ナショナリズムとグローバル化

                                   アムステルダムで一番有名なビールは?と尋ねるとハイネケンだ
                という答だったので、二番目に有名なビールを頼みました。
 

10 ナショナリズムとグローバル化 (20121101)

 

「文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答えようとして、

 

  ・政治経済的な要因

  ・有用性という要因

  ・翻訳という要因

 

に言及してきました。この先が見えなくなってきたので、最初の問いに戻ります。

この書庫の問いは、次の二つの問いでした。

 「グローバル化とは何か」

 「グローバル化にどう対応すべきか」

 

とりあえず、文化について、これらの問いの答えようとしてきました。

そこで次のような問いを立てました。

 「文化はグローバル化によって、どのように変容するのか」
 

この問いに答えるために、次の問いを立てたいと思います。

 「グローバル化によって、文化において失われていくものは何か」
 

これへの簡単な答えは、「伝統的なローカルな文化」です。これには、つぎのように答えることもできます。「ナショナリスティックな文化が失われていく」
 

 例えば、日本史研究、日本文学研究、日本思想史研究、これらはナショナリズムと結びついています。あるいはドイツ史研究、ドイツ文学研究、ドイツ思想史研究出会っても同じです。歴史意識は、ナショナリズムと共に民族共同体のアイデンティティを求める動機で生まれたものです。民族言語による文学も同様でしょう。思想も、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス哲学などと国名をつけて呼ばれるときには、ナショナルな文化です。
 

 ナショナルな文化の後退を惜しむ人たちがいますが、しかし他方ではナショナルな文化からの精神的な解放を喜ぶ人たちもいます。異文化理解の意義として、自己文化をより知ることになる、ということがあげられることがありますが、しかし、自国文化から解放されるということもあるのではないでしょうか。

 外国で生活すると、外国かぶれになるか、日本回帰するか、どちらかになりがちであるとすると、それはナショナリズム、ナショナルな文化の拘束がきついことの裏返しではないでしょうか。グローバリズムは、このような文化的な拘束から我々を解放してくれるのではないでしょうか。それは外国かぶれになることとは別のことです。
 

 

 というわけで、ナショナリズムとグローバリズムの関係を考えてみたいとおもいます。

 
              
                    
 
 
 
 
 
 
 
 

文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

                                   パトカーもまた世界中で似たような形をしています。

           

09 文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

問い「文化をグローバル化するとはどういうことか?」に対する

前回の答えは次のものでした。

「もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、次のいずれかである。

  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること

  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること 」

この二つはどのような関係にあるでしょうか。

①で、ある文化の有用性をグローバルに知らせるためには、<その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

②で、ある文化をグローバルな有用性をもつように変化させるためには、<その文化をグローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

 この二つの前提は、少し異なっています。

  <その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>

  <その文化をグローバルに理解可能なものにすること>

とりあえず、後者が何を意味するのかを考えたいとおもいます。

前回取り上げた文学を例にすると、日本語で書かれた文学作品はローカルな文化です。それをグローバルに理解可能なものにするには、翻訳する必要があります。しかも、厳密に言えばすべての言語に翻訳する必要があります。(ニュースも同様です。CNNのニュースは、各国語に翻訳されて放送され、日本のニュースも各国語に翻訳されて世界のニュースになります。)

「私たちは日本文学をローカルな文学として理解していますが、それをグローバルな文学として理解することはできるのでしょうか?」

 たとえば、村上春樹の小説を日本語でよむことは、それをローカルな文学として読むことでしょう。それは多くの外国語で翻訳されていますが、外国人は、それを日本文学としても読むのでしょうか。それともグローバルな文学として読むのでしょうか。例えば、エジプト人がそれを日本文学として読むことも、外国文学と読むことも、世界文学として読むことも、可能であるように思われます。

 たとえば、世界中の人がスパゲッティをイタリア料理として食べていたとしても、スパゲッティは世界中に普及しているという意味でグローバルな食べ物です。イタリア料理として食べ、かつグローバルな料理として食べることが可能です。そのとき、イタリア料理であることは、その料理の歴史的な起源を説明しているにすぎません。

