02 定義のつづき

白樺湖のつづきと哲学の定義のつづきです。

■哲学の定義5:哲学とは、社会が直面している最も重要な問題が何であるかを明示し、それに答えることである。
 このような哲学の代表は、ヘーゲルとマルクスである。ヘーゲルは啓蒙主義、悟性主義にその時代の問題をみて、それを歴史主義によって乗り越えようとした。マルクスは、資本主義にその時代の問題を見て、共産主義によって乗り越えようとした。
 これとよく似た定義として、次のものがある。

■哲学の定義6:哲学とは、人にとっての最も重要な問題「人生の意味とは何か」に答えることである。

この定義5と6に対する批判は次のようになる。
 社会問題と人生問題は、我々によって構成される。社会問題に限らず、全ての問題は、我々によって構成されるのである。<事実>は、我々の認識から独立に、実在するのではない。<問題>もまた我々の認識から独立に存在するのではない。事実と意図の矛盾から問題が生じるが、事実認識も、意図も、問に対する答えとして構築される。勿論、問と答えが構築されるとしても、その構築は個人が恣意的におこなえることではない。
 哲学が、通常問題をより深くより広く問うことであるとすれば、これらの問に関して、哲学は、「社会問題や人生問題は、どのように構成されるのか」を問うことになる。確かに定義5と6に示される課題は、哲学の重要課題である、あるいは最重要課題であるかもしれない。なぜなら、より深い問題やより広い問題のほうが、より重要であるとは限らないからである。しかし、それらの課題は、哲学の全てではない。
 そこで、私は定義3を採用することにする。

01 定義の試み

   9月初旬の白樺湖です。27年ぶりに訪れました。
曇りがちの天気でしたが、気持ちの良い朝でした。

哲学の定義を以下に試みてみました。
ご批判をお願いします。

■哲学の定義1:哲学とは、全ての知識の体系ないし、そのような体系の基礎となるそのような体系の基礎的な部分体系(あるいは、このような体系を追究すること)
ギリシア以来の多くの哲学者は、このような哲学体系が可能だと考えており、それを実現しないまでも、求めてきた。おそらくその最後の試みになるが、ドイツ観念論であろう。彼らは、知識が体系となること、哲学がその体系の基礎となる体系であることを主張していた。
しかし、もし知の基礎付けが不可能であれば、このような試みは、不可能な試み、あるいは不合理な試みである。ところで、現代では知の基礎付けは不可能であると考える哲学者がおおい。したがって、このような哲学の定義は、きわめて評判が悪い。
では、「知の基礎付けが可能であるか不可能であるか」について、最終的な決着はついているのだろうか。私は、まだ決着がついていないとおもう。なぜなら、知の基礎付けが不可能になるとしたら、どのような知も採用しない懐疑主義をとるか、ある知を採用するがしかしその可謬性をみとめるという可謬主義かのいずれかになるだろう。そして、この両者に対しては、<それらは、自己自身の主張に適用されるときに自己矛盾するので、自己論駁的である>という批判があるからである。この批判には、反論もあり、最終的な決着はまだついていないのではないかと思う。
もし、「知の基礎付けは、可能か不可能か」という問題に、最終的な決着がついていないとすれば、この問題に決着を付けようとする試みとして、哲学を定義することもできるだろう。

■哲学の定義2:哲学とは「知の基礎付けは、可能か不可能か」という問に答えようとする試みである。

これは、哲学の最も重要な課題であるが、それ以外にも哲学の課題があるとすれば、哲学は、より包括的に次のように定義することが出来るだろう。

■哲学の定義3:哲学とは、問題を立て、その答えを探求することである。哲学とは、最も基礎となる知であろうとそれ以外の知であろうと、(基礎付けが可能であることが確認されない限り)、知や理論のことではない。
この定義において、探求の対象となる「問題」は何でもよいはずはない。それは、主としていわゆる「哲学的問題」である。しかし、哲学の定義の中で、「哲学的」の語の使用を前提すると、循環説明になる。したがって、哲学が探求する問題が、どのような問題であるのかを、定義する必要がある。
日常生活や諸科学の研究において立てられている問題を、今仮に「通常問題」と呼ぶことにしよう。そうすると、「哲学とは、通常問題が前提している命題の根拠を問うこと、または通常問題をより一般化して問うことである」といえるのではないだろうか。日常的な表現をすれば、「哲学とは、様々な事柄について、通常よりも「より深く」「より広く」考えることである」となる。通常問題を、より深く、より広く、考えようとすると、それはいわゆる「哲学的問題」に行き着くのである。

