77 オペラント行動における学習と探索 (20220609)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

スキナー箱のネズミは、ブザーが鳴ったあと偶然にレバーを押した後に餌が出てくることを何度が経験することによって、ブザーが鳴ったあとにレバーを押すことによって餌を手に入れることを学習します。この学習は、反復によって強化されます。これがオペラント行動の代表例です。ところで、ブザーが鳴ったあと偶然にレバーを押せば、餌が出てくることを何度が経験した後で、ネズミが、ブザーが鳴った後でレバーを押したとき、それは「餌を手に入れるためであった」と言えるようにも思われますが、実際にネズミが「餌を手に入れよう」と思うのかどうかよくわかりません(ネズミは言語を持ちませんから、言語なしにそのように思うことは、おそらく不可能でしょう)。ただそう思っているのように人間に見えるだけです。もっと詳しく言えば次のように見えるのです。

<ネズミは、餌を手に入れたいと思っており、「どうすれば、餌が手に入るだろう」と思っており、それゆえに、ブザーがなったとき、前にそうだったようにレバーを押せば、餌が手に入るかもしれない、とおもって、レバーを押した>

しかし、もしネズミが実際にこのように考えて、レバーを押したのだとすると、それはオペラント行動ではありません。なぜなら、この場合のレバーを押す行為は、推論によって行われているからです。

 オペラント行動は、探索に見える行動(見かけ上の探索行動)を行っているだけです。しかし、走性や反射が見かけ上の探索行動に見えるのとはことなり、それらよりも一層本当の探索行動に近づいているように見えます。走性や反射との大きな違いは、その行動が学習によって成立することです。オペラント行動を学習するその学習過程が、探索に見えるのです。

 オペラント行動は、行為を学習しているように見える「見かけ上の学習」である、ということは出来ません。なぜなら、オペラント行動は、遺伝的に決定した行動ではないからです。ところで、オペラント行動が「見かけ上の学習」でなく、本当の学習であるとすると、それはまた「見かけ上の探索」でなく、本当の探索であると言えるのではないでしょうか。

本当の探索行動であるいうことを妨げるのは、そこに推論が行われていないことでした。オペラント行動と推論による探索の間には、感覚刺激や知覚表象や欲求の意識の有/無の違い、言語を持つ/持たないの違いあります。

 次に、感覚刺激、知覚表象、欲求、などについての意識が、どのように発生するのかを考えたいと思います。

76 走性と無条件反射とクオリア (20220607)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(オペラント行動を考察するまえに、走性と無条件反射における外部刺激についての補足します。)

走性とは、方向性を持つ外部刺激に対する動物の反応です。前々回話したように、ウジは負の走光性をもちます。ウジが明るさを「感じている」と言うことはできないでしょうが、明暗の刺激に反応していることは間違いありません。走性を引き起こす外部刺激には、明るさとか、水とか、水流とか、温度とか、湿度などがありますが、もしこれらを感じるとしたら、その感覚内容な非常に単純なものであり、クオリアと呼ばれているものにあたります。

脊椎動物の無条件反射(脊椎反射)もまた、それを引き起こす刺激は単純なものであり、脊椎反射では、脳を介さずに(つまり感覚刺激が脳に伝わって、そこで感覚として感じられることを介さず)行動が行われているので、刺激が感じられる前に反応が行われているのですが、しかしもしそれが感じられたとしたら、その多くはクオリアとみなされている非常に単純な感覚になるでしょう。

これらの走性や無条件反射の外部刺激は、一定の反応を引き起こすのですから、機能主義で説明できます。私は、ギルバートハーマンが、クオリアを機能主義で説明することに賛成します(ハーマン「経験の内在的質」)。もちろん、走性や反射を引き起こしている刺激を発達した動物が脳で感じるときに持つことになるであろう(走性や反射より以上の)機能を明示できなければ、いわゆるクオリアを機能主義的に説明したことにはならないのかもしれません。ただし、クオリアを経験の対象の性質だとするならば、走性や反射を引き起こす外部刺激はクオリアだといえるでしょう。クオリアは、対象の性質ですが、動物にとっては、その性質は動物の探索に相関して現象する性質だといえます。

