京劇は面白い。しかし京劇をつまらないという人を尊重する?

Beijin oper(北京京劇)をみました。中国各地に、似たようなものがあるらしいです北京のものとは、すこし違うのだそうです。別の町のものを見たいとおもいました。予想していた通り、日本の歌舞伎にすごく似ているのです。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを
尊重します。」

この「多文化主義の信念形式」は、自己矛盾していないのか?これが問題でした。

 前回とは別の角度からアプローチしてみましょう。
 これが矛盾していないかどうか、検討するには、「信じます」の意味を明確にする必要があります。urbeさんのコメントにあるように、英語の”believe”も日本語の「信じる」も多義的です。
 
 人がある命題を信じており、そのことを意識しているときには、その命題を信じる何らかの理由があるはずです。何の理由もないとしたら、その人は他の命題でなくその命題を信じるという決定できないはずです。
 もちろん、人がある命題pを信じているけれど、そのことに気づいていないということはありえます。そのときには、pを信じているけれども、その理由を自問しても、答えられない場合もあるかもしれません。そのときに、彼がもう一度考えてその理由を見つけられないならば、彼はその信念を放棄することになるでしょう。

 人がある命題を信じているときには、信じる理由があるのですが、その理由が、「知っている」というのに十分な場合と、不十分な場合があります。机の上にコーヒーカップがあるのを見るとき、私は、机の上にコーヒーカップがあることを知っているといえるし、また信じているともいえます。「pを信じる」には「pを知る」「pを認識する」という場合と「pを想定している」という場合があるでしょう。
 この区別は、確実性の程度の区別だろうと思います。弱い意味の「pを信じる」は、pを信じる理由はあるが、しかしそれはpが真であることを確実に保証するものではない、ということです。信じる理由が弱いときには、「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」ということになります。

 もっと詳しく言うと次のようになるでしょう。

「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」

 これは矛盾していないどころか、全うな態度だと思うのですが、いかがでしょうか。次回は、ここから何が帰結するか、を考えて見たいとおもいます。

 

多文化主義の信念形式

 山口市の瑠璃光寺の花、その2です。

 「哲学的人生論」と「人生観」の違いは、前回のべた通りです。 私は、私の個人的で主観的な「人生論」をこのBlogで語るつもりはありません。(といっても、時に感傷的になったときに、語るかもしれません)ここでは、あくまでも「哲学の立場から、人生について語れること」に限定して、議論するつもりです。その理由は、「哲学的な人生論」の可能性と限界をできるだけ明らかにしたいからです。ロックやカントが人間の認識能力の可能性と限界を明らかにしようとして、近代的な認識論をはじめたのと似た動機です。

 「哲学的人生論(2)」の書庫では、「人生観」を語るのではなく、「人生観」と「哲学的人生論」の関係、「人生論」そのものの可能性や必要性、「人生論」について哲学的に語れることがあるとすれば、それは何か、などを論じたいと思います。
 
 まず最初に取りあげたいテーマは、前回述べた問題です。つまり、人生観は、次のような形式

A「私は、一般に人生の意味は・・・・・・であると考える。しかし、他の人が別様に考えるのならば、それを尊重する。」

をとりうるのか、それとも、このような信念は自己矛盾しているのか?

 これは、より一般的に表現するとつぎのような形式の主張になります。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

このような主張は自己矛盾していないでしょうか?このBの形式の信念は、多文化主義や文化相対主義の形式でもあると思います。したがって、これが矛盾しているとするならば、多文化主義や相対主義のあり方にも影響するでしょう。そこで、このBを「多文化主義の信念形式」と呼ぶことにします。
 そこで、ここでの問題は、次のようになります。

 「多文化主義の信念形式は、自己矛盾していないのか?」

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
これが、矛盾しているかどうか、を検討しようとすると、まず「尊重します」の意味をもう少し明確にする必要があります。

「私は、他の人がpと信じないことを、尊重します。」
「私は、他の人がpと信じないことを、批判しません。」
この二つは、似ていますが、すこしニュアンスが違うように思われます。「尊重します」は、単に批判しません、というよりも、なにか積極的な倫理的な理由にもとづいて批判しません、と述べているように感じられるからです。
 このように考えると、「他者の意見を尊重します」は、次の④の意味に近いかもしれません。
  