■哲学の定義4:哲学の課題は、哲学的な問題が擬似問題であることを示すことである。
定義3に対しては、ウィトゲンシュタインならば反対して、このように言うだろう。彼は哲学的な問題が擬似問題であり、それを解消することが哲学の課題であると考える。「言葉の使用について明確な展望を持たない」(『探求』§122)から、誤って哲学的問題が生じるのである。哲学は、理論ではなくて、言語批判の活動なのである。「哲学における君の目的は何か。――ハエにハエとり壷から脱出する道を示してやることである。」(『探求』§309)(クリプキもまた、理論というものは常に間違っていると考えていたので、彼にとっても哲学の仕事は、理論を提示することではなくて、言語批判の活動なのだろう。)
では、ウィトゲンシュタインがいう「哲学的問題」とは何だろうか。『論考』では、哲学的問題とは、科学的命題ではない形而上学的命題に関わる問題である。『探求』では、科学的命題と形而上学的命題の区別が無効になるので、哲学的問題についての別の説明が考えられているだろう。
ウィトゲンシュタインが、哲学的問題は擬似問題であるという理由は何なのか?例を挙げて説明しよう。我々の言語の正しい用法は、すべて日常的な使用法である。しかし、日常的な使用法で語られた通常問題の前提について、日常では問わないような問いを問うとき、その問の言語使用は、通常の言語使用にはないような使用になる。たとえば、知の根拠を遡ると根拠付けられていない信念にたどり着くが、その信念については、通常の意味で「真」「偽」を語ることが出来ない、とウィトゲンシュタインはいう(『確実性について』)。それにもかかわらず、どこまでも「真」「偽」を尋ねようとするとき、そこに擬似問題が生じるのであろう。
これに対して、オックスフォード日常言語学派といわれるオースティンやライルは、日常言語の分析が哲学的な問題の解決に役立つと考えていた。「哲学的問題は、有意味な問題であるか、擬似問題であるか」という問題には、決着がついていない。そして、この問題もまた哲学的問題のひとつである。
この問いを、さらに普遍化して言い換えると次のようになる。「ある問をより深くより広く問うとは、どういうことであり、それが可能であるための条件は何か?」
ウィトゲンシュタインが言うように、確かに哲学的問題の中には、擬似問題でしかないものもあるだろう。しかし、全ての哲学的問題が擬似問題であるとはいえないのではないか、少なくともこれは探求されるべき哲学的問題のひとつである。
したがって、私は、定義4を採用せず、定義3を採用しよう。

ご批判をお願いします。

ギリシャ人のように哲学せり

信州、茅野市にある、鈴木照雄先生の墓碑銘です。
先生の墓石の右隣にある石版の写真です。

「ギリシア人のように哲学せり」

と書いてあります。
9月4日にお墓参りをしてきました。まだ晩暑の厳しい時期でしたが、
茅野は幾分涼しく感じられました。

私は、墓碑銘になんと書いてもらいましょうか。

22 見解Aと見解B

  映画「漢江の怪物」の舞台になった漢江です。
ソウルを東西に貫いています。

この書庫では、幼児の対象への注意は、<幼児が大人と一緒に対象を共同注意することを学習して、その後に、一人で対象を注意するようになる>という仕方で成立することを証明したかったのです。これを見解Aとします。
これと異なる見解は、例えば、<幼児が対象へ注意するのは、大人がある対象に注意しているのを見て、それを模倣することによって、自分もその対象を注意するようになる>という見解です。これを見解Bとします。

見解Bでは、「共同注意」とは、<大人が注意を向けている対象に自分も注意を向ける>ということです。ここでは、一人での注意が可能になったあとに、共同注意が可能になります。
これに対して、見解Aでは、大人と一緒に行う共同注意が成立したあとに、一人での注意が成立するようになります。

