人生論と人生観の区別再説

前回述べた<議論と会話の対比>によるならば、xさんとyさんの二人がおこなう議論は、常に二人の会話として理解することもできます。(しかし、逆はいえません。二人の会話は常に、二人の議論として理解できるわけではありません。)
では、議論が、会話の一種なのかといえば、そうではありません。xさんとyさんの議論は、それ以外の人によっても継続可能です。しかし、xさんとyさんの会話の継続ではありません。(もちろん、xとyが議論しているときに、zさんが途中から議論に参加するというときには、xとyの会話が継続しているということができますが、参加者が完全に入れ替わるときや、時間的な中断がある時には、そうはいきません。)

さて、哲学的人生論と人生観の区別を次のように考えてみるのはどうでしょうか。
<哲学的人生論は、人生に関するある問題についての議論(ないしその一部)である>
<人生観は、人生に関するある事柄(話題)についての会話(ないしその一部)である>

「人生観」については、これまで常に「私的な人生観」と表現してきましたが、会話の中で話されたときには、それは他者と共有されるので、単に「人生観」と表現することにします。

xとyが、人生に関するある問題を議論しているとするとき、それはまたxとyの間の会話として理解することもできます。すると、xの哲学的人生論は、つねにxの人生観でもある、ということになります。逆に、xの人生観は、つねにxの哲学的人生論であるということになるとは限りません。

さて、このような区別で、十分でしょうか?
どなたでも、ご質問ご批判をお願いします。

問題と話題

 一昨日の続きです。
 では、<問題を共有する>ことと<話題を共有する>ことは、どこが違うのでしょうか。

<問題を共有する>とは、ある疑問文に対する答えを見つけることが重要であるという認識を共有することです。もう少し細かく言うと、(問題が、現実認識と意図の矛盾として構成されているとすると)問題を構成している現実認識と意図を共有し、その矛盾を解決することが重要であるという認識を共有していることです。その問題の解決に共同して取り組もうとするかどうかは、問題の共有とは、論理的には別のことがらです。しかし、実際には、共同して取り組むことが不可能でない限り、共同して取り組もうとすることを妨げるものはないでしょう。(共同して取り組むことが不可能な問題があるだろうか? これは後で考えましょう。)

では、<話題を共有する>とは、どういうことでしょうか。話題を共有するとは、ある対象や事柄に関する興味、関心を共有するということでしょう。ところで、パンダに関心をもつ動物学者と国際政治学者は、同じ対象に関心を持っていても、彼らが関心を共有しているとは言えないでしょう。動物学者は、動物としてのパンダに関心をもっており、国政政治学者は、中国の外交政策に利用されている贈り物としてパンダに関心を持っているからです。つまり、同じ対象が関心の対象になっているというだけでは、話題を共有していると言うには不十分です。話題を共有するとは、同じ事柄に対する関心を共有することです。そして、事柄は命題で表現されるので、話題を共有するとは、ある命題に対する関心を共有することです。ある事柄(ないし命題)に関して、二人がそれぞれ言いたいことや、知りたいことをもっているとき、彼らは話題を共有していると言えるでしょう。

 とりあえず、議論と会話の区別を確認しておきましょう。

<議論と会話の対比>
議論は、記録して、再開できる。
そのときに、参加者は変化しても、議論は一つである。
議論は問題中心である。
問題が変われば、それは別の議論である。
問題の変化もまた、別の問題になりうるが、その別の問題を扱うのは、別の議論である。

会話は、記録して、再開できない。
会話は、参加者が変化すると、別の会話である。
会話は、参加者中心である。
話題が変わっても、会話は継続する。
話題の変化もまた、話題となりうる。そのときも、会話は継続する。

議論と会話

昨日の続きです。
<議論できる>ためには、<問題を共有する>に加えて、何が必要なのでしょうか。

<議論を開始する>ためには、<問題を共有する>ことが必要でした。しかし、開始してもその議論が行き詰まると、議論を継続することができなくなります。
<議論を継続する>ためには、議論の進展が必要です。議論が進展するとは、問題解決に近づくということでしょう。<問題解決に近づく>とは、ある問題を解決するための方法がわかる、解決の方法についての合意ができる、ある問題を解決するために解決すべき下位の問題が解決するか、下位の問題の解決に近づく、などです。他にも、いろいろな事柄が考えられそうです。
議論を継続できなくなったとしても、それまでの議論が無効になるわけではありません。議論は、記録して保存することが可能で、(よいアイデアを思いついたり、状況が変化したりして)いつか再開する可能性があります。

