6 蝶番は問いの前提である(20200723)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ウィトゲンシュタインは、全てを疑うことへの批判として「蝶番」の比喩を持ち出す。『確実性の問題』の中でこれが登場するのは、3か所だけであるので、引用しておこう。まず、最初の二か所は、つぎの341と343にある。

「341 すなわち、われわれが立てる問題と疑義は、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問や疑いを動かす蝶番のような役割をしているからこそ成り立つのである。

342 つまり科学的探究の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち確実なものである、ということがあるのだ。

343 ただしこれは、われわれはすべてを探求することはできない、したがって単なる想定で満足せざるをえないという意味ではない。われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。」(ウィトゲンシュタイン、『確実性の問題』黒田亘訳、『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店)

ここで考えられている「疑いの対象から除外される命題」や「問や疑いを動かす蝶番のような役割をしている」命題とは、「問いや疑いの前提」であるだろう。ちなみに、「問いや疑いの前提」とは、問いや疑いが真なる答え、あるいは適切な答えを持つための必要条件であり、「疑い」とは命題の真理性ありは適切性への問いである、と考えたい。

 「蝶番」の第三の使用例は、次である。

「655 数学的命題には、いわば公式に、反駁不可能のスタンプが押されている。すなわち、「異義は他の命題に向けよ。これは君の異論の支えになる蝶番であり、動かすべからざるものである」と。」

ここで蝶番とされる「数学的命題」の例として「12×12=144」が挙げられている。一ダース入りの鉛筆を12箱(1グロス)鉛筆の数を数えたときに、145本あったとしても、私たちは、12×12の計算をやり直したりせず、鉛筆を数えなおすだろう。計算ミスはあるだろうが、何度か確認した後の計算結果は、通常は、計算結果は蝶番として使えるものである。

 すべての問いや疑いがこのような蝶番を持つが、私たちはどのような蝶番についてもその真理性や適切性を問うことができるだろう。なぜなら、蝶番は命題であり、どのような命題についても、「本当にそうなのか?」とか「なぜそうなのか?」と問うことができるからである。(ただし、この問いもまた蝶番を必要とするので、全てを同時に疑うことはできない。しかし、同時でなく、交互にすべての蝶番を疑うことならば、可能であろう。これについては、後で考えよう。)

 すべての疑いについて、その蝶番をさらに疑うことが可能である。問いや疑いは、多くの前提(蝶番)をもつだろうから、それらについて多くの疑いが可能になる。

 「経験的疑い」の蝶番は、経験的命題、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題であり、「論理的数学的疑い」の蝶番は、論理的数学的命題や意味論的命題や哲学的命題であり、「意味論的疑い」の蝶番は、意味論的命題、哲学的命題であり、「哲学的疑い」の蝶番は、哲学的命題である、と予想する。これらの蝶番命題について、さらに疑うことが可能である。

 規則遵守問題では、まず論理的数学的疑いとして始まり、次にその蝶番である、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題などについての疑いを引き起こすことになっている。

5 表現の意味への疑い  (20200722)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 例えば、「これはテロだろうか?」という問いは、「テロ」の定義を前提したうえで、「これ」が指示する対象がその定義に当てはまるかどうかを問うており、事実に関する問いであり、経験的疑いである。これに対して、「これを「テロ」と呼べるだろうか?」という問いは、「テロ」の意味ないし定義が曖昧なので、この問いへの答えによって、「テロ」の意味ないし定義を明確にしようとしており、表現の意味への疑いである。

 ところで、いわゆる「規則遵守問題」(following rule problem)もまた、表現の意味への疑いの一種だと思われる。

規則遵守問題とは、ウィトゲンシュタインが指摘した問題であり、次のような生徒に、+2の規則に従うことをどうやって教えるのかという問題、あるいは、私たちが+2の規則を知っていると思っているときに、それが正しいことをどうやって正当化できるのかという問題である。

「生徒に1000以上のある数列(例えば「+2」を書き続けさせる、すると、かれは1000、1004、1008、1012と書く。われわれはかれに言う、「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。–かれにはわれわれが理解できない。われわれは言う。「つまり、君は2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」–かれは答える、「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたようにおもったんです。」――あるいは、かれが、数列を示しながら、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と言った、と仮定せよ。――このとき、「でもきみは……がわからないのか」と言い――かれに以前の説明や列を繰り返しても、何の役にも立たないだろう。」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆史訳、『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976、186節)

