08重度の知的障害を持つ人の人生の意味  (20201205)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

人生の意味を問答推論関係として説明することは、重度の知的障害を持つ人にも適用される。なぜなら、問答推論関係に関して、そのほかの人との違いがないからである。人生の意味の説明に関して、重度の知的障害を持つ人もまた、その他の人と同じように、上流問答推論を持ち(つまり、多くの人や出来事の影響を受けて行為し)、また下流問答推論を持つ(多くの人や出来事に影響を与える)。

 これに対しては、次のような反論があるかもしれない。<そのように考えるならば、動物の生涯の「意味」も、またさらには道に転がる石の「意味」も、すべて問答推論関係として説明することになるだろう。そのような説明の拡張可能性は、問答推論関係による人生の意味の説明が、間違いではないとしても、不十分であることを示している。>

 このような反論に対してどう答えたらよいだろうか。今のところ、次のように答えたい。<人生の「意味」は、路傍の石の「意味」と原理的に変わりがない。ただ、これらが持つ問答推論関係は異なっている。しかし他方で、「意味」があるものと「意味」がないものものという二分法は成り立たない。>

07 人生は単なる行為の連続か?  (20201204)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

01で「ある人の人生をその人の行為の全体だとしよう。このとき、ある人の人生の意味は、その人の行為全体の意味である。」と述べたうえで、行為の意味について説明した。04では、行為の意味について問答推論関係によってより詳しく考察した。

 しかし、人生を行為の連続体として捉えられるとしても、その意味は、それの要素である個々の行為の意味の集合体と考えることはできないのではないか、という反論があるかもしれない。なぜなら、<人生の意味は、それを構成する行為の意味の集合以上のものである>と思われるからである。

 この反論に対して、二つの注意をしておきたい。

 このような反論は、人生は、諸行為が単に連続するだけでなく、諸行為が意味的により統合されたものであると想定しているだろう。言い換えると、諸行為が一つの物語を構成していると想定しているだろう。もちろん、<私たちの人生は、ある物語を構成している>という考えを全く否定する必要はないし、それは多くの場合有効であろう。しかし、前回も述べたように、私たちの人生は、複数の仕方で物語られうる。人生そのものは、どのような物語によっても完全に掬い取られない。人生そのものは物語形式による理解を越えている。だからこそ、自己の人生や他者の人生についての私たちの理解は、常に開かれている。そしてそのことが、私たちが自己や他者を自由であると考えることを可能にしている。

 これに関連して付け加えると、私たちは、自我の同一性について、紋切り型の理解はできない。平野啓一郎の「分人主義」の例があるように、自我の同一性についても、多様な考え方がありうるだろう。

 もう一つの注意点は、行為の意味を行為の上流下流の問答推論関係として理解する時、

Xのある時点の行為とそれ先行する行為との関係や、それに後続する行為との関係もまた考慮されているということである。したがって、諸行為が物語を構成しているならば、その物語関係もまた考慮されているということである。

06 人生は物語か?   (20201203)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「人は、自分の人生物語の作者である」と言えるだろうか? ハンナ・アーレントは、そうではない、という。

「誰一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。言い換えると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でも生産者でもない。言論と活動をはじめた人は、確かに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり、受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。」(アーレント『人間の条件』志水速雄訳、中央公論社、25節「関係の網の目と演じられる物語」p. 211)

その理由は、私たちは自分で物語を書くように、自由に自分の人生をつくることができないからである。

「活動と言論によって人間は自己自身を暴露するのであるが、その場合、その人は自分が何者であるのか知らないし、いかなる「正体」を暴露するか、まえもって予測することもできない。」(同書、「27節 ギリシャ人の解決」

この理由は正しい。しかしそこから結論「人は自分の人生物語の作者ではない」を導出するためには、「物語作者は物語を自由に作ることができる」という前提が必要である。しかし、物語作者は物語を自由に作ることができるだろうか。

 小説家がある賞を取ろうと思っても取れるとは限らないのと同様に、小説家がある賞をとれるような素晴らしい小説を書こうと思っても書けるとは限らない。小説を書くことは、人生と同じように、ままならない。この点で、人生と小説を書くことは同じだ。

 これに対して、人生が思うようにならない原因は外的な要因であるが、小説を思うように書けない要因は内的な要因である、という反論があるかもしれない。では、自分が貧しい家庭に生まれたことはままならない人生の外的要因で、自分に小説家の才能がないことは内的要因なのだろうか。では、自分は英語で小説を書きたいのだが、英語のネイティヴ・スピーカーではないので、英語でうまく小説を書くことができないとすると、これは外的要因なのか、内的要因なのだろうか。このように外的要因と内的要因の区別は曖昧である。したがって、それによって、人生と小説を書くことを区別することはできない。

