136 私的再認と私的定義の不可能性?(the impossibility of private recognition and private definition ?) (20241128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、定義宣言型発話を考察し、定義の文を、定義の後で同じ対象について反復するとき、それが真なる主張型発話になることを述べ、それが発話の真理性の誕生になると述べました。この発話の真理性は、定義の時の対象を再認して、それについて同じ文を発話することによって成立します。ここでは対象の「再認」が重要なのですが、この「再認」はどのように正当化されるのでしょうか。

まず、この再認の正当化には、ウィトゲンシュタインの私的言語批判と同様の問題が生じることを説明したいと思います。つまり、私的再認は不可能であり、それゆえにまた私的定義も不可能であることを説明したいと思います。次に、そこからどうなるのかを考えたいとおもいます。

#再認と規則遵守

ウィトゲンシュタインは、ある種の感覚をもった日にカレンダーに「E」と記入するという例を挙げて、それを続けているつもりの人が、規則に従っていることを保証するものはないと指摘しています。最初に「E」と記入した日の痛みを再認したときに、「E」と記入することがここでの行為の規則ですが、その再認を保証するものはない、ということです。これは「E」をある種の感覚があったことを表示する記号として定義しようとしても、私的にはそれができないことを示すものであり、私的な定義は不可能であると言えます。私的にそれができないのは、私が私的に反省するだけでは、<再認していること>と<再認していると信じていること>の区別が出来ないからです。したがって、私的言語が不可能であるのと同様に、私的再認は不可能であり、私的定義も不可能です。

#私的な行為は可能か

ところで、これと同様の再認は、言葉を定義したり言葉を話したりするときに限らず、私たちの認識全般において常に行われているし、さらに、認識に限らず行為においても同様の再認が常に行われています。例えば、朝コーヒーを淹れるために、コーヒーの粉が入った缶を手に取るとき、前回手に取った缶を再認しています。家を出て駅まで歩くとき、駅までの道を再認し、駅の建物を再認しています。

このような行為における再認の場合、再認の正しさは、行為が成功することによって確認できるように思えます(ただし、再認が間違っていても、たまたま行為が成功することがあるでしょうし、行為が成功したということについてもその認識の正当化が必要ですから、再認の正しさの確認は暫定的です)。コーヒーの粉が入った缶を手に取ることと、コーヒーの粉が入った缶を手に取ると信じることを、一人でいるときには区別できませんが、しかし、その後コーヒーをうまく入れられたとすれば、コーヒーの粉の缶を手に取っていたのであって、単にそう信じていたのではない、と言えるでしょう。

しかし、コーヒーを飲んでいて、そう思っていたとしても、それを飲んだ他者が、「これはコーヒーではなくココアだよ」といい、缶を見ればコーヒーの粉でなくココアの粉であったということは、ありえないことではありません。つまり、行為を可能にする再認は、行為の成功によって正当化されるが、しかしその行為の成功自体の正当化が、私的にはできない可能性があるということです。行為が成功したと思っていても、成功していなかったと後でわかる可能性が常に残るということです。

このように考えると、行為の場合にも<コーヒーを飲むこと>と<コーヒーを飲んでいると信じていること>の区別が出来ないと言えそうです。つまり私的な行為は不可能であるということになりそうです。ただし、行為の場合には、行為の失敗に自分で気づくことがあります。つまり<行為すること>と<行為していると信じること>の区別を自分でできる場合があります。

しかし、発話の場合にも、一人で何かを考えているとき、何かを書いているときに、その間違いに気づくことがあります。自分の文章を読み返して、誤字・脱字に気づくことはよくあります(ただ私の場合それに気付かないこともよくあります)。

 

 以上から帰結することは、何でしょうか。他者から指摘されて間違いに気づくことが可能なのは、自分一人で考えているときにも間違いの可能性を想定しているからではないでしょうか。つまり規則に従うことが可能であるためには、ウィトゲンシュタインがいうように<規則に従うこと>と<規則に従っている信じていること>を区別できることが必要ですが、そのためには<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と<規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。そしてこの区別を理解していれば、私的であっても言語の規則に従うことは暫定的に可能であるかもしれません。次回は、このことを考えてみます。

18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。

43 個人言語だけがあり、私的言語も公的言語もない?  (20230318)

[カテゴリー:日々是哲学]

最近こんなことを考えました。

#個人言語だけが存在し、私的言語も公的言語も存在しない。

「私的言語はありうるか?」という問いを問うとき、大抵は公的言語があることを前提しているように見えます。しかし「公的言語があることは確実なことだろうか?」とか「共通な言語を公的に共有していることを確認できるだろうか?」という問いには、「いいえ」と答えるほかないでしょう。

 Wittgensteinは、独り孤独にいるときには、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>の区別ができない(『哲学探究』§202)、ということから、私的な言語は存在しないと考えましたが、これと似た仕方で次のように考えることができます。ある気心の知れた仲間たちの中にいるとき、あるいは、ある言語を共有していると思っている共同体の中にいるいとき、<私たちが一つの言語を共有していると信じていること>と<私たちが一つの言語を共有していること>を区別できないでしょう。つまり、言語を共有していることを確認することはできません。なぜなら、二人が共にある言語の規則に従っていると信じているとき、<二人が共にある言語の規則に従っていること>と<二人が共にある言語の規則に従っていると信じていること>を区別できないからです。そしてこれと同じことが、三人でも、四人でも、n人でも生じます。そうすると、私的言語も公的言語も存在しないことになります。

しかし、ある言語を共有していることを確認できないとしても、私たちは、ある程度あるいはほぼ十分に、コミュニケーションできることを確認することはできます。それは、私や相手の問いかけや答えにたいして、互いに予測する通りに、ほぼ反応するということです。私と相手が同じ言語を話しているかどうかは確認できませんが、コミュニケーションできるということは確認できます。

デイヴィドソン(論文「第二人称」)やブランダムは、公的言語、共有された言語があることを確認できなくても、互いにコミュニケーションできていれば、お互いがそれぞれ、それぞれの言語の規則に従っていると言えると考えました。これは正しいのではないでしょうか。

そうすると、私たちは、私的言語が成立するとは言えないし、公共言語が成立するとも言えませんが、個人言語は成立すると言えるでしょう。(私はここで「私的言語」と「個人言語」を次のように理解しています。「私的言語」とは、ある個人だけが使用の規則を理解できる言語であり、「個人言語」とは、ある個人がその使用規則を理解しているが、他者もその使用規則を理解可能である言語です。)なぜなら、それについては、規則に従っていることをテストすることができるからである。