橋本努の「問題主体」について

 
 
 
橋本努の「問題主体」について

 「問答としての人格」という書庫のタイトルをみて、橋本努の「問題主体」という概念を想起したひともいると思います。

 

 (私はずいぶん前から問答の考察が重要だと考え、その観点からさまざまな哲学テーマを論じなおしたいと思ってきました。ですから、橋本努の「問題主体」論に出会った時には、虚を突かれた感じがすると同時に、そのアイデアを自分もまた展開してみたいと思いました。しかし、私の研究は、いまだに理論哲学の領域で問答の観点を生かそうとすることだけで、手一杯です。これでは、いつになったら本格的に実践哲学についての論じられるのか、わかりません。そこで、とりあえず、このブログでそれを試みたいと思うのです。)
 
 橋本努は、『社会科学の人間学』の中で、「価値」をコアにする「近代主体」概念に代えて、「問題」をコアにする「問題主体」概念を提案します。これは、私にとって非常に啓発的なアイデアでした。ただし、現在私が考えたいと思っている「問答としての人格」は、内容的に橋本努の「問題主体」とは、ズレてきているかもしれません。(このズレについては、いずれまとめて検討したいとおもいます)。また問題意識も少し違うのかもしれません。なぜなら、ウェーバー研究者ある橋本は、「問題主体」を人格理念とか理想として提案しているようにみえるからです。私の以下の考察には、<あるべき人格像や、あるいは現実の人格を理解するための一つの理念型>を構想するという問題意識はありません。現実の社会で「人格」と呼ばれているものがどのようなものであるかの考察を目指しているだけです。
 
橋本努の「問題主体」については、上記の本を、またとりあえずは、
橋本さんご自身による自著の紹介のテキストをご覧ください。
大変面白いです。
 
 

もう少し寄り道

 
 
もう少し寄り道
 永井均の〈私〉の議論は魅力的である。とくに若い世代に受け入れられたように思われる。これは、若い世代が、不登校やニートや引きこもりになっていること、あるいは日本全体が無縁社会になっていることと関係しているように思われる。私たちが引きこもりたくなるのは、他者と比較したり比較されたり、他者と競争したりしたくないからである。あるいは、空気を読んでつねに同調することに疲れているからである。一方における極端な同調と競争と、他方における極端な引きこもりが、日本の社会の現状である。
 現代の社会では、個人は個として社会に投げ出されて、競争社会の中で生きていかなければならない。確かに社会の中で生きることは、さまざまな社会関係の中で生きることであるので、利害を共有する人たちがいるはずだ。しかし、その人たちと連帯することが難しくなっている。同じ会社のサラリーマン同士であるとき、利害を共有しても、他方では競争相手であるからだ。競争の激しさが、連帯を困難にし、個人を孤立させ、さらに人一人を押しつぶしている。
 国家や会社のために個人があるのではないとすれば、(途中の論証がまだないが)、個人や労働力が商品であるということはありえない。というわけで、我々の社会の再構築のためにも、「人格とは何か」に答えることが重要だ。
 
まだ本論に入っていませんが、何でもご批判比ください。
 
 
 

言わずもがな、への予想される反論

 
 
言わずもがな、への予想される反論
 
「人格論が重要である、という主張こそが、問題なのだ」という反論があるかもしれない。
「人格は存在しないのであって、人格にとらわれているからこそ様々な問題が生じることになるのだ」という反論である。このような仏教的な言説には、たしかに人々を解放する側面がある。しかし、そのような否定的は発言をするだけでは、人格にとらわれている私たちが直面している問題を解決することはできない。もちろん、彼らは、問題を解決するのではなくて、問題を解消することを勧めている。
 しかし仏教者がそのように勧めても、我々は相変わらず人格にとらわれて、人格を前提とした諸問題に悩まされている。そこには原因があるはずだ。(修業が足りない、という原因ではなくて、そもそもなぜ修業が必要になるのか、という原因があるはずだ。)人格は存在せず、それが存在すると思うのは、「物象化的錯視」(広松渉)であるかもしれない。しかし、物象化にはそれなりの原因があるはずである。マルクスや広松が明らかにしようとしたように、それは生産関係に基づくのかもしれないし、あるいは別の説明が可能かもしれない。人格が社会的に構成されるものであることは、仏教者もマルクス主義者もルーマンのようなシステム論者もあるいは構造主義者も、概ね認めることであろう。
 仮に人格が存在しないとしても、それが社会的にどのように構成されているのかを明らかにすることが必要である。というわけで、やはり「人格とは何か」という問いに答えることが重要なのである。
 