 もし村上春樹の作品が日本文学として世界中で読まれているとすると、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学です。そのとき、日本文学であるとはその歴史的な起源を説明しているにすぎません。“EN-US”>

 このとき、日本人がそれを日本語で読むときにも、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学なのです。もし多くの日本人が村上春樹の作品をもっぱら<日本文学として>読んでおり、<グローバルな文学として>は読んでいないとしても、それはまた別のことです。

 

 
 
 

文化をグローバル化するとはどういうことか(2)

             
 
          世界中のホテルの朝食に登場するケロッグ
 
 
08 文化をグローバル化するとはどういうことか(2) (20121019)
 
マクドナルドが、グローバルであるのは、それがたこ焼きよりも、より普遍的に受け入れられる味をしているからではないでしょうし、より優れた味をしているからでもないでしょう。それはアメリカンライフスタイルのグローバル化の一部を担っているのでしょう。つまり、(あいまいな言い方ですが)政治的経済的要因のためだと思われます。
 
 食文化も文化ですから、文化のグローバル化には、このような側面があります。では、それだけでしょうか。どの文化がグローバル化するのかは、政治的経済的要因だけで決まるのでしょうか。
 前回、「現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、・・・」と書きました。そのとき考えていたのは、現代論理学、現代言語学、現代自然科学などは、グローバルだということです。西洋起源の自然科学は、グローバルに通用しています。つまり、世界中でそれらの研究と教育が行われています。政治的経済的要因だけでによるのでしょうか。
 クワインならば、現代の物理学とギリシャ神話が、世界の説明としてはどちらがすぐれているかを、理論的に決定できないというでしょう。つまり、理論としての、あるいは学説としてのある優れた性質(かつてウェーバーが、西洋文化は普遍性をもつと考えていたような意味の「普遍性」のような性質)が、グローバルな理論とそうでないものを分けているのではないということです。クワインは、複数可能な理論の中から理論を選ぶときには、(正確な表現を忘れましたが)プラグマティックな関心で理論を選択するしかないといいます。
 
 もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、
  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること
    (寿司のおいしさを宣伝すること)
  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること
    (寿司がよりグローバルな有用性を持つように変化させること)
 
文化の変容にかかわるのは、②です。
・社会学でいえば、ある一つの国家をあつかう研究よりも、グローバルな社会を扱う研究のほうが、グローバルな有用性を持ちます。
・文学研究で言えば、ある言語の文学をあつかう研究よりも、世界の多様な言語の文学を扱う研究の方が、グローバルな有用性を持ちます。
 
では、ある言語共同体のメンバーにとって、自分の言語共同体の文学を扱う研究と、世界の多様な文学を扱う研究は、どちらが有用性を持つでしょうか? これの答はつぎのようになるでしょう。自分の言語共同体の文学が、世界の多様な言語の文学よりも有用であれば、それの研究が、世界文学の研究よりも有用である。もし逆ならば、逆である。
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では、自国文学と世界文学とどちらが重要でしょうか? もし人が外国語の文学を外国語で楽しむことが難しく、翻訳で楽しむのだとすると、世界文学とは翻訳文学であることになります。
では、自国文学と翻訳文学のどちらが有用でしょうか?
(話があらぬ方向に向かっているのでしょうか。それともこれでよいのでしょうか。)
                               
 
 
 
 
 

ユーロ危機の原因

Bolognaのパスタです。スパゲッティでなくて、別の名前でしたが忘れてしましました。
この食べ物も、グローバルな食べ物だと言えそうです。
 
ユーロ危機の原因は何か? (20121012)
 
2日前に、ユーロ危機についてのオランダ人の講演を聞きました。
その時に違和感を持ったので、それについて書くことにします。
その講演者は、ユーロ危機の原因は、産業構造の変化にあるのだというのです。つまり、
農業から工業への変化があり、現在工業からサービスへの産業の変化の時期であるから
危機が起きているのだというのです。そこで、それへの対処法としては、イノヴェーションを起こして
生産性を高めるしかない。そしてそのためには、高等教育の強化が必要だ。
後で思ったのですが、これがおそらく新自由主義者の理解なのでしょう。
 
