11 サールの素朴実在論に対する是と非(20210523)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

サールによれば、知覚の哲学には、伝統的に3つの立場(素朴実在論、表象説、現象主義)があります。(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、78)。「素朴実在論」とは、知覚の対象は、対象そのものであると考える立場です。「表象説」とは、「視覚経験ないし感覚与件は何らかの意味で物的対象の模写ないし表象であるとされる」(同訳80)立場です。「現象主義」とは、「その対象は何らかのしかたでまさに感覚与件の集まりに他ならないとされる」(同所)立場です。

 彼は「表象説」と「現象主義」を次のように批判します。「表象説」には次のような難点があります。「「知覚されるもの、すなわち感覚与件と、その感覚与件の表象するもの、すなわち物的対象とのあいだの類似を主張するとしても、その対象の項が定義上感覚に与えられえないものである以上、両者の間の類似という概念も了解不可能なものとならざるを得ない。」81そして、「現象主義」の難点は、「それが独我論に帰してしまう」(同訳81)ということです。

 この二つの立場は、どちらも知覚の対象を「感覚与件」と見なす立場(感覚与件論)です。サールは、この感覚与件論に対して、感覚与件ではなく対象そのものを知覚すると考える素朴実在論者を対比させますが、次のようにどちらも批判しています。

「伝統的感覚与件論者は、われわれが視覚的であれ他の形においてであれ経験を有していることを見て取った点においては正しかったのであるが、他方その経験が知覚の対象であると想定することにおいて、知覚の志向性の所在を誤って位置付けてしまった、ところが逆に素朴実在論者の側では、物的対象ないし出来事が本質的に知覚の対象であることをみてとった点においては正しかったのであるが、他方彼らの多くのは、知覚が志向内容を有しており、その志向内容の担い手が視覚経験であるからこそ、物的対象も視知覚の対象たりうる、という点を見損ねてしまったのである。」(同訳82)

 サールは、素朴実在論が「知覚が志向内容をもつこと」を見損なっているとして批判します。つまり、知覚は志向性を持ち、適合の方向を持つということをみそこなっているということではないでしょうか。もし知覚が事実に適合するという「適合の方向」を持つと考えるならば、確かに、直接実在論は採用できなくなります。

ただし、サールは、これに続くところで、知覚の因果説を批判して、素朴実在論をとろうとしているように読めます。

 「知覚の因果説」とは、上記の「表象説」が知覚表象の説明のために主張する立場です。「知覚の因果説」は、視覚経験がある時、対象が原因として、視覚経験を引き起こしている、と考えます。言い換えると対象が知覚を引き起こす原因として対象が存在すること(あるいは、対象が然々の状態にあること)を推論します。しかしサールは知覚の因果説をとりません。その理由は、対象が知覚の原因であることを推論しても、そのことを確証できないからです。

 サールは次のように言います。

「車が私の視覚経験を引き起こしていることを、私は決して推論する(知る、あるいは見出す)のではない。私は端的に車を見ているのである。」(同訳101) 

「その車が私の視覚経験を引き起こしたという知識は、私が車をみているという知識から引き出されてくるのであり、決してその逆ではない。」(同訳102)

「私はそこに車が存在することを推論するのではなく、端的にみているのである。」(同訳102)

このように、サールは車が存在することを「端的にみている」というのですから、素朴実在論を採用していると言えそうです。

前述のように他方で、サールは、知覚の志向性を認めます。私は現在、知覚に志向性を認めない方がよいと考えています。なぜなら、知覚が世界に適合すべきだとするということは、車の知覚と車を区別することになるからである。したがって、素朴実在論を認めることと両立しないと思われるからです。

私は、脳科学と知見と素朴実在論が両立するだけでなく、それを結合できると考えています。では、サールは、脳科学の知見とこのような知覚論の関係をどう考えるのでしょうか。次にそれを確認しておきたいと思います。

10 知覚の志向性と素朴実在論(20210522)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回説明したように、脳科学と素朴実在論の結合に矛盾はないとしても、それが説明の循環をもたらすでしょう。つまり、脳科学の知見の正しさは、最終的に脳科学に基づき、素朴実在論の正しさもまた最終的に素朴実在論に基づくということが成り立つとしましょう。この循環論証は、脳科学と素朴実在論の結合を想定したときに生じる循環です。ところで、私たちにとってのとりあえずの課題は、脳科学と素朴実在論の結合の正しさを論証することです。そのために、まず行ったことは、この結合が整合的であること(矛盾しないこと)を示すことでした。もし矛盾しないことが示せたとしても、それだけでは証明することにはなりません。

