158規則遵守問題と技能知(Rule-following problem and know how)(20250531)

(150回から、宣言の問答を念頭に置きながら、語の命名や定義の問答における照応を考えてきました。照応が非常に基礎的なものであることは予想どおりで、それがまた解明が難しいことの予想通りでした。語の定義や学習における照応の問題は、共同注意、共同基盤、背景基盤などに関係していることもわかりました。そして前回技能知との関係にも触れました。今回は、言語使用のすべての局面が、つまり規則遵守行為のすべてが、技能知に依拠することを説明したいと思います。)

 言語を使用するときには、その使用規則に従わなければなりません。さもなければ、言語の使用にならないからです。言語の使用規則は、言語の構成規則であって、それに従うことで言語は成立するからです。言語を使用するためには、言語の使用規則に従わなければならりません。それは、ちょうど、将棋をしたければ、将棋の規則に従わなければならないのと同じです。

 しかし、言語の使用規則に従うことは、一人ではできないおそれがあります。それが、ウィトゲンシュタインが指摘した「規則遵守問題」です。

 言語行為においては、規則に従っていても、規則の表象に従っていないことがあります。例えば、日本語の「は」と「が」の区別、英語の定冠詞と不定冠詞の区別を、人々は規則的に行っているのですが、しかしその規則を明示することは難しいとされています。

 このような場合には、たとえその規則を明示することが出来なくても、その規則は規範性を持っているといえます。日本語話者は、その規則に従っているときと反しているときを判別できますし、英語話者は定冠詞と不定冠詞の使い分けができます。この判別ができることは、具体的には次のような問答で確認できます。「この場合「は」でいいのですか」という問いに、「はい、よいです」とか「いいえよくないです」と正しく答えることができる。これは命題知に基づいた推論ではないので、「技能知」の一種だと言えます。この技能知があれば、私達は規則の表象を持っていないくても規則に従うことができるのです。しかし、部屋に独りでいるときには、これについて規則に従っていることと、規則に従っていると真ていることの区別が出来ないでしょう。ウィトゲンシュタインの例、ある感覚を感じたときにカレンダーに「E」と書く例は、これと同じく、規則の明示的な記述を持たない場合です。なぜならその感覚を明示的に記述できないからです。

 では、規則の表象を持っている場合には、つまり規則の明示的な記述を持っている場合には、独りでいても、その規則に従っているかどうかを判定できるのでしょうか。例えば、ウィトゲンシュタインの別の例、「1000+2」の場合は規則を明示化できるのでかもしれません(たとえば、ペアノの公理系のような仕方で)。ただし、たとえ規則を明示化できても、その規則を適用する規則は明示化されておらず、技能知になっています。したがってこの場合にも、独りでは、規則に従うことと、規則に従っていると信じていることの区別が出来ません。

 このことは、言語の規則の場合だけでなく、行為の規則一般にあてはまるでしょう。行為の規則を明示できたとしても、規則の適用の規則を明示できなければ、規則の適用は技能知に頼らざるをえません。そしてどのような行為でも、行為の規則、の適用の規則、の適用の規則の、…と続ければ、最終手には、明示化できない規則にたどり着きます。どのような行為であっても、行為の規則に従うことは最終的には技能知に依拠することになります。

 したがって、言語の規則に従うこともまた、最終的には技能知に依拠することになります。それゆえに、独りでいるときには、規則に従っているのか、従っていると信じているだけなのか、区別できないことになります。

 

 この「技能知」と、言語の規則の「規範性」とはどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。

47 GPT4による規則遵守問題の解決(20230524)

[カテゴリー:日々是哲学]

1000+2が1004ではなく1002であることをどうやって正当化するかという問題(ウィトゲンシュタインの指摘した規則遵守問題)は、最終的には社会的サンクションによって解決するしかないという考え(クリプキ)があります。この社会的サンクションをより具体的に考えるときに、ロバート・ブランダムはヘーゲルの承認論を用いようとします。しかし、(GPT4のような)大規模言語モデル(LLM)のAIが社会インフラになるとき、AIによって社会的サンクションが与えられるようになるのではないでしょうか。知の規則遵守が、社会的サンクションによって成立するとすれば、それはLLMのAIによって成立します。それで?(ここから先は、これから考えます)