ご冥福をお祈りします

2008年5月9日、鈴木照雄先生がお亡くなりになりました。先生は、『ギリシや思想論攷』(二玄社、1982年)において、エレア派、ヘラクレイトス、プラトン、マルクス・アウレリウス、ギリシャ抒情詩を論じ、『パルメニデス哲学研究』(東海大学出版会、1999年)については「言葉通り心血を注いだ」と言っておられるように、私は専門外ですがおそらくその質量において、前人未踏のお仕事をされたと思います。そして、2006年にはマルクス・アウレリウス『自省録』の新訳を講談社学術文庫から出版されたばかりです。どれも学者としての知的誠実性にあふれ、永く学会に寄与するものであり、マルクス・アウレリウスの翻訳は、一般の人にもこれから永く読まれるであろう作品です。
私が最初にお会いしたのは大学3年生のときで、それから5,6年間、ギリシア語でアリストテレス『形而上学』を読んでいただきました。初めの印象は、指揮者のカール・ベーメにそっくりだ、というものでしたが、それ以来すでに35年ほどたってしまい、今では私の年齢が、私がお会いしたころの先生の年齢とほぼ同じになってしまいました。先生は、1918年生まれ、享年89か90になられるはずです。私は、そんなに長生きできないと思いますので、「君、急がなくちゃ」という最後にいただいた葉書の言葉が別の意味で身にしみます。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。

哲学の楽しさは、問の重要さにある

連休中に訪れた善光寺です。
連休中、体調を崩していたので、研究の方は思ったほど成果が上がりませんでした。

昨夜のある集まりで、「人々は哲学を求めている、哲学研究者はそれにうまく応えられていない」ということが話題になりました。では、どうするか、です。
哲学の楽しさは、やはり哲学の問題の重要さにあるとおもます。それは人々が哲学に求めている事柄と一致するのではないでしょうか。哲学の問題を明確に示し、それについてのとりあえずの答えを明確に示す、ということが人々の求めに応えることなのではないでしょうか。

以前に書いたことですが、哲学の問題は、最終的には次の二つに行きつくのではないでしょうか。
「何が存在するのか」
「何のために生きるのか」

「何が存在するのか」
この問への答えとして、観念論、唯物論、二元論、などが考えられます。現在、この問題は、とりわけ「心の哲学」の問題として、つまり、心的なものをどのように考えるのか、という問題として議論されています。曖昧な言い方になりますが、科学的な世界観(=唯物論)を多くの人が認めていると思うのですが、そのような世界の中に、心をどのように位置づけるか、ということが問題になっているように思います。クオリアの問題のように、科学では原理的に解けない哲学的な問題があるという主張もありますが、心の哲学の研究は、脳研究の進歩や人工知能研究の進歩を考慮しながら進めてゆく必要があります。存在論に関しては、一般の人々はすでに、基本的には、科学的な世界観で満足していて、これに関する哲学的な議論に関心をもてなくなっているのかもしれません。
「科学とは何か」を考える科学哲学の分野でも、重要な哲学的な議論が沢山あるのですが、それは「知とは何か」という認識論の問題、「知識の哲学」に関係しています。そして、これはさらに「言葉が意味を持つとはどういうことか」「何かを指示するとはどういうことか」などの問題を扱う「言語の哲学」に関係します。

「何のために生きるのか」
この問いに答えることは、一般の人々にとっても非常に重要です。そして、これについては、科学は答えを用意していません。今のところ答えを用意しているのは、宗教だけです。しかし、キリスト教や仏教などの伝統のある社会的に認知された宗教であっても、その根拠は、街角のいんちき占い師と同様です。「阿弥陀さまがどこかで我々の往生を願ってくれている」とか「ある男の子が神様と若い女性の間の子供である」とかの話を、多くの人が本当に信じているとは到底思えません。彼らが信じているフリができるのは、他の人々が信じているフリをしているからです。多くの人は、宗教の答えには満足していないはずです。
この答えを探すことが哲学の重要な仕事になるはずです。哲学には永い歴史がありますが、無宗教の立場で、この問にとりくむことは、哲学の新しい課題です。もし哲学が、この問に答えられないとすれば、何故答えられないのかを、明らかにする必要があるでしょう。
「何をなすべきか」という道徳の問は、二義的だと思います。まず「私は何のために生きるのか」とか「人類は何のために生きるのか」などの問に答えることが一義的な事柄でしょう。