 動物の進化における初期の外部刺激は、クオリアに相当するものであり、それは明確な機能をもっていました。それは「見かけ上の探索」に対する答え(外部刺激)として成立し、機能主義で説明できそうです。

75 オペラント行動は、探索の始まりである (20220605)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

走性の場合にも、動性の場合にも、運動と感覚刺激は結合しており、その運動は快適な環境を求める探索行動だと説明しました。

走性において運動と感覚刺激は結合しており、その運動は、快適な状態を探索する行動のように見えます。しかし、それは探索しているように見える行動であって、通常の意味で探索しているのではありません。「通常の意味の探索」とは、<求める対象を表象し、その対象を見つけようと意図しつつ、その対象を見つけようとし、その対象を見つける>というプロセスです。これに対して、走光性のために、光源の方に向かう昆虫は、光源の方に向かおうと意図して、向かっているのではありません。それは光源の方に向かおうとしているように見えるだけです。それは、お掃除ロボットがごみを集めようとしているように見えるのと同じです。

走性よりも高度な行動としては、無条件反射があります。ただし、無条件反射は、脊椎反射であって、刺激は脳を経由しないで反射行動になります。刺激は脳で感覚として感じられるのだとすると、無条件反射は、刺激に対する反応であっても、いわゆる「感覚」に対する反応ではありません。走性は、方向性を持つ刺激に対する反応なので、刺激の受容器があるのですが、それが受け取る刺激を「感覚」と呼んでよいかどうか迷います。少なくとも痛みを感じるというような感覚ではないだろうと思われます。たんに刺激、あるいはせいぜい感覚刺激と呼ぶのがよいかもしれません。

無条件反射よりも行動な行動として、条件反射とオペラント行動があります。この二つは次のような関係にあります。条件反射は、過去の自己に生じた出来事・経験の痕跡(ないし記憶)を必要とします。オペラント行動は、過去の自己の行動とその帰結の痕跡(ないし記憶)を必要とします。これらの過去の痕跡(ないし記憶)は、脊椎ではなく、脳にあると思われます。それゆえに、それらを引き起こす刺激は、脳で処理されており、感覚ないし知覚として機能しているかもしれません。犬が、「お手!」という誘導刺激に対してお手(反応)をしたときに、角砂糖をもらった(結果)、という記憶が、しつけの成立には不可欠ですが、その場合、角砂糖の記憶は、甘さの感覚として記憶されているかもしません。

下等な動物の行動は、遺伝的に決定されており、学習による行動が始まるのは、条件反射やオペラント行動からです。学習することは、探索することです。ちなみに「高等動物が示す行動の内、レスポンデント(条件反射)の占める割合はわずかであり、大部分がオペラントである」(レイノルズ著『オペラント心理学入門』浅野俊夫訳、サイエンス社、1978年、p. 9)ようです。したがって、探索していると見える「見かけ上の探索行動」ではなく、本来の探索行動は、主としてオペラント行動に始まると言えそうです。

一方で、オペラント行動において探索が始まると言え、他方で、オペラント行動において、感覚ないし知覚が始まると言えるとすれば、この二つには深い関連があるのではないでしょうか。オペラント行動における、探索と感覚・知覚の関係をもう少し考えたいと思います。

74 知覚は、探索に対する答えとして生じる。(20220604)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ノエの知覚論(エナクティヴィズム)によれば、「知覚とは行為の仕方である」(ノエ『知覚の中の行為』門脇俊介、石原孝二監訳、春秋社、2010、p.1)

「知覚は、私たちに対して、あるいは私たちの中で生じる何かではない。知覚はわたしたちが行う何かなのである。杖を打ち付けて道を探りながら、物の散乱した空間を進む盲人のことを考えてみよう。彼は、触ることを通じてその空間を知覚しながら進む。一挙にではなく、時間をかけて熟達した探索と運動によって知覚する。こうしたやり方が、知覚するとは何かについての、私たちの範例である。」(同訳1