 もう一つ考えられる反論は、一般的な「人格」ではなくて、かけがえのない〈私〉(永井均)について考えることの方が重要であるという反論である。〈私〉についてどう考えるかは、形而上学の問題であって、これの答えがどうであれ、人格としての私たちが直面している問題は、そのまま残り続けるだろう。かけがえのない〈私〉は何か、という形而上学的な問題を重視することによって、比較の眼差しにさらされている現実の人間関係の問題から解放されるように感じた人々がいたが、それは孤立の問題や引きこもりの問題に形を変えただけかもしれない。〈私〉についての形而上学の問題は残るにせよ、やはり「人格とは何か」という問題は重要だ。
 
 
 
 

言わずもがな

 
 
                  
 
言わずもがな、であるかもしれないが、次のような理由で、人格とは何かを考えることは重要である。
 
・道徳や法は、道徳的な人格、法的な人格を前提している。
・意志の自由が重要な議論になるとすれば、そのこともまた、人格の存在を前提しているのではないだろうか。なぜなら、持続する人格というものが無ければ、意志が自由であっても、それは意志決定が自然現象から独立に偶然的に生じるということに過ぎなくなるように思われるからである。そのような意志の自由について論じることは、自然現象の偶然性について論じることと重要性において違いがないように思われる。
・さらに、もし人格がないとすると、人生の意味も、人生そのものも存在しないことになるのではないだろうか。
・また、社会を、近代の契約論者のように個人からなるものとして考えるのではなくて、ウェーバーやパーソンズのように行為からなるシステムとして考えるにせよ、あるいはルーマンのようにコミュニケーションからなるシステムとして考えるにせよ。我々にとって、そのような社会が問題になるのは、その社会の中で我々が人格として存在しているからではないだろうか。
・我々は常にすでに自分をある人格として理解し、人格として存在している。
 
したがって、我々が、生きる意味や、社会について考えるときに、「人格とは何か」を考えることは重要なテーマである。
 
というわけで、森の中に奥深く入り込んで行こう。
 
 
 
 
 
 
 
 

病気としての悪

紅葉の始まる山の中です。紅葉のはじまりは、山の中ではFallの始まりです。まるで雨のように、一日中、ハラハラ、ハラハラと松葉などの木ノ葉が落ち続けます。
 
もし「物理主義の世界」の中で、道徳や法が成り立つのだとすると、そのとき、それに対する侵犯である「悪」は、人間の自由な意志の所産ではありません。それにもかかわらず、それが排除されるべき行為として理解されているのだとすると、それは「病気」として理解されているのかもしれません。
 
これは「物理主義の世界」において、「悪」が成立する場合の、一つの有力な可能性です。というわけで、悪を病気として理解することが、果たして整合的であるかどうかは、検討に値するでしょう。
 
しかし、どうも、このところ、このテーマに気が乗らないのです。
私としては、できれば物理主義を批判して、自由の可能性を追求してみたいと考えているということも、気が乗らない理由の一つなのですが、もう一つは、自分が納得していない物理主義を前提して考えることに、少し飽きてきたということがあります。
 
そこで、「病気としての悪」を考える前に、人格について考えてみたいと思います。たとえ物理主義を採用するにしても、道徳や法が成立するのなら、そこでは人格も成立しているはずです。したがって、「病気としての悪」をかんがえるためにも、「人格とは何か」を考えておく必要があるでしょう。
 
この問題については、すでに書庫「人格とは何か」で少し論じました。しかし、そこでは、明確な人格論を提案できていません。そこで、もう一度それを試みたいとおもいます。
 
という訳で、新しい書庫「問答としての人格」を始めます。
 
そのあとで、また「病としての悪」に戻ることにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さあ、仕切り直しです