さて、話題をもとに戻しましょう。
  人生についての議論できることが、<哲学的な人生論>であり、
  人生についての議論できないけれども語りたいことが<私的な人生観>である。
と言うようなことを昨日述べました。

 人生について議論するには、<問題を共有する>必要があります。そして、それに加えて、議論したいと思っている必要があります。その場合には、とりあえず、<哲学的人生論>が成立します。

 それに対して、<私的な主観的な人生観>の場合には、議論できないけれど語りたい、と言う場合もあるでしょう。そのとき、その人は一方的に語りたいのでしょうか。説教したい人は、一方的に語りたいのかもしれませんが、しかし説教したい人は、その説教の内容が、私的な主観的な人生観であるとは思っていないでしょう。そのように考えると、私的な人生観を語る人は、会話したいのだとおもいます。(議論したいけれどできないので次善の事柄として会話を希望する、という場合と、議論できるとできないにかかわりなく、議論はしたくなくて、ただ会話がしたい、という場合に分けることができるかもしれません。)

 では、会話するために必要な条件は何でしょうか。昨日述べたように、会話するときには、<問題を共有する>必要はありません。会話に必要なのは、<話題を共有する>ことです。

 では、<問題を共有する>ことと<話題を共有する>ことは、どこが違うのでしょうか。

もう一度最初から

最初からもう一度やりなおしましょう。

この書庫「哲学的人生論(2)」のテーマは、私的な人生観をではなくて、私的な人生観というものについてメタレベルで考えてみることでした。まず、第一に問題になるのは、「私的な人生観とは、何か」ということです。

私は、私的な人生観と、哲学的な人生論の区別について、それがほぼ自明であるかのように述べて、議論を始めました。そこに問題があったように思いますので、初めから考え直してみたいとおもいます。

私的な人生観とは、何でしょうか?

<私的な人生観とは、人生についての私的な主観的な考えであり、論拠がはっきりしているとは限らないし、それについて他者と議論する意図もないし、またうまく議論することもできないかもしれないようなものである>と考えていました。

「私的な人生観」を「哲学的な人生論」との対比において理解していたのですが、その対比とは、<人生についての私的な主観的な考え>と<人生についての哲学的な議論>という対比でした。言い換えると、「人生についての」<私的な主観的な考え>と<哲学的な議論>の対比でした。
 
<哲学的な議論>に対比されるのは、通常は<科学的な議論>とか<経験的な議論>です。人生について、科学的に語れることがあるかどうか、解かりません。少なくとも、人生の意味について、科学的に語れることはないでしょう。また人生の意味について、経験的に語れることがあるとも思えません。たとえば、ある人物の人生についてならば、経験的に語れるかもしれません、しかし、その人物の人生の意味について、経験的に語ることはできないでしょう。したがって、人生の意味について議論できるとすれば、それは哲学的な議論になるでしょう。

つまり、人生について、議論できるとすれば、それは<哲学的な議論>であり、議論できないけれども語りたいことがあるとすれば、それは<私的な主観的な考え>である、と考えてよいのではないでしょうか。

では、<議論できる>と<議論できない>の区別は、どのようなことでしょうか?

人生について科学的に語ることはできないのですから、科学と非科学の区別(これも、実はうまく区別できないのですが)に用いられてきた、検証可能か否か、反証可能か否か、というような区別はここでは使えません。

<議論できる>ために必要なことの一つは、<問題を共有する>ということです。
議論が成り立つためには、問題を共有するということが不可欠です。ある問題が共有されたならば、その答えや答えの求め方や、その問題を解くために解かなければならない別の問題設定などについての、合意がすぐに得られないとしても、とりあえず議論は可能であり、議論を開始することができます。(これに対して、会話は探求すべき問題の共有がなくても可能です。)

しかし、問題の共有は、<議論できる>ための必要条件ですが、十分条件ではありません。つまり問題が共有されても、議論が成り立つとはかぎりませせん。たしかに、問題を共有すると、その問題の解決を求めて議論を開始することができます。しかしその過程で意見の対立がどうしても解消できず、議論が一向に進展なくなり、それ以上議論しても不毛であると感じられることがあります。この様な場合には、問題の共有があっても、これ以上の議論は成立しなくなっているといえます。(これに対して、このような場合にも会話を続けることは可能です。なぜなら、会話は合意を目指しているのではないからです。)