  ①他者の意見を批判できる。
  ②他者の意見を批判できない。
  ③他者の意見を批判すべきである。
  ④他者の意見を批判すべきでない。

しかし、「批判すべきでない」と「尊重する」を全く同義と言うわけにはゆきません。なぜなら、「批判すべきである」は「尊重すべきでない」と似ていると思われるのですが、もしそうならば、「批判すべきでない」が「尊重べきである」と似ていることになります。したがって、「批判すべきでない」は、尊重する」と同義でないことになるからです。

では、最初の提案に帰って、「尊重する」はたんに「批判しない」と同義だとすればよいのでしょうか。しかし、そうも行きません。次を見てください。

  ①他者の意見を尊重できる。
  ②他者の意見を尊重できない。
  ③他者の意見を尊重すべきである。
  ④他者の意見を尊重すべきでない。

前の「批判」の場合、②と④の意味は明確に異っていましたが、ここでの「尊重」の場合、②と④は同じ意味になると思われます。つまり、「尊重する」を「批判する」の単純な反対語とすることは出来ないのです。この理由は、「尊重する」のなかに、何か特殊な倫理的な意味が含まれていることにあるのだと思われます。

(ちなみに、以上の意味のテストは、ライブニッツの「不可識別者同一の原理」ないし「代入則」の応用だといえるでしょう。)

以上から言えるのは、Bは、次のB1とB2に似ているが、しかし全く同じではない、ということです。

B 「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

B1「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判しません」

B2「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判すべきはありません」

これだけでは、「尊重する」という言葉についての語感をすこし磨いたというだけで、語の意味が明確になったとは言えないことは、よくわかっています。

 すこし、別の方向から攻めてみましょう。

C「pです。しかし私はpを信じません」

これは「ムーアのパラドクス」と呼ばれており、矛盾(?)した発話だといわれています。
私は、次の発言もおかしいと思いますが、どうでしょうか?

 「pです。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判できません」

もし私がpであると知っているのならば、私は他の人がpを信じないことを批判できるのではないでしょうか。もし他の人がpを信じないことを批判できないのならば、私はpを知っているとは言えないでしょう。言えるのは、せいぜい「私はpを信じている」ということでしょう。

  D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」

というのは、「ムーアのパラドクス」ほどおかしくはないけれど、やはり不自然な感じがします。つまり、他の人が明らかに間違った信念をもつことを尊重するということになります。これは、その他者に対してpが偽であることを指摘しないということですから、その他者に対して嘘をつくことになるのではないでしょうか。

  Cは、矛盾(?)した発話で、認め難い、といえます。
  Dは、Cよりは矛盾の程度は少ないですが、しかしやはり間違った態度だといえるでしょう。
  Bは、Dよりも更に矛盾の程度が少ないように思います。
  では、Bには、問題がないのでしょうか?

(すこし、外堀を埋めただけで、まだ、全く答えには近づいていません。)
 

エントロピー4

    今日の奈良の空です。秋の雲になってきました。

 森田さん、コメントと整理ありがとうございました。おかげで、問題がすっきりとしましたね。

> 整理すると,1.エントロピーと秩序を結びつけるのはあくまで解釈であ
>る。2.エントロピー自体は数学的に定義された物理量である。3.現在の
>状態を実現するためにはエントロピー最小の状態でなければならない(これ
>に関しては絶対的にそうなのかどうかはわかりません)4.エントロピー最
>小というのは統計力学的に言うと「状態数が少ない」状態なので(そしてそ
>れ以外には特別な客観的意味がある状態ではないので),それが宇宙初期に
>おいて実現しているのは謎だ。

 エントロピー自体が「数学的に定義された物理量」であるということなので、それを私がまずしっかりと勉強しようとおもいます。
 そこに、人間的な解釈がもぐりこんでいないかどうか、それが気になるのですが、勉強しないことには何もいえないので、これについては、ここまでとします。
 みなさま、ありがとうございました。