ヨーロッパの財政危機は、日本やアメリカと同様に、富裕層と法人への減税のためなのではないでしょうか。したがって、この原因を取り除く必要があります、つまり富裕層と法人への税率を1980年ころの水準に戻すことです。新自由主義者は、この原因をすり替えて、さらに格差を広げようとしています。それが、富裕層や大企業にとっての最適の生き残り策なのでしょう。(財政学者がそれを指摘しないのはなぜでしょうか。御用学者は、原子力研究者だけではない、と考えざるを得ません。)
 
これで、もしロムニーが勝つと、世界はどうなってしまうのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

文化をグローバル化するとはどういうことか

                                       チョコレートはグローバルなお菓子です。 アムステルダム、スキポール空港にて。
 
8 文化をグローバル化するとはどういうことか (20121005)
 
 分析哲学は、西欧近代哲学から登場したものですが、それは西欧近代哲学をグローバル化したものではなくて、西欧近代哲学の末流であるがそれとは別のものであるということもできるかもしれません。どちらの理解が正しいのでしょうか。(もちろん、分析哲学はグローバルな哲学ではない、という反論があるかもしれません。しかし、現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、それと同じ意味で、分析哲学はグローバルなものであると言えると思います。)
 この問いに答えるためには、「ある文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答える必要があるでしょう。
 文化を変えることは可能です。例えば、日本文化は、明治維新によって変化したといえるでしょう。開国によって日本文化の中に西洋文化が入ってきただけではなく、従来の文化もまた変化したはずだからです。日本文化は、西洋の諸概念を、翻訳語を作ることによって日本語のなかに取り込んできました。その翻訳語を用いて、西洋の社会制度を取り入れてきました。「選挙」や「議会」や「憲法」などが典型かもしれません。これは日本文化の西洋化でした。ある文化の西洋化が可能ならば、ある文化のグローバル化も可能でしょう。
 では、文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか。すでにグローバルな文化があるのだとすると、その文化の諸概念を、翻訳語をつくることによって日本語のなかに取り込んで、その翻訳語を用いて、グローバルな制度を取り入れることによって、文化をグローバル化することができるでしょう。
 
 ところで、日本文化は明治以後西洋化され、戦後はアメリカ化されたとしても、しかし日本文化にとどまっています。それは同じように西洋化されたアジアやアフリカの文化とは異なります。日本文化を西洋化できても、西洋文化と一つになるわけではありません。(西洋文化もまた多様ですが、それはヨコにおいておきます。)これと同様に文化のグローバル化といっても、グローバルな文化と一つになるわけではありません。
 しかしその意味では、現代のアメリカの文化も、西欧の文化も、グローバルな文化そのものではないので、グローバルな文化というものは、文化圏としてはどこにもありません。
 グローバルな文化というのは、ローカルな文化のグローバル化として存在している、というべきかもしれません。ベネディクト・アンダーソンが「国民国家」を想像の共同体だと指摘したように、グローバルな社会やグローバルな文化もフィクションなのでしょう。
 それで?
 もう一度、問い直しましょう。
 「ある文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか」
次のような答え方ができます。
 ①ある文化を世界中に普及させること(寿司を世界に普及させること)
 ②世界中に普及している文化をある文化の中に受け入れること(マクドナルドを受け入れること)
 しかし、これとは異なる答え方を考えてみたいとおもいます。
 

 
 

西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法

                                  世界最古の大学ボローニャ大学の旧館です。
 
07 西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法 (20120928)
 