私たちは通常は「+」の意味を考えたりしない。「1000+2はいくらか?」と問われたときも、「+」の意味など考えずに、即座に「1002です」と答える。しかし、上記のような生徒に出会ったとすると、私たちは途方に暮れて、「+」の規則を説明しようとするだろう。しかし、「+」の意味は、その使用の規則に他ならず、その使用の規則は、「+」の計算の例をあげて示すしかない。どんなにたくさんの例を挙げても、すべての事例を枚挙することはできない。そして、いまだ例に挙げていない「+」の計算にであったときに、自分とは異なる答えを出す者があるとき、自分の答えを正当化しようとすれば、他の人々の賛同を求めるしかないだろう。

 ところで、〈疑い〉は、(信念や主張の)命題の真理性についての問いである。ここでは、「+」の使用規則が問題になっているが、この使用規則を命題で明示することができないので、「+」の使用規則を疑うということはありえない。疑うことができるのは、「1000+2=1002」という具体的な計算式(命題)である。

 それでは、規則遵守問題についてどのように理解して、どのよう受け止めればよいのか、それは本当に「意味への疑いの一種」なのか、など、これから考えたいと思います。

04 経験的疑いと哲学的疑いの区別を再考 (20200721)

[カテゴリー:問答と懐疑]

前回「別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶ」と区別した。ここでは、この区別の有効性、妥当性を検討したい。

 前回、疑いの対象となる命題には、次のようなものがあると述べた。

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

 ここでまず問題になるのは、最後から3番目の「・命令への疑い」について、私たちが02で考えた〈疑い〉の定義は当てはまらない、ということである。02で、〈疑う〉こと次のように定義した。「〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 命令への疑いは、命令の適切性を疑うのであって、命令の真理性を疑うのではない。なぜなら命令には真理値はないからである。これに対応するためには、広義の〈疑い〉を次のように定義しよう。

「広義の〈疑う〉ことには、(信念や主張や命令の)命題の適切性を問うことに加えて、その問いに、適切でないかもしれない/おそらく適切でない/不適切であるかもしれない/おそらく不適切である/不適切である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 次に問題になるのは、最後の二つの疑いである。まず、「論理学や数学の命題への疑い」について考えよう。数学の命題に対する疑いは、「別の経験的な命題によってテストできる疑い」なのだろうか。論理学や数学の命題は、経験的な命題ではない。それは経験によって検証されたり反証されたりしない。例えば、93錠の薬から、7錠取り除いて、数えたら87錠になったとしても、それは93-7=86を反証したことにならないし、数えたら86錠であったとしても、それは93-7=86を検証したことにならない。

 したがって、論理学や数学の命題への疑いは、経験的な疑いではない。しかし、これを「哲学的疑い」と呼ぶのではなく、「論理的数学的疑い」と呼ぶ方が適切だろう。そのためには「哲学的疑い」を再定義する必要がある。

 哲学的疑いについての前回の例をもう一度みよう。「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という哲学的な疑いの特徴は何だろうか。

 「このリンゴはよく熟している」への経験的疑いは、「このリンゴはまだ熟していないのではないだろうか」と問うことである。この問いに、「このリンゴはよく熟している」(肯定)と答えるにせよ、「このリンゴはまだ熟していない」(否定)で答えるにせよ。どちらの場合にも、これらの答えは、「このリンゴが実在する」を前提しており、これは経験的疑いの前提でもある。 

 先の哲学的疑いは、経験的疑いのこの前提を疑うものである。「p」という命題について、経験的疑いは、「pは真か?」と問うが、この問いは多くの前提を持つ。問いの前提とは、問いが成り立つための、言い換えると、問いが真なる答えを持つための必要条件である。哲学的疑いは、この必要条件を疑うものである。

 しかし、この必要条件を問うことのなかには、哲学的疑いだけでなく、経験的疑いも含まれている。例えば、「これは瑠璃色だ」という主張の真理性を問う問いが、「これは瑠璃色だろうか?」であるとき、この問いの前提の一つは、「これは色を持つ」である。この前提を問う問い、つまり「これは色を持つのだろうか?」という問いは、経験的な疑いである。

