個人的な人生に関する私的な人生観は可能

     剣山山頂から続く尾根の景色です。よい天気でした。

①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
このような「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式には、問題はないのでしょうか。

 実は、問題があります。以前にも述べたことですが、もしこのpの内容が道徳や法律に反するときには、pは他者から批判されるでしょう。その批判が正しいかどうかを別にして、個人的な人生に関する私的な人生観であるとしても、他者から批判されることはありえます。
 では、そのとき批判された人(Xさんとします)は、どのように答えることになるでしょうか。Xさんに可能な態度は、②についての考えたときと同じく、次の二つに一つです。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
す。」

私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。

 これは整合的な態度ではない、というのが、人生観②について考察したときの結論でした。では、人生観①の場合にはどうでしょうか。答えは、pの内容に依存するようにおもわれます。
例えば、もしpの内容が道徳や法律に反するものだと批判されとすると、その場合には、上の2の態度をとることはできません。1の態度をとり、pが道徳や法律に反しないことを弁明する必要があります。
 しかし、例えば、もしpの内容が、「画家としてすばらしい作品を描くことが私の生きる意味だ」というものであるとするとき、「他者が、画家で成功する人はまれなのだから、あなたの才能なら、やめたほうがよい」、とか「あなたは、画家より、数学の才能方法があるとおもうので、数学者になったほうがよい」とかの批判であるとすると、それに対しては、Xさんが2の態度で答えたとしても、そこには不都合はないとおもわれます。

 2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、上のような事例で示すのでなく、一般的に定義できるとよいのですが、・・・
うか。

二種類の私的な人生観

     今年の夏に登った剣山山頂です。

 前回予告した分析を延期して、話を少し戻します。

以前に述べましたが、私的な人生観には、二つのタイプが考えられます。
  ①「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」
  ②「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
前回、私的な人生観が不可能であると結論付けることになったのは、②の方です。つまり、前回の議論を認めたとしても、①の私的な人生観はとりあえず、問題ないように思えます。①は、個人的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。②は、一般的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。

 文化に対する態度についても、これと類似した二つの態度を区別することができます。
  Ba「我々は、我々の社会の伝統的な規範を守りたいとおもいます。
    他の社会が、我々のとは異なる規範を採用することを、我々は尊重します。」
  Bb「我々は、人類社会は、pという規範を守るべきだとおもいます。
    しかし、他の人々がその規範を尊重しないとしても、我々はそれを尊重します。」

「多文化主義」は、Baのタイプの主張をすることに成ります。Bbは、「多文化主義」にはなりません。Bbを主張する者は、他の人々がpを批判したときには、それを受けて議論しなければなりません。もしそうでなければ、それは合理的な態度とは考えられません。しかし、もしそうだとすると、この態度は、多文化主義ではありません。それはひとつの普遍的な文化を探求する態度です。もちろん、<そのような合意を求めるけれども、しかしそれが得られるまでは、相手の立場を尊重して、議論しようとするし、また、そのような合意が必ず得られるはずであるとも考えていない>という態度もありえます。しかし、そのような態度であるとしても、それを「多文化主義」とは呼べないでしょう。

 さて、人生観の話に戻ります。②の一般的な人生に関する私的な人生観は、合理的な態度としては考えられないと述べました。しかし、このような人生観を述べる人がいますし、このような人生観をもっている人もいます。現実には、②を維持することが可能になっています。それは、次の二つの場合であろうとおもいます。

 Xさんにとって、pが私的な人生観であるとは、Xさんが、pを他者に証明しようと意図していない、と言うことでした。このような態度がうまく維持できなくなるのは、他の人からXさんがpについて批判されたときです。しかし、
(1)もし、Xさんが他者から批判されないとすると、その限りで、Xさんは、pを私的な人生観としてもち続けることができます。(実際の生活では、他人の人生観を聞くことがあっても、それをことさら批判しようとしたり、それについて議論しようとしないことが多いとおもいます。話題が拡散しすぎるので、その理由についてはここでは考えません。)また、
(2)他の人から批判されても、「確かにそうかもしれませんね。考えてみます。」などとその場をしのいで、そのうち、忘れてしまう、という態度が可能です。(まるで自分のことのようです。)

 さて、現実には、このようにして②が維持されることもあるのですが、②は合理的で整合的な態度とはいえないでしょう。
 では、①の「個人的な人生に関する私的な人生観」は、本当に問題ないのでしょうか。これを検討してみましょう。

私的な人生観は不可能?

