンゴは何色ですか?」「そのリンゴは赤色です」

という問答の問いに登場する「そのリンゴ」の指示対象が、<問われているもの>であり、「そのリンゴ」の指示対象の色の説明が<問い求められていること>です。<問われているもの>は答えの中の「そのリンゴ」の指示対象でもあります。そしてこの答えが<問いも求められていること>を提供するものです。この問答において、問いと答えの中の「そのリンゴ」は同一の対象を指示することに成功しています。もし成功していなければ、それは問いと答えの関係になりません。

もし別の二人が「あのリンゴは何色ですか?」「あのリンゴは青色です」という問答を行い、その問いの「あのリンゴ」の指示対象が、前の問いの「そのリンゴ」の指示対象と同じであるとき、この二つの問いは、<問われれるもの>と<問い求められること>が同一であり、この二つの答えは両立不可能となります。この二つの問い中の「そのリンゴ」と「あのリンゴ」は同一の対象を指示するとき、同一の対象の指示が、異なる仕方で行われています。それによって、対象の存在の客観性が暗黙的に示されています。

<問い求められていること>は、前の問いでは「その対象」の指示対象がどんな色を持つか、ということであり、後の問いでは「あの対象」の指示対象がどんな色をもつか、といことであり、「その対象」と「あの対象」の指示対象が同一であるならば、二つの問いの<問い求められていること>もまた同一です。

前の問いの前提は、<「その対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、後の問いの前提は、<「あの対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、二つの問いの<問いの前提>も同一です。この問いの前提は、同一の事実であり、これらの問いを受け入れる者は、同一の事実を受け入れていることになります。

ところで、主張の両立不可能性は、客観的なものではなく主観的なものです。なぜなら、両立不可能性は客観的事実の中にはないだろうからです。そして、客観的事実の中に両立不可能性がないにも関わらず、主張の両立不可能性があるから、その両立不可能性を解消する必要性があります。この必要性は、客観的なものとここでの主観的なものの両立不可能な関係から生じます。このことが、事実の客観性の論拠となるでしょうか。

私たちは、事実の記述を答えとする理論的な問いの答えの客観性は、問いの前提の客観性を前提としていますが、問いの前提の概念構造は主観的に構成されたものである可能性があります。しかし、私たちが主張の両立不可能性を修正しようとするとき、問いの前提は客観的なものであると考え、それに対する主観的な答えを修正しようとしています。私たちが変化を認識することは、変化しないものとの対比において可能になります。(今は、これ以上のことが言えません。)

90 両立不可能性は<問い合わされるもの>の違いから生じる  (20230403)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 二つの記述が両立不可能になるのは、それらが一つの対象についての記述(descriptions of one object)だからであるというのがブランダムの指摘ですが、私はそれらが一つの問いについての答えであるからだ、というほうがより正確だと考えます。

では、同一の問いとはどういうことでしょうか。前回述べたように、問いが<問われるもの><問い求められるもの><問い合わされるもの>という3つの要素を持つとき、同一の問いであるというためには、この3つがすべて同一であることが必要でしょうか。<問われるもの>と<問い求められるもの>は同一である必要です。なぜなら、これらは疑問文の中で明示される必要があるからです。しかし<問い合わされるもの>は疑問文の中には明示されていません。「Xさんは何歳ですか」という問いの<問われるもの>はXさんであり、<問いも求められるもの>はXさんの歳ですが、<問い合わされるもの>は、この疑問文の中には明示されていません。それをネットで調べてもよいし、友人に訪ねてもよいし、本人に尋ねることもできるかもしれません。<問い合わされるもの>がことなるとき、答えが異なることがあるかもしれません。問いに答えるには、何かに問い合わせる必要があり、問いの答えが異なる場合、その差異は、問い合わされるものの違いから生じることも最も多いだろと思います(ただし、同じものに問い合わせても、何らかの勘違いで、異なる答えを引き出すことはあり得ます)。

問いに答えることは、推論によって答える場合と推論によらないで答える場合があります。推論によって答える場合、<問い合わされるもの>から得られる平叙文が、その推論の前提の一部になります。問い合わされるものが異なれば、その異なる平叙文が前提として利用されます。場合によっては、<問い合わされるもの>が同一であっても、そこから異なる平叙文を得て、それを前提とする推論で答えに至るとき、答えは両立不可能なの者になるかもしれません。

では、問いに対する答えが知覚報告として、推論によらずに得られる場合には、<私たちが問い合わすもの>は何でしょうか。

「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)そのものに問い合わせるのだとすると、その答えは、対象の知覚についての報告というよりも、対象の色についての報告というのがよいでしょう。(もし、「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)の知覚に問い合わせるのだとすると、その答えは、知覚についての報告だというのがよいでしょう。しかし、大抵は、対象の色の知覚に問い合わせるとは思っていなくて、対象の色そのものに問い合わせていると思っているのではないでしょうか。)

 ある物体を指さして「これは何色ですか」と問われたとき、それに答えるためには、問われるまではぼんやり見ていた対象の色に注意します。そのとき注意するのは、その物体の色ですが、私たちはその物体の色を指示できるでしょうか。物体の色を指示できるとすれば、それは色のトロープ(個別的属性、<この赤さ>など)です。しかし、逆転スペクトルの思考実験を考えるとき、もし物体の色があるとしても、それがどのようなものであるかは、知りえないことになります。私が知覚している色を、他者も知覚しているという保証がないからです。

 「これは何色か」に答えようとするとき、私たちは対象の色そのものに問い合わせることはできないとすれば、(たとえ、対象の色そのものに問い合わせていると思っているとしても)私たち実際に問い合わしているのは、対象の色の知覚です。そして、ノエの「知覚のエナクティヴィズム」が主張するように、その知覚は静止画のような像ではない、知覚は注意におうじて常に変化しているものです。 対象の色の知覚は、(非言語的)探索の(非言語的)答えとして成立している知覚変化だと思われます。この知覚変化は、客観的なものではなく、主体に依存した主観的なものです。

この(非言語的)探索が問い合わせているものは、対象についての事実そのもの、脳の外部に成立している事実だといえるかもしれません。この場合、対象についての事実そのものは、知覚にも知覚報告とも異なり、それ自体を捉えることのできないものです。

事実の概念構造や概念関係の客観性というものは、知覚報告とは別のところに求める必要がありそうです。主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるかもしれません。

これを次に考えてみます。