私は、ノエのこのenactivismに賛同します。

動物の「走性」は、外部刺激に対する反応です。走性を引き起こす外部刺激には方向性があり、刺激の方向に応じて、動物は、走光性、走流性、などの運動を行います。その場合、刺激の方向性を知るために、眼や耳のように二つの感覚器官を利用することがありますが、一つの感覚器官しかなくても、方向性が解らないときには、「屈曲走性」といって、体をいろいろな方向に曲げることによって感覚器官をいろいろな方向に向けることによって、刺激の方向性を知ろうとします。ウジ虫は、単眼が一個しかなく、体を左右にうごかすことによって、光がどちらの方向から来るかを感じて、暗い方向に向かって運動します。つまり、ウジ虫の感覚からして既に、感覚と運動は結合しており、どちらから光が来るかを知ることは、感覚器官と運動のコンビネーションによって成立しているのです。どちらから光が来るか、あるいはどちらが暗いかを知ろうとするのは、暗いところ、つまりより快適なところに移動しようとするためです。

刺激の方向性が解らないとき、もし不快な状態になったときには、動物はランダムに動き回ります。そして、たまたま快適な状態になれば、そこで運動をゆっくりにする、あるいは静止します。そうすることで、不快な場所にいる時間を短かくし、快適な場所にいる時間を長くするのです。これを「走性」と区別して「動性(kinesis)」というようです。動性も、走性と同様に刺激に対する反応ですが、走性とは異なり、刺激の方向性には無関係です。動性の場合の運動は、刺激の方向性とは無関係なのですが、しかし刺激の程度の感覚は生じているのです。例えば温度の感覚とか乾燥の感覚などです。そして、その感覚が、運動によって変化することを調べているのです。

走性の場合にも、動性の場合にも、運動と感覚は結合しており、その運動は快適な環境を求めて行われています。つまりその運動は快適な環境を求める探索行動なのです。探索行動には、感覚は不可欠です。感覚は、(行動を開始させ、行動を調節し、行動を停止させる、というように)行動の仕方を決定しているのですが、感覚運動の全体は、探索行動としてして捉えることができます。

ノエがいうように「知覚は、行動の仕方である」のですが、知覚+行動の全体は、探索行動であると同時に、それは探索の答えをえること(発見)でもあります。

(用語について。正直なところ、感覚と知覚をどう区別したらよいのか、今のところよくわかりません。感覚器官、感覚神経、感覚刺激など、「感覚」という語は生物学的なあるいは生理的な事実について用いることにします。心的な内容や現象については、「知覚」を使いたいとおもいます。これはまだまだ曖昧ですが、ここでのとりあえずの区別とします)。

 感覚運動と探索との関係を、探索と発見の関係、をもう少し考えたいと思います。

73 「心像的表象」と「概念的表象」の代理表示の違い (20220601)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、ドレツキが漢学的表象と概念的表象として分けていたものを、前者のみを表象飛び、後者を概念と呼ぶことを提案しました。しかし、その後いろいろな文献を見ると、「概念」を「表象」の一種とみなす議論が多いことが解りましたので、私も「概念」をもまた「表象」の一種とみなすことにします。つまり、「表象(representation)とは、対象の状態を別のものの状態で代理表象すること(ないし代理表象するもの)としますその上で、その代理表象が空間的時間的広がりと位置を持つ心像(イメージ)であるとき、それを「心像的表象」と呼ぶことにします。知覚はこれの代表的なものであり、知覚を表象として捉える時には、「知覚表象」と呼ぶことにします。他方で、その代理表象が空間的時間的広がりを位置を持たない概念的なものであるとき、これを「概念的表象」と呼ぶことにします

さて、前回最後に述べた疑問は次のようなものでした。

「知覚表象が、空間的時間的な広がりを持つイメージになるのは、4次元時空の世界の断片を表示するからである。つまり、表象のイメージという性格は、表象の代理表示という性格から生じていると考えられる。ところで、概念もまた代理表示機能を持つにも関わらず、それが空間的時間的広がりと位置を持たないのは、なぜなのか?」

今回は、これに答えたいとおもいます。

「これはリンゴです」という命題は、事実を代理表示していますが、空間的時間的な広がりと位置をもつ表象ではありません。知覚表象は、空間的時間的関係の一部を保存し、表示しますが、それに対して、概念的な代理表示は、空間的時間的関係を表示するのではありません。では、それは何を表示するのでしょうか。