 
                  海の中のような森の中
 
 
決定論を理解できないというストローソンの主張への批判は、とりあえず前回で終わりました。
 
最初の問題に戻りたいとおもいます。
つまり「物理主義の世界」で道徳や法は可能だろうか、という問題です。
 
仮に、ストローソンの主張、(道徳的な)怒りと物理主義は両立しないを受け入れたとしましょう。しかし、そのときそこから帰結するのは、<物理主義は理解できない>という選択肢だけではありませんでした。もう一つの選択肢は、<道徳的な怒りは理解できないという物理主義者の主張>です。
 
そうすると、問題は、「怒りがなくても、道徳や法律は成立するのか」と言うことになります。この物理主義者は、<我々は、不道徳な行為に怒りを感じるかもしれないが、その時には、その怒りを幻想的な「擬人化」によるものだと反省して、消去する>と主張することになるでしょう。
 
このとき、(すこし論理的な飛躍がありますが)次の可能性を考えてみたいと思います。それは、「悪は病気の一種である」と考えるという可能性です。
 
ここから、仕切り直しです。
 
 

私たちは人間を「擬人化」しているのか

窓からの眺めが水槽の水草の眺めに似ていることに、最近気がつきました。
地球の表面は、水の中も陸上も緑の世界だったのかもしれません。
 
 
 ストローソンの主張は、次のようなものでした(以下は私の勝手なまとめです)
<人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない>
 
これに対する反論として、前々回に挙げたのが、以下の二点でした。
①動物や家具に対して怒るときがある。
②動物や家具に刑罰を与えることもある
 
①に対するストローソンからの批判としては、次の二つないし三つが予想できます。
(i)怒りの種類を分けるべきだ:動物や家具に対する怒りと人間に対する怒りはことなる。前者の怒りは自然現象に向けられるが、後者の怒りは自然現象には向けられない。したがって、人間を自然現象と見なすことは、理解できない。
(ii)動物や家具に対する怒りは擬人化にもとづく:動物や家具を自然現象と考えているときには、それに対して怒ることはありえない。
(iii)上記二つの批判は、両立可能であるので、場合によって両方を使い分けて用いることもできる:動物に対して、思わず生理的に(?)怒りを感じるときもあるが、そうでない怒りを感じるときもある。そうでない怒りの時には、動物を擬人化している。
 
さて、このようなストローソンに対して、どのように批判することができるでしょうか。
 
物理主義者ならば、つぎのように批判するかもしれません。
<ストローソンの主張:≪人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない≫の最初の二つの文章を認めて、そこから次の文を導出することも可能である。<したがって、他者に対して怒るということがどういうことか理解できない>。
ストローソンも、動物に対して思わず怒ることがあるだろう。そのとき、彼は動物を擬人化していたと反省して、動物に対する怒りを不合理な振る舞いだったと考えて、撤回するのだろう。
私は、それと同じことを人間に対しても行う。私は人間に対して思わず怒ることがある。その時私は人間を「擬人化」していたのだと反省して、人間に対する怒りを不合理なふるまいだったと考えて、撤回する。
この場合の「擬人化」とは、人間に対するある種の幻想化である。それはよく考えようとしても理解できない幻想である。>
 
このような物理主義者は、他者への怒りを認めず、おそらく刑罰も、自由も認めないでしょう。
 
これで、ストローソンの検討をいったん、終わりたいと思います。なぜなら、このような物理主義者の批判を(同意でなく)理解できるとすれば、ストローソンの、そもそもの批判、物理主義を理解できない、という批判は、回避できるからです。つまり、「物理主義の世界」で道徳や法は可能になるのか、という問題設定は、理解できることになるからです。
 
 

クマに罪はあるのか

 
森の中によくある看板です。一句作りたかったけれど、余りに散文的なテーマなので、できませんでした。
 
 
前回の反例3で言及したプラトンの当該箇所を引用します。
少し長いですが、興味深いので引用します。このくらいなら著作権の許容範囲だろうとおもうのですが、もし問題があったらご指摘ください。
 
