人間は行為者である

日本語表記がなんとなく懐かしい雰囲気ですね。英語にすべきだと思うのですが、この方が外国人に喜ばれるのでしょうか。
 
みんなが物理主義が正しいと考えており、そのことが常識となっている「物理主義の世界」において、そもそも行為者というものは存在するのでしょうか?
「私」という人称代名詞で、話し手は「私」で何を指示するのでしょうか?
話し手は存在するのでしょうか?
 
たくさん質問を書きましたが、最後の質問から考えてみましょう。
「私は嘘をついた」という発話があるとします。このとき、話し手は存在するのでしょうか。多くの人はとりあえず次のように答えるでしょう。「我々に自由がなくても、我々は話し手です。それは犬に自由がなくても、犬がワンと吠えている、というのと同じです」
 
それでは、「私は嘘をついた」という発話をするとき、話し手は、何を指示しているのでしょうか。多くの人はとりあえず次のように答えるでしょう。「隣の家の犬を、隣の人はクロと呼んでいるのですが、それと同じように、我々は互いに名前で呼び合っています。隣の人が、クロを同定しているのと、おなじような仕方で、我々は、話し手を同定することができますし、そのように同定された対象を話し手は「私」で指示しているのです」
 
我々は、我々を「行為者」と呼ぶことができるのでしょうか、と問われたならば、多くの人はとりあえず次のように答えるかもしれません。「アンスコムの意味で「意図的な行為」をするものだけを行為と呼ぶのならば、犬は行為しません。しかし、犬を動物とよび、動物は動き回るものであり、行動するものであるということができるならば、同じように人間は行為する者である、行為者である、と言えるでしょう」
 
 
マイケル・ブラットマンは、人間の振る舞いが完全に因果的に決定していても、人間は行為者でありると考えています。
 
ブラットマンは、人間の「行為者性」の核となる3つの特徴を指摘しています。つまり、「反省的性格」「計画性」「自らの行為者性を時間的な幅をもったものとしてとらえる我々の自己理解」(原文にあたっていないので、3つ目の定式化がこれでよいのかどうか、すこし不安が残ります)です。
 
この3つは、つぎのようなことです。
「われわれは自分の動機づけについて反省する。また、我々はあらかじめ計画を立て、行為の方針をもち、そうした計画や方針が長期にわたるわれわれの活動を組織している。そして、われわれは自らを長期にわたって活動し続ける行為者とみなしており、また、時間的な幅を持った活動や企てを開始・展開・完了させる行為者ともみなしている。」(マイケル・ブラットマン「反省・計画・時間的な幅をもった行為者性」竹内聖一訳、『自由と行為の哲学』門脇俊介、野矢茂樹訳、春秋社、p. 289
 
そしてこれら3つの特徴は、「我々が因果的秩序のうちに完全に埋め込まれているということと両立可能である」(同訳、p. 320)と彼は考えています。
 
ブラットマンの議論の厳密な検討が必要ですが、しかしこの3つの特徴をある程度緩く理解する限りで、この3特徴によってとらえられる行為者性は、「物理主義の世界」でも成り立つようにおもいます。そのような意味では、人間を<主体>と呼ぶことも可能でしょう。
 
では、そのよ
うな行為者や主体には責任はあるのでしょうか?
これを次に考えたいと思います。
 
 
 
 

責任は主体を想定する?

 
2011年6月19日の羽田空港です。ひょっとして伊丹への帰路に富士山が見えるかと思いましたが、雲のために見えませんでした。もし雲が無ければ見えるのでしょうか。いつも夜ににばかり乗っているので、よくわかりません。
 
 
アンスコムのいうように、意図的な行為の場合、我々は「なぜそうするのか」と問われたときには、即座に「○○するためだ」と答えられるでしょう。このような<行為の理由>は、<行為の原因>と同一なのでしょうか、まったく別のものなのでしょうか、それとも一部重なるのでしょうか、それともこれらのいずれともことなるのでしょうか。
 