 概念は、他の概念との関係において成立します。その関係は空間的時間的関係ではありません。それは、両立可能/両立不可能の関係(pとrが共に成立することが可能である/pとqが共に成立することは不可能である)であり、論理的帰結の関係(pが成立するならば、rが成立する)です。論理結合子で表現すると、次のようになります。

  p≡r (同値)

  p→r (伴立)

  ◇(p∧r)  (両立可能)

  ¬◇(p∧r) (両立不可能)

論理的関係とは、文や語の意味に関する関係です。ブランダムの推論的意味論によるならば、論理的関係は、文の意味に基づく関係なのではなく、逆に、文の意味が論理的関係に基づくものです。文の論理的関係とは、例えば次のようなものです。「これはリンゴである」は「これはナシである」や「これはオレンジである」などとは両立不可能です。他方「これはリンゴである」は「これは赤い」「これは果物である」などと両立可能です。また、「これはリンゴである」から「これは果物である」や「これは食べ物である」が帰結します。したがって、「これはリンゴである」が、世界について何かを表示するとすれば、これらの推論関係が成り立つことを表示しています。

では、文が世界について何かを表示するのはどのような場合でしょうか。ある文が世界について何かを表示するのは、それが問いに対する答えとなるときです。たとえば「これは何ですか」という問いに対する答えとして「これはリンゴである」が成り立つとき、この文は世界について、上記のような推論関係が成り立つことを表示します。

(わたしは、ここで、文が世界について何かを表示するのは、「それが問いに対する答えとなるときです」とのべ、「それが問いに対する答えとして発話されるときです」とは述べませんでした。その理由は、問答関係は、推論関係と同様に論理的な関係であり、私たちがそれを考えていなくても成立する、ということです。たほうで、私は、論理学について古典論理ではなく、直観主義論理を採用したいと考えているのですが、そのことが、このことどう関係するかは、別途取り上げることにします。)

以上が「概念的表象」が何を表示するかの説明です。

冒頭の問題に戻りましょう。

「心像的表象」も「概念的表象」も同じように世界の代理表示でありながら、知覚表象と概念のこのような違い(それぞれの「代理表示」のあり方の違い)は、何処から生じるのでしょうか。この違いは、(広義の)問いの違いに由来すると答えたいとおもいます。

この二種類の表象が、世界について代理表示するのは、それが(広義の)問いに対する答えとなる時です。知覚表象が世界のあり方を表示するものとなるのは、探索に対する答えとして発見されるときです。文が世界に対の表示となるのは、上にも述べたように、問いに対する答えとなる時です。これらの探索や問いがすでに、どのようなものが答えとなるかを規定しているのです。

次に、知覚が、(言語以前のものも含めて)探索に対する答え(発見)として生じること、その探索がすでに知覚的な表象を求めていることを、より詳しく解明したいと思います。

72 仕切り直し:表象の二つの性格 (20220530)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(しばらく時間が空いてしまったので、最初の問題意識に戻って出直したいとおもいます。このカテゴリーのこれまでの内容については、カテゴリーの冒頭の説明文をご覧ください。)

認識がどのように行われているのかを明らかにするには、表象、知覚、意識などについて、これらの語が何を意味するのか、そしてこれらの語が意味するものがどのようにして生じるのか、を明らかにする必要があります。勿論これらは難問ですが、それができなければ、認識論はほとんど不可能です。

まず「表象」の解明から始めます。ドレツキによれは、「表象する」とは次のようなことです。

「あるシステムSが性質Fを表象するのは、Sがある特定の対象領域のFを表示する(Fについての情報を与える)機能を持つとき、そしてその時のみである。Sは(その機能を果たすときには)、Fのそれぞれ異なる確定した値f1, f2、…fn に対応して、それぞれ異なる状態s1, s2,…snを占めることによって、その機能を果たす。」(Fred Dretske, Naturalizing the Mind, MIT Press, 1995. ドレツキ著『心を自然化する』鈴木貴之訳、勁草書房、2007年、p.2)

