05 錯覚論証への批判(20210502)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

次の「錯覚論証」を批判するにはどうすればよいでしょうか。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

①と②を批判することは難しいのですが、①と②を認めても③が帰結しないようにすればよいのです。

野矢茂樹は、『心という難問』(講談社)で錯覚論法を次の四段階で説明しています。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

(野矢氏は、abcdではなく、①②③④を使っているのですが、私が前回うっかり①②③を用いてしまったので、野矢氏の方をabcdに換えさせてもらいました。)

野矢氏がbを挿入したのは、aとcを認みとめても、bを批判すればdが帰結することを防ぐことができるからです。aを認めてもbを認めないということは、<真正な知覚と錯覚や幻想を区別できないことは認めるが、しかしそのことからそれらが同種の経験であるということ(同種性テーゼ)は必ずしも帰結しないということ、また実際にそれらは異種な経験である>と主張することです。

オースティンが言うように、次のような「奇妙な一般原理」は成り立たないのです。

「もし二つの物が「種的に同じ」、「本性上」同じでないならば、両者が似ていることはありえないし、ほぼ似ていることさえあり得ない」(オースティン『知覚の言語』丹治信春、守屋唱進訳、勁草書房、79)

確かにこの原理は成り立たないでしょう。野矢さんが引用し、オースティンが挙げている例でいうと、レモンと石鹸が区別できないとしても、それらが同種のものであるということにはならないでしょう。(確かに昔、レモンの色と形と香りを持つ石鹸がありました。あの石鹸は今もあるのでしょうか。)

この批判は、説得力があるとおもいます。したがって、<真正な知覚と錯覚や幻想が区別できないとしても、それらは異種の経験である可能性がある>ということは正しいだろうと思います。

 しかし、そこからさらに踏み込んで、それらが異種の経験であるというには、別の論拠が必要です。

それは何でしょうか。

04 錯覚論証(20210501)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず「錯覚論証」を紹介します。「錯覚論証」(Argument from illusion)とは、知覚と実在を区別するための論証であり、その区別によって、実在そのものを見ていると考える「素朴実在論」を批判する論証です。錯覚論証は、次のステップをとります。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

<まず①の説明>

例えば、山道を歩いていて、木の枝ではなさそうな、細長いものが見えたとき

  (a)「あれは何だろう」「蛇だ」

  (b)「あれは何だろう」「縄だ」

という問答が行われて、(a)は錯覚で、(b)が正しい知覚であったとしましょう。

この二つの答え「蛇だ」「縄だ」はともに<知覚に依拠する報告>であって、知覚そのものではありません。この(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのでしょうか、それとも同じ知覚に依拠して異なる報告を作り出したのでしょうか。対象が蛇に見える時と縄に見える時では、ゲシュタルトが異なります。ゲシュタルトが異なる時、それは別の知覚です。つまり、(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのです。

正確に言えば、(a)は<錯覚>に依拠する報告であり、(b)は<真正な知覚>に依拠する報告です。しかし、後になって、(a)は錯覚に依拠する報告だとわかったとしても、その時には、真正な知覚に依拠する報告だと考えています。知覚している時には、錯覚と真正な知覚の区別ができません(できないからこそ錯覚がありうるのです)。

 以上が、<①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない>の説明になります。

<次に②の説明>

「錯覚(illusion)」とは、存在する対象について間違った知覚をすることであり、「幻覚(hallucination)」とは、存在しない対象を存在するものとして知覚することです。錯覚や幻覚の内容は、客観的には存在しません。したがって、それは主観的な表象であることになります。

<次に③について>

①と②から、「正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である」が帰結します。

以上が「錯覚論証」です。この結論③から多くのことを導出できるでしょうが、が帰結するでしょうが、最も重要な帰結は、「知覚は、真正な知覚であっても、対象そのものを知覚しているのではない」ということです。

ジョン・ロック以来の近代的な認識論は素朴実在論を批判しますが、「素朴実在論」に対する最も明解な批判がこの「錯覚論証」です。

しかし、「錯覚論証」については、現在では批判的に語られることの方が多いのです。しばらくは、「錯覚論証」へのいくつかの批判を紹介し、検討したいと思います。

03 対象の報告と知覚の報告に関する問答 (20210429)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここから知覚と知覚報告の考察を始めたいとおもいます。