亀をいじめている子供たちを見たときに、私が思わず「やめなさい」といって止めようとしたとしましょう。「どうして、僕たちの邪魔をするのですか」と問われたとき、即座に「かわいそうじゃないか」と答えたとしましょう。このとき私が「物理主義の世界」の住人であるとして、私はこの行為をどのように理解するでしょうか。
 
私の行為は、自然的な因果関係によってすべて決定しています。私が「やめなさい」と言った行為の原因をCだとしましょう。私は、「亀がかわいそうだからやめさせよう」と考えていたとしましょう。このとき、「亀がかわいそうだ」という考えが、ここでの原因Cでしょうか。亀がかわいそうだ、という考えは、それだけでは行為を決定するに充分ではありません。したがって、<行為の理由>と<行為異の原因>は同一ではないでしょう。
 
「やめなさい」という発話行為が成立するには、そのほかの条件もはたらいていたでしょう。それらをすべて列挙することはできませんが、その原因Cが、そのような条件の集合であったとしましょう。「亀がかわいそうだ」という考えは、その原因Cの一部分であったのでしょうか。つまり<行為の理由>は、<行為の原因>の一部分になるのでしょうか。
 
ここから二つのケースに分けて考えてみましょう。
まず、<行為の理由>が、<行為の原因>の一部になっているとしましょう。
(今回は、このケースの途中までです)
 
このとき<行為の理由>の成立もまた、因果的に決定しているはずです。上の例では、私が「亀がかわいそうだ」と考えることです。この考えもまた、因果的に決定しています。
私が「亀がかわいそうだ」と考えたから(これが原因の一部となって)、「やめなさい」と発言したのだとすると、私にはその発話行為の責任があるのでしょうか。考えから行為が発生するのは、因果関係であり、しかもその考えもまた因果関係によって成立しているのだから、私の自由が介入する余地は全くないのです。しかし、「亀がかわいそうだ」という私の考えが、私の行為の原因の一部になっているということが言えるのならば、ここに「責任」について語れる余地はないでしょうか。
 
別の例で考えてみましょう。
私が楽をしようとして、「駅まで乗せてくれたら、お金を払うよ」と友人に嘘をついたとしましょう。友人が、自動車で駅まで乗せてくれたのですが、私には払うお金がなかったとしましょう。「嘘をついて、駅までのせてもらおう」と私が考え、実際に友人をだましたとしましょう。このとき、「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という私の考えが、原因の一部となって、友人をだます行為が生じたとしましょう。「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という考えは、完全に因果関係によって成立したのだとしましょう。私にまったく自由がないとすると、私には、私の行為の責任がないかもしれません。そもそも私にまったく自由がないとすると、「私の行為」というものも、ある現象をそのように記述できるということにすぎず、別様にも記述できることになりそうです。「私の考え」についても同様です。私に責任があるとしたら、「私」が存在しなければならないように思われます。
 
=””>「私」という<主体>について語ることが可能であるのかどうか。もし可能であれば、「私」の責任について語ることも可能であるかもしれません。
 
これを次に考えてみようと思います。

 
 
 
 
 

自由なき道徳が可能なら自由なき責任が可能でなければならない

「駒の温」の横の川です。温泉帰りにとりました。
 
 
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 同様に、<「かわいそうだから」とか「残酷だから」という(道徳的な?)理由にしたがって、行為する>ということもありそうです。
 
<おいしそうな肉じゃがを食べようとすること>は、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思われます。それと同じように、<残酷な行為をとめようとすることは>もまた、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思います。
 
しかし<残酷な行為をとめようとした>と考えており、かつ同時に、<それは自由な行為ではなかった>と考えているとき、自分がほめられるべき行為を行ったとは考えられないように思われます。
 
逆に悪い行為をした場合も同様です。
<見栄をはって、うそをついてしまった>としまししょう。そのとき<それは自由な行為ではなかった>と考えているのならば、自分が道徳的に責められてしかたがないとは考えないのではないでしょうか。なぜなら、自由な行為でなかったのなら、私はその行為に責任が取れないからです。
 