プラント『法律』第9巻からの引用です。
 
「もし動物が、荷を運ぶ動物でも、その他の動物でも、誰かを殺した場合は、――ただし、公に催される競技において、競技中にそのようなことが起こった場合は別として――、近親者は、その動物を殺人のかどで訴えるべきである。そして近親者から指名された地方保安官が、――誰が指名されても、また何人指名されてもよい――、裁判をおこなって、その動物に罪がある場合は、これを殺して、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。
 また、何か生命をもたない物体が、人間から生命を奪った場合は、――ただし、稲妻とか、天から何かそのような矢が落ちてきて死んだ場合は別として、それ以外のもので、ひとがその上に倒れたために、あるいは、そのものがひとの上に落ちてきたために、その人を殺したというような場合であるが――、そのときには、近親者は、いちばん近い隣人をそのものに対する裁判官にしてこれを裁かせ、このようにして自分自身のためにも親族全体のためにも償いをさせなければならない。そしてその物体に罪があった場合は、動物の場合についての述べられたと同じように、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。」(プラトン『法律』873E-874A、『プラトン全集13』森進一、池田美恵、加来彰俊訳、岩波書店)
 
さて、このような発想は、一見奇想天外ですが、しかし、よく考えてみれば、身に覚えのある発想です。このような裁判で、「動物に罪がある場合」とは、どのような場合なのでしょうか。人間がその動物を脅かすなどしたために、その動物にかみ殺されたときには、動物に罪はないということでしょうか。人間による山の開発で熊の住む場所がなくなり、熊が人里にやってきて人を殺したとき、熊には罪がないのでしょうか。豊かな自然があるのに、人里にやってきて、人間を襲う熊なら、「罪がある」のでしょうか。なんとなく、そんな風に感じるとすると、我々もプラトンとかわらない、ということでしょうか。
 
家具に「罪がない」とはどういうことでしょうか。地震で家具の下敷きになった時には、家具には「罪がない」けれども、静かな時にいきなり家具が倒れてきて、人が死んだときには、家具に責任があるということでしょうか。しかし、それは家具を作った人に責任があるのではないでしょうか。
 
動物の場合には、ともかく、家具に罪があるというのが、もう一つよくわかりません。家具に欠陥があるのならばわかります。その欠陥の責任が、作った人でなく、家具自身にあるというのがわかりません。この発想が、奴隷制とどこかで繋がっているのでしょうか。
 
これらのことを考えるのは、この書庫のテーマではありませんが、興味深い発想です。
 
今回は、余談でした。
 
 

机に腹を立てる

 
野分けすぎ、鈴虫も待つ、名月かな
(季語ばかりになってしまいました)
 
 
前回の(a)(b)(c)を考えてみます。
 
まず(a)「この前提の上で、(3)が成立するのかどうか」を考えましょう。
 
くどいですが「この前提」とは、(1)「物理的現象であること」を認め、かつ(5)「人間が自由であること」を認めないということでした。(3)は「他者の振る舞いに怒りを感じること」でした。
 
まず、(1)と(3)の関係を考えましょう。
 
<(1)と(3)は(心理的に?、主観的に?)両立不可能であり、しかも(3)は我々が体験している事実である。> ゆえに、(1)を想像することはできない、とストローソンは主張します。(1)と(3)は、我々にとって本当に両立しないのでしょうか。
 
反例になるかもしれない事実を考えてみましょう。
 
反例1:二匹の犬が喧嘩しているとき、犬は互いに怒っているように見えます。物理現象である犬は、別の物理現象である別の犬に対して怒っています。したがって、(1)と(3)は両立するのです。
 
予想される批判1:犬は怒っているように見えるだけであって、怒ってはいない。それは人間が犬に感情を投影しているのだ。
 
予想される批判2:犬は怒っているかもしれないが、その怒りは、人間の怒りとは異なる。人間は、自然現象である犬に対しては怒らない。もちろん、人間が犬にかまれたら犬に対して怒りを覚えるだろうが、そのときには犬を擬人化しているのである。
 
反例2:我々は、犬にかまれて犬に怒るだけでなく、机の脚に足の小指を思いっきりぶつけてしまった時に、思わず怒りおぼえて、机の脚を蹴りたいと思うけれども、余計ひどいことになるので思いとどまる、というようなことがあるのではないでしょうか。我々は明らかに人ではない机に対しても怒ることがあり、その時には、擬人化していないように感じられるのです、それはいわば生理的な反応のようなものです。
 