 では、「人は、自分の人生物語の作者である」と言えるのだろうか。私はアーレントが言うのとは別の意味で、「人は、自分の人生物語の作者ではない」と言いたい。その理由は、「人生は、そもそも物語ではない」ということである。Xさんの人生について、伝記を書くことができるし、死ぬ間際に自伝を(その完成直前までなら)書き上げることはできるだろう。しかし、自伝も伝記も、Xさんの人生そのものではない。Xさんの人生について、私たちは(互いに両立しない)複数の物語を語ることができるだろう。

 人生が物語でないとすれば、人は自分の人生物語の作者ではない。人生は豊穣であり、前回まで示してきたように、人生の推論関係は無限の豊かさと広がりを持っている。

 (次のような反論があるかもしれない。<小説もまた、作家が書き終えたことによって完結するのではなく、読者に読まれてはじめて成立するのである。小説の意味もまた、上流問答推移論関係と下流問答推論関係によって明らかになるのであり、その点で人生の意味と似ている。> その通りである。そのように問答推論主義の観点から芸術作品の意味を語ることができるだろう。しかし、このことは「人は自分の人生物語の作者ではない」への反論とはならない。)

05 誰にとっての「人生の意味」か? (20201201)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

 私の言葉や行為は、その上流推論において、他者の行為や言葉および社会の影響を受け、また下流推論において、他者の行為や言葉および社会に影響を与える。この影響関係の中には、私の言葉や行為についての評価も含まれている。それゆえに、私の言葉や行為の「意味」が、このような推論関係ないし影響関係によって明示化されるとき、そこには私の言葉や行為についての評価も含まれている。私の人生が、私の言葉や行為の集積であるとすると、私の「人生の意味」は、このような推論関係の集積であると言えるのではないだろうか。

そして、「人生の意味」についての語りは、多くの場合、このような推論関係の集積についての語りになっているのではないだろうか。

 この説明に気がかりな点があるとすると、それが「私の人生」を「私の言葉と行為」の集積と考えている点である。ここで考えられている推論関係は、主として実践的推論の関係であるが、実践的推論の大前提と結論は、一人称命題である。私の人生は、確かに、私にとっては一人称で表現される私の言葉と行為の集積である。しかし他者にとっては、三人称で語られる出来事の集積である。ここで02に述べたことを再掲する。

「ある人の人生がその行為の全体であるとしても、他人から見ればその行為の全体は、一連の出来事に過ぎない。それゆえに、人の人生を一連の出来事として捉えることができる。このとき、人生の意味は、出来事の意味の一種である。」

このように考える時、ある人の「人生の意味」は、誰にとっての意味であるかによって異なるものになるだろう。例えば、

  ・Xさんにとっての、Xさんの人生の意味

  ・他者にとっての、Xさんの人生の意味

  ・社会(所属集団、共同体、人類)にとっての、Xさんの人生の意味

などを区別できる。

 これらすべてを合わせたものが、「Xさんの人生の意味」だといえるだろう。

04 行為の推論関係 (20201128)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

01と02での説明には曖昧なところがあるので、もう少し厳密に考えてみよう。人生は行為や出来事からなり、人生の意味も、行為や出来事の意味からなると考えることにしよう。さらに、行為や出来事の意味は、行為の上流問答推論や下流問答推論であるとしよう。

 では、行為の上流問答推論とは何だろうか? 私のある行為は、実践的推論をもつが、その大前提は、私の意図である。(実際には実践的推論の前提は私の意図だけからなるのではないが、もしかりに私の意図だけからなるとすると、その上流推論と下流推論もまた私の意図だけからなり、行為に関する推論関係は、私の意図の内部に閉じることになる。すると、私の人生の意味をそのような推論関係から説明することはできなくなるだろう。なぜなら、私の人生の外部に出ることができないからである。)

 「どうやって意図Iを実現したら良いのか?」という実践的問いに、答えるための実践的推論は、次のようになる。

    私はAを実現したい。(意図I)

    Bを実現するならば、Aが実現する。(原因結果関係、自然的な因果関係とは限らない。)

    ∴私は、Bを実現しよう。(事前意図)

(結論の意図から直ちに行為に移れないときには、「その意図をどうやって実現したら良いのか」という実践的問いを立て、それに答えるために実践的推論をする必要がある。この下降は、理論的には「基礎行為についての事前意図」にたどり着くまで行うことができるが、実際には、その前の「複合的な行為についての事前意図」で直ちに行為に映ることが多いだろう。「基礎行為」ないし「基礎的行為」については、『問答の言語行為』や私の講義ノートで説明しているが、今回の焦点は、実践的推論の「結論」ではなく「前提」にあるので、説明を省略する。)