前回、西洋哲学の「世界」概念や日本の「世間」概念は、ローカルな文化に属する概念であると述べました。その意味は、①それらは現実にローカルにしか通用していない、②それらをグローバルに通用する概念だけで説明することが難しい(不可能ではないかもしれません)、ということです。西洋近代哲学には、このようなローカルな概念が沢山あります。「世界」「理性」「精神」「構想力」「意志」などです。
 それでは、西洋近代哲学をグローバル化するにはどうすればよいでしょうか。その方法の一つが、「言語論的転回」だったと言えるのではないでしょうか。近代の「意識哲学」が20世紀初頭に「言語分析の哲学」へ転回したと言われています。たとえば、論理実証主義の意味の検証理論によって、哲学における文の意味もまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することができるようになりました。あるいは「プラグマティック・ターン」もまたグローバル化の一つの方法であったといえそうです。プラグマティズムは、文の主張の意味を私たちの行為にどのような変化を与えるかによって、説明しょうとしました。これもまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することを可能にしています。
 おそらく他にも、西洋近代哲学をグローバル化する方法はありうるだろうとおもいます。いずれにせよ、アメリカの哲学はそれに成功しているのだとおもいます。それはアメリカが単一の分厚い歴史的文化的コンテクストを持たなかったためであろうとおもいます。
 
 
 

 

ボローニャで「世界」を考える

                                     ボローニャの中心マジョーレ広場の噴水です。
 
06 ボローニャで「世界」を考える (20120924)
 
 先週は、ボローニャで開かれた第八回国際フィヒテ学会大会に参加していました。例によって、海外でのネット接続がうまくゆかなくて、ブログの更新が遅れて失礼しました。
 
 その大会である発表を聞いている時に思ったことを書きます。その発表者は、「世界」という概念を多用していました。そこでは、フィヒテの「世界」概念が特に問題になっていたわけではありません。つまり、西洋哲学の世界で通常使う意味の「世界」であったのです。西洋哲学を勉強している私には馴染みの概念です。しかし、この「世界」は、現代の自然科学的な意味の物理的「世界」でも、社会学者や政治学者が用いる国際社会という意味での「世界」でもありません。それら二つの「世界」概念は、グローバルに通用する概念です。それに対して、これは(曖昧な言い方になりますが)ある精神的文化的な意味の「世界」です。この「世界」は、ヨーロッパのある時代に通用しているローカルな概念です。日本人の「世間」という概念が、日本のある時代に通用しているローカルな概念であるのと同様です。
 もちろん、現在の日本で「世間」という概念が生き生きとした意味を持っているのと同様に、ヨーロッパではこの「世界」概念が、生き生きとした意味を持っているのです。しかし、それはグローバルな概念ではありません。
 そして、このようなローカルな「世界」概念を用いた哲学は、グローバルな哲学にはならないように思います。それをグローバルな概念にするには、少なくともそれについてのグローバルに共有可能な説明を与える必要があります。しかし、それをグローバルに通用する概念だけで説明することは、日本語の「世間」をグローバルに通用する概念だけで説明することが難しいのと同じように、非常に困難です。
 

 
 
 

死に対する態度と心の哲学

                                  ピンぼけの 写真のような 夢の跡
 
  久しぶりにこの書庫に書き込みます。
 
死に対する態度と心の哲学 (20120912)
 
生物として私の死も、ロボットとしての私の死も、区別して論じる必要はないかのように書きました(2007/10/23と、その後の数回)。しかし、そうでしょうか?
 
もし、私の脳の情報が、コンピュータの中にコピーされて、コンピュータとして私が考え、それを搭載したロボットとして生きていくことができたとしたら、そのときには、私は単なる機械であり、自然現象です。もしそうなったとしたら、ロボットとしての私の死に対する態度は、変わるでしょう。
もちろん、私が生物であったとしても、心についての物理主義を採用するのならば、ロボットの場合と同じです。その意味では、生物かロボットかの違いではなくて、心をどう考えるのかの違いです。
 
現代哲学には、「心の哲学」と呼ばれる分野があります。そこでの中心問題は、心と脳との関係です。これについての主な主張は、次のようなものです。
  心と脳は別の実体であるとする二元論
  脳しかないという一元論
  心しかないという一元論、
二元論は、心と脳の間の相互作用を説明する必要があるけれども、それを説明できないという問題を抱えているので、現代では少数派です。
心しかないという一元論(観念論)も現代では少数派です。
多くの研究者は、脳しかないという一元論(物理主義)を主張するのです。しかし、この中には、ひとは心があると思っているが、実は心は存在しないのだという心の消去主義の立場と、心は脳の状態やプロセスに随伴する(supervene)と考える立場(例えばDavidsonの非法則的一元論など)があります。
 