18 山にこもります

実は、山にこもっていました。
今日は、演習のために、大阪に戻ってきましたが、明日からまた信州の山の中で考えます。
次回のupは連休明けになります。

前回からまた時間が経ってしまいました。
このところ、必要があって、別のことを考えていたので、この話題の勉強が進んでいません。

トマセロが「共同注意場面」と呼ぶもの、そしてその二つの特徴として述べていることは、私が「共有知」という言葉で呼びたいものを考えるときに、非常に重要になるとおもいます。このとき、私は大人の共同注意場面を考えています。もし、言葉を使用しはめるころの、幼児と大人の共同注意場面というものを考えるときには、我々は、言語の理解を前提しないように、注意しなければなりません。トマセロは、「言葉そのものを習得するためには、共同注意の活動が必要となる」128と述べています。したがって、共同注意場面も、言語習得に先立って成立しているものとして考えられているはずです。
そうすると、共同注意場面の二つの特徴についても、我々はもう少し、慎重に考える必要があります。この二つの特徴を考えたいのですが、うまい取っ掛かりが見つからないので、少し回り道ですが、こどもの言葉の習得過程について、ラフに概観しておきたいとおもいます。

哲学が嫌われる理由

ドレスデンのFrauen Kirche 聖母教会です。
3年前には、まだ修復が完了していませんでしたが、今回は中に入ることが出来ました。
この教会は、聖母教会なのですが、ルター派の教会です。宗教改革の後、ルター派が古い教会をのっとったのですね。日本の神社にもよくあることです。

これは最近、Hさんに教えられたことです。
普通の人々から哲学が嫌われるのは、「哲学が、知の基礎付けがないとか、善悪の判断には根拠が無いとか言って、人々を不安にさせる」と言うことにあるということでした。

おそらくそのとおりでしょう。人々は、さまざまな常識を信じて生活しています。哲学は、その常識に疑いを向けるのだから、人々は彼らの生活の前提を疑われる、あるいは否定されるかのように感じるのです。生活してゆくためには、「常識の検討」を括弧に入れなければなりません。

哲学好きの人間は、「常識の検討」が好きなのですが、しかし彼が日常生活も適当に行なっているとすれば「常識の検討」を括弧に入れるのが、上手なのか、あるいはそれに慣れてしまっているのでしょう。

そのような括弧入れになれていない人間が、「常識の検討」に取り組んだときの方が、すごい哲学できるかもしれません。括弧入れになれてしまった人間は、真剣に「常識の検討」を行なっていないのかもしれません。しかし、真剣に行なえば、哲学者=奇人・変人になってしまう虞もあります。

 「常識の検討」は哲学の魅力でもありますが、嫌われる原因でもあって、この二つはおなじことなのかもしれません。あるとき、ある人には、それが魅力となり、また別のとき別の人には、敬遠のもとになる、ということのようです。

17 共同注意場面

これもまたドレスデンの桜です。しかし葉が赤いのです。
これは不思議な桜でした。

トマセロのシミュレーション理論の批判をしてきましたが、トマセロの議論を軽視しているのではありません。
もう少しトマセロの議論を追ってみたいと思います。彼は『心とことばの起源を探る』(勁草書房)の「第4章 言語的コミュニケーションと記号的表示」で、「共同注意場面」(joint attentional scene)という非常に興味深い概念を提案します。

トマセロは、子供が言語を習得するには、大人の伝達意図を理解する必要があると考えて、「伝達意図の理解は伝達意図の社会的認知の基盤となるような、何らかの共同注意の場面でのみ可能である。」130といいます。

トマセロは、ここで共同注意に関するこれまでの用語と区別して、「共同注意場面」という新しい用語を導入します。それは、二つの特徴を強調するためです。その一つは、以下の通りです。

「第一に共同注意場面に何が含まれるかということである。共同注意場面とは、一方では、知覚される出来事とおなじではなく、子供に近くされる世界の中の一部のものだけを含む。他方で、共同注意場面は、言語的出来事と同じではなく、言語記号が明示的に示す以上の物を含む。共同注意場面は、したがって、より大きな知覚的世界とより小さな言語的世界の一種の中間、つまり社会的に共有されている現実の、重要な中間的拠点を占めている。」132

「私が強調したい第二の本質的な特徴は、子供は他者とのやり取りにおける自分と自分の役割を、相手や物に対するのと何ら変わらない表示形態の一部として「外側」の視点から概念化し、共同注意場面に含まれる不可欠な要素として理解しているという事実である。」132