 今回注目したいのは、原因結果関係を記述している「小前提」である。(実践的推論の場合、何を「大前提」とよび何を「小前提」と呼ぶか、おそらく一般的な決まりがないと思うが、以下では便宜上、意図(あるいは欲求や目的)を表現する前提を「大前提」、(自然的因果関係に限らない)原因結果関係を記述している前提を「小前提」と呼ぶことにしたい。)

 この小前提には、自然的な因果関係、他者の発言、他者の希望、社会的関係(私はいくらお金を持っているのか、私の国籍はなにか、隣の人はどんな人か、私の会社は何をしているのか、コロナはどうなるのか、景気はどうなるのか、など行為に関わるあらゆる事柄)、社会的規範(法や道徳など)、などが含まれるだろう。実践的推論を意識しているときには、意識されている前提はこれらのごく一部であり、大部分は推論の「背景」として機能しているだろう。私の実践的推論は、このようにして、他者の言葉や行為の影響を受けており、社会的規範や社会の仕組みの影響を受けている。このときの実践的推論は、私の(言葉や行為の)事前意図を結論としており、私の言葉や行為の上流推論になっている。

 同時にまた、私の言葉や行為は、他者の実践的推論の小前提ないし背景となり、それに影響を与えている。このとき、他者のこの実践的推論は、私の言葉や行為の下流推論となっている。

 私の言葉や行為の「意味」は、このような上流推論と下流推論によって明示化される。

 では、このような「意味」の集積が、私の「人生の意味」だと言えるだろうか。

 03: 「人生の意味は何か?」という問いもまた上位の問いをもつ(20201127)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「人生の意味は何か?」と問うことは、他の行為と同じように、目的を持つだろう。その目的設定を、問いの形式で理解する時、「人生の意味は何か?」という問いもまたより上位の問いを持つということができる。

 上位の問いは、若い人にとっては、「私のこれからの人生をより意味のあるものにするにはどうしたらよいのか?」であるかもしれない。

 中年の人にとっては、「私のこれまでの人生はこれでよかったのだろうか。このまま進めてよいのだろうか?」であるかもしれない。

 晩年の人にとっては、「私は、人生をどのように閉じればよいのだろうか?」であるかもしれない。

 終末期の人にとっては、「私は死をどのように受け入れたらよいのだろうか?」であるかもしれない。

ヘーゲルの哲学体系の最後は歴史哲学で、歴史哲学講義の最後は次の言葉で締めくくられています。Leben Sie wohl!

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以上が私の最後の講義の最後の部分でした。

さて次回からこの続きを考えます。

 02: 出来事としての人生の意味 (20201126)

 [カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

ある人の人生がその行為の全体であるとしても、他人から見ればその行為の全体は、一連の出来事に過ぎない。それゆえに、人の人生を一連の出来事として捉えることができる。このとき、人生の意味は、出来事の意味の一種である。

<ある出来事の意味とは、その出来事の記述を結論とする上流推論とその出来事の記述を前提とする下流推論の全てである>と言えるのではないだろうか。<人生を記述する命題を結論とする上流推論とその命題を前提とする下流推論の全体が、その人生の意味である>。簡単に言ってしまえば、<私の人生の意味は、私が誰からどのような影響を受けて行為したのか、私の行為が、誰にどのような影響を与えたのか>ということに尽きる。

もしある行為に道徳的な価値があるとすると、それはその行為に至るプロセスとその行為から帰結する出来事に道徳的な価値があるということになるだろう。

<行為にいたるプロセスに道徳的価値があれば、その行為から何が帰結するかは問題ではない>という立場を、「上流推論主義倫理」と呼ぶことにしよう。心情倫理は、この一種である。心情倫理は、行為を決定する心的プロセスに道徳的価値があれば、行為は道徳的価値をもつことになり、その行為から何が帰結するかは問題ではない、と考える(例えば、カント)。

この逆の立場<行為の帰結に意義があれば、その行為に至るプロセスは問題ではない>という立場を「下流推論主義倫理」と呼ぶことにしよう。帰結主義は、この一種である(例えば功利主義)。

ある行為についての、上流推論主義倫理の評価と下流推論主義倫理の評価が対立するとしても、そこには矛盾はない。それは行為の別の側面に対する評価の違いだからである。では、この二つの評価が食い違う時、どのように調停すればよいだろうか?その場合には、下流推論主義倫理を優先させるべきである。何故なら、上流推論は行為を答えとする問いに答える過程であるが、下流推論は、その問いを問うより上位の目的ないしより上位の問いに答えるための推論だからである。

 行為の上流推論の前提には、状況判断や欲求や意志の弱さや慣習なども含まれるかもしれない。したがって、上流推論主義倫理が、カント的な自律の道徳になるとは限らない。カントのように意志決定の自律と他律を峻別できるかどうかは検討が必要である。なぜなら、意志決定は実践的推論によって行われ、その大前提に定言命法が用いられるとしても、小前提には経験的な命題が必要であろうし、また定言命法の理解についても複数の解釈がありうるだろうから、そのようなことを考慮するならば、自律と他律を区別することは困難であるかもしれないからである。