さて、前回次のようにのべました。

  「信じる」には確実性の度合いがあって、信じる理由が弱いときには、
  「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」

 しかし、究極的に根拠付けられた命題は存在しません。(これについては、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を調べてみてください。)そうだとしたら、

  「私は、pと信じる。そして、pでない可能性はない。」

といえるような場合は、存在しないことになります。つまり、「信じる」の確実性の度合いは常に弱い、ということになります。「信じる」の確実性の度合いを、前回のように区別するのは、ほとんど役に立たないということになります。(仮に、究極的に根拠付けられた命題が存在するとしても、それはごく僅かの限られた命題でしょうかから、つぎの主張は、だとうするでしょう。)

 そうすると、哲学的な人生論と個人的主観的な人生観の違いはなくなります。つまり、哲学的な人生論の主張といえども、究極的に根拠付けられているわけではなくて、間違いの可能性があることになります。
 このとき、哲学的人生論は、「私は、人は・・・という仕方で生きるべきだと信じるが、他の人がそのように考えないとしても、それを尊重する」というタイプの人生観の表明と、何の違いがあるのでしょうか。
 哲学的人生論と私的な人生観の間に、確実性についての明確な違いがないのだとすると、両者の区別は可能なのでしょうか。

 両者の違いは、<他者に同意を求め、他者が同意しないときには反論を求める>という説得ないし議論への意思があるか、ないかの違いではないでしょうか。
 たとえば、Xさんが「pは私の私的な人生観です。つまり、私は、pを他者に説得しようとか、これについて他者と議論しようという意図はありません。」と考えているとしましょう。
 ところで、Xさんに説得の意思も、議論の意思もないのだとしたら、そもそもXさんはなぜ私的な人生観を語ろうとするのでしょうか。つぎのいずれかではないでしょうか。

  ①、他者に問われて答える場合。
  ②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
   しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立つ
   かもしれないので、発表する。

 さてこのとき、YさんがXさんに、「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」と問うたとしましょう。
このとき、XさんはYさんにどう答えでしょうか。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
   間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてでなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
  正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
  す。」

私的な人生観の表明が可能であるためには、この2の態度が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。
 Xさんが、Yさんからpへの反論とその理由を示されたときに、自分でその反論を吟味してみようとしないとすると、その態度は、合理的な態度だとはいえないでしょう。
 Xさんのpに対する信念が、堅固なものであり、pを信じる理由が十分に確実なものであるときには、次のように考えるでしょう。

  「私はpだと信じている、言い換えると、「pでない」を偽であると信じ
   ている。ゆえに、qでないといわれても、それを吟味しようとはおもわ
   ない。」

しかし、もし究極的な根拠付けが存在しないということを、受け入れている人であれば、どんな信念も可謬的であるのですから、その人は反論を吟味しようとすべきでしょう。Xさんがpの真偽を知ることを求めているのだとすると、pに対する反論qが示されたときに、その反論を吟味しないという、態度は矛盾しています。

 まとめです。

 上に述べましたが、Xさんが、私的な人生観を語る理由としては、つぎの二つが考えられます。

  ①、他者に問われて答える場合。
  ②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
    しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立
    つかもしれないので、発表する。

①の場合に、もしYさんに問われて、Xさんが、「私の私的な人生観はpです」と答えたとしましょう。このとき、Yさんが上のように「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」といったとしましょう。
このとき、Xさんには、上に述べたようにつぎの二つの態度が考えられました。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
  間違っていると思うので、答えましょう。」
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
  正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
  す。」

1は、pを私的な人生観ではく、哲学的な人生論としてあつかうことでした。
2は、上に見たように、矛盾した態度でした。

 以上からすると、私的な人生観は、成り立たないことになります。
(この議論に、何か見落としはないでしょうか?)

 では、多文化主義の信念形式B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」もまた成り立たないのでしょうか。

 前回の予告だった、つぎの発言の分析が必要なようです。
「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」

京劇は面白い。しかし京劇をつまらないという人を尊重する?

