人生論と人生観の区別再説

前回述べた<議論と会話の対比>によるならば、xさんとyさんの二人がおこなう議論は、常に二人の会話として理解することもできます。(しかし、逆はいえません。二人の会話は常に、二人の議論として理解できるわけではありません。)
では、議論が、会話の一種なのかといえば、そうではありません。xさんとyさんの議論は、それ以外の人によっても継続可能です。しかし、xさんとyさんの会話の継続ではありません。(もちろん、xとyが議論しているときに、zさんが途中から議論に参加するというときには、xとyの会話が継続しているということができますが、参加者が完全に入れ替わるときや、時間的な中断がある時には、そうはいきません。)

さて、哲学的人生論と人生観の区別を次のように考えてみるのはどうでしょうか。
<哲学的人生論は、人生に関するある問題についての議論(ないしその一部)である>
<人生観は、人生に関するある事柄(話題)についての会話(ないしその一部)である>

「人生観」については、これまで常に「私的な人生観」と表現してきましたが、会話の中で話されたときには、それは他者と共有されるので、単に「人生観」と表現することにします。

xとyが、人生に関するある問題を議論しているとするとき、それはまたxとyの間の会話として理解することもできます。すると、xの哲学的人生論は、つねにxの人生観でもある、ということになります。逆に、xの人生観は、つねにxの哲学的人生論であるということになるとは限りません。

さて、このような区別で、十分でしょうか?
どなたでも、ご質問ご批判をお願いします。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です