ここでは、知覚に依拠した報告が、対象についての報告である場合と、知覚についての報告である場合に区別されることを確認したいと思います。

#<対象の知覚的性質についての報告>、とその問答

  ①「その花は何色ですか?」「この花は黄色です」

ふつうは、この場合の答えは、知覚ではなく知覚報告です。ここで「知覚報告」というのは、「知覚に依拠した報告」と言う意味です。この問答は、知覚そのものについての問答ではなく、<知覚の対象についての問答>です。

対象について、五感によって与えられる知覚的性質(色、形、大きさ、距離、音色、音量、音高、におい、味、手触り、熱さ、冷たさ、など)に関して問うことができます。

その問いの答えは、<対象の知覚的性質を記述するもの>になります。これは<知覚に依拠する報告>ですが、<知覚についての報告>ではなく、<対象の知覚的性質についての報告>です。

(ただし、この答えの文「この花は黄色です」は、知覚報告になるとはかぎりません。例えば、黄色の花ばかりはいった箱を受け取った人が、そこにやって来た別の人から同じ問いを問われて、「この花は黄色です」と答える時、この答えは、知覚方向ではなく、伝聞の報告です。)

これに対して、<知覚についての報告>は、次のようなものです。

#<知覚についての報告>、とその問答

  ②「この花は何色に見えますか?」「黄色に見えます」

この問いは、対象の(知覚的)性質についての問うているのではなく、対象が目にどう見るか、<対象の感覚器官にとっての現われ>について問うています。この花が黄色に見えるとしても、実際に黄色であるかどうかは問われていません。この答えは、<知覚についての報告>です。

(以下は、少し煩雑になるかもしれない補足です。

 次のように①の問いに②の答えで答えることがあるかもしれない。

  ④「この花は何色ですか?」「黄色に見えます」

この場合、この答えは、「この花の色はおそらく黄色だろうが、しかし黄色に見えるだけかもしれない」ということを意味しているだろう。

 また、②の問いに③の答えで答えることがあるかもしれない。

  ⑤「この花は何色に見えますか?」「この花は黄色です」

この場合、この答えは「この花は黄色に見えるし、また実際にも黄色である」ということを意味しているだろう。)

このように、<対象の知覚的性質についての報告>と<知覚についての報告>の区別は、発話だけを見ても多義的であいまいですが、相関質問との関係において明確になります。

次に悪名高い「錯覚論証」を考察したいとおもいます。

02認識についての問答の区別(補足) (20210427)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚を考察する前に、前回発言に二点補足させてください。

<補足1> レベル3(問答としての認識論)への補足。

 前回は現象的認識についての「なぜ」の問答について説明しましたが、理論的認識についての「なぜ」の問答は、認識論一般ではなく、科学論を構成するでしょう。この場合の「なぜ」の問答もまた3種類あります。

①理論的認識の原因を問う「なぜ」の問答は、「自然化された科学論」になるでしょう。

②理論的認識を行う理由を問う「なぜ」の問答は、「プラグマティックな科学論」になるでしょう。

③理論的認識の主張の根拠を問う「なぜ」の問答は、「論理的科学論」になるでしょう。

<補足2> 一般的なことですが、問いに対する答えの違いは、もしその答えの違いから帰結することに重要な違いがないのならば、重要ではないでしょう。例えば、<Q2→Q1→A1→A2>という二重問答関係があるとき、問Q1の答A1の違いから帰結するのは、より上位の問Q2に対する答A2の違いです。