「山口の外郎を食べたい」

    山口の外郎は食べてしまってないので、
    写真を下記からコピーしました。
http://itp.ne.jp/contents/kankonavi/yamaguchi/tokusan/yam_tok02.html
やっぱり、これは著作権侵害でしょうか。それとも、この程度のことは許容範囲内でしょうか。とりあえず、宣伝しておきましょう。山口の外郎は、名古屋のものより小ぶりで味が細やかで繊細です。名古屋の外郎は、安くてボリュームたっぷりです。)

 さて、私が「山口の外郎をもう一度食べたい」と思った(内言した)としましょう。そのとき、それは、その発話の前にあった心的状態や身体的状態を記述したものだといえるでしょうか。そのようなものは、ないように思えるのですが・・・。思えるというだけで、今うまく論証することは出来ません。
 これを論証するには、ご質問の社会的な欲望について、もっと明確に説明する必要があるでしょう。

 心的ないし身体的状態の記述としての「私は・・・したい」という発話で表現されている欲求を「自然的欲求」と呼ぶことにします。それに対して、心的ないし身体的状態の記述(これは真理値をもちます)ではなく、(真理値をもたない)意図表明としての「私は・・・したい」という発話として欲望を「社会的欲望」と呼ぶことにしました。
 前者と後者の区別は、とりあえず、明確だと思うのですが、後者を「社会的欲望」と呼ぶときに、別の性質をそれに付与することになっているので、urbeさんが疑問を持ったのだと思います。

 私は、意図表明の発話は、様々な意味で社会的なものだと思います。もっとも基本的な理由は、それが公的な言語で語られているということです。それは発話以前に発話から独立に存在するものではありません。そして、そのために、それは他の様々な私の発話や他者の発話と内容的に関係しています。

 例えば、「名古屋の外郎は、安くてうまい」と考えた(言った)あとで、何の説明もなくすぐに「山口の外郎を食べたい」とは言いません。それは(厳密には矛盾ではないのですが)矛盾しているように感じられるし、少なくとも支離滅裂だと感じられるからです。最初の発言の後に、「しかし、山口の外郎のほうがダイエットにはよい」というような発言があると、「山口の外郎を食べたい」という発言が出てくることが自然(?)です。このような思考の流れの中で、後者の欲望が成立しているのではないでしょうか。さらには、このような発言の背後には、最近の山口での楽しい思い出も、影響しているでしょうし、山口の友人が外郎を自慢していたことも、影響しているでしょう。

エントロピー3

     またしても秋吉台です。この高原が水で浸食されていくのも
     エントロピーの増大・・・
 

凡人さん、森田さん、コメントありがとうございました。
 
 ボルツマンとH定理をWikipediaで調べてみました。(インターネットは、便利です。)
 ボルツマンのH定理の功績は、巨視的な熱力学の第二法則を、分子運動に関する統計力学から説明したことにある、と理解しました。(ボルツマンによるエントロピーのこのような説明が、私が考えていたことと同じことなのかどうか、いまひとつ確信がもてません。がそれは、次の質問で明らかになるも知れません。)

 森田さんは、
「そのような人間の解釈に過ぎない(客観的に見ると何の特別性もない)エントロピー最小状態が宇宙初期に実現していたということが,いまの宇宙論ではおおきな謎になってしまうのです.」
と書かれています。

そこで確認したいのですが、ボルツマン(or森田or現代の物理学者たち)は、次のように考えているのですね。
<「宇宙の初期の状態は、エントロピー最小状態である(あるいは、宇宙の現在の状態よりも、エントロピーが小さい)」という主張は、人間の解釈にすぎぎない、つまり宇宙の初期状態を、現在の状態と比較するとき、客観的にみて何の特性もない。>

もしこのようにいえるとすると、森田さんのいう「おおきな謎」は、むしろ次のように問うべきなのではないでしょうか。
<我々はなぜ、宇宙の現在の状態よりも、初期状態のほうがエントロピーが小さい、ないし秩序だっている、と解釈するのか? なぜ、我々にとって、そのような解釈が適切であるように思われるのか?>

 もしコメントいただければ、幸いです。

社会的な死?