では、<議論できる>ためには、<問題を共有する>に加えて、何が必要なのでしょうか。

復習と行き詰まりと・・・

      つかの間の山の中の思索でした。

久しぶりなので、前回の復習からはじめます。

 「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式である
   ①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
の場合でも、このpの内容が他者から批判されることはありえます。
 
 これが批判されたときの答えは、次の二つに一つです。
1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
   間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
   正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じてい
   ます。」
 
私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりません。2の返答か可能かどうかは、pの内容に依存するように思われます。そこで、問題は、

  「2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、一
   般的に定義するとどうなるでしょうか」

ということでした。

以上が、前回の復習です。

 他者に危害を加えるかどうかが、判別基準でしょうか。

 自分の人生について、他者に危害を加えない方針を主張することが、私的な人生観で、自分の人生について、他者に危害を加える方針は、私的な人生観ではないのでしょうか。
 もし「ひとに認めて欲しかったのに、誰も認めてくれないから、私は社会に復讐するのだ」と考えている人がいるとしたら、それは他者に危害を加える方針なので、批判されてしかるべきです。「社会の誰も君のことを認めてくれないとしても、それを理由に社会に復讐するというのは、飛躍し過ぎではないですか」と批判されて、その人が「私の考え方がおかしいとしても、その責任は社会にあるのだから、いまさら社会からとやかく言われたくない。」と開き直ったらどうしたらよいでしょうか。つまり、彼のとの議論が、理論的な議論にならないとしたらどうでしょうか。そのとき、彼のその主張は、議論可能な哲学的人生論であるとは、いえないだろうとおもいます。それは彼の私的な人生観だ、と言う方があっているような気がします。
 つまり、他者に危害を加えるかどうかで、哲学的な人生論か、私的な人生観か、を分けることには無理があるようです。

 どこか変ですね。どこかで、議論が間違っているのでしょう。
 
 もう一度やり直しましょう。

 哲学では、何度でも最初からやり直すことが必要です。
 (変な話かもしれませんが、<行き詰まっても、何度でも最初からやり直すことができる>ということも、哲学の楽しさの一つかもしれません。それは、楽しさでなく、気楽さ、と言うべきかもしれません。最初からやり直しても、誰にも迷惑をかけません。哲学は、我々を身軽にするのです。)

 ということで、久しぶりなのに、今日はここまでです。

個人的な人生に関する私的な人生観は可能

     剣山山頂から続く尾根の景色です。よい天気でした。

①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
このような「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式には、問題はないのでしょうか。

 実は、問題があります。以前にも述べたことですが、もしこのpの内容が道徳や法律に反するときには、pは他者から批判されるでしょう。その批判が正しいかどうかを別にして、個人的な人生に関する私的な人生観であるとしても、他者から批判されることはありえます。
 では、そのとき批判された人(Xさんとします)は、どのように答えることになるでしょうか。Xさんに可能な態度は、②についての考えたときと同じく、次の二つに一つです。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
す。」

私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。

 これは整合的な態度ではない、というのが、人生観②について考察したときの結論でした。では、人生観①の場合にはどうでしょうか。答えは、pの内容に依存するようにおもわれます。
例えば、もしpの内容が道徳や法律に反するものだと批判されとすると、その場合には、上の2の態度をとることはできません。1の態度をとり、pが道徳や法律に反しないことを弁明する必要があります。
 しかし、例えば、もしpの内容が、「画家としてすばらしい作品を描くことが私の生きる意味だ」というものであるとするとき、「他者が、画家で成功する人はまれなのだから、あなたの才能なら、やめたほうがよい」、とか「あなたは、画家より、数学の才能方法があるとおもうので、数学者になったほうがよい」とかの批判であるとすると、それに対しては、Xさんが2の態度で答えたとしても、そこには不都合はないとおもわれます。

 2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、上のような事例で示すのでなく、一般的に定義できるとよいのですが、・・・
うか。

二種類の私的な人生観

     今年の夏に登った剣山山頂です。

 前回予告した分析を延期して、話を少し戻します。

以前に述べましたが、私的な人生観には、二つのタイプが考えられます。
  ①「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」
  ②「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
前回、私的な人生観が不可能であると結論付けることになったのは、②の方です。つまり、前回の議論を認めたとしても、①の私的な人生観はとりあえず、問題ないように思えます。①は、個人的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。②は、一般的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。