では、前回述べたような認識に関する問いへの答えの違いは、どのような違いをもたらすのでしょうか。

#レベル1の問いに対する答え(通常の認識)の違いは、(プラグマティズムが主張する)必ずその対象に対する行動に何らかの違いを惹き起こすのでしょうか。もしレベル1の問いのより上位の問いが実践的問いであるならば、レベル1の問いの答えの違いは、より上位の問いの答えの違い、つまり行動の違いを生み出します。他方、もしレベル1のより上位の問いが理論的問いであるなら、レベル1の問いの答えの違いは、より上位の理論的問いの答えの違いを生み出します。しかし、さらにより上位の問いが実践的問いであるならば、最初の理論的な問いの答えの違いが、より上位の理論的問いの答えの違いを生み出し、その違いがさらにより上位の実践的問いの答えの違いを生み出すことになるでしょう。理論的問いの上位の問いをさかのぼっていけば、つねに何らかの実践的問いに行き着くのだとすれば、あらゆる理論的問いの答えの違いは、程度の差はあれ何らかの行為の違いをもたらすことになるでしょう。

#レベル2の問いに対する答えの違いは、予測の違いを生み出すと思われます。レベル2の問答は、次のような、現象的認識についての「なぜ」の問いとその答えでした。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」

  「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

この「なぜ」の問いは、原因の説明を求める「なぜ」の問いです。自然現象について「なぜ」と問う場合、その理由や根拠を問うということはありえないので、この場合の「なぜ」は常に、原因の説明を求める「なぜ」になります。では、自然現象の原因の説明を求める問いのより上位の問い(目的)は何でしょうか。自然現象の原因が分かれば、原因となる出来事と似たような出来事があれば、似たような結果が生じるであろうことが予測できます。また、その現象について理論的ない問いを立て、その自然現象についてさらに分析を進めることが可能になります。また他方では、予測をもとに、自然現象を阻止したり、変化させたりすることが可能になります。ここでのより上位の問いは、次のようなものになるでしょう。

  ・自然現象を予測すること(理論的問い)

  ・自然現象の原因について分析を進めるための問いを立てること(理論的問い)

  ・自然現象を予測して、自然現象を阻止したり、変化させたりすること(実践的問い)

最初の二つの問いは、理論的問い(たとえば「すべての黄色い花は、カロチンを多く含むのか?」という問いや、「カロチンは色素なのか?」という問いになるでしょう。後者の問いは、実践的な問い(例えば「この花をもっと濃い黄色にするにはどうすればよいのか?」という問い)になるでしょう。

(理論的認識についての「なぜ」の問いの場合を含めて、より詳しくは科学について考察するときに、取り上げることにします。)。

#レベル3に対する答えの違いは、どのような違いをもたらすでしょうか。レベル3の問いは「なぜ」の問いであり、その答えは推論となる。「なぜpなのか」の問いの場合には、「…ゆえに、p」というpを結論とする推論となります。

 一般的に(つまり認識論に限定せずに)考えて、原因、理由、根拠に関するこのようなpの上流推論の違いから何が帰結するでしょうか。おそらくより上位の問いの答えの違いが帰結するでしょう。では、「なぜ」の問いのより上位の問いは、一般的にどのようなものになるのでしょうか。たとえば、原因の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは、レベル2の問答について考察した場合を含めて、次のようになるでしょう。 

  ・出来事を予測すること(理論的問い)

  ・出来事について分析を進めること(理論的問い)

  ・出来事を予測して、自然現象を阻止したり、変化させたりすること(実践的問い)

では、行為の理由の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは次のような場合です。

  ・行為を理解するため

  ・理由を理解して、次の行為を予測するため。

  ・次の行為を予測して、それを支援したり、妨害したりするため。

  ・行為の理由を理解して、さらにより上位の理由を理解する(問う)ため。

では、主張の根拠の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは次のような場合です。

  ・主張を証明するため。

  ・主張を証明して、その主張から何が帰結するかを予測するため。

  ・その主張から何が帰結するかを予測して、その主張に反論するため。

以上は、「なぜ」の問いのより上位な問いがどのようなものになるかを一般的に考察したものですが、認識行為についての「なぜ」の問いのより上位の問いの場合も、同様のものになるだろうと思います。

(<「なぜ」の問いのより上位の問い>については、これまで主題的に考えたことがなかったので、今回の考察は非常に暫定的なものです。今後、修正改良することになると思います。)