行為の「責任」という概念は、自由な行為主体であることを前提しているのではないでしょうか。
 
もし「物理主義の世界」でも法や道徳が可能であるとしたら、そのときには「責任」という概念も有意味であり、それには別の意味が与えられる必要があります。
 
つまり、「自由な行為の結果でないにもかかわらず、ある行為主体にその行為の責任がある」という言い方ができなければなりません。
 
<自由なき道徳>が可能なら、<自由なき責任>が可能でなければなりません(多分)。
 
 
さて、そのような「責任」概念は可能でしょうか。
 
 
 
 
 
 

理由をもつ行為と、物理主義は両立しそうだ

5月の木曾の空です。
 
森田さんのコメントを強引にまとめてみます。
1、自由がないとしても、我々は何か選択せざるを得ないだろう。
2、選択するには、決定のためのガイドが必要であろう。
3、そのガイドは法であろう。
4、「実は」決定されていたとしても).そのときに,抑止効果として刑罰は働くことができるだろう。
5、結論としては,決定論を信じていても,われわれは「じゃあ,その決定された世界がどのような世界なのか」を知るすべがないのですから,結果的に自由意志があると信じている場合と同じように行動するしかないのではないでしょう
 
最終的に私の結論は、森田さんの5と同じになるかもしれません。人間の心や意志に自由があるかどうかは、結局形而上学の問題であり、我々の経験には関わらないのだ、という結論になる可能性があります。しかし、他方で、やはり、自由がないことをみんなが認めている世界で、法や道徳を、現在我々が理解しているような意味(どんな意味?)で、維持することは難しいような気がするのです。
 
 
しばらく検察官との対話を離れて、物理主義の世界で、我々が我々の選択や行為をどのように理解するかを、考えてみることにします。
 
上記の2を考えて見ます。
 
ネコが選択するときに、物理法則や真理法則にしたがっているということはあるでしょう。
物理主義の世界では人間についても、我々は同様に考えます。
さて、我々が選択するとき、ガイド(私が考えているのは選択のための基準や規則や模範です)を必要とするでしょうか。必要とするかもしれません。なぜなら、選択するときには、何らかの理由があるように思われるからです。
 
たとえば、私が肉じゃがにするか、カレーにするかを食堂で選択するとしましょう。
私が、棚に並んで肉じゃがをとろうとしているとします。そのときに「何にするの」と問われたならば、
私は即座に「肉じゃがにします」と答えるでしょう。これはアンスコムのいう実践的知識です。
さて、アンスコムは、このようなときに、「どうしてそうるの」と理由を尋ねられたら、我々は「おいしそうだから」
などと、これまた即座に答えられるといいます。これもまたアンスコムは、実践的知識だといいます。
意図的な行為の場合、「何をしているのか」と「なぜそうするのか」の問に対して、観察によらず即座に答えることができるというのです。アンスコムは、このことを、ある振る舞いが、「意図的な行為」であるかどうかを、「意図」というあいまいな概念の分析によらずに行おうとしているのです。したがって、このような実践的知識があるから、意図があるのだとか、ましてやその意図は自由な意図である、というのではありません。
 
<仮に、自由が無いことを認めるとしても、我々が「何をしているのか」や「なぜそうするのか」の問に即座に答えられることは事実です> (これには矛盾があるかもしれませんが)、とりあえず、これを認めることにしてみます。
 
つまり、行為をするときに、我々は理由をもっていることになります。
その理由は、「この肉じゃがはおいしそうだ」という単称命題(ある一つの対象についての命題)かもしれません。
「この肉じゃがはおいしそうだ」が理由になるには、「おいしそうなものを食べたい」という命題を付け加える必要があるかもしれません。そうすると、これは「私が食べたいと思うすべてのものは、おいしそうなものだ」という全称命題になるかもしれません。基準や規則は全称命題です。
理由の背後には、このようなガイドといえるような全称命題を想定できる、といえそうです。
しかし、そのような全称命題は必ず必要か、といわれると、それを意識していないときが多いのも事実です。
反省してみて、かりにそのような全称命題が見つからないときに、最初の単称命題だけでは理由にならないのか、といえば、そうではないだろうと思います。
 