書庫「物理主義からの倫理」では、「仮に心の哲学での物理主義が正しく、人間の心が脳の中の物理的な過程や状態に過ぎないとし、心の働きに自由がないとすると、倫理や道徳をどのように理解することができるのか」ということを考えました。
 
物理主義が正しいとしたら、道徳や倫理に関わるだけでなく、私たちの死に対する態度にも大きな影響を与えることになる、ということに今頃になって気づきました。この場合には、私たちの死は、冷蔵庫が壊れるのと同じ事になってしまうのでしょうか。現在のパソコンが壊れるのと、未来の人間であるAIが壊れるのは、同じ事になってしまうのでしょうか。
 
この問題に、どこから手を付けたらよいのか、アイデアがありましたら、おねがいします。
 
 
 
 
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会社の利益と人生の幸福

                夏の大阪城です 
 
22 会社の利益と人生の幸福 (20120831) 
 
社会組織は、次の二つの条件を満たすものでした。
  ①社会問題の解決のために作られ、
  ②そのようなものとして正当化される
(ところで、この①と②の条件が満たされるかどうかを判定するのは、だれでしょうか。専門家が判定するのでしょうか。それとも、当該社会の成員の合意によるのでしょうか。これについては、後で考えたいと思います。)
 
この①と②を満たすのは、国連などの国際組織、国家、州、県、郡、市、町、村、など地方公共団体、国営企業、NGO、NPO、これを満たすでしょう。これに対して、私企業は①を満たす場合がありますが、しかし私企業は②を満たす必要がありません。要するに、社会組織と私企業を分けるものは、①ではなくて、②なのです。
 
前回の結論は、上記のようなものでした。
 
しかし、つぎのような疑問が沸き起こります。
私はこれまでは、家族もまた社会組織だと考えてきました。仮に、男女二人だけからなる家族であるとしても、それは二人からなる社会組織です。家族は、二人でしかできない様式の生活をする、あるいは家族世帯でしかできない様式の生活をするという目的で家族をつくり、そのようなものとして成員によって正当化されている、ということがあります。
 
もし家族についてこのように考えるのだとすると、会社もどうように考えられるのではないでしょうか。家族の営みと、家族経営の会社の営みは、うまく区別できないようにおもいます。あるいは、仲間5人で会社を作ったという場合、これもまた①と②を満たすのではないでしょうか。
 
会社の存在が、より広い社会の中で正当化されることを考えると、それは会社の目的を実現できているかどうかとは、別の問題になります。しかし、会社がそのメンバーによって正当化されているかどうかを考えるときには、会社の設立目的を果たしているかどうかが、問われることになります。
 
「会社は社会組織であるかどうか?」という問いをペンディングにしたまま、
「会社とは、どのような組織であるのか」を考えてみたいとおもいます。
 
ドラッカーは、「企業とは何か」を理解するには、「企業の目的」を考えなければならないといいます。そして「企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である」「企業が何かを決定するのは、顧客である」と言います。「企業の目的が、顧客の創造である
ことから、企業には二つの基本的機能が存在する」と言います。それは「マーケティング」と「イノベーション」です。通常は、利益を上げることが企業の目的であるといわれているが、ドラッカーは、利益は、マーケティングとイノベーションの結果であるといいます。
 
これは私の思いつきですが、企業にとっての利益は、人間にとっての幸福と似ているのかもしれません。利益を上げることが目的であるとしても、そのために何をすべきかを、その目的からは導出することはできません。人の目的が幸福であるとしても、幸福になるために、その目的からは何をすべきかを導出することはできません。幸福は、結果的に与えられるものですが、それを目指しても何をしたらよいのかわからないのです。企業にとっての利益もまた、マーケティングとイノベーションの結果として与えられるものなのかもしれません。
 