次回から知覚と知覚方向について考えます。

01認識についての問答の区別 (20210424)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは、問答の観点から認識を考察し、認識論の伝統的な問題に問答の観点から答えることだけでなく、認識についての新しいアプローチ、つまり新しい問題設定を目指したいとおもいます。論じたいトピックは、以下のようなものです。

・問答と知覚

・問答と知覚報告

・問答と観察命題と理論命題

・問答と科学研究

一般的に、認識に関する問答は、次の三つのレベルに区別できそうです。

レベル1(問答としての現象的認識):現象的認識は、問いに対する答えである。現象的認識は問答として成立する。例えば次のような問答になります。

  「この花は何色ですか?」:「黄色です」、「この花の色は黄色です」

レベル2:(問答としての理論的認識):現象的認識についての「なぜ」の問いと答えは、理論的認識を構成する。例えば次のような問答になります。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」:「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

(ここでの「現象的」と「理論的」の区別は、カルナップによる区別を念頭においたものです。いずれ説明します。)

レベル3(問答としての認識論)認識論は、認識についての問いに対する答えである。認識論もまた問答として成立する。例えば、「私はこの花の色を黄色だと認識している」という現象的認識について言えば、次のような問いになります。

 「なぜ、私はこの花の色を黄色だと認識しているのか」

通常の問いの答えは、命題になりますが、「なぜ」の問いの答えは、一般的に推論となります。「なぜpなのですか?」という問いへの答えは、「…ゆえに、p」という推論形式をとります。そして「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」と、行為の理由を問う「なぜ」と、主張の根拠を問う「なぜ」に区別できます(これについては、『問答の言語哲学』120-124で説明しました)。それゆえに、ここでの認識についての「なぜ」の問いも次の3つの意味に区別されます。

①<私はこの花の色を黄色だと認識している>という出来事ないし状態の原因を問う「なぜ」

この場合の答えは、「光が網膜にはいって、視神経を刺激して…、ゆえに、私はこの花の色を黄色だと認識している」という仕方で認識の原因の説明をおこないます。この問答は、「自然化された認識論」を構成します。

②<私はこの花の色は黄色だと認識する>という行為の理由を問う「なぜ」

 「私はこの花とあの花が同じ品種に属するものかどうかを知りたいゆえに、この花の色は黄色だと認識する」という仕方で、認識行為の理由の説明を行います。この問答は、「実践的な認識論」あるいは「プラグマティックな認識論」を構成します。

③「私はこの花の色は黄色だと認識している」という主張の根拠を問う「なぜ」

 この場合の答えは、「この花の色は、黄色である。私はこの花の色を黄色だと考えるゆえに、私はこの花の色を認識する」と言う仕方で、認識の主張の根拠を説明します。

 この問答は、「論理的な認識論」(この呼び方にはまだ迷いがありますが、とりあえずこうしておきます)を構成します。

認識論についての議論は錯綜しがちですから、とりあえず以上の区別を踏まえて、最も身近な認識である知覚と知覚判断の考察にとりかかりたいと思います。

(コメントをいただくときに、メイルアドレスの入力は不要になりましたので、安心してコメントしてください。よろしくお願いします。)

09 優生思想は、どこで間違えたのか? (20210420) 

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回から気になっていた「優生思想」の何処が間違いなのかを考えてみました(もちろん、以下が唯一の批判ではなく、他にも批判の仕方があるだろうと思います。)

とりあえず、「優生思想」を次のように理解します(もし間違っていたら、ご指摘ください。)

<現代の「優生思想」は、ネオダーウィニズムを前提する。ネオダーウィニズムは、人間を含む動物の遺伝的な性質は、突然変異と自然選択によってより生存に有用なものに置き換わっていくと考える。現代の「優生思想」は、この自然選択が、社会の中でうまく働かない場合があると考え、そのよう場合に、自然選択に代わって、社会的な選択をするべきだと考える。つまり、より有用な遺伝的性質をもつ個体の子孫を増やし、有用でない遺伝的性質をもつ個体の子孫を減らすように、社会的な選択をしようとする。>

「優生思想」は、個人ないし人類が生存する意味をどのように考えているのでしょうか。自然界における動物は、生存競争に勝ち、生き残ることを目標にしているかもしれません。人類は、自然界での他の生物との生存競争には既に勝っています。したがって、自然界での生存競争のために、社会的選択を持ち込む必要はありません。