01: 行為の意味としての人生の意味 (20201125)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)

(初回01から03まで、私の大学での最後の秋冬学期講義の最終回(20190213)(https://irieyukio.net/KOUGI/tokusyu/2018WS/2018ws14Last.pdf)の一部を抜粋したものになります。その後、その続きを考えたいと思います。)

ある人の人生をその人の行為の全体だとしよう。このとき、ある人の人生の意味は、その人の行為全体の意味である。

ふつう行為の意味とは、行為を行うより上位の目的である。より上位の目的は、多くの場合は、別の行為である。ある人の人生の意味とは、その人が人生をかけて行ってきた行為全体のより上位の目的のことである。

例えば、ある人が、子供に財産を残そうと意図してお金を貯えて、財産を残して死んだとすると、子供がその財産を相続することが、彼女の人生のより上位の目的であり、人生の意味である。

例えば、ある人が、環境保護のための運動をおこなったとして、彼女の人生の目的は地球環境の保護であり、それに貢献できたとすれば、それが彼女の人生の意味である。

 人生の意味は、その人が、その人の行為の全体によって引き起こそうとしている出来事である。その結果は、他の人(や集団や社会)に生じる出来事である。復讐が人生の目的の場合もありうるので、その結果が他の人にとって良いこととは限らないが、多くの場合には、他の人にとって良いことであり、それを惹き起こすことが、人の人生の意味である。

 もしこの答えに満足できないとすると、それは個人主義のためであるかもしれない。<ひとは、個人として他者から独立して存在しており、対他者関係はその本質ではない>と考えるならば、<個人の生きがいや人生の目的も、他者との関係から独立して存在するはずだ>と考えることになるからである。

死に対する態度と心の哲学

                                  ピンぼけの 写真のような 夢の跡
 
  久しぶりにこの書庫に書き込みます。
 
死に対する態度と心の哲学 (20120912)
 
生物として私の死も、ロボットとしての私の死も、区別して論じる必要はないかのように書きました(2007/10/23と、その後の数回)。しかし、そうでしょうか?
 
もし、私の脳の情報が、コンピュータの中にコピーされて、コンピュータとして私が考え、それを搭載したロボットとして生きていくことができたとしたら、そのときには、私は単なる機械であり、自然現象です。もしそうなったとしたら、ロボットとしての私の死に対する態度は、変わるでしょう。
もちろん、私が生物であったとしても、心についての物理主義を採用するのならば、ロボットの場合と同じです。その意味では、生物かロボットかの違いではなくて、心をどう考えるのかの違いです。
 
現代哲学には、「心の哲学」と呼ばれる分野があります。そこでの中心問題は、心と脳との関係です。これについての主な主張は、次のようなものです。
  心と脳は別の実体であるとする二元論
  脳しかないという一元論
  心しかないという一元論、
二元論は、心と脳の間の相互作用を説明する必要があるけれども、それを説明できないという問題を抱えているので、現代では少数派です。
心しかないという一元論(観念論)も現代では少数派です。
多くの研究者は、脳しかないという一元論(物理主義)を主張するのです。しかし、この中には、ひとは心があると思っているが、実は心は存在しないのだという心の消去主義の立場と、心は脳の状態やプロセスに随伴する(supervene)と考える立場(例えばDavidsonの非法則的一元論など)があります。
 
書庫「物理主義からの倫理」では、「仮に心の哲学での物理主義が正しく、人間の心が脳の中の物理的な過程や状態に過ぎないとし、心の働きに自由がないとすると、倫理や道徳をどのように理解することができるのか」ということを考えました。
 
物理主義が正しいとしたら、道徳や倫理に関わるだけでなく、私たちの死に対する態度にも大きな影響を与えることになる、ということに今頃になって気づきました。この場合には、私たちの死は、冷蔵庫が壊れるのと同じ事になってしまうのでしょうか。現在のパソコンが壊れるのと、未来の人間であるAIが壊れるのは、同じ事になってしまうのでしょうか。
 
この問題に、どこから手を付けたらよいのか、アイデアがありましたら、おねがいします。
 
 
 
 
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思考が停止しつつあるような・・・

多文化主義が、「多文化主義の信念形式」BaやBbをとるのだとすると、
その内容は、上に述べたような条件、つまりその信念条件そのものに矛盾しないという
条件を満たす必要があります。

この条件を満たせば、多文化主義の信念形式には、論理的な矛盾はないということになります。では、このような論理的整合性を満たすための条件以外には、条件は必要ないのでしょうか。凡人さんからのご批判は、これで充分にクリアされたでしょうか。それともまだ問題があるでしょうか。