予想される批判3:そのような生理的な反応としての怒りがあることがみてもてよいが、それはストローソンが問題にしている怒りではない。それは別種の怒りであり、反例にならない。
 
反例3:手元にテキストがないので、記憶で言うのですが、プラトンは、古代の刑罰では、倒れたために人間を殺すことになってしまった家具などを、国外追放などにして罰するという記述があったようにおもいます。(そのような心性は、古代ギリシアにかぎらず、他の社会にもありうることです。)つまり、怒りの対象や刑罰の対象を、理性的で自由な人間に限ることは、近代的な刑罰観なのであり、理性的で自由な人間を前提しない刑罰観もありうるし、歴史的にはあったと思われるのです。それゆえに、(3)は(1)や(4)と両立するし、(3)は(5)の否定とも両立するのです。
 
この反例3、に対してストローソンならば、何と答えるでしょうか。
次回に考えてみたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

またしてもストローソン

 
森と空の間に夏の風
 

ここまでの議論で前提しておきながら、それを断っていなかったことがありました。それは、決定論と自由の非両立説をとるということです。非両立説というのは、物理的な決定論と人間の意志の自由が両立しないと考えるということです。物理的な決定論と人間の意志の自由の両立論を主張する人もいますが、この書庫では、それが両立しないということを前提しています。しかも、物理主義が正しいということを前提しています。しかも、社会のほとんどの人がそのような非両立主義と物理主義を受け入れており、それが社会の常識になっているという世界(「物理主義の世界」)に住んでいるということを前提しています。
 
私は、非両立論と物理主義をここで論証しようとしているのではありませんし、それらが正しいだろうと予想しているのでもありません。この書庫での課題は、仮にその二つを社会が受けいれた「物理主義の世界」というものがあるとすると、その中で法律や道徳が可能かどうか、可能であるとすればどのようなものとして可能か、ということを考えてみることです。
 
これまで考えてきたところでは、物理主義の世界でも、計画的に行為する合理的な行為者の存在を想像することはどうやら可能だ、ということでした。では、道徳や法律や可能なのでしょうか。
これまでの議論では、次の3つを区別してきました。
(1)計画的に行為する合理的な行為者であること
(2)道徳や法律が可能であること
(3)人間が自由であること
(3)を認めないのが、この書庫での前提でした。(1)は可能である。(2)が残る問題です。
 
さて、以上の議論と関係しておりながら、以上の議論に対する根本的な批判になっているのが、ストローソンの論文「自由と怒り」です。ストローソンは、そもそもこの書庫の前提である決定論を「理解できない」、あるいは想像できない、というのです。しかし、それは決定論がまちがいであるというのではありません。そのような哲学者はたくさんいるでしょう。そして彼らとの論争は、この書庫の前提が脇に置いてきたことです。
しかし、ストローソンが決定論を「理解できない」というのは、決定論が間違っているというのではないのです。<人間にはそれをまともに考えることができない>、と言えばよいのかもしれません。このような立場は、我々の書庫での前提を脅かします。つまり、我々は決定論の真偽は別にして、それを理解し、想像し、仮定することはできると考えているからです。
 
そこで、ストローソンの論文「自由と怒り」(法野谷俊哉訳)(門脇俊介+野矢茂樹、編・監修『自由と行為の哲学』春秋社)の主張を検討したいと思います。
ストローソンは、「自由と怒り」において、まず悲観論者と楽観論者の論争を成立しています。悲観論者は、決定論をみとめ、それが自由と両立しないと考え、しかもそこでは道徳が成立しないと考えます。楽観論者は、決定論を認めるが、それは自由と両立し、道徳が成立すると考えます。
ストローソンの整理では、悲観論者は、自由も道徳も認めないが、楽観論者は、自由も道徳も可能だと考える。私がこの書庫で問題にしたいのは何度も繰り返しますが、自由を認めないで、法や道徳が成立する余地はないのだろうか、と言うことです。
 
さて、ストローソン自身は、「決定論という命題の内容が正確にわかっていない」(訳p.49)という立場をとります。彼は、人間には、決定論が正しいものとして受け入れて生活することはできないと考えます。その意味で、決定論を正確には分かっていないというのです。
 
この主張について、次に検討したいと思います。