 文化に対する態度についても、これと類似した二つの態度を区別することができます。
  Ba「我々は、我々の社会の伝統的な規範を守りたいとおもいます。
    他の社会が、我々のとは異なる規範を採用することを、我々は尊重します。」
  Bb「我々は、人類社会は、pという規範を守るべきだとおもいます。
    しかし、他の人々がその規範を尊重しないとしても、我々はそれを尊重します。」

「多文化主義」は、Baのタイプの主張をすることに成ります。Bbは、「多文化主義」にはなりません。Bbを主張する者は、他の人々がpを批判したときには、それを受けて議論しなければなりません。もしそうでなければ、それは合理的な態度とは考えられません。しかし、もしそうだとすると、この態度は、多文化主義ではありません。それはひとつの普遍的な文化を探求する態度です。もちろん、<そのような合意を求めるけれども、しかしそれが得られるまでは、相手の立場を尊重して、議論しようとするし、また、そのような合意が必ず得られるはずであるとも考えていない>という態度もありえます。しかし、そのような態度であるとしても、それを「多文化主義」とは呼べないでしょう。

 さて、人生観の話に戻ります。②の一般的な人生に関する私的な人生観は、合理的な態度としては考えられないと述べました。しかし、このような人生観を述べる人がいますし、このような人生観をもっている人もいます。現実には、②を維持することが可能になっています。それは、次の二つの場合であろうとおもいます。

 Xさんにとって、pが私的な人生観であるとは、Xさんが、pを他者に証明しようと意図していない、と言うことでした。このような態度がうまく維持できなくなるのは、他の人からXさんがpについて批判されたときです。しかし、
(1)もし、Xさんが他者から批判されないとすると、その限りで、Xさんは、pを私的な人生観としてもち続けることができます。(実際の生活では、他人の人生観を聞くことがあっても、それをことさら批判しようとしたり、それについて議論しようとしないことが多いとおもいます。話題が拡散しすぎるので、その理由についてはここでは考えません。)また、
(2)他の人から批判されても、「確かにそうかもしれませんね。考えてみます。」などとその場をしのいで、そのうち、忘れてしまう、という態度が可能です。(まるで自分のことのようです。)

 さて、現実には、このようにして②が維持されることもあるのですが、②は合理的で整合的な態度とはいえないでしょう。
 では、①の「個人的な人生に関する私的な人生観」は、本当に問題ないのでしょうか。これを検討してみましょう。

私的な人生観は不可能?

さて、前回次のようにのべました。

  「信じる」には確実性の度合いがあって、信じる理由が弱いときには、
  「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」

 しかし、究極的に根拠付けられた命題は存在しません。(これについては、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を調べてみてください。)そうだとしたら、

  「私は、pと信じる。そして、pでない可能性はない。」

といえるような場合は、存在しないことになります。つまり、「信じる」の確実性の度合いは常に弱い、ということになります。「信じる」の確実性の度合いを、前回のように区別するのは、ほとんど役に立たないということになります。(仮に、究極的に根拠付けられた命題が存在するとしても、それはごく僅かの限られた命題でしょうかから、つぎの主張は、だとうするでしょう。)

 そうすると、哲学的な人生論と個人的主観的な人生観の違いはなくなります。つまり、哲学的な人生論の主張といえども、究極的に根拠付けられているわけではなくて、間違いの可能性があることになります。
 このとき、哲学的人生論は、「私は、人は・・・という仕方で生きるべきだと信じるが、他の人がそのように考えないとしても、それを尊重する」というタイプの人生観の表明と、何の違いがあるのでしょうか。
 哲学的人生論と私的な人生観の間に、確実性についての明確な違いがないのだとすると、両者の区別は可能なのでしょうか。

 両者の違いは、<他者に同意を求め、他者が同意しないときには反論を求める>という説得ないし議論への意思があるか、ないかの違いではないでしょうか。
 たとえば、Xさんが「pは私の私的な人生観です。つまり、私は、pを他者に説得しようとか、これについて他者と議論しようという意図はありません。」と考えているとしましょう。
 ところで、Xさんに説得の意思も、議論の意思もないのだとしたら、そもそもXさんはなぜ私的な人生観を語ろうとするのでしょうか。つぎのいずれかではないでしょうか。

  ①、他者に問われて答える場合。
  ②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
   しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立つ
   かもしれないので、発表する。

 さてこのとき、YさんがXさんに、「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」と問うたとしましょう。
このとき、XさんはYさんにどう答えでしょうか。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
   間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてでなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
  正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
  す。」