 このように経験的疑いの前提の真理性を問う〈疑い〉に、経験的疑いと哲学的疑いの二種類がある。したがって、哲学的疑いを、「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものである」とするのでは、定義としては不十分である。これに前回の定義(の試み)「哲学的疑い」は、「別の経験的な命題によってはテストできない疑い」を組み合わせて、つぎのような定義を提案したい。

「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものであり、かつ、別の経験的な命題によってはテストできない疑いである」

この定義は、前半部分で、論理的数学的疑いを排除し、後半部分で、経験的な疑いを排除している。この定義の検討のまえに、つぎに「表現の意味への疑い」を考察しよう。 

03 経験的疑いと哲学的疑い (20200719)

[カテゴリー:問答と懐疑]

疑いの対象となる命題には、次のようなものがある。(これはまだ整理されていないし、網羅的でもないかもしれない。)

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

まず、最も単純そうに見える「知覚判断」への疑いについて、それがどのようなものであるかを考えてみよう。

 「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは本当によく熟しているのだろうか?」と問うとき、これは主張を疑っている。この疑いが、「このリンゴはまだ熟し方が足りないだろう」という推測を伴っているとき、この疑いを確かめるもっとも良い方法は、それを切って食べてみることである。私たちは、この場合に「疑いを確かめる」という言い方をするが、それは、疑いに伴っている想定を確かめることを意味している。このような知覚判断への疑いは、それと矛盾する別の知覚判断を確証することによって確かめられる。経験的な命題への通常の疑いは、別の経験的な命題によってテストできる。

 この例は、主語が指示する対象について述定が真であることを疑う場合であるが、主語が指示する対象が実在するかどうかを疑う場合もある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「これはリンゴだろうか、スモモではないだろうか?」と疑う場合がそうである。この場合にも、「これはリンゴではなくスモモである」という経験的な命題によってテストできる。

 しかし、経験的な命題への疑いの中には、別の経験的な命題によってテストできないものがある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という疑いである。

 別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶことにしよう。

 次に、この二種類の疑いの関係を考えたい。

02 「疑う」の多義性  (20200718)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 前回述べたことは、〈疑う〉ことは、命題の真理性について問うことであるということである。ただし、〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。

 たとえば、「刑事がある人物を犯人ではないか疑う」という場合がある。これは、「ある人物は犯人でない」という命題の真理性を問い、その問いに「おそらく偽である」と答えることである。(英語ではdoubtではなくsuspectをもちいる。suspectは、「嫌疑をかける」「罪があると思う」などの訳語があるように、悪いことがらを想定する場合に用いられるようだ。日本語の場合には、どちらも「疑う」を用いる。)

 日常での「疑う」の使用では、命題の真理性を問うだけでなく、それに対して何らかのネガティヴな答えを考えることが多いだろう。

(今日は短くてすみません。今から丸亀に帰省します。)

01 問うことと疑うこと  (20200717)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 私たちが〈疑う〉のは、事実ではなく、真であったり偽であったりする信念や主張である。私たちは、事実を疑うことはできない。なぜなら事実は偽でありえないからである。疑いの対象は、命題であり、疑うことは命題的態度の一つである(「命題的態度」とは命題を対象とする心的態度、信じる、欲する、願う、問う、語る、など、である。)。たとえば、「命題pは真だろうか?」と問うことは、命題pを疑っているといえいる。また、「コロナの重傷者は本当に減っているのだろうか」と疑うことは、マスコミで語られている「コロナの重傷者は減っている」という発言の信ぴょう性を疑っている。このように他者が主張していた命題や、自分が信じていた命題の真理性を問うことが、疑うことだと言えるだろう。

 これに対して、私たちは事実を〈問う〉ことができる。例えば、「それは何ですか」「これはベジマイトです」という問答において、この問いは事実について問うている。この問いの対象は、物であり、問いは、物や事実を対象とする。

 ところで疑うことは、上記の例からわかるように、問うことでもある。したがって、疑うことは、問うことの一種である。問うことが、主張や信念の真理性を問うことであるときに、疑うことであり、その他の場合には、問うことであると言えるだろう。

 問うことと疑うことの区別については、ウィトゲンシュタインの次の発言があるので、これと上の主張を関係づけておこう。。

「6.51問うことが不可能なところで疑おうとするのなら、懐疑論は論駁しえないのではなく、明らかに無意義なのである。

 何故なら、懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり、問が存立しうるのは解答が存立する限りであり、そして解答が存立しうるのは、何事かを語るのが可能な限りだからである。」(奥雅博訳『論理哲学論考』、『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、大修館書店 p.119)