「表象(representation)」は、代理、代表などの意味をもつ言葉なので、representationの原義は、このようなものだと言えそうです。表象のこの性格を「表象の代理表示」と呼ぶことにします。

 他方で、日本語の「表象」には、この意味とは別に、像、イメージ、という意味もあります。表象の「代理表示」という性格は、上述の仕方で明確に説明できますが、「像、イメージ」という性格を明確に説明するには、どうしたらよいでしょうか。とりあえず、イメージは、二次元あるいは三次元の空間的広がりと空間内の位置、静止あるいは変化という時間的拡がりと時間内の位置をもつものだといえます。ただし、二次元平面をイメージするには、その平面を一定の距離や位置のところに想像したり知覚したりしなければならないので、その場合にも暗黙的には三次元が必要です。静止した像を想像したり知覚したりするには、一定の時間の中で変化しない状態を想像したり知覚したりしなければならないので、暗黙的には時間経過が必要です。

 表象のイメージという性格は、表象のもう一つの性格、代理表示という表象の性格から生じると考えられます。なぜなら、もともとの世界が4次元であるとき、それを代理表示する表象も4次元の拡がりを持つことになるからです。ただし、世界の表象は、世界全体を表象することは出来ないので、世界のある視点からのみた、世界の断片の表象になります。つまり、この断片は、4次元時空の時間断片である三次元立体になるかもしれません。三次元立体の二次元断片である二次元平面になるかもしれません。あるいは、二次元平面で時間次元を持つ動く映像になるかもしれません。イメージは、世界をある視点、ある時間、ある次元で切り取った、世界の断片(あるいは世界の断片のイメージ)になります。イメージは、空間的な広がりと位置、時間的な広がりと位置をもちます。

 イメージは、4次元世界を代理表示することによって成立するのだと考えられますが、世界の代理表示のイメージが、間違っているときには、その表象はどのような事実も代理表示していないということがありえます。さらには、虚構のように、最初から、事実を表示しないイメージをつくることも可能になります。ただし、動物の進化史における最初のイメージの登場は、世界の代理表示だろうとおもわれます(錯覚については別途論じます)。

 知覚とイメージの関係について言えば、すべての知覚は何らかのイメージですが、すべてのイメージが知覚(知覚像)であるのではありません。では、感覚とイメージ関係についても同様です。感覚もまた空間的な広がりと位置、時間的な広がりと位置をもつので、すべての感覚は何らかのイメージだといえますが、しかしすべてのイメージが感覚であるのではありません。つまり、知覚も感覚もイメージです。また知覚も感覚も何かの代理表示だと言えそうです。したがって、知覚も感覚も表象だと言えそうです。

 ちなみに、ドレツキは、表象について、代理表示の性格だけをのべ、イメージついては述べません。したがって、概念もまた表象に含めることになります。なぜなら、概念もまた「代理表示」という性格を持つからです。ドレツキは、表象を「感覚的表象」と「概念的表象」に分けています(参照、前掲訳12)。ドレツキに限らず「意識の表象理論」という立場では一般的に、概念を表象に含めて考えることになるのかもしれません(この点、私にはまだ不確かです)。これに対して、私は、「表象」を代理表示とイメージという二つの性格を持つものとして考えて、「表象」と「概念」を区別して使用したいと思います(この方針で重大な問題が生じれば、その時に考え直したいと思います)。

 「概念」は、空間的時間的な広がりと位置を持ちません。しかし、上述の箇所では、代理表示という性格から、イメージという性格が生じると説明しました。それならば、概念についても、代理表示という性格から、イメージという性格が生じることになりますが、しかし概念はこのイメージという性格を持ちません。この混乱を避けるには、表象がもつ代理表示という性格と概念が持つ代理表示という性格に違いに注目するひつようがあります。

 この違いについて、次に考えたいと思います。

71 ブランダム=ヘーゲルとフレーゲ (20220322)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(体調を崩してしまい更新が遅れてしまいました。今は元気です。)

ブランダムは、フレーゲが論文「思想」で「事実は真なる思想である」と述べたことを高く評価します。フレーゲは、ここで確かに、事実を思想として捉えています。しかしその後フレーゲは、事実と思想の同質性を追求していません。そのことをブランダムは批判します。これに対して、ブランダムは、事実と思想の同質性を追求します。