 これを証明する方法が分からないとすると、とりあえずできそうなことは、前回の最後に述べた二つのことになりそうです。

  第一に、これと矛盾する主張を反駁すること。

  第二に、これから帰結する有用な主張を示すこと。

さて、素朴実在論と矛盾するようにみえる主張の一つは、知覚は志向性を持つという主張です。サールは、知覚が志向性を持っており、それは知覚内容を世界に適合させるという適合の方向を持つと考えます。これは素朴実在論と矛盾します。なぜなら、素朴実在論は、<私たちは、知覚において、知覚像を介して世界を捉えるのではなく、世界そのものを直接に見ている>と考えるからです。

私は、知覚が適合の方向を持つとか、知覚イメージがあるとか、考えません。まずそれを説明しましょう。私が机の上にマグカップがあるのを見る時、マグカップそのものをそこに見ているとおもっています。このとき、私は、マグカップ(対象)に注意しています。私がマグカップ(対象)を見ていることも意識しています。しかし、私はマグカップの知覚イメージには注意していません。したがって、知覚において、知覚イメージのようなものがあり、それが対象に適合しているとか、適合すべきだとか、考えていません。

 では、私たちが知覚イメージについて考えるのはどのような場合でしょうか。確かに私たちは、対象や世界を知覚するとき、知覚イメージを持っている、と考えがちです。その場合の<知覚イメージ>は、対象についての知覚経験(感覚器官を介した知覚的経験)の記憶ではないでしょうか。

 私たちは、錯覚や幻覚を持つことがあります。ただし、知覚経験が錯覚や幻覚であることが分かるのは、後からのことです。つまり、知覚経験が記憶になったときなのです。記憶された知覚的イメージが事実に合わないとき、その知覚的イメージは、錯覚や幻覚であったと事後的にわかるのです。記憶された知覚的イメージが事実に一致するとき、そのイメージは、真正の知覚であったことが確認されるのです。ところで、「記憶された知覚的イメージが事実に一致するとき」と言う時の「事実」とは、その時に知覚されている事実に他なりません。錯覚や幻覚や真正な知覚は、確かにすべて知覚的イメージですが、しかしそれは記憶され想起された知覚的イメージなのです。現実の知覚においては、知覚されているのは対象そのものであり、知覚イメージが存在するわけではありません。

 ただし、「対象を直接に知覚する」ということは、前(08回)にも述べたように<緩く>理解する必要があります。視覚がぼやけていたり、二重になったり、眼がゆれて視覚がブレたりすることありますが、そのような場合にも私は対象そのものを「見ている」のであり、視覚像を見ているのではありません。それを想起するときに、ぼやけた視覚や、二重になった視覚野、ブレる視覚が、「視覚像」として想起されるのです。

 ところで、知覚が志向性を持つと考えるサールは、志向性を看過しているという点で、素朴実在論を批判するのですが、しかし、他方では、素朴実在論に対して好意的な発言をしているようにも思われます。次回は、この点を確認したいとおもいます。

09素朴実在論と脳科学を結合するとクラインの壺になる(20210519)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚や思考は、脳内のニューロンの発火パターンに付随するものだとしましょう。そうすると、その知覚と思考は、脳の内部にあることになります。たとえば、私が、机の上のマグカップを手でつかんでいるのを見る時、その視覚像は、私の脳の内部にあることになります。ところで、私の脳は、眼の奥にあり、カップと手は眼の前方40センチくらいのところに見えます。この視覚像が、私の脳の内部にあるのだとすると、私の眼と頭も、私の脳の内部にあることになります。

この説明は矛盾しているように感じられますが、本当に矛盾しているでしょうか。両手で頭をさわるとき、頭は両手の間にあり、脳はその頭の内部にあるはずです。他方、私が触っている頭も両手も、脳の内部に成立しています。脳の外部に出て手やマグカップにたどり着いたと思ったら、脳の内部に入っていたという次第です。まるでクラインの壺のようです。しかし、クラインの壺には、論理的な矛盾はありません。それを作ることもできます。

madsynapse.blogspot.com/2009/05/1993.html

クラインの壺に矛盾がないように、上記の説明には矛盾はないかもしれません。しかし、ここには次のような説明の循環が生じます。脳科学ないし神経科学の成果が、大脳のニューロンの発火に付随する外界の認識が発生することを説明したとしましょう。これによって、外界についての私の認識の発生は説明され、この認識の一部として科学ないし神経科学の成果が得られたとするとき、脳科学の成果が、脳科学の成果の正しさを証明することになります。つまり、説明の循環が生じます。