問題1「これを経験的な知見によって検証するには、何を確認することが出来ればよいでしょうか?」

問題2「この見解の相違は、指さしによる指示、ないし言葉による指示の成立の説明に関して、どのような相違を生むのでしょうか?」

問題提起だけでまたしばらく休みます。
フィヒテについての論文を仕上げるために、しばらく山にこもります。
この問題についても、考えて見ます。

残暑厳しいですが、皆さまお元気でお過ごしください。

暑中お見舞い

ソウルのマンション群です。
7月末から8月初めにかけて、ソウルでのWCP(世界哲学会議)に参加してきました。
日本から135?人くらいの参加者があったそうで、多くの方にお会いしました。
予期していなかった人にも沢山出会えて、楽しく充実した時間を過ごす事ができました。
ただ、暑かったですね。日本に帰っても、同じく暑いので、少し参ります。

これからお盆で、四国に帰省します。
またしばらく、やすみますが、
皆様お元気で、暑い夏をお過ごし下さい。

言い訳

すみません、このところ忙しくて、書き込みできません。
勉強が進んでいない事もあります。
明日から出張しますので、またしばらく書き込みできません。
7月に入ってから、書き込みます。

悪意の転換の勧め

 憂鬱なときには、スカッとした写真を。 

社会に対する悪意による殺人事件が秋葉原で起きました。
不幸な目にあったときには、人はその原因を求めようとします。例えば、癌になったときには、何で私が癌にならなければならないのか、と問わずにはおれないでしょう。通常の病気の時には、普通は、その原因を社会に求めることは困難です。しかし、多くの不幸は、その原因を社会に求めることが出来ます。その原因が自分にあっても、家族にあっても、学校にあっても、会社にあっても、それらが現代の社会にあることが原因になっていると考えられることが多いからです。
この犯人と同じように考えて社会に対して悪意を持っている人がいるかもしれません。その人には、社会のどこに問題があるのか、その問題を見つけて、問題を告発し、問題の解決を呼びかけてほしいとおもいます。私は、社会に対して悪意を持ってはいませんが、社会に不満を持っています。その問題を見つけて、その問題を告発し、解決に向けて努力したいと思っています。この社会に不満を持っている人々は沢山います。その人たちには、問題のありかを考えて、それを社会に訴えてほしいと思います。

21 アイコンタクトの登場

写真は、5月の広島大学でした。

アダムソンは、『乳児のコミュニケーション発達』の第五章「対人的関わり」で、彼が「第二期:対人的関わり(interpersonal engagement)の時期」(生後2ヶ月頃~生後5~6ヶ月頃)とよぶ時期について詳しく報告しています。
この時期の発達上の特徴は、アイコンタクト、社会的微笑、クーイングのようです。
・アイコンタクト:「乳児はパートナーの目をしっかり見ることが出来るようになり、非言語的コミュニケーションを組織化するのにもっとも有効な相互の見つめ合いの瞬間を持つことが可能になる」114
社会的微笑:新生児の内発的微笑は、二ヶ月ごろに外発的な社会的微笑になる。
クーイング:発生のレパートリーが非常に多くなる。116

他に興味深い指摘としては、以下のような指摘がありました。
・二ヶ月ごろ、赤ちゃんの覚醒敏活活動期は、覚醒時間のほぼ80%を占めるようになる。
・乳児は一度に二つことができるようになる。たとえば、乳児はリズミカルに腕を振りながら、他者に微笑することが出来るようになる。
・単に応答するだけでなく、自分から動作を開始するようになる。
おそらく、これらのことがもっと深いレベルでの変化なのでしょう。

20 知覚的単一体?

このテーブルは、我々に何をアフォードしているのでしょうか?
バーベキュー?

久しぶりの発言なのに、勉強が進んでいなくて、すみません。

アダムソンが、乳児の発達の第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期について書いた『乳児のコミュニケーション発達』の第四章「注意深さの共有」を読んで見ましたが、正直なところ素人の私には、「注意深さ」というのがどのようなもので、それが「共有」されているということがどのような実験や観察から確認できるのか、よくわかりませんでした。
共有していることを確認できるためには、赤ちゃんとのより高次なコミュニケーションが可能になっていることが必要であり、仮に、この段階の幼児との「注意深さの共有」があったとしても、それが親や観察者の主観的な思い入れ以上のものであることを、確認するすべがないのかもしれません。