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、それ以上余り考えないで、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。そして、これだけのことなら、自由が無いことと両立するでしょう。さらにいうと、理由として、全称命題となるガイドがあってもよいとおもいます(模範の場合には、単称命題になりますが、それは今は考えません)。
理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 
それならば、「かわいそうだから」とか「残酷だから」というような道徳的であると思われているような理由にしたがって、行為を決定することもまた、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 
さて、このようにして決定された行為の道徳的な責任は、どうなるでしょうか?
 
次回に考えたいとおもいます。
 
 
 

それでも「選択」しなければならない?

 
 
サラバンドという名前のバラです。2011年5月17日撮影。
 
 
もりたさん、コメントをありがとうございました。
いろいろなヒントをもらえたように思います。
 
ご指摘のように、物理主義をとっても、物理的に不決定な世界がある可能性があるので、「決定論の世界」ではなくて、「物理主義の世界」を想定して考えてみたいとおもいました。
私がここで「物理主義の世界」というのは、物理主義が正しいだけでなく、みんながそのように考えている世界のことです。(私が考えてみたいのは、みんながそのように考えるようになったときに、法や道徳が可能かどうか、もし可能であるとすると、それはどのような仕方で理解されるのか、ということだからです。)
 
その上で、もりたさんの最初の主張を考えてみたいとおもいます。
 
今日の晩御飯はカレーにするか肉じゃがにするかは仮にすでに私が何を選択するかが決定しているとしても,それでもやはり私はどちらかを「選択」しなければなりません.」
 
森田さんが、慎重に「「選択」しなければなりません」と書いているように、「物理主義の世界」では、我々が「選択」について、どのように考えることが可能になるのだろうか、ということです。
Mさんがカレーにするか肉じゃがにするかが決定されているとしましょう。しかも、Mさんは、それが決定されていると考えています。このとき、Mさんはどうするでしょうか。決定しないでいると、飢え死にすることが予期できるので、Mさんは、たしかにどちらかに決定するでしょう。(ネコのまえに、カレーと肉じゃがしかなければ、ネコは、おそらくどちらをたべるか決定するでしょう。人の決定も、ネコの決定も、どうように自由のない物理過程です。ネコと違うのは、人がそのことを知っていることです。)
問題は、この決定を、我々がどのように理解するかです。それを考える糸口になりそうなのは、森田さんの次ぎの指摘です。
 
次に、もりたさんが指摘しているのは、ガイドの問題です。
 
「そしてそうした選択をするための「ガイド」はすべての人たちが決定論を信じていてもやはり必要なのではないでしょうか?それゆえ「物理主義の世界」でもガイドとしての法は必要なのではないでしょうか?」

Mさんが、カレーにするか肉じゃがにするかの決定をするとき、選択のための、あるいは決定のためのガイドが必要でしょうか。
これを次回に考えたいとおもいます。
 
 
 
 
 

物理主義の世界に住むということ

 
 
 
 
 
4月上旬に撮った写真です。ありきたりのサクラです。ところで、サクラは、バラ科サクラ属だそうです。
ちなみに、リンゴもバラ科です。
 
検察官に私はとりあえず次のように答えるでしょう。

「カルヴァンの救霊予定説では、個人の救済は決定しているけれども、個人はそれを知らない。しかし、もし個人が善行できたならば、彼が善行することに決定していたことになり、救済されるように決定されたことになる。それゆえに、個人が善行をしようとすることに意味がある。
検察官は、同様のことを、社会のレベルで考えるのですね。
我々の社会が、幸福な社会になるかどうかは決定しているけれども、我々はそれを知らない。しかし、もし法治国家でありえたならば、我々の社会は幸福になるだろう。それゆえに、我々が法治国家を維持しようとすることには意味があるのだ。