ここでの「懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり」という発言は、「問いが成立することによってのみ、疑うことが可能になる」と言い換えることができるだろう。これは、つぎのような理解であると思われる。

この引用の直前でウィトゲンシュタインは、問いと答えの関係について次のように言う。

「6.5 表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。

謎は存在しない。

いやしくも問を建てることができるならば、その問いにこたえることもできる である。」(奥雅博訳『論理哲学論考』、『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、大修館書店 p. 118)

問いへの答えは、自分の信念や他者に対する主張となるだろう。それらは命題形式をとる。主張や信念は、それについて問いを表明することができる、言い換えると問いへの答えとなりうる。問いへの答えとなりえない命題は、主張や信念とはなりえない。したがって、その命題を答えとする問いを問えなければ、命題を信じたり主張したりすることは不可能である。そして、命題を信じたり主張したりすることが不可能であるとすると、その命題を疑うことも不可能である。それゆえに、「問いが成立することによってのみ、疑うことが可能になる」ということになる。

この6.5の内容に私は賛成である。ただし、ウィトゲンシュタインは、6.5を断言しているだけで、証明してはいない。この証明については、懐疑についての考察を重ねた後で取り組みたい。ところで、解答が知識であるとすると、知識は問いに対する答えとしてのみ成立するということになる。つまり、6.5は問いと知識の関係を述べたていると言える。

13 人類の理想の未来 (20200713)

[カテゴリー:日々是哲学]

 人類は、経済格差をなくして、全ての人が健康で文化的な生活をするために必要な科学技術を既に持っている、あるいは近い将来にそれをもつようにように思われる。したがって、この科学技術を用いて、全ての人が健康で文化的な生活ができるような社会システムを考えることが、人類にとっての重要な課題である。

 そのためには、全世界の人に、医療と教育を無償で提供し、住まいと食料を賄えるベイシックインカムを保証することが必要だろう。これによって、基本的人権と健康的な生活を保障できるだろう。

 現在の諸国家は、この理想を実現するために、互いに協力し合う必要がある。もしこの理想が実現するならば、諸国家が消えて世界共和国になるかどうかは、どちらでもよいように思われる。

 では、この理想を実現するために解決すべき問題には、どんなものがあるだろうか。(これについて何かコメントを頂けると嬉しいです。)

12 未来予測と問答 (20200712)

[カテゴリー:日々是哲学]

「○○は、これからどうなるのだろうか?」という形式の問いに答えることが未来を予想することである。前回例に挙げた「米中関係は、これからどうなるのだろうか?」「AIと人間の関係は、これからどうなるのだろうか?」などに答えることが、未来予測である。その場合の一つの方法について前回述べたとが、今回は、このような形式の問いとそれへの答えについて考察したい。

 「Aは、これからどうなるのだろうか?」という問いは、次のことを前提している。

  ・Aが存在すること、

  ・Aが未来永劫ではないとしても、ある程度の未来においても存在すること、

  ・過去、現在、未来、という時間の流れが存在すること、

この問いに答えることは、これらの前提を受け入れることあるいは質問者とこれらを共有することである。

 では、人が未来予測の問いを立てるのは何故だろうか? これに対しては、次のような理由が考えられる。

 (1) 知的な関心(理論的な関心)による

 (2) 実践的な関心による

 (2-1) 実践的な問いに答えるために、その未来予測を実践的推論の前提として使用する。

 (2-2) 実践的な問いに答えるために、未来予測にもとづいて、下位の問い(理論的問いや実践的問い)を立てる。

(2-2)の例

  PQ2「たくさんの観光客をまた集めるためにはどうすればよいのだろうか?」

     「コロナのワクチンは、いつ頃できるだろう?」(未来予測の問い)

     「ワクチンができるのは、早くても来年だろう」(未来予測)

  PQ1「ワクチンが完成してから、観光客が戻るまでの期間を短くするにはどうすればよいだ  

      ろうか?」

(あるいは、

  TQ1「ワクチンが完成してから、普及するまでにはどのくらいかかるだろうか?」)