このようにある主張を証明できないときに、私たちにとれる戦術は、一般に次の二つです。

一つは、その主張を批判する主張ないしその主張と矛盾する主張を反駁することです。

もう一つは、その主張から(広い意味で)有用な主張が帰結することを説明することです。

(さてどちらから取り掛かりましょうか。それとも整合性についての説明がまだ不足しているでしょうか。もし不整合に気づかれたら、コメントをお願いします。)

11 分人主義と人生の目的 (20210516)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

ある人の人生の目的は、その人の「私は何のために生きるのか」という自問への答えです。この答えが、「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」であったとしましょう。しかし、また他方で、その人は「私は、私の子どもの幸せのために生きる」と答えるとしましょう。そして、仮にこれらの目的の皿により上位の目的を遡ることができるとしても、その2つの系列が交わることがないということがありうるでしょう。このような系列は、2つ以上あるかもしれません。

平野啓一郎の「分人主義」を想定するならば、「私は何のために生きるのか」という問いに対する答えが、複数あることになります。あるグループにおけるその人の最終目的と、別のグループにおけるその人の最終目的は別のものであり、しかもそれらのより上位の目的を遡っていったとしても、それらが一つの目的に収斂することはないということになるでしょう。「私は何のために生きるのか?」という問いを、分人のおのおのが独立してとうことになります。

(「分人主義」については、カテゴリー「戦後日本の自我論」の2~8を御覧ください。)

それで? と問われそうですが、考えたのは今のところここまでです。

10 人生の意味と人生の目的の区別 (20210515)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

私たちが生きていくとき、他者や自分との絶えず問答をおこなっており、またそれが必要でもあります。他者と問答するためには、自分の行為と発言を記憶し、その整合性をチェックし、必要ならばそれを修正し、必要ならば、その修正を他者に伝えます。場合によっては、変更理由を説明する必要があります。他者との言葉と行為による交流ができている限りにおいて、主体は自分とは何かをおおよそ理解しています。つまり次のような問いを問い、それに答えています。

①「主体(自我、人間)とは何か」

②「自分はどういう人間か」(自分探しの問い)

③「私は、○○のためには、どうすればよいのか?」

この「○○」には、例えば「健康」「長生き」「幸せな生活」「家庭円満」「人に認められること」「お金儲け」「すごい芸術家になること」「会社で出世すること」「会社を大きくすること」などが入ります。「○○」に入るものは、その人の生活の目標です。これらの目標は、より大きな目標のための手段である場合もあります。ところで、人は、何度かこれらの目標を再確認したり、修正したりする必要に出会うでしょう(たいていは、その目標追究に行き詰まったときであり、ときには目標追究があまりにもうまく進んで不安になったときかもしれません)。そのときに、「私は、何のために、○○しようとするのか?」という問いが生じます。この問いを立てる者は、それに答えるために、次の問いを立てるでしょう。

④「私は何のために生きるのか?」

そこで、次のように主体を定義したいと思います(これ以外の主体の定義を排除するものではありません。一般に、一つの定義が可能ならば、大抵は複数の定義が可能です)。

主体の定義:主体とは、「私は何のために生きるのか?」と問うものである。

「私は何のために生きるのか」という問いは、「私の人生の目的はなにか」と言い換えられます。そして、この問いは、「私の人生の意味は何か?」という問いとは異なります。

 「人生の意味」については、問答推論的意味論に基づいて、「ある人の人生の意味は、その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体である」であると考えることを提案しましたが。しかしこれを受け入れても、これだけでは「私は何をなすべきか」や「私は何のためにいきるのか」に答えることはできません。

 「私は何のために生きるのか?」と自問して、答えが見つからない人にとっては、この問いを問うことが人生の目的になるでしょう。つまり、その人は「私は何のために生きるのか?」という問いの答えを見つけるために生きる、と言うことになるでしょう。