第一の特徴を、彼は、次のような例で説明しています。例えば、子供がおもちゃで遊んでいるところに、大人がやってきて、子供と一緒にそのおもちゃで遊ぶとしよう。このとき、そのおもちゃやそれで遊ぶ活動、また、子供自身と大人が、共同注意場面に含まれている。子供が床やソファーをみていても、それは共同注意場面の一部にはなっていない。「大切なのは、共同注意場面は、意図によって決定されるということである。つまり、共同注意場面は、子供と大人が自分たちの携わっているある目標をもった活動として、「わたしたちがしていること」が何だと思っているかによって共同注意場面となり、一貫性をもつ。」132-133

第二の特徴については、彼は次のように説明しています。
「第二の重要な事実は、子供の観点から見て、共同注意場面が、共同注意の対象となる物、大人、そして子ども自身という三つの関係要素を同じ概念平面上に含んでいるということだ。」134
「大人が外界の物に注意を向ける様子を子供がモニターするようになると、その外界の物が子供自身であることがわがる場合もある。子度は、大人が自分に注意を向けるのをモニターするようになると、それによって、自分を外側からみることになる。それだけでなく、子供は大人の役割も同じ外側の観点から把握するので、総合的に言えば、子供は自分自身を役者の一人として含む全場面を上空から眺めているようなものである。」134
これは、言語習得における「役割交替を伴う模倣」を可能にするものとして、重要視されます。

この二つの特徴について少し考えて見ましょう。

16 お待たせしました

ドレスデンの桜です。
ドレスデンから戻ってから、風邪を引いたり、新学期の授業の準備とかで、upが遅れてしまいました。
ドレスデンの研究会はとても刺激になりました。宿題もできましたが。
その後おとづれた、イエナとニュルンベルクの話も、写真と共にすこしづつ紹介します。

さて、前回つぎのようにのべました。

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。

1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)

<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。

前回は、<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>というシミュレーション理論への対案として、<赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて理解するようになる>とのべました。

同様の対案を対象への注意についても行ないたいのです。
ところで、トマセロの上述の発展段階の説明は、他者を有生の存在であると認識することと、意図をもつ存在であると認識することの区別を大変重視しています(cf. p.98)。それにもとづいて、<2-1と2-2>の段階と<3-1と3-2>の段階をはっきりと区別するのです。
この区別が重要なのはわかりますが、しかし、それはこのようにはっきりと時期的な段階の区別として設定できるのでしょうか。それに若干疑問があります。

というのは、それは、共同注意についての、他の知見と矛盾するように思われるからです。
大藪秦氏は共同注意についていくつかの分類を提案していますが、そのうちの一つは「構成形態からの分類」というもので、そこで5つの発達段階に分けています(参照、大藪秦『共同注意』川島書店)。
①前共同注意:「情動の通定的現象」「新生児模倣」(p. 23)
②対面的共同注意:生後2か月から。「乳児が他者と視線をしっかり合わせる状態」(p. 23)
③支持的共同注意:生後6か月から。「相手の視線を追跡して同じ方向を見たり、そこに存在する対象物を注目したりする」(p. 25)
④意図共有的共同注意:9か月~12か月「自分、大人、そして両者が注意を共有する第3の対象物からなる3項関係をより緊密なものにし、参照的な相互作用に関わりだす」(p. 27)
⑤シンボル共有的共同注意:「生後15か月から18か月になると、多くの子供が言語的シンボルを使用し始める」「子供-対象物-他者という共同注意構造は、子供-対象物/シンボル-他者という共同注意構造に変形される」(p. 28)

この②の対面的共同注意は、「視線が『結ばれる』体験」(p. 24)ともよばれており、ベイトソンのいう相互覚知に当たるものです。ブルーナーはこれを「2者の視線が出会う単純な共同注意」とよび、共同注意の原型的形態と見なしているそうです(p.23)。つまり、ここにすでに他者との共同注意と言う形で、自分と他者の注意の理解が曖昧な形であれ、登場しています。他者の注意の理解と他者の意図の理解を明確に分けないとすれば、トマセロの議論への反論となるでしょう。(トマセロは、この反論を回避するためには、注意の理解と意図の理解を明確に分けなければなりません。)
大藪氏の上の発達段階論から、我々は注意についても、<赤ちゃんは、他者との親交のなかで、注意深さを獲得し、互いに視線を交し合い、他者の視線を追跡し、他者が見る対象を共同で注意するようになり、やがて一人で、対象に注意するようになる>と考えることが出来るでしょう。これは他者の注意の理解を自分の注意の理解のシミュレーションで説明する理論への対案となるでしょう。