 ブランダムは、フレーゲのこのSinnとBedeutungの区別を、ヘーゲルの<物が意識にとってあるあり方>と<物がそれ自体であるあり方>の区別に対応させて理解します。ブランダムは、Sinn(意義)とBedeutung(指示対象)の同質性を主張しますが、その同質性とは、それらが共に概念的であるということです。つまり、Bedeutungが概念的であるとは、物がそれ自体であるあり方が概念的であること、つまりそれが他のあり方と両立不可能性および論理的帰結の関係にあるということです。Sinn が概念的であるとは、物が意識にとってあるあり方が、同じような意味で概念的であるということです(ブランダムは、フレーゲのSinnとBedeutungの解釈について、『信頼の精神』の第12章で詳しく説明しています)。

ヘーゲルは『精神現象学』の「緒論」で、知の吟味のプロセスを説明する箇所で、対象についての知が変化すれば、対象そのものも変化すると論じています。ブランダムもまた、これを継承して、物が意識にとってあるあり方が、変化すれば、物がそれ自体であるあり方も変化すると考えますが、彼はこのことを、おそらくこの二つが相互的な意味依存の関係にあるということから説明するのです。フレーゲの用語を使うならば、Sinnが変化すれば、Bedeutungが変化するということになります。ブランダムは、SinnとBedeutungについて、またこれらの関係について全体論的に考えるのに対して、フレーゲと新フレーゲ主義が原子論的に捉えている点を批判します(Robert Brandom, A Spirit of Trust, Harvard UP.,  p.426)。

ブランダムのヘーゲル解釈については、私はまだ勉強不足なのですが、しかし、フレーゲが「事実は真なる思想である」と言ったことを引き継いで、ブランダムが、事実と思想の同質性を追求するとき、事実を客観的に不動のものとしてではなく、思想が変化すればそれに応じて変化するものとして理解していることが解ります。つまり、ブランダムの概念実在論は、クワインが想定していたような事実についての科学理論の変更可能性を想定しているのです。その限りで、概念実在論は、事実を問答関数として理解することと両立可能であると考えます。

70「問答関数」論への予想されるフレーゲからの反論(20220315)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前に(59回で)説明した「問答関数」とは次のようなものでした。

ブランダムの「概念実在論」は、客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されていると考えます。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。このような概念的構造(推論的関係)は、無限に多様な仕方で語ることができます。クワインがいうように言語や理論が異なる時、それらは互いに矛盾するかもしれません。そこで、事実そのものが概念構造(推論的関係)を持つのではないと考えた方がよさそうです。つまり、事実が、「これはリンゴである」あるいは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である、と考えた方がよさそうです。

 <事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数である>と見なすことができます。そして、このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。

 事実をこのような「問答関数」とみなすことは、フレーゲの関数理解とは矛盾します。なぜなら、フレーゲによれば、関数とは、不飽和なものであり、完結したものである固有名と結合することによって、はじめて完結した意義と指示対象を持つのです。関数は、不飽和なものであり、それに結合する引数(入力)とその結合から結果する値(出力)は完結したものなのです。それに対して、問答関数において入力となる問いは、それ自体では真理値(また適切性)を持たない不飽和な表現だと考えられるからです。(ただし、出力となる文は、真理値(また適切性)をもつ完結したものです。)

また、フレーゲならば、事実を不飽和なもの(関数)とみなすことにも反対しそうです。

 フレーゲのこの反論は、関数を、完結したものを入力として必要とする不飽和なものという理解に基づいています。しかし、関数については、他の理解もありえます。例えば、ラッセルは関数を、1対多(1対1を含む)の関係として捉え、不飽和な表現とは考えません。

 フレーゲが、関数(述語)を不飽和なものとして理解したのは、完結した記号が並ぶだけでは、完結した記号を構成できないと考えたからです。完結した記号が集まって一つの完結した記号を作るには、接着剤が必要であり、それが不飽和な関数(述語)だと考えたのです。それに対して、私は<命題を統一するのは、問答関係である>と考えたいと思います。