このように、未来予測は、実践的な関心(実践的な問い)に答えるための前提となるか、実践的な問いを立てるための前提となる。

11 未来予想について考える一つの方法 (20200709)

[カテゴリー:日々是哲学]

 今日は息抜きです。

 哲学とは、普通よりもより深くより広く考えることだと思います。それは普通よりも一歩踏み込んで考えたり、一歩退いて考えたりすることです。一歩退いて考える方法の一つは、普通よりも長い歴史的なスパンの中で考えることです。というわけで、私は、人類の出現から始まり未来に伸びる人類の歴史についてトータルに考えてみたいと、つねづね思っています。多くの人が同じような願望を持っているだろうと推測します。

 しかし、人類の未来がどうなるかを予想することはほとんど不可能です。例えば、AIの進歩によって、社会がどう変化するかについて一つの予想を立てることは困難です。しかし、それでも2,3の可能性を想定することはできます。

 例えば、AIの未来について、次のような可能性を想定することができます。

  ①AIは、いずれ人間以上の知性を持ち、人間にとって代わるだろう。

  ②AIが人間のような知性になることは原理的に不可能であり、人間の脳を補助する役割にとどまるだろう。

  ③AIと人間の知性は、いずれ融合して、人工知能であることと自然知能であることを区別することが無意味になるだろう。

この3つの可能性はどれもまだ曖昧です。それぞれの可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。

 また例えば、中国の近未来についての、次のような可能性を考えることができます。

  ①AIや通信技術の利用による経済発展によって、中国共産党の一党独裁が持続する。

  ②外国資本が、中国から逃げて、ベトナム、タイなどの東南アジアの国にシフトすることによって、中国経済は衰退し、共産党一党独裁が終わり、自由主義国家になる。

この二つのシナリオ以外のものもありうるでしようが、とりあえずいくつかの極端なシナリオをせってして、その可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。また、それらのシナリオ中に、そうあって欲しいシナリオがあれば、そのためにどうすればよいのかを考えることも可能になります。

言いたいことは、<未来予測は難しいが、2,3のシナリオを想定して、それを詳細に考えてみることによって、未来予測となすべきことをより明確に考えることができるだろう>ということです。

24 四肢構造と二重問答関係 (6) (0200708)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 今日の課題は、実践の四肢構造を二重問答関係と関係づけることである。

 実践の四肢構造は、次のように表記できる。

能為者誰某は役柄者或者として、実在的所与を意義的価値として、扱う(感じる、欲する、評価する、扱う)>

実践的行為主体は、<能為的誰某―役柄的或者>という二肢性をもつ。この主体の二肢性は、対象の二肢性に対応している。とりわけ、主体の役柄と財態の価値は対応するだろう。例えば、人は教師として、相手を生徒として扱う。より細かく言えば、生徒を勉強の良くできる生徒として、あるいはできの悪い生徒として、あるいは問題児として、あるいは協力的な生徒として、などと教師にとってある価値を持つものとして扱う。ひとは教師として、教室をよく整頓された教室として、あるいは、荒れた教室として、設備の整った教室として、狭い教室として、などと教師にとってある価値をもつものとして扱う。ひとは教師として、黒板を、書きやすい/書きにくい、消しやすい/消しにくい、読みやすい/読みにくい、大きい/小さい、などと教師にとっての価値をもつものとして認識する。このように、主体の役柄と財態の価値は対応するだろう。

実践的態度は、行為を基本とするだろう。例えば、

   ひとは、教師として、生徒たちに数学を教える。

   ひとは、夫と父親として、妻と子供の生活のためのお金を稼ぐ。

数学を教える行為を、お金を稼ぐためにおこなうのだとすると、次の四肢構造がある。

   <ある教師は、夫と父親として、数学を教える行為を、お金を稼ぐこととして、おこなう>

ここでは、教師にとって、数学を教えることは、お金を稼ぐための手段であるが、もちろん場合によっては、数学を教えることは、教師の生きがいであり、生活費を稼ぐことは、その目的のための手段になっている、ということもあるだろう。

