43 個人言語だけがあり、私的言語も公的言語もない?  (20230318)

[カテゴリー:日々是哲学]

最近こんなことを考えました。

#個人言語だけが存在し、私的言語も公的言語も存在しない。

「私的言語はありうるか?」という問いを問うとき、大抵は公的言語があることを前提しているように見えます。しかし「公的言語があることは確実なことだろうか?」とか「共通な言語を公的に共有していることを確認できるだろうか?」という問いには、「いいえ」と答えるほかないでしょう。

 Wittgensteinは、独り孤独にいるときには、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>の区別ができない(『哲学探究』§202)、ということから、私的な言語は存在しないと考えましたが、これと似た仕方で次のように考えることができます。ある気心の知れた仲間たちの中にいるとき、あるいは、ある言語を共有していると思っている共同体の中にいるいとき、<私たちが一つの言語を共有していると信じていること>と<私たちが一つの言語を共有していること>を区別できないでしょう。つまり、言語を共有していることを確認することはできません。なぜなら、二人が共にある言語の規則に従っていると信じているとき、<二人が共にある言語の規則に従っていること>と<二人が共にある言語の規則に従っていると信じていること>を区別できないからです。そしてこれと同じことが、三人でも、四人でも、n人でも生じます。そうすると、私的言語も公的言語も存在しないことになります。

しかし、ある言語を共有していることを確認できないとしても、私たちは、ある程度あるいはほぼ十分に、コミュニケーションできることを確認することはできます。それは、私や相手の問いかけや答えにたいして、互いに予測する通りに、ほぼ反応するということです。私と相手が同じ言語を話しているかどうかは確認できませんが、コミュニケーションできるということは確認できます。

デイヴィドソン(論文「第二人称」)やブランダムは、公的言語、共有された言語があることを確認できなくても、互いにコミュニケーションできていれば、お互いがそれぞれ、それぞれの言語の規則に従っていると言えると考えました。これは正しいのではないでしょうか。

そうすると、私たちは、私的言語が成立するとは言えないし、公共言語が成立するとも言えませんが、個人言語は成立すると言えるでしょう。(私はここで「私的言語」と「個人言語」を次のように理解しています。「私的言語」とは、ある個人だけが使用の規則を理解できる言語であり、「個人言語」とは、ある個人がその使用規則を理解しているが、他者もその使用規則を理解可能である言語です。)なぜなら、それについては、規則に従っていることをテストすることができるからである。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。