 述語の基底的な部分が、フレーゲの言う意味で不飽和であるように見えます。しかし、それは問いを構成するために必要なのです。「フクロウは飛ぶ」を前提して「フクロウはいつ飛びますか」と問うために、必要なのです。この問いは「フクロウはいつ飛ぶことをしますか」といい換えられます。この言い換えによって「をしますか」という述語の基底的な部分を明示化できます。この基底的な部分は、「飛ぶこと」と結合しますが、また「夕方に」という返答と結合します。私たちは、ある文について、さらに様々な条件を問う子ことができますから、述語の基底的な部分は、あらかじめ決められた一定の項をもつ関数であるとはいません。問いと答えの関係が、答えを統一性を持つ完結した表現にするのです。答えとなる表現が、統一性を持つのは、それが問いに対する答えとして理解されることによってです。その意味では、命題の統一性は、それが問いの答えとして理解されることによってあり、命題の統一性は、問答の統一性に基づいています。(その意味で、問答こそが、言語的意味および言語行為の最小単位であると言えそうです。)

 ブランダムの「概念実在論」は、上記のクワインからの予想される反論に対して、おそらく、事実の概念的構造を常に修正に開かれているものとして主張すると思われます。概念実在論をそのように理解するとき、それは事実についての「問答関数」論と両立するかもしれません。

 この点を明らかにするために、ブランダムが、新フレーゲ主義について論じている点を確認しておきたいとおもいます。

69 前々回と前回に述べたことの再考(20220313)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、前々回述べた<命題を統一するのは、問答関係である>ということと、前回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを、それぞれ再考し、その上で両者の関係を考えたいと思います。

#<命題を統一するのは、問答関係である>について再考

前々回には、デイヴィドソンにならって「命題を統一するのは何か」という問題を設定し、この問題に対するフレーゲ的な回答「不飽和な述語によって、命題は統一化される」が不十分であることを示し、「命題を統一化するのは問答関係である」という答えを提案しました。この問題設定が「命題は文未満表現の意味からどのようにして合成されるのか」という問い、つまり「合成性」の問題と同じものとみなすのなら、この問題設定は、推論的意味論を採用する者にとっては、不適切です。なぜなら、「合成性」の問題は、原子論的な意味論を想定していますが、推論的意味論は全体論的意味論を採用するので、このような問題設定を認めないからです。

 以前にこれを論じたとき(カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の56回、57回の発言)に述べたように、私は、語の意味から出発するのでなく、また命題の意味から出発するのでもなく、それらの成立を問答関係から説明すべきだと考えます。

 問答推論的意味論では、命題の意味は、それの上流問答推論関係と下流問答推論関係によって/として成立すると考えます。従って、命題の統一も、それがこれらの問答推論関係に立つことによって成立すると考えます。<命題を統一するのは、それを答えとする問いとの問答関係である>というのは、この問答推論関係の一部を明示化しものだと言えます。

 ちなみに、疑問文の統一は、(疑問文の意味と同じように)、その疑問文の上流問答推論関係と下流問答推論関係によって説明されることになります。これは、次のことと関係しています。

 

<述語の核心的な部分を問うことはできない>について

 前回は、<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを事実として確認しました。しかし、なぜそうなるのかを説明しませんでした。これを考えたいと思いますが、「核心的な部分」というより、「基底的な部分」と言う方が適切だと思われるので、このように言い換えることにします。

 問いが成立するとは、それが他の命題や問いと問答推論関係に立つということです。問いが、問答推論的関係に立ちうるためには、問いが健全である(真なる答え/適切な答えを持つ)必要はないのですが、健全であり得ることが必要です。なぜなら、問答推論関係が妥当であるとは、前提の問いが健全であり、平叙文の前提が真であるならば、平叙文の結論が真なる答えである、と言うことだからです(ただし、結論が問いになる場合には、別の説明が必要になります)。

 問いが健全なものでありうるためには、それが問いであると理解できなければなりません。「である」や「をする」のような「述語の基底的な部分」を問う問いが、仮にあったとしても、述語の基底的な部分が欠けていれば、それが問いであるかどうかすら不確定です。もしそのような基底的な部分が欠けていれば、語の列は最終的に疑問文になるのかどうか、また肯定疑問文になるのか否定疑問文になるのかどうか、これらも不確定になるでしょう。