 実践的態度の中心は行為である。一般に、行為は目的を持ち、行為はその目的を実現するための手段となる。様々な行為が集まって、一つの〈役割行為〉を構成するとき、個々の行為の目的は、この役割行為の実現だということができる。例えば、「リンゴを売る」という〈役割行為〉は、リンゴを磨く、リンゴを分類する、リンゴを並べる、リンゴを勧める、リンゴを袋に入れて手渡す、代金を受け取る、などの多くの行為からなる。さらに、リンゴを含む多くの果物を売る、多くの果物を仕入れる、売り上げをみて仕入れ量を決定する、などの多くの〈役割行為〉をすることが、「果物屋」という〈役柄〉をこなすことである。これは次のように表現できるだろう。

  <人は、果物屋(役柄)として、ある行為をリンゴを売ること(役割行為)として行う>

ここでは、〈役柄〉は「役柄的或者」を示し、役割行為は「意味的価値」を示している。

 前回、行為の束が〈役割〉をつくり、〈役割〉の束が〈役柄〉をつくると説明しました。これに基づいて実践の四肢構造を表現すると次のようになる。

  <主体は〈役柄〉的或者として、ある行為を〈役割行為〉として行う>

 では、この四肢構造を二重問答関係と関連付けるにあたって、問答関係について振り返っておきたい。私たちは、問答関係を二種類に区別できる。一つは、理論的な問いと理論的な答えである。理論的な問いとは、真理値を持つ命題を答えとする問いである。理論的な答えとは、真理値を持つ答えである。もう一つは、実践的な問いと実践的な答えである。実践的な問いとは、ある目的を実現するためにどうするか、あるいはどうすべきかを問うものである。この答えは真理値を持たない。ただし、適/不適、正/不正の区別を持ちうるが、これらの区別を持たない場合もある。

 このような問答の区別を導入する時、二重問答関係は、次の4種に区別される。まず二重問答関係を一般的に次のように表示する。

   Q2→Q1→A1→A2

これは、<問Q2を解くために、問Q1を設定し、その答えA1を得る。このA1の前提の一つとする推論によって、Q2の答えA2を得る>ということを示している。

 ここで理論的問いをTQ、実践的問いをPQと表記する時、二重問答関係は、次の4種類になる。

   ①TQ2→TQ1→A1→A2

   ②PQ2→TQ1→A1→A2

   ③PQ2→PQ1→A1→A2

   ④TQ2→PQ1→A1→A2

(④のケースについては、「17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)」で論じた。)

Q1に焦点を当てて、理論的な問いTQ1の二重問答関係は①と②となり、実践的な問いPQ1の二重問答関係は③と④となる。

 ここでは、実践的問いの二重問答関係、③PQ2→PQ1→A1→A2について、それと四肢構造の関係を考察しよう。例えば、ある人が果物屋として行為する目的が、家族持ちとして生活費を稼ぐことにあるとすると、次の二重問答関係があると言える。

  PQ2「私は、家族持ち〈役柄〉として、生活費を稼ぐためにどうすればよいのか?」

  暫定的A2「私は、家族持ち〈役柄〉として、果物屋を営めばよい」

(これは不完全な答えである。なぜなら、果物屋を営むためにどうすればよいのか分からなければ、答えとして役立たないからである。)

  PQ1「私は、果物屋〈役柄〉として、果物屋を営むためにどうすればよいのか?」

  A1「私は、果物屋〈役柄〉として、リンゴを売るという〈役割行為〉をすればよい」

(もしリンゴを売るためにどうすればよいのか分かるならば、これは完全な答えである。もしこれがPQ1への完全な答えであるならば、PQ2の完全な答え(A2)でもある。)

 これで 四肢構造<私は、果物屋〈役柄〉として、リンゴを売るという〈役割行為〉をする>と二重問答関係は、明確だろうか。以上から、次のように言える。

<認識や行為は、理論的問いや実践的問いの答えと理解できる。したがって、認識や行為の四肢構造は、理論的問いや実践的問いへの答えがもつ四肢構造でもある。これらの問いはより上位の問いをもち、それを考慮する時、二重問答関係にある>

問題は、これから何が言えるか、である。「四肢構造」と「二重問答関係」のこの関係から何が明らかになるのだろうか。

 廣松の四肢構造は、私には、まだあいまいな点がおおいが、しかしそれでもそれは重要な指摘だという感じがある。他方で、二重問答関係があらゆるところに見られることは明らかであり、ここの問答を認識活動や実践活動の中に位置づけようとするとき、有用な指摘になるだろう。そして、この二つは、上記のような必然的な関係にある。

 ただし、この関係から何が言えるのかは、まだ明瞭ではない。