      山口市の瑠璃光寺に咲いていた花です。
      花はつねに、儚さの象徴です。

 ここでは、人生論の第一問題「死に対してどのような態度をとるべきか」について考えます。

 「生きたい」という意図と、「人間は死ぬ」という事実の矛盾(?)から、「死に対してどのような態度をとるべきか」という問いが生まれのだと思われます。少なくとも、このどちらか、あるいは両方が成立しないとき、上の問いは生じないでしょう。

 さて、「生きたい」という欲望には、二種類あることがわかりました。一つは心的ないし身体的な状態の記述としての「私は生きたい」です。もう一つは、意図表明としての「私は生きたい」という発話です。後者は社会的な欲望だといえそうです。
 「私は生きたい」が事実の記述であるのなら、「人間は死ぬ」と矛盾しません。これらは、事実として、あるいは事実の記述としては、矛盾していないからです。
 「私は生きたい」が意図であるときに、「人間は死ぬ」と矛盾する(?)のです。(この矛盾については、いずれ、もう少し詳しく説明することにします。)
 もし「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死でなく社会的な死、自然的な事実ではなく社会的な事実なのではないでしょうか? では、社会的な死とは何でしょうか?

主観的な写真と主観的な人生観について

 私には思い入れがあるのですが、この写真の意図は主観的なものでおそらくうまく伝達できていないだろうと思います。

 ここでは、「人生観」について考えてみたいと思います。「人生観」と「哲学的人生論」とは、はっきりと区別する必要があります。ここでは、ある個人の、人生についての私的な主観的な考えを「人生観」と呼ぶことにします。

 個人の人生観が、「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」とか「私は私の生き方としては・・・がよい」というように彼の生き方だけに関わるときには、この発言には内的に矛盾したところはなさそうです。(この場合にも、その内容が他者に危害を与えるときには、それは他者からの批判を受けてしかるべきであり、これについての議論が必要になります。)

 しかし、
  「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
というように、その人だけに関わるのでなく、ひと一般の人生についての考え方を述べているときには、この発言は矛盾しているのではないでしょうか。もしこのように普遍性を主張するとすれば、それは人生観と言うよりも人生論です。もし人生観でありながら、普遍性を主張しようとすると、次のようになるかもしれません。
  「私は、人生の意味は …… であると考えるが、しかし、他の人が別様に
   考えるのならば、それを尊重する」
というような主張になるでしょう。
 
 しかし、このような発言は、矛盾していないでしょうか。人生観に限らず、より一般的にいうと次のような主張になります。
  「私はpを信じる。しかし他の人が¬pを信じるのならば、私はそれを尊
   重する」
これは、矛盾していないでしょうか。これを次に考えて見ます。

エントロピーの続き

凡人さん、コメントありがとうございました。

トランプの例は、人間が作り上げた秩序だからよい例ではないというご指摘ですね。私もそうかもしれないとおもいます。

ただし、問題は次のようなことです。

たとえば、コップに水がはいっており、その中に角砂糖を一つ入れたとします。いずれ砂糖は水に溶けます。最初のうちは、砂糖が溶けた水は、コップの下のほうだけにあるのだろうとおもいます。しかし、そのままにしておくと、水の分子運動につれて、砂糖はコップの水の全体に、均一に広がるでしょう。
これを、エントロピー増大の法則の一例だと考えてよいだろうとおもいます。

しかし、私が前回のべた疑問点は、次の通りです。
「コップの中に角砂糖が溶けずにあることが、解けている状態よりも、エントロピーが小さい。」
「溶けた水がコップの下のほうにあるよりも、コップの全体に均一に広がっている方が、エントロピーが小さい。」

このような主張もまた、ちょうどトランプの数字の解釈が人間の作り出したものであるのと同様に、人間の作り出した解釈なのではないか、というのが、私の疑問でした。

私の疑問点が、うまく伝えられたかどうか、わかりません。
どなたでも、ご批判をお願いします。

アルゴンキンの夢

         カナダのアルゴンキンです。
    無数の湖が水路でつながっています。
  ここで一週間くらいカヌー旅行したいものです。

前回次の二つの欲望の関係を考えて見ました。
   a「私は、カヌーをやりたい」
   b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
このaとbの間には、次の関係があります。
   c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
aとbは真理値をもちませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。