15 仕切り直し

 29日30日と東京出張でした。写真は、お茶の水女子大学の桜です。
花冷えの一日でした。

仕切り直しです。
この書庫での目標は、<我々が行なう指差しや言葉による指示は、発達心理学的には、共同注意、共同指さし、共同指示ともよべるものからの分離によって成立した>の証明です。この目標のさらに上位の目標は、<我々が行なっている指示や知は、何らかの共同指示や共同知をつねに前提している>の証明です。これはこの書庫の目標ではありませんが、ここでの議論に影響するだろうとおもいます。

そこでまず、共同注意について、勉強しながら、報告するということを始めたのですが、その過程でトマセロの本をもとに幼児の発達過程を勉強しました。それを復習すると次のようになります。

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。

1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)

トマセロは、2-1から2-2への移行と、3-1から3-2への移行が、シミュレーションになると考えていると思われます。トマセロは、さらに、この4の共同注意のスキルを3段階に分けていました。

4-1:大人の注意をチェックする(生後9~12ヶ月)
(協調行動、社会的障害物に対する反応、物の提示)
4-2:注意に追従する(生後11~14ヶ月)
(視線追従、指差し追従、指令的な指さし、社会的参照)
4-3:注意を向けさせる(生後13~15ヶ月)
(模倣学習、宣言的な指差し、指示的な言語)

シミュレーション理論を主張するには、2-1と2-2が、また、3-1と3-2が、本当に時間的な前後関係で出現するのかどうか、これが本当に実験で確認されているのかどうかを、調べる必要があります。ただし、ほとんど同時にこれらが登場していても、それによって直ちに、シミュレーション理論の批判にはならないかもしれません。

<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。

しかし、この対案を一体どのような実験によって確認したらよいのか、いまとのころ思いつきません。ちなみに、この時期の子供はまだ初語を話しません。規準喃語(なんご)(canonical babbles)といわれる、言葉のように聞こえるけれどもそうではない発声をするだけです(参考、ローレン B. アダムソン『乳児のコミュニケーション発達』大藪泰、田中みどり訳、川島書店、p.207)。ですから、意図の理解といっても、命題による理解ではありません。
(喃語については、http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D3%C7%B8%EC を参照してください。)

次に、上の対案に似た対案を、注意についても考えてみたいと思います。

しかし、残念ながら、4月2日から10日までドレスデンに出張しますので、しばらくお休みします。
ドレスデンの写真を楽しみにしてください。

14 二種類のシミュレーション?

名古屋から帰りの新幹線です。

urbeさん、ご質問ありがとうございます。

我々が明確に主張できるのは、
<4歳前の子供は、我々が理解している意味では,「自分の心」や「他者の心」を理解していない>
ということです。したがって、
「それは,大人がよく他者の意図を間違って理解するのと類似的です(誤解,思い込み,情報の不足etc.)」
というurbeさんの発言の後半部分に、私は疑問があるのです。4歳未満の子供の間違いには、大人の誤解や、思い込みとは、異質なところがあるはずです。では、その違いがどのようなものであるのかを、探求することが、とりあえずの課題です。

しかし、私は上の指摘で、シミュレーション理論を批判できているとはおもっていません。なぜなら、トマセロのシミュレーション理論は、以前にも書きましたが、もう少し曖昧というか、もう少し手ごわいもののように思うからです。

2月28日書いたことですが、このような批判に対してトマセロは、次のように反論しています。
トマセロの反論:「シミュレーションというものを、子供が心的な内容を概念化し、その心的内容が自分自身のものであると意識し続け、そしてそれを特定の状況で他者に帰属するという明示的な過程であると考えなければよいのである。」「私の仮説は単に、子供は他者が「自分に似ている」ので自分と似た形で活動するはずだと言うカテゴリー的な判断をするのだと言うことにすぎない。」(p. 101)「単に、他者の大まかな機能の仕方を自分自身とのアナロジーを通して知覚するということだけのことである。」(p. 101)