 「優生思想」は、ある特定集団が、人間社会で、他の集団との生存競争に勝ち抜くために、社会的選択を行うことをすすめるのでしょうか。それとも、そのような社会的生存競争によって、人類をより優れたものにすることを目標としているのでしょうか。しかし、どのような遺伝的性質が、社会的生存競争に有利であるかは、どのような社会であるかに依存します。それゆえに、そのような仕方で社会的生存競争を繰り返すことによって、人類がより優れたものになってゆく保証はありません。ジャンケンのように、AはBより有利で、BはCより有利だとしても、AがCより有利だとは限らないからです。

個人や集団の存在意味は何でしょうか。その答えが何であれ、それが個人間や集団間の生存競争に勝つことである、ということにはならないでしょう。なぜならそれは、あまりにも社会の偶然的な状況に依存しすぎる目標だからです。コンテストに優勝したり、起業に成功したりすることは、素晴らしいことですが、しかしそれがその人の生きる意味だということにはならないでしょう。それらは、偶然的なことであり、その人の生きる意味がそのような偶然的な事柄によって決まるとは考えられないからです。

44 推論と志向性 続き (20210419)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

通常の問いの答えは命題ですが、推論が問いの答えになることがあります。それは「なぜ」の問いです。「なぜ」の問いの答えは、命題ではなく推論になります。「なぜ」の問いに対する答えとして、推論が示されるとき、推論の妥当性は、推論の誠実性条件になるでしょう。つまり「なぜ」の問いに対する答えとして推論が与えられてときには、推論は志向性だといえるでしょう。しかし、「なぜ」の問い以外の問いに答えるときに、行われる推論については、志向性をもつということは難しいと思います。(なぜなら、その推論は注意されていないからです。その推論で意識されているのは、結論(問いの答え)の方だからです。ただし、このような内観による説明では、全く曖昧で不十分であることを認めます。)

問いに対して、観察によらずに即座に答得られる時があります。それは、これまでも話してきた、行為内意図についての「あなたは今何をしていますか?」とか、信念についての「あなたはpと信じていますか?」などの問いです。これらの問いに対する答えは、推論に基づいていないようにみえます。しかし、問いを理解して、問いを受け入れて答えているとしたら、問いの前提を受け入れて答えているはずです。問いの前提にもとづいて、答えていることになります。つまり、問いに答える時には、つねに推論していることになります。

(このことは、非言語的な探索でも、おそらく同じようにいえるでしょう。探索には前提があり、探索に答えることはその前提を受け入れることによって成立します。したがって、非言語的探索に答えることもまた、推論によって成立します。この場合、この推論もまた非言語的推論であるでしょう。ただし、これは今のところ思弁的な推測にとどまります。)

 言語的志向性の場合と非言語的志向性(知覚的イメージ)の場合がありますが、どちらも問いの答えとして成立するだろうと推測します。そして、どちらの場合も、志向性は、問いの前提にもとづく推論によって生じるといえそうです。

 (志向性については、サールが論じている「集合的志向性」についても問答推論と関係を考察する必要がありますが、それは機会を改めて行いたいとおもいます。)

44 推論と志向性 (20210418)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 志向性が問いないし探求の答えとなることは説明しましたが、では志向性は推論とどう関係するのでしょうか。推論が一般的に問いの答えを求めるプロセスとして成立することについては、『問答の言語哲学』で説明しました。逆に、<問いの答えを求めるプロセスはつねに推論になる>と言えるでしょうか。もし言えたならば、志向性をもつ心的状態もまた推論によって成立すると言えそうです。