この例は、目的と手段の関係で、ある目的を欲望する者は、その手段の一つを欲望する、と言う関係でした。(手段が複数あるときには、その手段の中の特定ものだけを欲望するということがあるかもしれません。)

しかし、ここでとりあえず考えたいのは、次の関係です。
  d「私はカヌーをやりたい」
  e「私は生きたい」
このdとeは目的と手段の関係ではありません。かりに、「カヌーが私の生きがいで、それが出来ないのならば、生きる意味がない」というxさんがいたとしましょう。このxさんにとっては、dは目的ですが、eはその手段ではありません。
 このdとeの関係は、次の関係に似ています。
   f「私はトランプをしたい」
g「私は遊びたい」
とか、
    h「私は黒ビールが飲みたい」
    i「私はビールが飲みたい」
これらは、特殊と普遍の関係です。

では、「ビールを飲みたい」とか「カヌーをしたい」とか「旅行したい」とか「本を読みたい」とかの欲望をもつひとは、「生きたい」と考えるでしょうが、そのような特殊な欲望がない場合に、ただ「生きたい」と考えるということがあるでしょうか?

あります。それは、「死にたくない」と考えるときです。我々は、突然余命を宣告されたとき、「死にたくない」「生きたい」と考えるでしょう。

ここでもう一度、問題を設定しなおしましょう。(これはurbeさんの質問と同じものだろうと思います。)
心的な状態ないし身体的な状態の記述としての自然的な欲求でなく、真理値をもたない欲望としての「生きたい」や「死にたくない」や「カヌーをしたい」は、どのようにして成立するのでしょうか。それが理由の空間の中で社会的に構成されるのだとしても、より具体的には、それはどのようにして構成されるのでしょうか?

エントロピーについての疑問

 秋吉台の夏の景色です。緑が綺麗で、ヨーロッパのような景色でした。先日二泊三日で山口に行ってきました。

 この書庫「思いつき」では、時々の哲学に関する思い付きを断片的に書くことにします。

 先日山口で参加した研究会で思いついたこと。
 それは、「エントロピー増大の法則は、人間的な原理かもしれない」ということです。これは、次のような意味です。買ったばかりの新しいトランプをシャッフルすると、次第に無秩序な並びになります(研究会でAさんの挙げた例です)。それが、エントロピー増大の法則の例だと見なされています。しかし、それは我々が番号順に並んでいる最初の状態を秩序があると考えるためであって、もしたまたま数字と同じ形の文字をもつけれど、全く異なる意味でそれを理解する言語があるとすると、その言語の使用者にとっては、そのトランプの並びは、最初からずっと無秩序なままであったということになるでしょう。そこには、とくにエントロビーの増大はなかったということになるでしょう。
 我々が、秩序正しく並んでいたトランプをシャッフルするとき、一回のシャフルのたびにカードの並びを記録したとしましょう。その記録を見て、その順番が次第に整理されていき、最後の状態で最もよく整理された順番になっている、というようにトランプの数字をよむ読み方もありえます。そして、別の言語の人にとっては、たまたまそのような順番になっていることもありえます。このとき、エントロピーは縮小していったことになります。したがって、トランプの例での、エントロピー増大の法則は、数字をどのように読むかに依存していると思われます。(違うかもしれませんが・・・)

 これと同様で、ビッグバンのときに、エントロピーが最小で、その後次第に増大しているのが宇宙である、と我々は考えていますが、ビッグバンのときがエントロピーが最小であるというのは、我々の自然に対する一つの解釈であって、別の解釈もありえるのではないでしょうか。そして、自然はそのような解釈に関係なく、実はつねに同じエントロピーのままである、という可能性があるのではないでしょうか。
 あるいは、エントロピーという概念は、つねに一定の「秩序」の解釈を前提しますが、そのような「秩序」そのものが人間的な概念なのではないでしょうか。

 エントロピーに詳しい方のご批判をおまちしております。