私的な人生観の表明が可能であるためには、この2の態度が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。
 Xさんが、Yさんからpへの反論とその理由を示されたときに、自分でその反論を吟味してみようとしないとすると、その態度は、合理的な態度だとはいえないでしょう。
 Xさんのpに対する信念が、堅固なものであり、pを信じる理由が十分に確実なものであるときには、次のように考えるでしょう。

  「私はpだと信じている、言い換えると、「pでない」を偽であると信じ
   ている。ゆえに、qでないといわれても、それを吟味しようとはおもわ
   ない。」

しかし、もし究極的な根拠付けが存在しないということを、受け入れている人であれば、どんな信念も可謬的であるのですから、その人は反論を吟味しようとすべきでしょう。Xさんがpの真偽を知ることを求めているのだとすると、pに対する反論qが示されたときに、その反論を吟味しないという、態度は矛盾しています。

 まとめです。

 上に述べましたが、Xさんが、私的な人生観を語る理由としては、つぎの二つが考えられます。

  ①、他者に問われて答える場合。
  ②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
    しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立
    つかもしれないので、発表する。

①の場合に、もしYさんに問われて、Xさんが、「私の私的な人生観はpです」と答えたとしましょう。このとき、Yさんが上のように「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」といったとしましょう。
このとき、Xさんには、上に述べたようにつぎの二つの態度が考えられました。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
  間違っていると思うので、答えましょう。」
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
  正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
  す。」

1は、pを私的な人生観ではく、哲学的な人生論としてあつかうことでした。
2は、上に見たように、矛盾した態度でした。

 以上からすると、私的な人生観は、成り立たないことになります。
(この議論に、何か見落としはないでしょうか?)

 では、多文化主義の信念形式B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」もまた成り立たないのでしょうか。

 前回の予告だった、つぎの発言の分析が必要なようです。
「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」

京劇は面白い。しかし京劇をつまらないという人を尊重する?

Beijin oper(北京京劇)をみました。中国各地に、似たようなものがあるらしいです北京のものとは、すこし違うのだそうです。別の町のものを見たいとおもいました。予想していた通り、日本の歌舞伎にすごく似ているのです。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを
尊重します。」

この「多文化主義の信念形式」は、自己矛盾していないのか?これが問題でした。

 前回とは別の角度からアプローチしてみましょう。
 これが矛盾していないかどうか、検討するには、「信じます」の意味を明確にする必要があります。urbeさんのコメントにあるように、英語の”believe”も日本語の「信じる」も多義的です。
 
 人がある命題を信じており、そのことを意識しているときには、その命題を信じる何らかの理由があるはずです。何の理由もないとしたら、その人は他の命題でなくその命題を信じるという決定できないはずです。
 もちろん、人がある命題pを信じているけれど、そのことに気づいていないということはありえます。そのときには、pを信じているけれども、その理由を自問しても、答えられない場合もあるかもしれません。そのときに、彼がもう一度考えてその理由を見つけられないならば、彼はその信念を放棄することになるでしょう。

 人がある命題を信じているときには、信じる理由があるのですが、その理由が、「知っている」というのに十分な場合と、不十分な場合があります。机の上にコーヒーカップがあるのを見るとき、私は、机の上にコーヒーカップがあることを知っているといえるし、また信じているともいえます。「pを信じる」には「pを知る」「pを認識する」という場合と「pを想定している」という場合があるでしょう。
 この区別は、確実性の程度の区別だろうと思います。弱い意味の「pを信じる」は、pを信じる理由はあるが、しかしそれはpが真であることを確実に保証するものではない、ということです。信じる理由が弱いときには、「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」ということになります。

 もっと詳しく言うと次のようになるでしょう。

「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」

 これは矛盾していないどころか、全うな態度だと思うのですが、いかがでしょうか。次回は、ここから何が帰結するか、を考えて見たいとおもいます。

 

多文化主義の信念形式

 山口市の瑠璃光寺の花、その2です。

 「哲学的人生論」と「人生観」の違いは、前回のべた通りです。 私は、私の個人的で主観的な「人生論」をこのBlogで語るつもりはありません。(といっても、時に感傷的になったときに、語るかもしれません)ここでは、あくまでも「哲学の立場から、人生について語れること」に限定して、議論するつもりです。その理由は、「哲学的な人生論」の可能性と限界をできるだけ明らかにしたいからです。ロックやカントが人間の認識能力の可能性と限界を明らかにしようとして、近代的な認識論をはじめたのと似た動機です。

 「哲学的人生論(2)」の書庫では、「人生観」を語るのではなく、「人生観」と「哲学的人生論」の関係、「人生論」そのものの可能性や必要性、「人生論」について哲学的に語れることがあるとすれば、それは何か、などを論じたいと思います。
 
 まず最初に取りあげたいテーマは、前回述べた問題です。つまり、人生観は、次のような形式

A「私は、一般に人生の意味は・・・・・・であると考える。しかし、他の人が別様に考えるのならば、それを尊重する。」

をとりうるのか、それとも、このような信念は自己矛盾しているのか?