 問いもまた前提を持ちますが、それは意味論的前提と語用論的前提に分けられます。意味論的前提とは問いが真なる答えを持つための必要条件であり、語用論的前提とは、問いの発話が質問と言う発語内行為を行えるための必要条件になります(cf.『問答の言語哲学』222-224)。この問いの意味論的前提は、問いの答えの前提(つまり答えが真であるための必要条件)でもあります。そして、問いの前提をp、その答えをrとするときには、p,Γ┣rという推論関係が成立します。(pはrの必要条件であるので、r┣pという推論関係も成立するのですが、しかしまだrを知らないで、問いの答えを求めているときにも、pは問いの前提としてすでに受容されているので、pを前提とし、それに他の命題を加えて、答えを導出しようとすることになります。そこで問いの答えを求めるプロセスでは、p,Γ┣rが成立することになります。)したがって、<問いの答えを求めるプロセスはつねに推論になる>といえそうです。

 ここでの問題は、志向性を答えとする場合です。志向性をもつのは文や命題ではなく、心的状態です。文や命題については、推論関係を言うことができても、心的状態について推論関係を言うことができるのでしょうか。推論に対応する心的状態があるのでしょうか。推論に誠実性条件があるでしょうか。(ちなみに、質問発話には、その誠実性条件として「問う」という心的状態を想定しました。そして「問う」という心的状態が志向性を持つことを説明しました。)

 はたして、推論に誠実性条件はあるのでしょうか。推論もまた、志向性の一種なのでしょうか。

これを次に考えたいと思います。

43 志向性の別の分類方法 続き (20210416)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回説明した志向性は次の4種類でした。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

この分類にかけているもの一つは、「願望」です。願望とは、事実がある状態であってほしいと思うことです。その事実が、過去の事実であるか、現在の事実であるか、未来の事実であるか、によって「願望」を分けることができます。それらを順にみたいと思います。

<過去の事実>に関して、ある状態であってほしいと願う願望には、反事実的な願望とそうでない願望の二種類があります。例えば、TVを見てしまったが、TVを見ずに勉強しておけばよかったと思うとき、それは、過去についての「反事実的な願望」です。しかし、過去についての願望は、反事実的であるとは限りません。たとえば、ダメットの有名な「酋長の踊り」の場合がそうです。村の若者達が狩りに出て、村に戻ってくる途中だと思われるときに、酋長は狩りの成功を願って踊るのです。酋長の願いは、若者たちの狩りが成功であったということです。しかし成功であるかどうかは酋長が踊っている時にはもう決まっているはずです。しかし酋長は結果を知らないので、成功であったことを願っているのです。この願いは反事実的な「願望」ではありません。しかしこれもまた過去の事実に関する「願望」です。

 <現在の事実>に関しても、このような二種類の「願望」があります。トレーニングしているとき、もっと筋肉があればなあと願うのは、「反事実的な願望」です。これに対して、壺の中のサイロが丁か半かのどちらかにすでに決まっており、私がすでに「丁」にお金を賭けているとしましょう。私が「丁」であることを願うとき、これは反事実的ではない「願望」です。

 <未来の事実>に関する「願望」にも、反事実的願望とそうでない願望の二種類があります。未来は未定なのですが、6時間後には日付が変わることがわかっています。それにも関わらず、まだ今日17日中に送るべき資料ができそうにないときに、明日もまた17日が繰り返すことを願うとすれば、それは未来の事実に関する「反事実的願望」です。それに対して、12時までに資料を仕上げられることを願うとき、それは反事実的ではない「願望」です。

 前回の分類に欠けているもう一つのものは、「想像」です。「想像」にも、適合の方向を持つ「想像」と、適合の方向を持たない「想像」(サールが「想像」と呼んだもの)の二種類があります。

 適合の方向をもつ想像とは、事実についての想像であり、過去や現在や未来の事実についての推測ないし予測になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが加わると、それは上述の「願望」になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが伴っていないとき、その想像は、単なる事実の予測ないし推測になります。つまり、適合の方向を持つ「想像」は、「願望」と、「単なる予測や推測」に区別できます。ただし、この二つの違いは、願望が伴う「塑像」であるか、願望が伴わない「想像」であるか、という違いだけではありません。

「願望」の場合には、それが生じるだろう(生じていただろう、生じているだろう)という予測が伴わない場合があるからです。例えば、パンをうまく焼けるだろうという見込みが全くなくても、それを「願望」することはできるからです。