Beijin oper(北京京劇)をみました。中国各地に、似たようなものがあるらしいです北京のものとは、すこし違うのだそうです。別の町のものを見たいとおもいました。予想していた通り、日本の歌舞伎にすごく似ているのです。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを
尊重します。」

この「多文化主義の信念形式」は、自己矛盾していないのか?これが問題でした。

 前回とは別の角度からアプローチしてみましょう。
 これが矛盾していないかどうか、検討するには、「信じます」の意味を明確にする必要があります。urbeさんのコメントにあるように、英語の”believe”も日本語の「信じる」も多義的です。
 
 人がある命題を信じており、そのことを意識しているときには、その命題を信じる何らかの理由があるはずです。何の理由もないとしたら、その人は他の命題でなくその命題を信じるという決定できないはずです。
 もちろん、人がある命題pを信じているけれど、そのことに気づいていないということはありえます。そのときには、pを信じているけれども、その理由を自問しても、答えられない場合もあるかもしれません。そのときに、彼がもう一度考えてその理由を見つけられないならば、彼はその信念を放棄することになるでしょう。

 人がある命題を信じているときには、信じる理由があるのですが、その理由が、「知っている」というのに十分な場合と、不十分な場合があります。机の上にコーヒーカップがあるのを見るとき、私は、机の上にコーヒーカップがあることを知っているといえるし、また信じているともいえます。「pを信じる」には「pを知る」「pを認識する」という場合と「pを想定している」という場合があるでしょう。
 この区別は、確実性の程度の区別だろうと思います。弱い意味の「pを信じる」は、pを信じる理由はあるが、しかしそれはpが真であることを確実に保証するものではない、ということです。信じる理由が弱いときには、「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」ということになります。

 もっと詳しく言うと次のようになるでしょう。

「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」

 これは矛盾していないどころか、全うな態度だと思うのですが、いかがでしょうか。次回は、ここから何が帰結するか、を考えて見たいとおもいます。

 

多文化主義の信念形式

 山口市の瑠璃光寺の花、その2です。

 「哲学的人生論」と「人生観」の違いは、前回のべた通りです。 私は、私の個人的で主観的な「人生論」をこのBlogで語るつもりはありません。(といっても、時に感傷的になったときに、語るかもしれません)ここでは、あくまでも「哲学の立場から、人生について語れること」に限定して、議論するつもりです。その理由は、「哲学的な人生論」の可能性と限界をできるだけ明らかにしたいからです。ロックやカントが人間の認識能力の可能性と限界を明らかにしようとして、近代的な認識論をはじめたのと似た動機です。

 「哲学的人生論(2)」の書庫では、「人生観」を語るのではなく、「人生観」と「哲学的人生論」の関係、「人生論」そのものの可能性や必要性、「人生論」について哲学的に語れることがあるとすれば、それは何か、などを論じたいと思います。
 
 まず最初に取りあげたいテーマは、前回述べた問題です。つまり、人生観は、次のような形式

A「私は、一般に人生の意味は・・・・・・であると考える。しかし、他の人が別様に考えるのならば、それを尊重する。」

をとりうるのか、それとも、このような信念は自己矛盾しているのか?

 これは、より一般的に表現するとつぎのような形式の主張になります。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

このような主張は自己矛盾していないでしょうか?このBの形式の信念は、多文化主義や文化相対主義の形式でもあると思います。したがって、これが矛盾しているとするならば、多文化主義や相対主義のあり方にも影響するでしょう。そこで、このBを「多文化主義の信念形式」と呼ぶことにします。
 そこで、ここでの問題は、次のようになります。

 「多文化主義の信念形式は、自己矛盾していないのか?」

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
これが、矛盾しているかどうか、を検討しようとすると、まず「尊重します」の意味をもう少し明確にする必要があります。

「私は、他の人がpと信じないことを、尊重します。」
「私は、他の人がpと信じないことを、批判しません。」
この二つは、似ていますが、すこしニュアンスが違うように思われます。「尊重します」は、単に批判しません、というよりも、なにか積極的な倫理的な理由にもとづいて批判しません、と述べているように感じられるからです。
 このように考えると、「他者の意見を尊重します」は、次の④の意味に近いかもしれません。
  