 

 
 

会社とは何か

 
 

 

21 会社とは何か (20120821)
 
国営企業と私企業の区別は次のとおりです。
 
国営企業の目的は、財やサービスの提供です。あるいは、財やサービスの提供による国民の福祉です。私企業の目的は、利益の追求です。財やサービスの提供はその手段です。別の言い方をすると、私企業の目的は、財やサービスの提供による利益の追求です。
国営企業と私企業まったくおなじ財やサービスを提供しているとしても、その最終目的は異なります。
 
私企業は、財とサービスを社会に提供するという点で、社会問題を解決しようとしているといえます。しかし私企業は社会問題を解決するために作られたのではありません。それは、利益を上げるために作られたのであり、社会問題を解決することはその手段です。
 
以上が、常識的な説明になるでしょう。
 
しかし、これは正しいでしょうか。私企業の目的は、常に、利益の追求なのでしょうか。そうではないとおもいます。なぜなら、ひとが会社を作るときの目的は、利益の追求だとは限らないからです。ザッカーバークがFacebookをつくった時の理由は、単に面白いからかもしれませんし、社会を少し変えたいからかもしれません。しかし、それを推進しようとすると、一人では手が足りないので、人を雇いたいと思ったとしましょう。人を雇うには、彼らに給料を払わなければならず、そのためには会社の利益を大きくしなければなりません。さらに事業を拡大するために、さらに多く人を雇おうとすると、さらに利益を増大させなければなりません。このようにして、会社が大きくなっていくケースもたくさんあるでしょう。この場合、利益の追求は手段であって、その目的は事業をすることなのです。では、その事業とは何でしょうか。それは、何でもよいのです。その目的が、NGONPOの目的と同じである場合もあります。会社の場合に特長的なの条件は、その事業が同時に金儲けにもなることです。
 
企業の目的としては、次の三つ、
 ①利益の追求
 ②事業(ある財やサービス提供)
 ③ステイクホルダー(顧客、株主、従業員)が幸せになること
が考えられるのではないでしょうか。そして、多くの企業では、この比重の違いがあれ、この三つ全てが目的になっているでしょう。
 
ただし、このような理解は、曖昧で、欺瞞的であるかもしれません。企業の本質は、やはり①利益の追求であるように思われるからです。より大きな利益を追求することは、会社にとっての本質的な性質であるようにおもわれます。より大きな利益を追求することが、会社組織にとって、構造上必然的に最優先されるようになっているのではないでしょうか。(これの証明が必要ですが、ここではとりあえず、前提しておきます。)n lang=”EN-US”>
 
このように考えるとき、会社は社会組織であると言えるのでしょうか。
 
12回に次のように書きました。テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
これを利用して社会組織を定義すると、「社会組織とは、社会問題を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される組織である」となります。
 
この定義に従うなら、会社は、社会組織ではありません。会社は、社会問題を解決するために作られたものではありません。なぜなら、社会問題を解決することは利益の追求のための手段だからです。また、会社は、社会問題の解決するものとして正当化されるのでもありません。会社(の活動や存在)が正当化されるのは、社会規則に従うことによってだといえるでしょう。
 
ある会社の目的は、利益追求ではなくて、ある事業の推進であったとします。しかも、その事業は、社会問題の解決への取り組みだと言えるのであったとします。このとき、この会社は、社会問題の解決するために作られたものだと言えます。しかし、この会社は、社会問題を解決するものとして正当化されるのではありません。この会社が、社会問題の解決に失敗しているとしても、社会の法的な規範(あるいは土徳的な規範)を審判しない限り、非難されることはありません。つまり、社会問題を解決するために作られた会社であったとしても、それは社会問題の解決するものとしてのみ正当化されるのではないので、社会組織でありません。
 
さて、会社が社会組織ではないとすると、第12回で述べた私たちの見取り図は、会社が大きな役割を果たしている現代社会を理解するには不十分だということになります。では、私たちは、さきの見取り図をどのように修正したら良いのでしょうか。
 
これを考えるために、問答の観点から会社を考えてみましょう。