 単なる予測や推測の場合には、その内容がよいことであれ悪いことであれ、それが生じる可能性がある程度あるという信念が伴います。つまり、それが生じると信じる根拠が

 サールが言う適合の方向を持たない「想像」は、言語行為でいうと、命題行為に伴う心的状態であるように思われます。同一の命題行為は、異なる発語内行為を結合して、異なる発話を構成します。それと同様に、適合の方向を持たない「想像」は、適合方向を持つ志向性と結合して、志向性を持つ心的状態を構成するのではないでしょうか。

 前回述べた4つの志向性、今回のべた「願望」、適合の方向を持つ「想像」、これらの志向性から適合に関するコミットメントを除くと、適合の方向を持たない「想像」が残りそうです。

この想像の内容は、知覚的イメージと命題内容の二種類に分けられるでしょう。(ただし、英語の場合には、「想像」には、この二種類の内容におうじて、imaginationと、thought (guess) に区別できるかもしれません。)

 発話がどのような発語内行為を行うかは、その発話の相関質問において既に指定されています。

     ?pという一種類の質問に対して、┣(p)、!(p)、C(p)、E(p)、D(p)

という異なる発語内行為の返答が可能なのではなくて、質問発話は、文脈などによって、すでにどのような発語内行為の返答を求めるのかを示しているはずである。それゆえに、相関質問は、次のように表示されるはずです。

   ?┣(p)、?C(p)、?E(p)、?D(p)

(これについては、『問答の言語哲学』「第三章」で説明しましたので、ご覧ください。ここでは、その議論を、「志向性」に拡張しようとしています。)

志向性についてもこのようになるはずです。志向性もまた、問いに対する答えとして成立します。なぜなら、志向性の「ついて」性は、ある事柄に注目するという性質であり、それは問いに対して答えるということによって可能になると思われるからです。

 志向性がこのような仕方で問いの答えとなること、あるいは、問いの答えが、このような仕方で志向性を持つことを確認できたとしましょう。それでは、志向性は推論とどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

42 志向性の別の分類方法 (20210415)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(前回述べたことは、意識や表象についての内省にもとづく一人称的知識は、それだけで成立するのではなく、対象についての知識と他者の心についての知識との相互依存関係(三角測量)において成立するということでした。ところで、志向性は心的内容が<ついて>性を持つということでししたから、その志向性についての知識は、一人称的な知識になります。しかし、三角測量のために、志向性についての知識を主張したり受け入れたりするには、対象についての知識や他者の心についての知識も必要になります。

 この話に戻ってきたいと思いますが、以下では、「志向性」について、サールとは違った分類を考えてみることから始めたいと思います。)

私たちは、<ついて>性をもつ心的な内容(志向性)を、知覚的なイメージと言語的な内容に分けることができるでしょう。それぞれについて、二つの適合の方向(心を世界に適合させる、世界を心に適合させる)を考えることができるでしょう。そうすると次の志向性を考えることができます。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

 玄関に自動車の鍵があるだろうと想像して、それを取りに行くとき、その「知覚的想像」は適合の芳香を持ち、真偽を持ちます。コロナはますますひどくなるだろうと考えるとき、その「言語的信念」は適合の芳香をもち、真偽を持ちます。

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)(針金を曲げようとしている場合には、知覚的イメージと意図が結合しており、〇〇さんに投票しようとその名前を投票用紙に書いているときには、言語的内容と意図が結合していいます。ただし、残念ながら、英語にも日本語にも、この二種類の行為内意図に別々につけられた名前はありません。)

これらはどちらも<現在の適合関係>ですが、次の2つは、<過去の適合関係>と<未来の適合関係>を加えると次が考えられます。

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

おそらく、これでは志向性の分類としてまだ不十分です。

これは、まだ不十分な分類なのですが、次の3種の区別の組み合わせで分類をしました。

  ・心的内容を、知覚的イメージと言語的内容の2つに分ける

  ・適合の方向を、2方向に分ける

  ・適合の時間を、過去、現在、未来の3つに分ける

何を補えばよいのかを、次に考えたいとおもいます。それを踏まえて、これが、サールの区分よりもすぐれていることを示したいと思います。]