 
わかりました。とりあえず、<もし我々が法治国家を維持しようとすることが可能ならば、それには意味がある>ということを認めるとしましょう。
 
しかし、<我々が法治国家を維持しようとすること>は果たして可能なのでしょうか。我々は「物理主義の世界」に住んでいます。つまり、我々は、意志の自由が無いことを知っており、またみんなそれを知っていることを知っています。
したがって、「我々が法治国家を維持しようと意図する」ことが可能だ、と我々が信じることはありえません。それは、我々が「物理主義の世界」に住んでいることと矛盾するからです。

物理主義の世界と法は両立するか

前回私がサクラだと思ったものは、散ってしまいました。やはりあれは梅だったようです。サクラと梅の違いの一つは、サクラの花は短い茎のようなもので、花と枝が結びついているにたしいて、梅の花は直接に枝についていることだそうです。サクランボを買ったときについている茎のようなものが、梅にはないということです。上の写真をみると、茎のようなものはないので、これは梅だったとわかりました。
 
前回の裁判の続きです。 

検察官は、次のように言うかもしれない。
「かつてカルヴァンは、救霊予定説を主張しました。それによると、人々が天国に行くかどうかは決定しています。しかし、個々人はそれを知りません。そこで、個人が天国に行くことに決定していることを欲するのならば、個人は善をおこなおうとすればよいのです。もし彼が善をおこなうならば、彼は善をおこない天国に行くことを予定されていたのです。」(注、これはこの検察官の理解する救霊予定説であり、カルヴァンがそのように主張したかどうかはわかりません。)
「これと同じことが成り立つのです。我々の行為は物理的に決定しています。したがって、あなたが法による刑罰を受けるかどうかも、決定しているのです。もしあなたが刑罰を受けないように決定されていることを欲するならば、あなたは法に反しないように行為すればよいのです。あなたが法に反する行為を行ったのならば、あなたはそのように行為し、刑罰を受けるように決定されていたのです。あなたは、詐欺という法に反する行為をしたことを認めました。つまり、法に反する行為をするように決定されていたことを認めたのです。したがって、法の定める刑罰を受けるように決定されていたことを認めるとしても、矛盾しないのではないですか?」
 
これに対して私は次のように自己弁護しよう。
「検察官の最後の発言こそ問題であり、私はそれを認めることができません。私は、もし法に従うならば、私の行為が違法であることを認めます。しかし私はそもそも法が存在すること、法が正当性をもつことを認めないのです。我々の社会は、「物理主義の世界」です。したがって、すべてが物理的に決定されていることをみんな認めています。私もそのように信じています。物理主義の世界に、法はありえない、と私は主張しているのです。それゆえに、法によって私を裁くことはできないと主張しているのです。なぜなら、刑法は、人間が自由に行為することを前提しているからです」
 
これに対して検察官は次のように応えるだろう。
「私は検察官であって、刑法と刑事訴訟法をみとめて、私の仕事を行います。刑法の正当性をここで論証することは、私の義務ではないのですが、あなたには特別に私の理解を説明しましょう。我々人類が、物理主義の正しさを受け入れるようになったのは、私がまだ若いころでした。我々の社会は、法の正当化に関して激しく論争しました。その結果、我々の社会は、次のような考えを受け入れることにしたのです。
<我々の社会が法を受け入れるどうかは、決定している。しかし、もし法を受け入れないとすると、我々の社会は無法社会になる。そのような社会では、法のある社会におけるよりも、人々は不幸であろう。したがって、我々の社会は法を受け入れよう。確かに我々の社会が法を受け入れられるかどうかは、すでに決定している。しかし、どちらに決定しているかは誰にもわからない。それならば、我々は法治社会が維持されるように決定されていると想定して、そのように行為しよう。そして法治社会が維持されている限りで、それが決定されていたことになるのだ。>
私の理解では、私たちの社会の法は、人間の意思の自由を前提していません。したがって、物理主義の世界と法は両立するのです。」
 
さて、この検察官に、私はどう反論したらよいだろうか。
 
 

 

物理主義の世界に道徳や法は成立するのか?