  ①他者の意見を批判できる。
  ②他者の意見を批判できない。
  ③他者の意見を批判すべきである。
  ④他者の意見を批判すべきでない。

しかし、「批判すべきでない」と「尊重する」を全く同義と言うわけにはゆきません。なぜなら、「批判すべきである」は「尊重すべきでない」と似ていると思われるのですが、もしそうならば、「批判すべきでない」が「尊重べきである」と似ていることになります。したがって、「批判すべきでない」は、尊重する」と同義でないことになるからです。

では、最初の提案に帰って、「尊重する」はたんに「批判しない」と同義だとすればよいのでしょうか。しかし、そうも行きません。次を見てください。

  ①他者の意見を尊重できる。
  ②他者の意見を尊重できない。
  ③他者の意見を尊重すべきである。
  ④他者の意見を尊重すべきでない。

前の「批判」の場合、②と④の意味は明確に異っていましたが、ここでの「尊重」の場合、②と④は同じ意味になると思われます。つまり、「尊重する」を「批判する」の単純な反対語とすることは出来ないのです。この理由は、「尊重する」のなかに、何か特殊な倫理的な意味が含まれていることにあるのだと思われます。

(ちなみに、以上の意味のテストは、ライブニッツの「不可識別者同一の原理」ないし「代入則」の応用だといえるでしょう。)

以上から言えるのは、Bは、次のB1とB2に似ているが、しかし全く同じではない、ということです。

B 「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

B1「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判しません」

B2「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判すべきはありません」

これだけでは、「尊重する」という言葉についての語感をすこし磨いたというだけで、語の意味が明確になったとは言えないことは、よくわかっています。

 すこし、別の方向から攻めてみましょう。

C「pです。しかし私はpを信じません」

これは「ムーアのパラドクス」と呼ばれており、矛盾(?)した発話だといわれています。
私は、次の発言もおかしいと思いますが、どうでしょうか?

 「pです。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判できません」

もし私がpであると知っているのならば、私は他の人がpを信じないことを批判できるのではないでしょうか。もし他の人がpを信じないことを批判できないのならば、私はpを知っているとは言えないでしょう。言えるのは、せいぜい「私はpを信じている」ということでしょう。

  D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」

というのは、「ムーアのパラドクス」ほどおかしくはないけれど、やはり不自然な感じがします。つまり、他の人が明らかに間違った信念をもつことを尊重するということになります。これは、その他者に対してpが偽であることを指摘しないということですから、その他者に対して嘘をつくことになるのではないでしょうか。

  Cは、矛盾(?)した発話で、認め難い、といえます。
  Dは、Cよりは矛盾の程度は少ないですが、しかしやはり間違った態度だといえるでしょう。
  Bは、Dよりも更に矛盾の程度が少ないように思います。
  では、Bには、問題がないのでしょうか?

(すこし、外堀を埋めただけで、まだ、全く答えには近づいていません。)
 

「山口の外郎を食べたい」

    山口の外郎は食べてしまってないので、
    写真を下記からコピーしました。
http://itp.ne.jp/contents/kankonavi/yamaguchi/tokusan/yam_tok02.html
やっぱり、これは著作権侵害でしょうか。それとも、この程度のことは許容範囲内でしょうか。とりあえず、宣伝しておきましょう。山口の外郎は、名古屋のものより小ぶりで味が細やかで繊細です。名古屋の外郎は、安くてボリュームたっぷりです。)

 さて、私が「山口の外郎をもう一度食べたい」と思った(内言した)としましょう。そのとき、それは、その発話の前にあった心的状態や身体的状態を記述したものだといえるでしょうか。そのようなものは、ないように思えるのですが・・・。思えるというだけで、今うまく論証することは出来ません。
 これを論証するには、ご質問の社会的な欲望について、もっと明確に説明する必要があるでしょう。

 心的ないし身体的状態の記述としての「私は・・・したい」という発話で表現されている欲求を「自然的欲求」と呼ぶことにします。それに対して、心的ないし身体的状態の記述(これは真理値をもちます)ではなく、(真理値をもたない)意図表明としての「私は・・・したい」という発話として欲望を「社会的欲望」と呼ぶことにしました。
 前者と後者の区別は、とりあえず、明確だと思うのですが、後者を「社会的欲望」と呼ぶときに、別の性質をそれに付与することになっているので、urbeさんが疑問を持ったのだと思います。

 私は、意図表明の発話は、様々な意味で社会的なものだと思います。もっとも基本的な理由は、それが公的な言語で語られているということです。それは発話以前に発話から独立に存在するものではありません。そして、そのために、それは他の様々な私の発話や他者の発話と内容的に関係しています。

