山の中の道のように、私の話も、見え隠れしながら続いてゆきます。
「私は、現在空腹です」私は、どうしてそれを知るのでしょうか?
これは、「これが黄色だ」とどうして解るのか?という問題と似ています。
ある色の感覚が与えられて、それを「黄色」と呼べぶときには、これまでに学習した
「これは黄色だ、あれは黄色だ、それは黄色でない、・・・」などの記憶をもとに、それが「黄色」と呼ばれてきたものに類似していることを知り、その類似性に基づいて、「それは黄色だ」と言うようにおもえます(これの説明は、おそらく、まだまだ不十分でしょう。とりあえずは、このような説明で済ませておきます。)
では「空腹」について、「黄色」と同じように我々は学習したのでしょうか。黄色の場合には、ある色を指差して、「これは黄色だよ」と教えられたかもしれません。しかし「空腹」の場合には、私のお腹のある感じを指差して、「それは空腹だよ」と教えられたのではないでしょう。
(いま気づいたのですが、「空腹」というのは、「空腹感」と呼びうる感覚のこととはかぎらず、胃の状態についての客観的な記述として用いられることもあるように思います。しかし、以下では、「空腹感」と同じ意味で使います。)
たとえば、友達と同じ時間に昼ごはんを食べて、そのあと二人で遊び続け、夕方になって友人が「お腹がすいたなあ」(讃岐弁)という。「私が「お腹がすく」とはどういうことか?」とたずねると、「何かを食べたくなるということだ」と友人が答えたとしよう。
私が、これを理解するとすれば、それは私が「何かを食べたい」ということを理解しているからである。つまり欲望の認識を前提している。
では、「何かを食べたい」という欲望を、私はどのようにして知るのか。
「私は空腹だ」というような感覚の認識を議論してから、次に「私はそのケーキを食べたい」というような欲望の認識を議論するつもりだったのですが、「空腹」という感覚を説明することは、「食べたい」という欲望を説明することと独立にはできそうにないので、欲望の分析に話を進めることにします。
目標は、「私は生きたい」という欲望をどのようにして知るのかの分析ですが、その前に「食べたい」という欲望をどのようにして知るのか考えてみたいと思います。