 ただし、この問いの答えを見つけている人もたくさんいるとおもいます(中高年になると答えを持っている人が多いだろうと推測します)。

 例えば、私の場合、「私は何のために生きるのか?」に対する答えは、「私は哲学するために生きる」です(「哲学する」とは、「通常より、より深くより広く考えること」です)。このように、この問いに対する答えをすでに持つ者も、この問いを問う必要があります。何故なら、「私は哲学するために生きる」という発話の意味は、「私は何のために生きるのか?」という相関質問を問うことによって明示的になるからです。このような意味で、私たちは、「私は何を求めて生きているのか?」と問う者なのです。

 ところで、ここでさらに「私は何のために、哲学するのか?」と自問するとき、私がそれに答えられないとすると、「私は哲学する」は、それ以上の(自覚された)目的を持たないことになります。もしこれを自分の最上位の目的とすることに、確信がもてないとすると、私は「私は何のために生きるのか?」と自問するでしょう。

 以上の話は「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」や「私は子供幸せのために生きる」や「私は人類のために生きる」などの他の答えの場合でも同様です。いずれにせよ、私たちは「私は何のために生きるのか?」と自問するのです。(唐突かもしれませんが、映画、アニメなどを含めた広義の文学作品は、そのことを証示していると思います。)

07 素朴実在論は脳科学と両立するのか(2)(20210513)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 私は脳科学の知見と素朴実在論は両立可能であろうと推測します。もし、両立しないところがあれば、修正すべきは素朴実在論の方だろうと思います。なぜなら、脳科学の知見は経験的にテストされているからです(もちろん、科学方法論の検討は別途行わなければなりません)。

 他方、脳科学の知見に基づくある種の哲学説と素朴実在論が両立しないときには、脳科学の知見にもとづく哲学説の修正も考える必要があります。なぜなら、この場合には、哲学説同士の論争になるからです。

 素朴実在論は、知覚において対象そのものを捉えていると考えます。しかし、日常生活で、私たちは、対象についての次のように考えています。

   ・眼を閉じたときに対象がなくなるとは考えない

   ・眼鏡を動かして、視覚像が揺れる時、世界が揺れているとは考えない

   ・眼鏡をはずして世界がぼやけて見える時、世界そのものが変化しているとは考えない。

つまり日常生活でも私たちは、見えている通りに世界があるとは考えていません。したがってその意味では、見えと世界そのものや対象そのものを区別していると言えます。(本がぼやけて見える時、それは、完全な知覚とは言えませんが、錯覚や幻覚ではないと思います。つまり、知覚についての二分法(真正な知覚と、錯覚・幻覚)は、無理がありそうです。)これらを考慮すると、「素朴実在論」の理解を少し修正する必要があります。 

 私は「素朴実在論」を<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>と定義しましたが、この「対象を直接に捉える」の部分を緩めて理解してほしいと思います。眼鏡をはずして本を見た時、文字がぼやけたとしても、ぼやけた文字が存在しており、それをそのままとらえているとは考えません。私たちの日常生活での知覚は、錯覚・幻覚ではないけれども、ぼやけて、曖昧で、不安定なものです。明確な知覚イメージを持つということはほとんど不可能です。それはエナクティヴィズムのノエが主張しているとおりです。エナクティヴズムの知覚理解や、ギブソンのアフォーダンス論の知覚理解が、素朴実在論で想定するときの「知覚」にふさわしいだろうと考えています。私たちは、眼鏡をはずして、本をぼんやりとみている場合にも、「本そのものを見ている」と言うでしょう。日常生活での「物を見ている」の用法は、明確な知覚イメージを介するものには限らないのです。

私たちは、眼鏡を動かして、部屋が揺れて見える時、部屋そのものは揺れておらず、そのあたりにそのままあると考えますし、揺れていない部屋を見ていると考えています。眼鏡をはずして、本がぼやけて見える時でも、本に眼を近づければ文字ははっきりと読めるようになります。眼を戻せば、文字はまたぼやけて見えますが、印刷された文字そのものはそこにぼやけずあると考えます。眼がわるい人間は、ぼやけて見える時はいつも「何と書いてあるのだろうか」と問い、より鮮明に見ようとします。その答えとして、より鮮明な知覚を得ます。知覚するときは、どんな形、どんな大きさ、どんな色、どんな味、どんな音、どんな暖かさ、どんな感じ、等を問いながら知覚します。私たちは、知覚像を見るのではなく、知覚を介して、対象そのものをみようとしています。