乳幼児の「世界は知覚的単一体(perceptual unity)の一つである。・・・この単一体は非常に深遠で非様相的特性のみを有するに過ぎないようにおもわれる」(邦訳,p.94)という指摘が、非常に深遠そうで、面白そうに思いました。乳幼児の場合には、視覚や聴覚や触覚などの感覚の様相が区別されておらず渾然一体となっており、世界は「知覚的単一体」を構成しているということでしょうか。アダムソンもいうように、乳児がどのように世界を知覚しているのかは、大人には想像することが大変難しそうです。

19 アダムソンより

イエナ大学で見つけたトルストイの記念プレートです。
1861年に、単に旅行で訪れたのか、講演でもしたのでしょうか。

乳児のコミュニケーションの発達について、ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店)では、次のようにまとめられています。

■初期コミュニケーションの発達指標(同書、p. 21)
開眼 0ヶ月
相手の目を見る     2ヶ月
社会的微笑       2ヶ月
クーイング       2ヶ月
声をたてて笑う     4ヶ月
かなきり声、震舌音、うなり声、叫び声、 4ヶ月
規準的な南語(「バババ」など)     7ヶ月
1語の理解       9ヶ月
10語の理解      10.5ヶ月
複雑な喃語       11ヶ月
指さし、        12ヶ月
50語の理解      13ヶ月
初語          13ヶ月(9~16ヶ月)
10語の発語      15ヶ月(13~19ヶ月)
50語の発話      20ヶ月(14~24ヶ月)
二語文         21ヶ月(18~24ヶ月)

■初期コミュニケーション発達の4段階 (同書、p. 41~)
第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期
(誕生時(おそらくそれ以前に)~満期産児で2ヶ月頃)

第二期:対人的関わり(interpersonal engagement)の時期
(生後2ヶ月頃~生後5~6ヶ月頃)
「乳児と養育者の注意が、彼ら自身相互に、また両者を結ぶコミュニケーション・チャンネルに、そして両者間に流れる親密なメッセージにも焦点化できる」「コミュニケーションの主たるトピックは、乳児とそのパートナーによる注意と情動の表現の共有という対人的なものである。この時期は社会的微笑と視線の接触(eye-to-eye contact)が特徴的である。」p. 42
この時期は、乳児が注意を周囲の対象物に移し始めることによって終わる。

第三期:対象物への共同関与(joint object involvement)の時期
(生後6ヶ月頃~2年目の中頃まで、しかし終結時期ははっきりしない。)
「乳児は対象物について他者とコミュニケーションし始める。」「参加者は対象物への注意を共有でき(指示と呼ばれる機能)、対象物を扱うときには互いに援助を求めることができる(要請と呼ばれる機能)。さらに、乳児とそのパートナーが対象物についてコミュニケーションするときには、コミュニケーションに常に付随している文化的背景が対象物の扱い方に明確に現われる。」p. 43
この時期は、共有される対象がコミュニケーション場面に直結するものから次第に距離をとり始めることによって、終結する。

第四期:象徴的なコミュニケーションの出現(emergency of symbolic communication)の時期
(一般的には生後13ヶ月頃~ )
「発達のこの時期に、よちよち歩きの幼児とその親とのコミュニケーションは、文化的なレパートリーに基づく交流方法が繰り返され拡張されるにつれて、慣例化し儀式化されるようになる。とくに顕著なことは、メッセージを伝達することばやその他の社会的に共有される手段が焦点になることである。こうした最初のことばは、しばしば人が行なっている活動と重なり、文字どおり手元にある対象物への言及であることが多い。」pp. 43-44

この四つの時期を詳しく見れば、共同注意が個人の注意に先立ち、指示が共同指示先立つことがいえるだろうと思います。これは、アダムソンが引用していたヴィゴツキーの次の言葉と同じことです。
「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。1978、p.57」(同書p.38からの孫引き)
しかし、私には、このヴィゴツキーの言葉に加えて言いたいことがあるのです。ある発話行為が、個人的レヴェルで行なえるようになったときに、社会的レベルから独立して、それなしに可能になっているのではなく、それを可能にしている機能が社会的レベルで働いているのです。その社会的なレヴェルの基底的な機能は、2回出現するのではなくて、1回しか出現しないのです。

これは、いまのところ予想です。これを証明したいと思います。ぼち。ぼち。