3月4日の暖かい朝でした。これは梅ではなくて、桜だとおもうのです。
こんなに早く咲く桜があるものでしょうか?ご存知の方がいたら、教えてください。
 
ここでは次のように仮定して議論したい。
<心はすべて脳の物理現象に還元される。つまり厳密にいうならば心は存在しない。意志の自由というものも存在しない。我々は、心について語ることができるが、それは「太陽が昇る」と語ることを我々が許しているのと同様の意味で許されるからである。>
 
<このような物理主義的世界観を人類のほとんどの人々が信じており、そのことが共有されている世界>を、以下では、「物理主義の世界」と呼ぶことにしたい。
 
ここで考えたいのは次ぎの問である。
問「物理主義の世界では、道徳や法は成立するだろうか?」
 

私が物理主義の世界の住人であるとしよう。私Aが、Bさんに次のように言うとしよう。
A「駅まで車に乗せてくれたら、千円払います」
B「了解しました」
Bさんは、わたしを駅まで運んでくれたとしよう。
B「それでは千円ください」
A「私は、千円持っていないのです」
B「私をだましたのですか?」
A「そのとおりです」
B「うそをつくのはよくないことです」
A「なぜですか?」
B「うそをついてはいけない、というのが、我々の社会のルールなのです」
A「それは知っています。しかし私は悪くありません」
 
Bさんが警官を呼んで、警官が私を捕まえ、裁判になったとしよう。私は次のように自己弁護する。
A「私はうそをついたことをみとめます。しかし私を刑法で罰することはできません。なぜなら、私には自由がないからです。」
 
物理主義の世界にも裁判制度があり検察官がいるとすると、検察官は私に何というだろうか?
 
(このような状況設定自体に矛盾がある可能性がありますが、その場合には、それを明らかにすることができれば、幸いです)
 
 
 
 
 

 

 
 
 

21世紀に人類に迫りくる哲学的問題

 
2011年2月14日に大阪に降った雪です。
 
仰々しいタイトルをつけましたが、深刻な問題だと思っていることがあります。それは、脳科学の進歩によって、人間の脳の研究がすすみ、心の働きが解明されつつあることです。哲学では1970年代から、心と脳の関係の研究が進んできました。現在殆どの研究者は心と脳の二元論をとらずに、脳の一元論をとります。しかし、心を完全に消去する(消去主義)のではなく、一元論をみとめながらも、心が脳内の過程や状態にsupervene(付随)すると考える付随現象説、非法則的一元論(デイヴィドソン)をとるひともいます。まだ理論的には決着が付いていません。
 
しかし、消去主義が正しい可能性はあります。それどころか、一般の人々は、通常の生活では、心と脳の二元論を採用して生活しながらも、他方では、心は脳内の過程や状態に他ならず、いずれ完全に物理現象として説明されるだろうと思っているのではないでしょうか。少なくとも、物理主義の主張を聞いて驚く人は、いないのではないでしょうか。
 
他方で、コンピュータのハードの面での進歩はすさまじいものです。大脳には300億個のシナプスあるが、孫正義さんの予想によると、コンピュータの1チップの中のスイッチの数は、2018年に300億個を超えるそうです。これまでの30年で1000万倍になったので、ムーアの法則がこれからも当てはまるとすると、100年後には1兆の一億倍になるそうです。このとおりに進歩しないとしても、今世紀中には、コンピュータの1チップのスイッチの数は、人間の脳のシナプスの数の数万倍のものになることでしょう。スピルバーグの映画「AI」のような世界がやってきそうです。このとき、我々がコンピュータと人間を区別し続けることは不可能になるのではないでしょうか。
 