 例えば、「名古屋の外郎は、安くてうまい」と考えた(言った)あとで、何の説明もなくすぐに「山口の外郎を食べたい」とは言いません。それは(厳密には矛盾ではないのですが)矛盾しているように感じられるし、少なくとも支離滅裂だと感じられるからです。最初の発言の後に、「しかし、山口の外郎のほうがダイエットにはよい」というような発言があると、「山口の外郎を食べたい」という発言が出てくることが自然(?)です。このような思考の流れの中で、後者の欲望が成立しているのではないでしょうか。さらには、このような発言の背後には、最近の山口での楽しい思い出も、影響しているでしょうし、山口の友人が外郎を自慢していたことも、影響しているでしょう。

社会的な死?

      山口市の瑠璃光寺に咲いていた花です。
      花はつねに、儚さの象徴です。

 ここでは、人生論の第一問題「死に対してどのような態度をとるべきか」について考えます。

 「生きたい」という意図と、「人間は死ぬ」という事実の矛盾(?)から、「死に対してどのような態度をとるべきか」という問いが生まれのだと思われます。少なくとも、このどちらか、あるいは両方が成立しないとき、上の問いは生じないでしょう。

 さて、「生きたい」という欲望には、二種類あることがわかりました。一つは心的ないし身体的な状態の記述としての「私は生きたい」です。もう一つは、意図表明としての「私は生きたい」という発話です。後者は社会的な欲望だといえそうです。
 「私は生きたい」が事実の記述であるのなら、「人間は死ぬ」と矛盾しません。これらは、事実として、あるいは事実の記述としては、矛盾していないからです。
 「私は生きたい」が意図であるときに、「人間は死ぬ」と矛盾する(?)のです。(この矛盾については、いずれ、もう少し詳しく説明することにします。)
 もし「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死でなく社会的な死、自然的な事実ではなく社会的な事実なのではないでしょうか? では、社会的な死とは何でしょうか?

主観的な写真と主観的な人生観について

 私には思い入れがあるのですが、この写真の意図は主観的なものでおそらくうまく伝達できていないだろうと思います。

 ここでは、「人生観」について考えてみたいと思います。「人生観」と「哲学的人生論」とは、はっきりと区別する必要があります。ここでは、ある個人の、人生についての私的な主観的な考えを「人生観」と呼ぶことにします。

 個人の人生観が、「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」とか「私は私の生き方としては・・・がよい」というように彼の生き方だけに関わるときには、この発言には内的に矛盾したところはなさそうです。(この場合にも、その内容が他者に危害を与えるときには、それは他者からの批判を受けてしかるべきであり、これについての議論が必要になります。)

 しかし、
  「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
というように、その人だけに関わるのでなく、ひと一般の人生についての考え方を述べているときには、この発言は矛盾しているのではないでしょうか。もしこのように普遍性を主張するとすれば、それは人生観と言うよりも人生論です。もし人生観でありながら、普遍性を主張しようとすると、次のようになるかもしれません。
  「私は、人生の意味は …… であると考えるが、しかし、他の人が別様に
   考えるのならば、それを尊重する」
というような主張になるでしょう。
 
 しかし、このような発言は、矛盾していないでしょうか。人生観に限らず、より一般的にいうと次のような主張になります。
  「私はpを信じる。しかし他の人が¬pを信じるのならば、私はそれを尊
   重する」
これは、矛盾していないでしょうか。これを次に考えて見ます。

アルゴンキンの夢

         カナダのアルゴンキンです。
    無数の湖が水路でつながっています。
  ここで一週間くらいカヌー旅行したいものです。

前回次の二つの欲望の関係を考えて見ました。
   a「私は、カヌーをやりたい」
   b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
このaとbの間には、次の関係があります。
   c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
aとbは真理値をもちませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。

この例は、目的と手段の関係で、ある目的を欲望する者は、その手段の一つを欲望する、と言う関係でした。(手段が複数あるときには、その手段の中の特定ものだけを欲望するということがあるかもしれません。)