 問いが健全であるためには、それが真なる答え(記述や主張)を求める問いであるのか、適切な答え(命令や約束や宣言など)を求めるであるのかを理解できなければなりません。問いは、答えの発語内行為を決定しています。答えの発話は、サールが整理したような様々な発語内行為をおこないます。答えがどのような発語内行為を行うかは、すでにその相関質問によって決定されています(このことは『問答の言語哲学』の第三章で説明しました)。問いは、答えの命題内容に関して、答えの半製品ですが、答えの発語内行為に関しても、答えの半製品です。答えの述語の基底的な部分は、問いにおいて与えられており、答えはそれを継承するからです。問答が、事実に関するものである場合、答えが主張型発話になることは、問いによってすでに決定されているのです。問いが問いになるためには、答えにどのような発語内行為を求めるかを示す必要がありますが、それを表示するのは、述語の最も基底的な部分になると思われます。

以上のように、前々回述べたことは命題についての問答推論的意味論からの帰結の一つであり、前回述べたことは、疑問文についての問答推論的意味論からの帰結の一つです。この二つは共に問答推論的意味論からの帰結です。

次回は「問答関数論」論への反論を検討したいと思います。

68 述語の核心的部分を問うことは出来ない (20220308)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

文が与えられた時、平叙文に限らず命令文や感嘆文などが与えられた時でも、文のほとんどの要素について、それを問うことができます。しかし、その場合でも述語の核心的な部分は、それを問うことができません。なぜなら、述語の核心的な部分は問いが成立するためにも必要だからです。今回はこのことを説明します。

#文のほとんどの要素については、それを問うことができます。

ある文ないし命題が与えられたとき、そのどの部分でも問うことができるように見えます。文「フクロウは夕方に森で飛ぶ」が与えられたとき、「何が、夕方に森で飛びますか」、「フクロウはいつ森で飛びますか」とか、「フクロウは夕方にどこで飛びますか」とか「フクロウは夕方に森で何をしますか」など、どの部分でも問うことができるように見えます。ある文が与えられた時、名詞句であろうと、形容詞句であろうと、副詞句であろうと、前置詞句であろうと、問うことができます。(また真理値を持つ主張文ではなく、真理値を持たない文、命令文や約束文や願望文や宣言文などなどであっても、どの部分でも問うことができます。)

 ただし例外があります。

#述語の核心的な部分は、問われることはない。

与えられた文のほとんどの部分について、それを疑問詞に変えて補足疑問文にすることができます。つまりその部分を問うことができます。ただしあたえられた文の述語の核心的な部分については、問うことができません。なぜなら、その部分を疑問詞で置き換えることができないからです。それは次のような部分です。

 「である」を述語とする文の場合、その「である」の部分を問うことはできません。

「である」は、主語と述語をつなぐ繋辞、同一性の表現、存在の表現、という3つの働きがあります。これらの部分を疑問詞に置き換えることは出来ません。つまり広義の述語の中の核心的な部分を問うことは出来ません。

 通常の動詞の場合にはどうでしょうか。

 「フクロウは飛ぶ」

の場合、「飛ぶ」の部分を次のように問うことができます。

 「フクロウは何をしますか」

つまり、これは元の文を

 「フクロウは、飛ぶことをする」

と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分を問うています。元の文の述語「飛ぶ」を「飛ぶことをする」と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分だけを問い、「をする」の部分を問わずに残しています。通常の動詞の場合には、その動詞を、動作を表す一般名+「をする」という述語に変えて、その一般名の部分を問うことができますが、しかし「をする」という述語の核心的な部分を問うことは出来ません。

このように補足疑問文は述語の核心的な部分を含んでおり、その部分は答えの中に継承される。補足疑問の問答は、述語の核心的な部分の継承なしには不可能です

前回<命題を統一するのは、問答関係である>と述べましたが、それは今回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということとどう関係するのでしょうか?

それを次に考えたいと思います。