21世紀の脳科学とコンピュータ科学の進歩は、物理主義の受容を我々に迫ってくるように思います。
 
我々が、それを悪夢だと感じるのは、それが我々の自由を否定し、善悪や道徳や責任の概念を無効にするように思われるからです。
我々に可能な選択肢は、次ぎの3つだろうと思います。
(1)物理主義を批判すること
(2)物理主義と両立するような仕方で、自由や道徳を正当化すること
(3)物理主義を受け入れて、道徳について考えること
 
(1)(2)については、多くの議論が行われています。(私は物理主義ではなくて、反実在論的二元論なるものの可能性を追究したいとおもっていますが、まだそれに確信があるわけではありません。)
この書庫では(3)を考えてみたいとおもいます。つまり、もし心の自由が幻想であるとして、そのとき道徳はどのようなものになるのかを考えてみたいとおもいますこれを考えるのは、心の消去主義を恐怖して考えないようにするのではなくて、もしそれが真であるとした場合に、我々がどのような世界を受け入れざるを得ないのかを、見定めたいとおもうからです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

02 安全保障機能の遷移

きりたんぽの続編です。
 
 前回次のように書きました。
「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また対話不可能な国内で人権侵害をする国家はありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。」
 
 おそらくガンジーのような徹底的な平和主義者は、「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる」を認めないだろう。ガンジーのような人ならば、たとえ侵略されても、非暴力、無抵抗の態度をとるだろう。しかし彼は他の人にもそれを勧めるのだろうか?彼はそれが正しいことを論証できるのだろうか?おそらく、それは難しいだろう。
 もちろん、我々はガンジーのような人を尊敬するかもしれない。したがって、ガンジーのような国家があれば、その国家は尊敬されるかもしれない。しかし、国家についてもそのようにあるべきことを論証することは難しいだろう。そのような絶対的平和主義は、個人や共同体の決定にゆだねられるべき善構想であって、それを正義として論証することは難しいように思われる。
 
一般的にいって、社会制度や社会運動は、何らかの社会問題を解決するためのものであり、そのようなものとしてのみ正当化される(入江幸男「社会問題とコミュニケーション」(入江・霜田編『コミュニケーション理論の射程』ナカニシヤ出版、所収))を参照してもらえるとうれしいです)。国家制度を正当化する社会問題のなかでも、中心的なものの一つが、いかにして安全を確保するかという問題であった。自然状態では、つねに他者から攻撃される可能性があるので、平和な生活を確保するために、自由に活動する権利の制限を受け入れるとともに、お互いの権利を承認しあって、集団を作って互いの権利と安全を確保しようとする。この集団は、安全保障他のための集団である。このような機能を持つ集団として、家族や村を考えることもできるが、それだけでは不十分なことから、国家が作られたのである。少なくともそのように考えられて、国家制度は正当化されてきた。
この安全保障の機能は、とりわけ近代以後、家族、村、都市などから、国家への集中を強めてきた。(我々は様々な社会問題の解決を国家に集中させすぎたのかもしれない。システムによる「生活世界の植民地化」(ハーバマス)も起こってきた。)ただし、国家間の戦争の経験を経て、現代では諸国家が互いの安全保障のための集団(集団的安全保障)を形成しつつあり、安全保障の機能は国家からNATOやEUや国連などへ移りつつある。かつて国家への安全保障機能の集中によって、国家内部での平和がより確実なものになったように、世界全体での平和の実現のためには、安全保障機能を世界全体へ集中させることが、望ましいようにおもわれる。
 
A国がB国を侵略したときに、B国の国民にとって、それは国家として取り組まなければ解決できない問題であるだろう。外国の軍隊の侵略行為から国民を守るために、軍隊を準備しておいて軍隊で戦うことは、人々が国家を作った時の目的の一つに含まれているだろう。ただし現代では、このような問題は、B国だけで解決できる問題ではない。安全保障は、グローバルに取り組む必要のある問題になっている。その理由は、経済活動がグローバルに展開しており、そのために利害関係もグローバルに広がっていることにある。