しかし、ここでとりあえず考えたいのは、次の関係です。
  d「私はカヌーをやりたい」
  e「私は生きたい」
このdとeは目的と手段の関係ではありません。かりに、「カヌーが私の生きがいで、それが出来ないのならば、生きる意味がない」というxさんがいたとしましょう。このxさんにとっては、dは目的ですが、eはその手段ではありません。
 このdとeの関係は、次の関係に似ています。
   f「私はトランプをしたい」
g「私は遊びたい」
とか、
    h「私は黒ビールが飲みたい」
    i「私はビールが飲みたい」
これらは、特殊と普遍の関係です。

では、「ビールを飲みたい」とか「カヌーをしたい」とか「旅行したい」とか「本を読みたい」とかの欲望をもつひとは、「生きたい」と考えるでしょうが、そのような特殊な欲望がない場合に、ただ「生きたい」と考えるということがあるでしょうか?

あります。それは、「死にたくない」と考えるときです。我々は、突然余命を宣告されたとき、「死にたくない」「生きたい」と考えるでしょう。

ここでもう一度、問題を設定しなおしましょう。(これはurbeさんの質問と同じものだろうと思います。)
心的な状態ないし身体的な状態の記述としての自然的な欲求でなく、真理値をもたない欲望としての「生きたい」や「死にたくない」や「カヌーをしたい」は、どのようにして成立するのでしょうか。それが理由の空間の中で社会的に構成されるのだとしても、より具体的には、それはどのようにして構成されるのでしょうか?

「今日もビールを飲みたい」

       「今日も、ビールを飲みたい」
 
 「生きたい」という自然的な欲求は、何らかの身体的ないし心的状態の記述です。たとえば「この犬は生きたいのだ」とか「カブトムシも生きたいのだ」というのは、このような記述であり、真理値をもちます。
 これに対して、「生きたい」という社会的な欲望は、記述ではなく意図表明の発話です。約束や宣言の発話が真理値をもたないのと同様に、この発話も真理値をもちません。

 これが前回の復習です。「今日もビールを飲みたい」は自然的な欲求でしょうか、社会的な欲望でしょうか。おそらくこの二つが混じっているでしょう。この二つを内省によって分離することは非常に困難です。(その理由は、いずれ機会があれば述べましょう。)

 さて、話をもどしましょう。
 自然的な欲求の場合、我々は、「この犬は水を飲みたいのだ」から、「この犬は生きたいのだ」を推論できます。前者が真であるためには、後者が真でなければならないからです。
 xさんが「私はカヌーやりたい。そしていつかアルゴンキンをカヌーで旅したい」と言うとき、これはxさんの社会的欲望の発話であり、真理値をもちません。しかし、その発話を聞いた私が、「xさんはカヌーをやりたいのだ」と言うとき、これはxさんの欲望についての記述です。これは「xさんは『私はカヌーをやりたい』と発話した」という記述とほぼ同じ意味の記述であり、同じ真理値をもちます。私が、「xさんはカヌーをやりたいのだ」だから「xさんは生きたいのだ」と推論するとき、「xさんは生きたいのだ」もまたxさんがある社会的欲望を持つことについての記述であり、真理値をもつことになります。この二つの発話は真理値をもち、しかもそれらの真理値の間には、もし「xさんはカヌーをやりたい」が真ならば、「xさんは生きたい」も真である、という関係が成り立ちます。この真理値間の関係は、経験的な関係でなく、<発話の意味にもとづく>関係です。
 ところで、xさんにとって、「カヌーをやりたい」という発話も「生きたい」という発話も真理値を持たちません。しかし、この二つの発話の間にも、もし「私がカヌーをやりたい」という欲望があるのなら、「私は生きたい」という欲望もある、という関係があります。つまり、「私はカヌーをやりたい」と発話する者は、「生きたいですか」と問われたならば、「生きたい」です、と答えるはずです。(誤解のないようにコメントしておくと、質問には、二種類在り、事実を尋ねる質問に対する返答は、事実についての記述であり、真理値をもつが、意図を尋ねる質問に対する返答は、意図表明であり、真理値をもちません。ここでの「生きたいですか」は後者の質問です)

この関係もまた、<発話の意味にもとづく>関係です。これについて考えてみましょう。
   a「私は、カヌーをやりたい」
   b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
これらは、どちらも真理値をもちません。しかし、bの欲望は、aの欲望を含意しているので、bが成り立つなら、aが成り立つという関係があります。
   c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
cは、aとbの真理値の関係ではありませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。