 これは、より一般的に表現するとつぎのような形式の主張になります。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

このような主張は自己矛盾していないでしょうか?このBの形式の信念は、多文化主義や文化相対主義の形式でもあると思います。したがって、これが矛盾しているとするならば、多文化主義や相対主義のあり方にも影響するでしょう。そこで、このBを「多文化主義の信念形式」と呼ぶことにします。
 そこで、ここでの問題は、次のようになります。

 「多文化主義の信念形式は、自己矛盾していないのか?」

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
これが、矛盾しているかどうか、を検討しようとすると、まず「尊重します」の意味をもう少し明確にする必要があります。

「私は、他の人がpと信じないことを、尊重します。」
「私は、他の人がpと信じないことを、批判しません。」
この二つは、似ていますが、すこしニュアンスが違うように思われます。「尊重します」は、単に批判しません、というよりも、なにか積極的な倫理的な理由にもとづいて批判しません、と述べているように感じられるからです。
 このように考えると、「他者の意見を尊重します」は、次の④の意味に近いかもしれません。
  
  ①他者の意見を批判できる。
  ②他者の意見を批判できない。
  ③他者の意見を批判すべきである。
  ④他者の意見を批判すべきでない。

しかし、「批判すべきでない」と「尊重する」を全く同義と言うわけにはゆきません。なぜなら、「批判すべきである」は「尊重すべきでない」と似ていると思われるのですが、もしそうならば、「批判すべきでない」が「尊重べきである」と似ていることになります。したがって、「批判すべきでない」は、尊重する」と同義でないことになるからです。

では、最初の提案に帰って、「尊重する」はたんに「批判しない」と同義だとすればよいのでしょうか。しかし、そうも行きません。次を見てください。

  ①他者の意見を尊重できる。
  ②他者の意見を尊重できない。
  ③他者の意見を尊重すべきである。
  ④他者の意見を尊重すべきでない。

前の「批判」の場合、②と④の意味は明確に異っていましたが、ここでの「尊重」の場合、②と④は同じ意味になると思われます。つまり、「尊重する」を「批判する」の単純な反対語とすることは出来ないのです。この理由は、「尊重する」のなかに、何か特殊な倫理的な意味が含まれていることにあるのだと思われます。

(ちなみに、以上の意味のテストは、ライブニッツの「不可識別者同一の原理」ないし「代入則」の応用だといえるでしょう。)

以上から言えるのは、Bは、次のB1とB2に似ているが、しかし全く同じではない、ということです。

B 「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

B1「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判しません」

B2「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判すべきはありません」

これだけでは、「尊重する」という言葉についての語感をすこし磨いたというだけで、語の意味が明確になったとは言えないことは、よくわかっています。

 すこし、別の方向から攻めてみましょう。

C「pです。しかし私はpを信じません」

これは「ムーアのパラドクス」と呼ばれており、矛盾(?)した発話だといわれています。
私は、次の発言もおかしいと思いますが、どうでしょうか?

 「pです。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判できません」

もし私がpであると知っているのならば、私は他の人がpを信じないことを批判できるのではないでしょうか。もし他の人がpを信じないことを批判できないのならば、私はpを知っているとは言えないでしょう。言えるのは、せいぜい「私はpを信じている」ということでしょう。

  D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」

というのは、「ムーアのパラドクス」ほどおかしくはないけれど、やはり不自然な感じがします。つまり、他の人が明らかに間違った信念をもつことを尊重するということになります。これは、その他者に対してpが偽であることを指摘しないということですから、その他者に対して嘘をつくことになるのではないでしょうか。

  Cは、矛盾(?)した発話で、認め難い、といえます。
  Dは、Cよりは矛盾の程度は少ないですが、しかしやはり間違った態度だといえるでしょう。
  Bは、Dよりも更に矛盾の程度が少ないように思います。
  では、Bには、問題がないのでしょうか?

(すこし、外堀を埋めただけで、まだ、全く答えには近づいていません。)