さて、このような素朴実在論と脳科学の知見の関係は、どうなるでしょうか。例えば、机の上のマグカップにあたった光が反射して目に入り、網膜像を形成し、神経を発火させそれが脳まで伝わります。これを調べている脳科学者にとっては、これらのことは、直接眼でみたり、計測機器で確認できることです。机の上のマグカップは、脳科学による説明では、知覚の原因ですが、その原因から惹き起こされる知覚の対象でもあります。したがって、次のように言いたくなります。

「そこのマグカップで反射した光が、眼に入って、網膜像を形成し、それが視神経を発火させ、その発火が大脳に伝わり、そこで生じるあるニューロン・クラスターの発火が、いま見ているマグカップの像を作っている。」

この説明を整合的に理解するためにはどのように解釈したらよいでしょうか。この説明に登場する二つの「マグカップ」は、同一の対象を指示していると理解することは、整合的でしょうか。一つ目の表現「そこのマグカップ」が指示するのは、言い換えると「そこに見えているマグカップ」が指示するものです。そのマグカップそのものと、それの見えは、私の視力やその他の状況のために(位置や形や色や模様が)多少ずれていてもかまわないとします。それでもおおよそそこに見えているようなマグカップが存在すると考えるからです。

 次に、二つ目の表現「いま見ているマグカップの像」は、「<いま見ているマグカップ>の像」を意味しています。ここでの「マグカップ」は、最初の「マグカップ」と同一の対象を指示しています。

(この個所を「いま見ている<マグカップの像>」と解釈することはできません。なぜなら、わたしたちが見ることができるのは、ある物であり、その「知覚や知覚像」ではないからです。私たちは、マグカップを見ることができるし、マグカップの絵や写真などを見ることができます。しかし、マグカップの知覚像を見ることはできません。なぜなら、マグカップの知覚は、一定の視点から一定のゲシュタルトでマグカップを見ることですが、そのような一回的な知覚(写真のように一瞬の見えを固定したものを)想像することはできても、見ることはできないからです。ライルやオースティンの議論をまとめることは難しいのですが、かれらも同じようなことを考えていただろうと思います。)

このように解釈するときこの命題が整合的であるとすれば、脳科学による知覚の説明と素朴実在論による知覚の説明は両立するでしょう。次回は、これをもう少し詳しく考えてみます。

06 素朴実在論は脳科学と両立するのか(20210508)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか?」

今回は、これを考えたいと思います。

素朴実在論とは、<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>とする立場です。(有名な論者としては、例えば、パトナム、マクダウェル、日本では大森荘蔵、野矢茂樹、などです。)

他方、「知覚は、どのようなものであり、それはどのようにして成立するのか」という問いに対してまず思い浮かぶ答えは、自然科学による次のような説明でしょう。例えば、黄色の花に太陽光が当たって、そこで反射した光の一部が目に入り、網膜に黄色の花の像を結ぶ。そのとき網膜にある多くの視神経が発火してその信号が脳の視覚野に伝わり、別の神経細胞を発火させる。その後はなぞですが、脳における多数のニューロン発火のあるパターンが、黄色の花の知覚イメージをつくることになります。この説明で問題になるのは、脳内のニューロン発火のパターンと「知覚イメージ」の関係です。多くの場合これは「付随」関係として語られますが、それは現象を記述するための語彙であり、説明するための語彙ではありません。「付随」関係そのものはいまだ謎です。

 この二つの知覚的認識の説明は、多くの場合、両立しないものとして捉えられているのかもしれません。しかし、もし次のように定式化できるならば、それらは両立可能だろうと思います。

・脳科学による知覚の説明:<知覚は、感覚器官、求心性神経、大脳のニューロンネットワークを介して、対象を捉えることである>

・素朴実在論:<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>

このように捉える時、この二つは両立可能です。なぜなら、脳科学の説明では、知覚は、「知覚的表象」や「センスデータ」を介して対象を捉えることではないからです。

論者がこの二つの説明方式を両立不可能なものとみなすときには、脳におけるニューロンの発火パターンに付随する「知覚イメージ」を、素朴実在論が批判する「知覚的表象」や「センスデータ」だと見なしているのです。その「知覚イメージ」を、素朴実在論が理解する「知覚」と同一視できれば、両者を両立可能なものとして理解できます。