シミュレーションを、類推のような意識的な思考として理解する場合と、(うまくいえませんが)無意識的に起動する心の働きとして理解する場合がありうるだろうと思います。とりあえず私が批判したいのは、前者です。

「シミュレーション理論ならば,自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていないため,「間違った」意図を他者に帰属してしまう,と説明するでしょう.」
urbeさんが言うように、このようなシミュレーション理論による説明が正しいとしましょう。たしかに、この時期の子供は「自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていない」のです。しかも、この時期の子供は、たまたま間違うのではなくてつねに首尾一貫して、ある種の判断において間違うのです。
しかし、この時期の子供の判断の全てが間違いなのではありません。他者の心について正しく理解できることもあるのです。なぜなら、この時期の子供は大人と会話できるので、机の上のチョコレートを見て、それをチョコレートだといえるし、隣にいる大人も机の上のチョコレートがあると思っている、と正しく判断することができるのです。しかし、そのとき、それは我々がそのように判断するのとは、どこかが本質的に違うだろう、と思います。このように子供が正しく判断するときに、それを我々大人が行なうような仕方で正しく判断しているのではありません。おそらく、この時期の子供は、我々大人が行なうとのとは違った仕方で、正しく判断しているのであって、<正しく判断してはいないのだが、結果として常に正しい判断と一致している>というのではないと思います。このとき、子供が例えば、「隣の大人のyさんも、机の上にチョコレートがあることを知っている」といったとしても、その文は、おそらく我々が理解する意味とはことなる意味で用いられているだろう、というのが私の予測です。

取り留めのない、コメントになってしまいましたが、次回から仕切り直してはじめましょう。

13 批判と予想される反論

  名古屋の夜景です。研究会の写真はプライバシーがあって載せられないので、こんなしゃしんになってしまいます。
3月15日?の記事は、この書庫にupすべきものでした。間違えて「世にも奇妙な共有知」の書庫に載せてしまいました。お詫びしますが、訂正しません。なぜなら、コメントがついているので、コメントまで移動させられないからです。

urbeさん、pretenseのご説明ありがとうございました。
シミュレーション理論に対する批判の一つは、次の通りです。

<誤信念問題を解けない子供は、自分の心と他人の心を区別できません。つまり、誤信念問題を解ける我々が理解している意味では、「自分の心」や「他者の心」を理解していません。したがって、子供には、「自分の心」のなかの自分の意図を「他者の心」に転移する、ということが出来ないはずです。>

この批判に対して、次のような反論があるかもしれません。
<子供が意図を持つようになるとき、子供は他者の行為もまた意図的な行為であると理解します。そのときに、子供は自分の意図を意識して、それを他者の中に転移すると考えると、確かに批判を受けることになるでしょう。しかし、子供が自分の意図を意識せず、無意識的に、他者の中に意図を転移している、ということもありうるのではないでしょうか?>

このような反論に対して、どのように答えることができるか、考えてみましょう。

12 pretense?

奈良から近鉄で名古屋に向かう途中です。ローカルな景色です。
そこには別の時間が流れているように見えるのは、pretense?
名古屋出張から帰って、計画書の仕上げに追われていました。

Urbeさん、コメントありがとうございました。
(「先生」でなく、「yukioさん」でお願いします。)

「おっしゃるとおり,まさに自分の理解が他者の理解に先行します.自分の行動決定システムを使っているわけですから,もしそれがなければ,他者が次,何をするのかはまったく分からなくなるわけです.」
「しかしそのこと自体がどうしてシミュレーション理論の弱点になるのかが,いまいちうまく把握できません.」

このご説明をしたいと思いますが、その前に、教えていただけるでしょうか。

「pretense欲求」「pretense 信念」「pretense 意図」
これらはどういう意味なのでしょうか。つまり英語のpretenseの意味が解らないのです。
普通の辞書に載っている意味「みせかけ」とは、少し違うように思いますので、教えていただけるでしょうか。

「私の知っていることは他者も知っている」を「(the principle of charityの類)」と理解するというのは、非常に面白い指摘だと思います。

二つの間には確かに、深い関係があるだろうとおもいます。私は、コミュニケーションを可能にする基底の一つとして、共有知を考えています。共有知は、「私の知っていることは他者も知っている」をその一部としていますので、コミュニケーションを可能にする原理としての、principle of charity とも関係しているだろうとおもいます。もっと言うと、共有知から、principle of charity を説明できるかもしれません。