次にこれを説明したいと思います。

06 素朴実在論の検討へ向けて(20210508)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、次の「錯覚論証」におけるaからbは帰結しません。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

bを否定して、知覚と錯覚・幻覚が、異種であるかもしれないというだけでなく、それらが異種であることを主張しようとするには、別途追加の根拠が必要であり、それを検討したいと、前回予告しました。

 しかし、aからbが帰結しないのならば、それだけで錯覚論証を批判するには十分です。もちろん、まだ知覚と錯覚・幻覚が同じ種類の経験である可能性はのこっていますが、それを証明できていないのですから、錯覚論証の批判としてはこれで十分です。(以前に、錯覚論証についてのいくつかの批判を検討すると予告しました。錯覚論証については、aについても、cについても、批判が可能かもしれませんが、それらの検討は行わないことにします。もし必要になれば、言及することにします)。

こうして、錯覚論証が失敗したとすると、それが否定しようとしていた素朴実在論を改めて取り上げて、検討する必要が生じます。

素朴実在論とは、私たちが知覚しているのは、対象そのものであると考える立場です。とりあえず、次の二つの問題を考えたいとおもいます。

1、素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか。

2,素朴実在論は、錯覚や幻覚のように私たちが知覚しているものが、対象そのものではない場合をどう説明するのでしょうか。

30 民主主義と「放送法」 (20210506) 

[カテゴリー:日々是哲学]

民主主義のためには「報道の自由」が必要です。「報道の自由」は、日本国憲法21条

「第二十一条集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

の「表現の自由」のなかに含まれていると考えられています。

「放送法」第一条もまた「表現の自由」に言及しています。

「第一条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。(放送番組編集の自由)」

しかし、次の「放送法」第93条は、この表現の自由、報道の自由と矛盾するものになっています。

「放送法」「第九十三条 基幹放送の業務を行おうとする者(電波法の規定により当該基幹放送の業務に用いられる特定地上基幹放送局の免許を受けようとする者又は受けた者を除く。)は、次に掲げる要件のいずれにも該当することについて、総務大臣の認定を受けなければならない。」

つまり、放送局免許は、総務大臣の認定によるということ、つまり政府の認定による、と言うことです。これは、憲法違反ではないでしょうか? これでは報道の自由は損なわれますし、現に非常に損なわれています。国際ジャーナリストNGOの国境なき記者団(RSF)による「世界報道自由度ランキング」の2021年版では、日本は71位でした。

放送局の免許の認定は、国会が定める第三者機関に委ねるのがよいと思います。

「放送法」の改正は、民主主義の実現のために緊急の課題だと思います。

05 錯覚論証への批判(20210502)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

次の「錯覚論証」を批判するにはどうすればよいでしょうか。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

①と②を批判することは難しいのですが、①と②を認めても③が帰結しないようにすればよいのです。

野矢茂樹は、『心という難問』(講談社)で錯覚論法を次の四段階で説明しています。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

(野矢氏は、abcdではなく、①②③④を使っているのですが、私が前回うっかり①②③を用いてしまったので、野矢氏の方をabcdに換えさせてもらいました。)

野矢氏がbを挿入したのは、aとcを認みとめても、bを批判すればdが帰結することを防ぐことができるからです。aを認めてもbを認めないということは、<真正な知覚と錯覚や幻想を区別できないことは認めるが、しかしそのことからそれらが同種の経験であるということ(同種性テーゼ)は必ずしも帰結しないということ、また実際にそれらは異種な経験である>と主張することです。

オースティンが言うように、次のような「奇妙な一般原理」は成り立たないのです。

「もし二つの物が「種的に同じ」、「本性上」同じでないならば、両者が似ていることはありえないし、ほぼ似ていることさえあり得ない」(オースティン『知覚の言語』丹治信春、守屋唱進訳、勁草書房、79)

確かにこの原理は成り立たないでしょう。野矢さんが引用し、オースティンが挙げている例でいうと、レモンと石鹸が区別できないとしても、それらが同種のものであるということにはならないでしょう。(確かに昔、レモンの色と形と香りを持つ石鹸がありました。あの石鹸は今もあるのでしょうか。)

この批判は、説得力があるとおもいます。したがって、<真正な知覚と錯覚や幻想が区別できないとしても、それらは異種の経験である可能性がある>ということは正しいだろうと思います。

 しかし、そこからさらに踏み込んで、それらが異種の経験であるというには、別の論拠が必要です。

それは何でしょうか。